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この話を読むと
60歳の方が
ほんの若造に思える。
大活躍。
棄老の噂のある村と
棄老しただけでは
飢饉の年に税を満額納める額には
ならないと気づいた侍たちとの
知恵比べ。
二転三転どこまで転がるか
おもしろい。
かたづの!の舞台のおとなり。
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ここまで上手く行くだろうか ってところは端々にあるけどそれは杞憂に近いことなのかもしれず、一度死んだと心構えした人達のある種の諦めを見越しての敢えての仙郷なのかもしれない。
隠田と武士と農民よりも、狼をめぐってのやり取りのほうが現代に通じる対話だった。
人間誰しも老いるのだなあ。
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陸奥の国、八戸藩と南部に囲まれた2万石の小国外館藩大平(おおだいら)村では60歳になるとでんでら国へと旅だって行く。
老人たちの生き生きした姿、共同体としてのあり方、山伏や野狗手とのつきあい方、百姓の地に着いたたくましさ。欲を出す老人も居てご愛敬ですが、幕末の東北を舞台に、老後を考えさせつつも、なにより痛快な物語が展開します。
視覚的にも面白いです。現代に通じるテーマなので、是非映画にしてほしい!
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姥捨て、隠田、飢饉、老人介護等、暗い題材を扱いながら、痛快老人エンターテイメイントになっていて、一気に読んでしまいました。
老人だけの「でんでら国」では、呆けたからといって疎ましく扱われる事なく、また明らかに失敗しそうな作戦に固執する老人に、苦笑しながら「そこまで言うなら、好きにすればいい」「好きにするさ」と大らかな世界が印象的でした。
ちょっと、老人に体力がありすぎる気がしますが、エンターテイメントなのでまぁ良いかな。
最後まで、侍は自分勝手に書かれています。「でんでら国」(百姓)には、もっと完全勝利を手にして欲しかった。
山に住む猟師の一団、「野狗手(ぬくて)」の狼使いの少女、鰍(かじか)と、人も獣も殺すことを何とも思わない、やり手の狼獲(おおかみとり)小五郎のやりとりに考えさせられました(P-351)
(鰍)
「狼が減れば、鹿、青鹿、狐狸の類が増える。それらが増えれば、今度は田畑を荒らすようになる」「狼獲は、狼を獲れば銭がもらえる。民百姓どもも同じだ。そのために狼は際限なく狩られ続けている。人が食うために獣を狩るのはよい。肉を腐らせるほどには獲らぬからだ。だが、農作物を守るという名目で獣を狩れば、狼狩りと同様に際限がなくなる。猟師ばかりでなく民百姓まで、銭のために獣を取り尽くす。政を司る者ならば、そのあたりの人の欲というものをよく考えよ。」
(小五郎)
「生きるための殺生は許される。ならば、人が生きるために行っていることの結果、狼が我らに撃ち殺される事は、許されよう。狼が減ってほかの獣が増え、田畑を荒らすならば、その獣も撃てばよい。それも許されるはずだ。そして、獣の生き方が異なるのと同様に、人もまた獣と違う生き方をする。美味い物を食いたい。今より少しは楽な暮らしがしたい。そのために森が伐られ、山が削られるのだ。そして、いずれ狼はいなくなる。野狗手は消える。狼獲もまた姿を消す。それは人が生きていくために行ってきたことの結果だ。許されることであろう。それに、百姓は猟師のことを慮ることはない。職人は百姓のことを慮ることはない。商人、侍も同様だ。己に降りかかる不幸以外は、他人事なのだ。だから狼は滅びる。そして野狗手、狼獲も滅びる。お前がさっき申したように、狼が滅びたことが遠因で己に不幸が降りかかって、初めて人は慌てる。そういうものだ」
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幕末老人エンタテインメントとある
深刻な問題をはらんでいるのに痛快で楽しめた
老人たちの桃源郷
厳しい現実を闘いつつ
≪ 百姓の 気概をみせて 姥捨ての ≫
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2018.5.19完了
読みやすい、話も分かりやすい。
ハズレではない。
ただ登場人物が把握しきれなかった。
似たような名が多い。少々困惑。
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「でんでら国の爺婆たちは、生き生きと生き、生き生きと死んでいく」
