投稿元:
レビューを見る
●藤野可織氏推薦――「なんだこれ。そうだ思い出した。こっちが百歩譲っても、世界のほうは一歩も譲ってくれないんだった。」
パチンコ屋の屋上で拾った奇妙な犬を飼育する三人姉妹の人生を繊細かつユーモラスに描いて第一回創元SF短編賞佳作となった表題作、郊外のうらぶれたアパートで暮らす、多言語の住人たちの可笑しな日々「シキ零レイ零 ミドリ荘」、十五人姉妹の家が立つ孤島を、ある日見舞った異常事態「母のいる島」、ウェブ上に出現した、謎めいた子供たちの日記から始まるシュールな冒険「おやすみラジオ」、ねぶたの街・青森を舞台に時を超えて紡がれる美麗な幻想譚「巨きなものの還る場所」の全五編。
投稿元:
レビューを見る
表題作以下5作品。
タイトルに取られ読み始めましたが、よくわかりませんでした。
不思議感満載。私には難しすぎでした。
投稿元:
レビューを見る
例えば、ミステリと思ったら恋愛小説で、謎が解かれぬまま探偵役とヒロインが駆け落ちしたらびっくりするよね、とかそう言ったたぐいの小説だった。
何というか、えっ、君それやっちゃうんだ、本気で? わぁ、というテンションの低い驚きが有る。テンションの低さはこの小説の日常さ加減に影響されている。
母のいる島の中で、「島に居た頃は、口を開ければ砂が口に入る状況だったら、砂を噛むような気持ちということばの意味が分からなかったけれど、島の外に出て、灰色の砂が口に入ったら~」(うろ覚え)というような下りがあるが、ごく単純でわずかなことばで、豊かな世界を想記させることばが多いなぁと感じた。
しかし驚いた。次も楽しみ。
投稿元:
レビューを見る
SFか?と訊かれたら「そうかも」と答えるくらいのソフトな感じで、私は高野文子の「奥村さんちのお茄子」が雰囲気近いな、と思った。
全てを語り過ぎないところがかなり好き。
表題作はまあ、賞をとったのだからたまたま良いということもあるかも、と読み進めると、全作品が一定以上の水準。しかもテイストがそれぞれ違う。
キャラクターの際立つ「ミドリ荘」、マンガにしても面白そうな「母のいる島」、最初はジュブナイル風のサイバーパンク?「おやすみラジオ」、そして壮大な「巨きなものの還る場所」。
新人とは思えないクオリティーの高さ。タイトルのセンスもいい。
次回作に期待大。
投稿元:
レビューを見る
表題作が創元短編賞の佳作に選ばれているので読んでみた。「うどん キツネつきの」は個人的には面白く読めなかった。よく意味が分からなかったというか、関西の感覚で表現するなら、「オチは何?」って聞きたくなるほどの分からなさだ。本書に収録されている他の作品の方が楽しめた。個人的には「母のいる島」と「おやすみラジオ」が面白かった。
以下、個別作品の感想。
◎うどん キツネつきの
よく意味が分からなかった。第二回創元SF短編賞の佳作の作品。期待しすぎたか。
◎シキ零レイ零 ミドリ荘(しきぜろれいぜろ)
ボロアパート(昭和の古い時代くらいに建てられたものか)に住む住人たちの物語。各部屋に住む人たちのキャラが立っていて、それらの人の話が面白い。子供は子供で楽しく生きているし、大人は大人で楽しく生きている。裕福な住人はいない。でも楽しさが伝わってくる。昔ってこんな感じだったのだろうか。今でもこんな感じのアパートってあるのだろうか。ありそうな気がする。世の中は変化しているようでしていない所もありそうだから。
◎母のいる島
16人の子供を命懸けで産んだ母親の話。なぜ子供をたくさん産んだのかその理由が明かされたとき、背筋が凍りそうな感覚に襲われる。決してネガティブではないが、母は強しと言うべきか、恐るべし女の執念と言うべきか。面白かった。
◎おやすみラジオ
ほのぼのとした話かと思いきや、まさに衝撃のラストシーンに驚かされる。とても柔らかい感じがする話であるが、ラストに向けて恐怖を感じてくる。ブログ恐い。
◎巨きなもの環る場所(おおきなものかえるばしょ)
関係ないいくつものストーリーが少しずつクロスする様が面白い。自分を含めて世の中というものは他の何かから出来ていることを感じさせる。
投稿元:
レビューを見る
目次より
・うどん キツネつきの
・シキ零レイ零 ミドリ荘
・母のいる島
・おやすみラジオ
・巨きなものの還る場所
SFといっても、科学的なことはほとんど書いていない。
強いて言うなら『田中館愛橘先生』(日本の地球物理学の礎を築いた人)の名前くらい。
なんとも不思議な読後感。
現在の日本を舞台にしているはずでも、どうも昭和の香りが強い。
それは親子や近所の人たちとの濃密なつながりによるものだと思う。
その、ごくごく日常的な毎日の情景が90%以上を占める。
そこにごく少量の違和感。
違和を感じる人はもやもやしながら読むことになる。
感じない人は、ぼんやりした小説だなあと思いながら本を閉じるかもしれない。
濃密な人間関係を核として、ごく普通の日常という世界。
さらにその外側にあるのが、透明で不定型な何か。
そんな作品。
ああ、まるで細胞みたいなつくりの作品だな、と思った。なんとなく。
個としての生命、種としての生命。
繋がれていく思念と本能。
「うどん キツネつきの」のほのぼのした感じも、「シキ零レイ零 ミドリ荘」のドタバタした感じも、「おやすみラジオ」のぞわぞわした感じも好き。
母の生き様が格好いい(ような気もする)「母のいる島」が一番好き。
でも、圧巻は最後の「巨きなものの還る場所」
時代も場所も異なるいくつかの物語が、クライマックスに向かいにつれて増す不穏。
自分の居場所と、一族を想う、想いだけがあること。
身の丈に合わない大きいものを作ってしまう人間。
あるべき場所に戻る力。
部品の持つ、集める我々、こそが、部品であること。
わかりやすい文章で、日常を書いた作品であったはずなのに、気が付けば遠いところに連れてこられてしまった。
理解できたかといわれると正直自信はないけれど、だから余計にずっと心に引っかかる作品になったのではないかと思う。
投稿元:
レビューを見る
パチンコ屋の屋上で見つけた犬、狐憑きの「うどん」と三姉妹の年月。
ミドリ荘に住む風変わりな人たち。
島に住む16人姉妹たちと母の思惑。
ネットの拡散されているラジオについての子供の日記に翻弄される世間の人たち。
ねぶた、に魅了された過去と現在の人たち。
どれも不思議な話で、最後の話はもう正直、現実主義の凝り固まった頭では、ついていけなかった。
おやすみラジオはなんだかホラーちっくで意味深だな。
ミドリ荘の人たちの話が面白かった。
投稿元:
レビューを見る
個々の作品についての魅力を語るのになんと言ったらいいのかは自分に色々なものが欠けていて分からないけど、とにかくこの作家が好きになる!
