紙の本
最適な仕事の哲学入門
2022/01/10 09:02
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投稿者:病身の孤独な読者 - この投稿者のレビュー一覧を見る
何のために働くのか?このことにまつわる疑問を歴史と思弁を通して述べたのが本書である。著者は明確な一つの主張を展開するよりは、「仕事の哲学にはこのような領域がありますよ」という概説の提示を行っている。それでも、ある程度の主張はあり、自己実現が一つのキーポイントだと思われる。なお、本書は関連本の初回なども行っており、仕事を考える上で、最も読みやすくて最良の入門書だと言える。
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仕事。労働、その歴史。哲学的な意義等に関する
鋭い分析が読んでいて、とても面白く読めました。
生きがい、意味、人生、実存、退屈。人間存在の諸問題に
働くということという観点から取り組んでいると思います。
働くことの意義、職業に関する考え方。自分の仕事
と人生に関しての意義。世代や他者とのとらえ方の違い
いろいろな思いや悩みに関して、答えはそこにはない
ですが、さらに深く考えるヒントはある内容の本だったと
思います。
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働くことの哲学 ラース・スヴェンセン著 労働の意味の劇的変化を考察
2016/6/12付日本経済新聞 朝刊
今日の社会において、働くことはどのような意味を持っているのだろうか。著者のスヴェンセンによれば、労働とは苦しいものであって、なぜそんな苦しいことをするのかといえばそれは余暇を得るためだという考え方と、いったん天職を得たならばその天職のなかにこそ生きる意味が見いだされるのだという考え方が、古代より現代に至るまで存在してきた。そして今日、労働によってこそ「自分らしさ」を発見できるとする考え方が出現してきた。スヴェンセンはこれを「天職という観念のロマン主義的変形」と呼ぶ。
そして現代の組織管理学は、労働者のこのような「自分探し」の傾向をうまく利用して、彼らを内面から調教し、彼らの「自分探し」が企業の利益追求とぴったり調和するように誘導しようとしている。しかしながら、そのような管理で現代人をコントロールしきるのは無理だろうとスヴェンセンは考えている。というのも、北欧のような社会では、労働者は自分に合った職を見つけるために次々と転職するのが普通のことだからである。すなわち、労働者は、自分にとって意味のある仕事を追求するために企業を渡り歩き、そうすることによっていわば「仕事を消費している」とすらいえる状況になっているからである。すなわち生産プロセスである仕事それ自体が、労働者の消費の対象となっているのだ。
スヴェンセンは、仕事を通じての自己形成というスタイルに大きな可能性を見いだしている。宝くじに当たった人であっても、たいがいの場合、仕事をやめることはない。というのも、仕事こそが、私たちの人生に意味を与えてくれる根本的なものであるし、仕事は私たちにとってたんなる収入の手段ではなく、私たちの実存的欲求をかなえてくれるものだからだ。
スヴェンセンは、現代において、仕事の意味が劇的に変容していると指摘する。だが同じような診断を日本社会において下すことができるのだろうか。北欧とは違って、日本では社会保障の仕組みがまだ整っていない。日本でもし転職に失敗したときには、大きなリスクが待ち受けている。ブラック企業で身を粉にして働かざるを得ない若者や、年金だけでは暮らしていけず老後破産するケースなど、仕事をめぐる日本の現状はけっして明るいものではない。本書を読み進むにつれ、彼我の格差が身にしみてくる。現代日本の労働環境に何が欠けているのかを新たな視点で考えるために、本書は大いに役立つであろう。
原題=Work
(小須田健訳、紀伊国屋書店・1700円)
▼著者は70年生まれ。ノルウェーの哲学者。現在はベルゲン大教授。
《評》哲学者
森岡 正博
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働くことの哲学 ラース・スヴェンセン著
労働の意味の劇的変化を考察
日本経済新聞 朝刊 読書 (21ページ)
2016/6/12 3:30
今日の社会において、働くことはどのような意味を持っているのだろうか。著者のスヴェンセンによれば、労働とは苦しいものであって、なぜそんな苦しいことをするのかといえばそれは余暇を得るためだという考え方と、いったん天職を得たならばその天職のなかにこそ生きる意味が見いだされるのだという考え方が、古代より現代に至るまで存在してきた。そして今日、労働によってこそ「自分らしさ」を発見できるとする考え方が出現してきた。スヴェンセンはこれを「天職という観念のロマン主義的変形」と呼ぶ。
