紙の本
広瀬淡窓への入門書に
2019/03/17 21:58
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投稿者:はるはる - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本最大の私塾・咸宜園を主宰した広瀬淡窓を主人公とした小説である。身分を問わず入塾でき、また実力本位であったのだが、どうも私塾というと松下村塾ばかり目立って、咸宜園や他の私塾が不当に貶められている気がする。広瀬淡窓を知ってもらう意味でよい入門書になると思う。
電子書籍
生き様が良いです
2016/01/23 18:14
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投稿者:美恵子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
天領であった日田で生きる人々。それぞれの生き様が、淡々と描かれている。
霖雨という題名のように全編を通して雨が降っている。川沿いの風景と雨の情景が浮かんでくる。
葉室さんの作品を読むと全くの悪人が出て来ない。始めは悪人に見えて、でも読み進むと様々な事情や感情が描かれていて中々に面白く深い。
日田の美しい風景と稟として生きる人々が良いです。
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題名の「霖雨」とは、幾日も降り続く雨とのこと。
次々と襲い掛かる艱難辛苦を例えて。
しかし、雨に象徴されるように、しっとりと味わい深い作品。
作者は、大塩の乱と対比させることにより、一層主人公を際立たせる。淡窓はいう。
「・・・人の心を動かすのは、つまるところひとを生かしたいとの想いなのだ」
そして自らに言い聞かせる。
「・・・たとえ霖雨の中にあろうとも進むべき道を誤ってはなるまいと」
主人公の姿勢、生き方、見習いたい(無理かなあ笑)。
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全1巻。
九州の儒学者、広瀬淡窓の物語。
ああ。
ぽい。
今作を読む前に「冬姫」を読んだけど、
あっちは全然だった。
こっちはらしい。
大きなメリハリがある訳じゃないけど、
まさに表題の通り、
しっとり、じわじわ染みてくるような話。
生きていくことの哀しさが底に漂い続ける
藤沢周平っぽい葉室凛。
ちょい役だと思ってたやつが重要なキーマンだったり、
大塩平八郎と対比するアクセントだったりと、
構成もよくできてるなあと思った。
まあ、地味だけど。
自分はみちのく出身なので、
藤沢先生の暗く湿った感じは理解できるんだけど、
カラッと眩しい九州の人間が、
どうして藤沢先生と同じようなニオイをさせているのか、
改めて不思議に思った。
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帯に書かれていた「凛として生きる」たとえ雨が降り続こうとも・・・この言葉に尽きる内容でした。
現在の大分県日田市に、江戸時代の私塾咸宜園の塾長淡窓とその弟で、稼業を継いだ九兵衛。
二人のそれぞれの生き方に感動します。
教育とはこうあるべきと思ったし、真摯に生きてみたくなる。
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広瀬淡窓と久兵衛、私塾を営む兄と実業に生きる弟、降りかかる難題に懸命に対処するふたりの生き様が潔い。ときに保身に奔らんとする誘惑にかられたり、側に置いた使用人に思いを寄せた女性の面影を追ってしまったりと、兄弟の心の葛藤が人間臭さを醸し出しているのも面白い。
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大塩平八郎の乱は知っていたけれど、それはあくまで歴史上の事実で、勉強で覚えただけでした。
その時代や、同じ時代の九州にある咸宜園が中心に描かれることで、リアルな人の心を見ることができました。
乱を起こした当人にとっては、それが義であるが、外側から見るとただの狂である。ということ。
千世の視点からも見ることができたので、女性の生き方や今の女性とも通じる部分、いろいろな感じ方ができました。
淡窓という実際に存在したけれども、よく知らなかった人を知ることができたのはとてもよかったです。
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日田の咸宜園で有名な広瀬淡窓とその弟を描いた本。
日田には縁があるが、咸宜園が有名な理由を知らなかったので図書館で借りて読んでみた。
優秀な人材を輩出した塾ではあるが、何が凄いかは描かれていない。
為政者からの圧力に苦しむ姿は、幕末の風雲児たちの物語とは大きく違う。
淡窓の弟、久兵衛が成し遂げた藩の財政改革や開墾事業だとドラマチックに描けただろうに。
だが、著者は敢えて淡々とした物語を書いている。
それは、巻末の広瀬勝貞大分県知事との対談で語られている。
「大塩平八郎は革命家で、革命はインパクトがありますが、社会に衝撃を与えるだけで荒廃と混乱しか生まないともいえる。衝撃を与えることは無駄ではないけれど、よりよい社会を作るためには社会の構成員である一人ひとりの意識を変え、育てていくことが大切なんです。性急に結果を求めるのではなく、辛抱することも必要」
『屠龍の技』とは、「荘子」の「列禦寇篇」にある、龍を殺す技を苦心の末に身につけても、実在しない龍に出会うはずもなく、役立てる機会がない技の謂いだ」
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どうしてこんな主題にしたんだろう?
