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「ブッダの教え 一日一話」が面白かったので、引き続きスマナサーラさんの本を読んでみました。おぼろげながら諸行無常、諸法無我の概念が分かった気がします。
本書の中でも妄想を止めること、執着を捨てること、の重要性が書かれていましたが、それを実現するのが難しい・・・といったところでしょうか。その他、気になったキーワードを以下に。
・大事なのは本人の意欲、他人に何かをやらせることはできない
・自分というものはなくて行為だけがある
・品質とはコピーを作る能力のこと
・変わらない我・魂・自分なんてものはない
・妄想を止めて自分という流れを汚さないこと
・救いとは誰かに頼ることではなく、自我という妄想を捨てること
・とらわれ執着することで得るのは悩みと苦しみのみ
・今の心が次の心を作る
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スマナサーラ長老の本はいつも気づかされるところが多く、とても勉強になっています。
この本は、彼の既刊本以上に現実世界との対比が多く、立ち止まって考えさせられる部分がいろいろとありました。
私たちが(こんな感じ)と漠然ととらえている仏教の概念と比べて、実際はもっとそぎ落とされたギリギリの感覚にあるものだとわかります。
現代社会において、いとも簡単に、そして巧妙に、宗教は政治と結びつけられ、人々は動かされていきます。
イラク戦争で、アメリカがイラクを攻撃すると決めた時に、大統領は「それは神の意志である」と発表しました。
そのことで、殺戮への大義名分を生み出したということです。
また、アメリカの大統領選挙では、候補者がキリスト教の何派であるかということをはっきりしないと、国民に信頼されないのだそう。
同性愛排斥運動は、倫理的な面よりも政治的配慮の方を色濃く感じます。
民主主義国家であっても、人々は宗教に支配・管理されているという事実を実感している人はあまりいません。
これは「神」の存在を明確にしてるキリスト教などの一神教国家に、特に顕著な問題のようですが、仏教でもまた、神と同等の存在としてブッダに頼ろうとする信者たちが、仏教の本質をゆがめているとしています。
無力な存在からすると、力のある存在に頼れば救われると思いがちですが、それは大きな勘違いで、誰かに頼ることに救いはないとのこと。
「自我」があるからこそ、他に頼りたいという気持ちが生まれ、その弱い部分から人は宗教家に簡単に支配されやすいのだそう。
自我や魂、神の存在を信じている限り、宗教の呪縛からは逃れられないのだと、師は説きます。
宗教家が宗教を否定するような話をしているため、かなり混乱しながら読み進めますが、「自我という概念を捨て、無我を発見することが、『救い』となる」という結論に至りました。
これこそが初期仏教のテーマであり、揺るがない観念を手に入れて、無心の境地に達することができる道だそうです。
最終的なゴールには、修行を積まないと簡単には至れない大変な道のりだと思いますが、氏の言わんとすることは、「現状の宗教を語るなにかに惑わされ、盲信するな」ということ。
思えば、人間の歴史は宗教を理由に、多くの血が流れてきました。
それは、本当の宗教の観念とは全く違うものであると、師は説きます。
その間違った流れを直すには、宗教を名乗るものに翻弄されないこと。
宗教が発生したばかりの、理想に満ちた無垢な考えに立ち戻ることの必要性が語られていました。
世捨て人として修行に励む人ではなく、社会の中に生きる人にはかなりハードルが高い話ですが、行き方や行動すべてを変えろというのではなく、考え方をもっと自由に、とらわれないようにするべきだという内容です。
宗教に救いを求めて熱心に活動しているのに、救いが得られずに絶望している人も多いことでしょう。
ブッダは神の存在を説かない代わりに、自分の精神を鍛錬するこt��、神のような頼る存在を必要としない、解き放たれた精神を持つように勧めているのだと、この本を読んで感じました。
新書なので読みやすいですが、なかなか考えさせられる一冊です。
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後半のQ&Aで仏教の核心に迫っている。自我はこの体に付着しているもので、この体とは別に永遠に変化しながら転生を繰り返す自分(縁起)がいる。絶えず変化するものだから自分と言えるのか怪しいが、変化している主体は変わらない。
法華経の鳩摩羅什訳の十如是と相通じるものがあると思う。法華経は釈迦の教えではないと長老は言われるが。