そして現代の組織管理学は、労働者のこのような「自分探し」の傾向をうまく利用して、彼らを内面から調教し、彼らの「自分探し」が企業の利益追求とぴったり調和するように誘導しようとしている。しかしながら、そのような管理で現代人をコントロールしきるのは無理だろうとスヴェンセンは考えている。というのも、北欧のような社会では、労働者は自分に合った職を見つけるために次々と転職するのが普通のことだからである。すなわち、労働者は、自分にとって意味のある仕事を追求するために企業を渡り歩き、そうすることによっていわば「仕事を消費している」とすらいえる状況になっているからである。すなわち生産プロセスである仕事それ自体が、労働者の消費の対象となっているのだ。
スヴェンセンは、仕事を通じての自己形成というスタイルに大きな可能性を見いだしている。宝くじに当たった人であっても、たいがいの場合、仕事をやめることはない。というのも、仕事こそが、私たちの人生に意味を与えてくれる根本的なものであるし、仕事は私たちにとってたんなる収入の手段ではなく、私たちの実存的欲求をかなえてくれるものだからだ。
スヴェンセンは、現代において、仕事の意味が劇的に変容していると指摘する。だが同じような診断を日本社会において下すことができるのだろうか。北欧とは違って、日本では社会保障の仕組みがまだ整っていない。日本でもし転職に失敗したときには、大きなリスクが待ち受けている。ブラック企業で身を粉にして働かざるを得ない若者や、年金だけでは暮らしていけず老後破産するケースなど、仕事をめぐる日本の現状はけっして明るいものではない。本書を読み進むにつれ、彼我の格差が身にしみてくる。現代日本の労働環境に何が欠けているのかを新たな視点で考えるために、本書は大いに役立つであろう。
原題=Work
(小須田健訳、紀伊国屋書店・1700円)
▼著者は70年生まれ。ノルウェーの哲学者。現在はベルゲン大教授。
《評》哲学者
森岡 正博
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専門技能を習得するときにはいつでも、私たちはある意味でそれと関連する技術を身につけているすべての人びとからなるひとつの共同体に導きいれられる。つまり、ひとつの業種のうちに身を置くことになるわけだが、その業種は私たちがしたがわねばならないもろもろの規範によって統べられている。最初、はじめて基礎をマスターした程度の段階では、自分なりの創造性を発揮する余地などまずない。それに専門技能を学ぶには、まずなにをしなければならないかを教えてもらうほかない。そしてそれをみずからやってみることで学んでゆくしかない。これは、大工仕事であろうと清掃業であろうと、さらには学問を学ぶばあいであろうと変わらない。専門技術を学ぶとは、さまざまな習慣を身につけてゆくことだ。ひとつの習慣を身につけるとは、世界についての一定の理解を獲得することにほかならないが、それというのもそれがつまりは世界にかかわるやりかたにほかならないからだ。
専門技能を修得するにあたって肝心なことは、複雑なことがらをいともたやすくきちんとできるようになるには相応の時間がかかるものであり、そのこと自体が尽きることのない喜びの源泉になるということだ。この点で専門技能というものは、たとえばテニスのようなスポーツをすることと大差ない。(pp.79-80)
カントの立場からするなら、労働者はもちろんのこと、あらゆる人間は目的それ自体としてあつかわれねばならない。カントはこう書いている。「きみ自身の人格ならびにほかのすべての人格における人間性を、つねに同時に目的として用い、たんに手段としてのみ用いないように行為せよ」。ここに言われていることの核心は、人格へ敬意を払おうということだ。カントによるなら、もし人間存在を、そこに人格が宿っているという点を別にすればなんの価値ももたないただの道具のようにあつかうなら、私たちはそんな人間になんの経緯もはらわなくなってしまう。(中略)私たちは人間存在をたんに手段としてのみあつかうのではなく、つねに同時に目的それ自体としてもあつかえということだ。(pp.136-137)
私たちが人生のなかのこれほどまでの時間を費やしておこなっていることがらが、ある意味で私たち自身にとって重要なことがらでないわけがない。あきらかに仕事とは、たんなる金銭的な必要以上に必要ななにかをかなえてくれるものだ。私たちの人生に意味を提供するという点で仕事が果たす役割は、はるかに根本的なものだ。(p.169)
「貧困」とは静態的なカテゴリーではないということだ。西洋諸国でこの貧困というカテゴリーにずっととどまっているひとはほとんどいない。(p.178)
こんにち従業員になろうという人びとは、先行する世代がいだいていたのとは異なる期待をいだいている。すなわち、自分たちの求めるのは意味のある仕事であって、それはつまり私たちに自己管理の可能性を提供し、かつ私たちのアイデンティティをかたちづくり堅固にしてくれるものだ。仕事と消費とは、自己実現を求めるという本質的には同じ根本的な探求過程のなかにある二つの領域にすぎない。(p.189)