主人公の兄弟、兄の広瀬淡窓は幕末直前に私塾の中とはいえ身分制度を廃した先覚者とされているし、弟の博多屋久兵衛は干拓事業や藩の財政立て直しに「民衆のため」という信念を持って当たった人物として描かれています。なのに物語の主題は西国郡代の私塾・咸宜園へのちょっかいとその対応なのです。何か小さい。しかもそれにドロドロとした色恋沙汰まで絡ませて。
これが例えば弟・久兵衛の信念を主題に置いて、その伏線として兄の学識を置き、圭一郎と千世のゴタゴタを無くして千世一本に絞ってしまえば、随分すっきりとしかもスケールの大きな話になったように思います。
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6月-2。3.0点。
儒学学校主催の主人公。弟が大きな商家、また学校の
主催後継。
地場の代官が、評判の良い学校を支配下に入れようと、
いろんな嫌がらせを。スパイも学校にいるし。
そこへ他藩からいわくありげな姉弟が。
まあまあ。
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奢りなく、己を戒めながら…様々な雨が降りしきる中を、地道に一歩一歩進む兄弟。地味な展開ながらも教育者としての慈愛に満ちた一冊♪。
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モヤモヤしてた気持ちをすっきりさせる読書として、ストイックに自分を鍛える登場人物が出てくる小説を読むってのがある。ダラダラしてたりウジウジしてたりする自分に対してカツを入れる処方薬みたいなもんなんだけど。
典型的なのはスペンサーシリーズ。ミステリー要素とかアクションも素晴らしいが、それらは全てカツ本(?)を引き立てる要素にすぎないというと言い過ぎか…
葉室麟の小説も、読後自分がすっきりしてるのが分かる。スペンサーシリーズとはまた違ったすっきりの仕方。スペンサーシリーズのそれよりももっと日本人にマッチしたストイックさと言えばいいか。無理なく心地よさが沁みてくる感じ。
本作もそういう葉室小説の要素はたっぷり詰まっていて、読めばすっきり心が洗われる。毎日のしんどさ苦労を頑張ってしのぎ、積み重ねることでじっくりじわじわと前に進む。雨の日を耐えて日々精進すれば、晴れの日が来る。そういう心意気を読んですっきりしないわけがない。
ただ、重要な登場人物である佳一郎・千世ってのが戴けない。彼らがいるから物語に波乱万丈さが加わることは十分わかっていても、どうもすっきりしない二人なので、こいつらさえいなければもっと清涼感あるのになぁ…とか思ってしまうのである。
ここまで言うたら、これはもう読者の勝手すぎるおせっかいになってしまうんだけども
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面白かった!
どこまでが史実でどこからがフィクションなのかわからない物語(笑)
天領の肥後日田で、私塾咸宜園を主宰する広瀬淡窓と家業を継いだ弟・久兵衛の物語です。
二人に対して、塩谷郡代からの執拗な嫌がらせが続きます。
さらに、大塩平八郎の乱が絡む中、権力の横暴に耐え、清廉とした生き方を貫く兄弟の物語です。
あとがきにはその子孫の大田県知事の広瀬氏と葉室さんの対談が掲載されています。
ググってみると、咸宜園で教えていたことは、小説で描かれている内容がそのままだったりします。
さらに塩谷郡代も実在の人物。
そんな設定の中、ここがフィクションと思われますが、臼井佳一郎とその義姉・千世の咸宜園入門により、いろいろ波乱が起きていきます。そして、佳一郎が大坂で大塩平八郎の洗心洞に入門し、大塩平八郎の乱に関わってしまう展開に...