投稿元:
レビューを見る
[関連リンク]
酉島伝法(∴)とりしまでんぽうさんはTwitterを使っています: "『うどん キツネつきの』は、どれも当然面白いわけですが、中でも書きおろしの「おやすみラジオ」が、ヌーヴォー・ロマン的なアンチミステリ感もあってとても好きです。": https://twitter.com/dempow/status/545421989968502785
投稿元:
レビューを見る
『首里の馬』で芥川賞を受賞した作家のデビュー作。表題作は創元SF短編賞佳作で、本書は創元日本SF叢書の一冊として刊行されたのでそのつもりで読んだのだが……。うーん、ぼくの考えるSFとはだいぶ違っていて苦戦した。5編が収録された短編集だが、どれも同じような奇妙な感覚で読み解くのが難しかった。これが作者の持ち味なのだとしたら、『如何様』も、『首里の馬』も、その延長線上にあったのだと理解できる。
投稿元:
レビューを見る
何だろう。訳分からないけど、面白い。
特に、表題作から「母のいる島」までは、思わず笑ってしまう部分もありました。
こういうのもSFなんだろうとは思うが、新鮮だったな。そう思ったのは、おそらく、日常の中に、ちょっぴり奇妙なことが何気に含まれているが、その世界の登場人物は、それが当たり前であるかのように、全く気にしていない感じだろうか。
これについては、最後の「巨きなものの還る場所」が、この作品の総決算みたいに感じられて、どんな世界においても、その場所は居る人にとって、良くも悪くも、当たり前の日常なのだということ。
また、自然も含めて、あまりに偉大すぎるものに対する視点が新鮮で、私の脳がいい具合に刺激されました。再読したくなる短篇集。
投稿元:
レビューを見る
『「私は鳩。方舟を知ってるんなら、解るでしょう。お父さんの子供の中でも一番耐性が高かった私だけがこっち側にいるの。こうやって、洪水が落ち着いてお父さんたちが戻れる場所になるのを待ってる」「どうなったらあなたのお父さんは戻れるの」「正確な境はとっても難しいの。実を言うと、私も完全には解らない。私は今の情況を送信するだけ。鳩がオリーブの枝の意味なんて知らずに咥えてくるのと同じで」』―『おやすみラジオ』
高山羽根子は掴み所のない作家だ。それは初期の空想科学小説風の作品から芥川賞を受賞した「カム・ギャザー・ラウンド・ピープル」までの作風の幅の広さをただ意味するのではなく、読むものに投げ出されたかのような感覚が強く残る作品の強いる印象。敢えて言うなら、その作品を単純に物語と捉えることはできないように思ってしまう作家なのだ。
それは、ひょっとすると、絵画のように何か抽象的な心象を伝える為の言葉の連なりに過ぎず、言葉と言葉、文章と文章を繋ぐ筈の物語は遠近法で描かれた濃淡の差の余りない遠景のように淡く、主題というよりも、背景ほどの意味しか持たないと考えた方がよいのかも知れない。
けれど、画家がひっそりとその絵の意図を読み誤らないように背景に符牒を描き暗示するように、高山羽根子の物語にもまた何かの意図があるのかも知れない。そんな風に思いながら読み進めると連想の迷路に入り込む。それが袋小路であればそこで連想の一つを停止することも出来るが、その先の見えぬ小路をどこまで進まなければならないのか、元来た路に戻るべきなのか、そんなことを考える内に現在地を見失う。
この短篇集に収められた作品たちは、確かに、掲載された媒体に即した空想科学小説風の短篇ではあるけれど、作品がそそる興味は決してその非日常的舞台装置や人知を超えた超越的科学技術にある訳ではない。むしろ、不可思議な話の展開の中に、あるいは繰り返し語られ続けてきた物語の中に、人間の性[さが]が滲み出ているのを奇妙な気持ちで見つめることになる違和感に作品の正体があるのではないか。そんな思いを抱かせるところにこの作家の真骨頂があるように思う。
そして一冊読み終えると、まるで美術館を一巡りして出てきた外の明るさに目が眩[くら]むのと似たような感覚に襲われるのだ。