大平村では60歳に達すると、男も女も誰もが生まれ育った村を離れ「でんでら国」へ旅立つ。
それまで背負ってきた重圧を全て降ろし、晴れてのびのびと余生を楽しく生きるために。
「周りに若い者がいると、その眩しさに己の辿る道を見失う。周りが爺婆だけだと、己の辿る道がよく見える。明日は我が身という言葉を身に染みて感じ取れるのだ」
幕末の、勤皇だの佐幕だのと侍同士が争う混沌とした世の中。
どちらが勝っても結局は侍が政を牛耳ることとなり、百姓は理不尽な思いが晴らされることはない。
どんな政になっても、百姓が安心して暮らせるように創り守られてきた「でんでら国」。
この考え方は現代の混迷している政にも当てはまり、高齢者社会の手本になり得ると思った。
幾つになっても世間の柵や重圧が無くならない現代社会。
人は幾つになればそれらから解放されるのだろうか。
いつも軽やかで朗らかな「でんでら国」の爺婆たちは羨ましい限り。
こんな桃源郷が身近にあれば誰しも歳をとることを恐れず、余生を楽しみに待つに違いない。
けれど。
「でんでら国に入りたくば、自らの手で作ることだ」
ラストの言葉は現代を生きる我々へ向けた忠告だ。
桃源郷「でんでら国」は探し求める場ではない。
自分の手で作り上げなければ意味はないのだ。
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姥捨山をテーマにした時代小説。江戸時代、東北の小さな藩の田舎の村に姥捨山があり、農民たちがそこで暮らしているという設定。武士の農民のそれぞれの生き方、高齢者の扱い方など、現代社会の問題にもつながるようなテーマが描かれる。後半は若干冗長な感じがないでもなかったが、でも割と面白かった。
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姥捨て山?と、一瞬思ってしまいそうな内容かと、思ってたのだが、・・・
幕末の老人のそれも農民たちの知恵と、行動力の凄さを物語る話である。
日本の高齢者も、このようになって行くのだろうか?
陸奥の国、八戸藩と南部藩の間の小さな国(?)を舞台に、農民と代官所の侍との ユニークかつ、知恵の絞り合いの様子が、記載されている。
飢饉、飢餓が、起こっても年貢を納めないといけない農民たち。
子供を間引き、それとも老人を姥捨て山に、・・・どうする?
年貢を飢饉の年でも、年貢米をきちんと納める。そして、60歳以上の老人が、お伊勢参りで、行方不明という不可思議な村を見つけた代官から、調査を依頼された舟越平太郎。
でんでら国に住む善兵衛たちの攻防戦が、何故か逞しく感じられる。
この当時で、60歳は、もう老人の域を越しているだろうけど、皆元気。
読んんでいて、相手がこう先駆けて来たら、どう受け止めて対抗するのだろうか?と、思いながら、楽しみながら読み進む。
途中で、舟越平四郎の父親の認知症の様子も導入されて、武士の場合は、屋敷牢だったのだろうか?なんて考えながら、まだ、そこまで現実味のない様子だけど、・・・少しずつ自分の息子も理解できないでいるように描かれている。
平四郎が、足を骨折し、それで、でんでら国へ連れて行き、手当してもらい養生する間、このでんでら国が桃源郷のように思われる風景に、持ちつ持たれつの精神が伺われる。
介護出来るものが、介護し、そして、食べ物を作る元気な者は、外で、農作をし、家に居るものは、家事をする。
昔、当たり前の様だった昭和の時代と変わらないのでは・・・と、思いながら、読み進む。
最後の方に、渡り狼獲の小五郎戸、野狗手の鰍の言論っが、今の時代の事に思える、
「生きるために殺生は許される。・・・・美味いものが悔いた、今より少しは楽な暮らしがしたい。その為に・・・商人、侍も同様だ。己に降りかかる不孝以外は、他人事なのだ。・・・」
この文章は、意味が、深い。
他人事と、思っていても、自分たちに降りかかって来ること。
老いも、いずれは、自分たちも たどり着く道。
平太郎の親への思いも、素晴らしく書かれており、老いて呆けた父親を ただ捨てるのではなく、その恩を命を差し出しても良いという念もいい。
本当に知恵のよせ集まりのような話を楽しく読んでしまった。
でも最近思うのだけど、先日、「三千円の使い方」もこのような本の装丁だったけど、本が、開きにくく、読むのに、両手で持ちながら出ないと、読めないのが、私には、難点であった。
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お百姓さんとお侍の仁義なき戦い
いつの時代もお上は勝手なもんですよね
江戸時代は日本が初めて経験した高齢化社会というし、今こそ国営でんでら国が必要なのでは日本?!