最後がちょっと肩すかし?でスッキリしないところが残念。
理不尽なことばかりが降りかかる二人ですが、あきらめることなく、凛として生きることの大切さを伝える物語でした。
お勧め!
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道うことを休めよ他郷 苦辛多しと
同袍友有り 自ずから相親しむ
柴扉暁に出ずれば 霜雪の如し
君は川流を汲め 我は薪を拾わん
ぼんやり覚えていた漢詩と
歴史上の一人物として
なんとなく知っていた広瀬淡窓さんが
ようやく姿かたちを
私の中でとらえることができたような
そんな一冊になりました
歴史の教科書に
ゴシック体で書かれた事柄や人が
動き始める
時代小説を読む
楽しみの一つですね
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歴史小説作家の中で特に好きな作家。そして知人の紹介もあり、手に取ってみた。
この作品は、肥後日田で私塾・咸宜園を立ち上げた広瀬淡窓(たんそう)と、家業を継いだ弟・久兵衛が、江戸幕府西国塩谷郡代からの難題かつ理不尽な要求・要望を自分たちの進むべき道として受け入れ、邁進していく彼らの人生に広島から来た二人の塾生が絡み話は進んでいく。
時の西国塩谷郡代は、淡窓を家臣にすることで、咸宜園の興隆を自分の手柄とするため、何かにつけて、干渉した。また、久兵衛には呉崎での開拓工事を強引進めさせる。
この干拓工事の際、辞退を進める淡窓に対し、久兵衛が放った言葉が頭に残る。
「私が断ったからといって、郡代様は干拓をお諦めになるような方ではございません。他の者が押しつけられるだけでございます。難儀する人が出るくらいなら、わたしが引き受けた方がよいかと存じます。」
皆が辞退する命令を、皆のために行動する強さに人間らしさが感じられず、自分の人生を客観視しているように思え、返って寂しく、久兵衛の孤独感が感じられてならなかった。
本作での二人は、久兵衛の言動が陰で、淡窓の言動は陽のように感じる。ただ、陽と言っても、明らかな陽ではなく、静かな陽である。
例えば、淡窓の陽と感じたのは、国本と六弊を呈したことである。
また、咸宜園の淡窓元に、入塾した臼井桂一郎と元兄嫁・千世だったが、臼井は、のちに咸宜園を去り、大塩中斉の塾・洗心洞に入る。そこで、自分の意思を示せない臼井は大塩の乱に加わることになり、幕府から追われる身となるが、淡窓の元に逃げてくる。そんな臼井を淡窓は「炎では飢えに苦しむひとびとを救うことはできぬ。却って劫火に苛まれるだけだ。求められるべきは炎を鎮め、田畑を潤し、実りをもたらす慈雨ではないか」という信念で助けようとする。
自分が慈雨になることで、府内藩の仕法を行うこれらの言動においても、久兵衛とは異なる穏やかながら陽の姿勢が感じられる。
そして、陰と陽に感じる彼らの言動は、まさに父の言葉「止んだ雨はまた降り出しもしようし、そうでなければ作物は育たぬであろう。 この世に生まれて霖雨が降り続くような苦難にあうのは、ひととして育まれるための雨に恵まれたと思わねばなるまい」 に通じている。
幕末の乱れた時代に生き、自分たちに降り続く雨を将来の恵みの雨として生きる彼らの姿にこの時代の厳しさが伝わってくる。
私塾として私が知っているのは、吉田松蔭の松下村塾、緒方洪庵の適塾、大塩平八路の洗心洞塾くらい。私の記憶している私塾には恥ずかしながら咸宜園はなかったが、この時代の人々の意欲的かつ成長したいと願う若者たちの生き様を伺え、歴史も勉強できるお勧めの作品である。