紙の本
ヒトラーがヒトラーになる前
2016/06/28 19:02
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投稿者:ニッキー - この投稿者のレビュー一覧を見る
ヒトラーと言えば、独裁者でありホロコーストや戦争の元凶である。いわば悪の権化である。しかし、彼も人間であり、独裁者ヒトラーになる前の普通の人間としてのヒトラーも存在していたのだろう。それは、独裁者ヒトラーを知る上で重要なことである。なぜ平凡な人間が歴史に悪の刻印を残す存在となったのであろう。本書は、その一端を教えてくれる。期待と挫折のヒトラーのウィーン時代である。
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もらった伝記マンガ『劇画ヒットラー』を読んだあと、遠出のお供になにか文庫本を…と本屋をうろうろして、この『ヒトラーのウィーン』を購入。水木しげるが追求した「アドルフ・ヒットラーとはいったいどんな人間だったのだろうか」に通じるものを感じる(この文庫のp.29に掲げられている「青年期のヒトラーを友人が描いた絵」は、水木しげるが描いたヒトラーの顔によく似ている)。
この本の中心はヒトラーが10代の終わりから20代前半の5年ほどを過ごしたウィーンでの話だが、著者自身が30代にしてウィーンで学んだ日々のことも入り混じって書かれている。著者の中島義道は1979年、33歳でウィーンに降り立った。
▼東京大学人文科学研究科の大学院で哲学の博士課程に進むことを拒否され予備校教師に納まったものの、まったく適性はなく、それも見限ってウィーン大学に(私費)留学するために、まさに清水の舞台から飛び降りる覚悟で誰ひとり知る人のいないウィーンに飛んだのである。(p.32)
こうした「私自身ウィーンで生活を一からやり直したという思い」(p.32)があって、著者はウィーン時代のヒトラーに特別の関心を寄せる。
ヒトラーが、郷里のリンツ郊外から、大都会ウィーンへ出てきたのは、1908年2月、17歳のときのことだという。それから5年後の1913年5月までが、ヒトラーのウィーン時代である。日本の元号になおせば、明治41年から大正2年までのあいだ。
ウィーンでまずヒトラーは「シュトゥンペル通り31番地」に下宿し、リンツでの唯一の友人・クビツェクと共同生活をし、そこから何も言わずに姿を消したあと、「浮浪者収容所」ですごしたらしい。この収容所時代には、ヒトラーがウィーンの名所旧跡を描いた絵をユダヤ人の画商・ハーニッシュが売りさばくという"仕事"をしていたという。その後、売る絵を描き続けるため、より設備のいい「独身者施設」へ移り、ハーニッシュとは仲違いするも、他の男たちと手を組んで絵を売りながら自活していたようだ。独身者施設で懇意になった青年ルドルフを従者のようにつれて、ヒトラーはミュンヘンへ発つ… というのが、住んでいたところから見た、ヒトラーのウィーン時代のあらましである。
著者は、ヒトラーの住んでいたところや、ヒトラーが目にしたであろう建物、立ち見席で舞台を見た(聴いた)であろう国立歌劇場、ヒトラーが食事をとったかもしれないウィーン大学の食堂…などを訪れ、ヒトラーの動向や当時の心境を、クビツェクの著『アドルフ・ヒトラーの青春』や、ヒトラー自身の『わが闘争』からたどりながら、ところどころに自身のウィーン時代の体験や感慨を交えて書いている。
とはいえ、情報は限られていて、「いったい何が本当のことか、皆目わからない」(p.8)。そのわからなさに著者は向き合って、「はじめに」の末尾でこう記す。
▼なぜ彼はAではなくBを選んだのか。なぜ彼はCもDも選ばなかったのか、通りいっぺんの説明はできる。だが、いつもそれでは納得できない何らかの居心地の悪さが残るのだ。といって、膨大な数の精神病理学者が取り組んだように、ヒトラーに特定の「病状」を貼り付けることによっ��真相は解明されないであろう。
そうであればこそ、ヒトラーのわかりにくさそのものを生け捕りにすること、そしてそれを通じて「現にあったこと」の危うさを生け捕りにするしかあるまい。(p.8)
根拠となる資料は少ないものの、そこから著者は推理に推理を重ね、自分の推量を記している。
▼…『わが闘争』を精読すると、論理的矛盾は限りなく、とくに時間順序の錯誤は夥しいということである。どうも、ヒトラーには「特別の才能」があったようである。それは、自分にそう思われることがすなわち客観的事実であるとみなすことに対して何の抵抗もないということである。(p.67)
また、ヒトラーのウィーンに対する憎悪が、その怨念が、ユダヤ人へと向けられているのではないかと述べる。
▼ヒトラーにとって、ウィーンは足腰立たなくなるほど自分を痛めつけた所である。だからこそ、結果として絶望から這い上がる仕方を教えてくれた所でもある。…(略)…
そして、ヒトラーは現実とフィクションとの境を悠々と跳び越す「才能」を持っている。彼にとって現実とは、そうであると思い込みたい事実と変わることはない。この意味で、彼の反ユダヤ主義の根は、客観的には1920年代のミュンヘン時代に突き止めることができようと、あくまでも主観的には彼を血みどろになるまで痛めつけ彼を絶望させたウィーンにあるのだ。…(略)…
さらに想像を逞しくすると、ベルリン陥落の間際に総統府の地下壕でじっと自らの人生を反省していた彼は、人生の船出の地だったとも言えるウィーンに対して、改めて憎悪の火を燃やしていたのではないだろうか? その燃え盛る火はユダヤ人への憎悪という赤々とした火と区別がつかないのである。(pp.162-163)
こんなふうに「ヒトラーのウィーン時代」をたどり、その前後の生涯も垣間見つつ一冊の本を書きながら、その「あとがき」にきて著者はこう書く。
▼本書の執筆を通じて、あらためて身に染みてわかったことがある。それは、ひとりの個人を具体的な行動に駆り立てたもの(動機、意志、意図、衝動)など、どんなに研究しても所詮「わからない」ということである。また、その人が、なぜある事がAにおいては努力の限りを尽くしても不思議なほど無惨な失敗を重ね、なぜ他の事柄Bにおいては、思いがけない扉が次々に開かれて、成功に成功を重ねるのか、本人にもわからないということである。これは、ヒトラー自身が一番よく知っていたであろう。(p.245)
このAは、ヒトラーが画家になりたかったこと、Bはドイツ労働者党に入り、それから10年で一国の全権力を掌握するに至ったことを指すのだろう。この一冊を読んで、なにかがわかったような気にもなるし、わかるようでわからないといえばそうでもある。むしろ、「わからなさ」に、そのままに向き合えと言われているような気がする。
(3/9了)
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ヒトラーは忍耐強かった。ワグナーの恐ろしく長い楽劇を立ったままでずっと鑑賞していた。
ウィーン世紀末の輝きは、哲学、文学、物理、法学、経済学、精神医学、それに音楽、絵画、工芸、建築などあらゆる芸術がいったいとなっていた。
ウィーン大学はドイツ語圏ではプラハのカレル大学に次ぐ歴史を誇っている1365年設立である。
ユダヤ人は全ウィーン人口200万のうち、8.8%を占めていなかったが、ウィーン大学の27.5%がユダヤ人だった。