「労働者の社会は仕事という足枷から自由になりつつあるが、この��会は、その自由を勝ちとられるに値するものにしてくれる、より崇高で有意味な別の活動については、もはやなにも知らない」。現代文化が仕事をそのイデオロギーのまさに核心にすえているというアーレントの主張にいは抗いがたい。だが、私としては、私たちが仕事から「自由になり」つつあるという主張にはまったく同意しがたい。アレントの問題点は、仕事についての自身の観念に絡め取られてしまった結果、仕事は消滅したわけではなく姿を変えつつあるのだということを見損なったところにある。「仕事の終焉」は近い将来位に起こることではない。仕事はその姿を変えつづけてはゆくだろう。そしてこんにち仕事とみなされているものの多くがーそして未来の世界においては、おそらくもっと多くのものがー、前の世代がレジャーと呼んだものにおそらくずっと似たものになりはするだろう。そうはいっても、私たちがそれを仕事とみなすかぎりは、それは依然として仕事だ。(pp.222-223)
仕事の内面的な価値のほうが外面的なそれよりもはるかに重要だろう。だが、ときに私たちは仕事の内面的な価値に夢中になってしまい、そうなるととっても厄介なことになる。なにしろ、仕事があらゆる満足を与えてくれるもののように思えてしまうのだ。(p.232)
仕事は以前と比べてはるかに不安定なものとなっている以上、自分がどうありたいかという自己認識を確立する手だてとして仕事を当てにするのはなるべく避けたほうがよい。だが、そうした態度はしばしば仕事に対する無関心に行きつく。そうなると、仕事が私たちの人生に寄与してくれるものは、収入源という一点を別にすれば、確実に減ってゆく。私見では、そうなってしまうくらいならむしろ進んで仕事にかかわってゆくべきだ。それによってこそ、仕事のもつ真の意義を見いだす用意も整うというものだ。意義が生まれるためには、そのまえに配慮しなければならない。だが他方で、仕事はあくまで、ほかにもあまたある意味の源泉のひとつとのみ受けとられるべきだ。(pp.237-238)
私の印象では、今日私たちは概して仕事に過度の期待をかけており、とりわけ仕事は、私たちが生きてゆくうえで必要とする意義をもっと沢山提供できるはずのものだと思いこんでいるようだ。おそらくそうした機体が満たされることはないし、私たちは仕事を求めて彷徨う者と化し、仕事から仕事へと渡りあるくが、最後まで探しているものは見つからずじまいだろう。かりに期待がかなえられたとしても、その分だけいっそう深い厄介ごとに巻きこまれ、仕事よりもはるかに大切なあらゆることがらから目をそらせてしまうという危険に陥ってしまう。そのとき私たちと仕事との関係は、ワイルドの『ウィンダミア御婦人の扇』における「この世界に悲劇は二つしかない。ひとつは、欲しいものが手に入らないこと。もうひとつはしれが手に入ることだ。あとのほうが最悪だ。これこそ真の悲劇だ」の完璧な霊障となるだろう。だが、じっさいには仕事人生をただたんに悲劇だととらえる者などほとんどいない。仕事とはあるひとにとっては災いのもとであり、別のひとにとっては祝福をもたらす者であり、大半のひとにとってはこの何でもある。仕事は、きわめて短いあいだにとてつもない変容を遂げた。仕事が自分の��生のなかでどれほどの重みをもつものであるのかを見積もる作業を、決して怠ってはならない。(pp.238-239)
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働くことに自己実現を求めるのは過剰な要求だ、というのはとても納得できる。働くことに関するあれこれ、とても考えさせられる内容でした。
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山本直人さんに薦められた『働くことの哲学』を読んだ。プラトン、アリストテレスの労働観から掘り起こしていき、なぜ人は働くのか?食い扶持を得る以上の、生に付随する実存的意味があるのか?を哲学していく。個人的にはマルクスの「客体化」と「疎外」を併置しながら、外部世界に何らかの"爪痕"を残してることに人は自らの主観性を具象化させるという指摘が発見だった。
カール・マルクスが書いていたように、「労働の過程は人間的実存に自然から課された消えることのない特徴だ」。p23
マルクスは「客体化」と「疎外」を区別したうえで、客体化への欲求をもつ存在者すなわち人間だけが疎外されうると論じる。労働をおこない、外界を変形させてゆくとき、人びとは自分自身を外的な財というかたちで客体化している。マルクスの言うところでは、これこそが人間的主観性の具現化にとっての要だ。私たちは外部になにかを創造するが、そうして創造されたものは同時に私たち自身の主観性の具象化ともなっている。労働において人間存在は外界に新たな輪郭を与え、そうすることでみずからを外的に顕現せしめる。こうして人間は、みずからが創造した世界のうちに自身の姿を認識する。疎外された労働においては、これがうまく果たされない。疎外とは、いわば資本主義の力によって道からはずれてしまった客体化だ。p61
ロバート・ノージックが『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで経験機械についておこなった、よく知られた議論をざっと見てみたい。
→お望みのどんな経験でもあなたに提供してくれる経験機械があるとしよう。大変有能な神経心理学者たちであれば、あなたの大脳に刺激を与えて、すばらしい小説を執筆している、もしくは友人をつくっている、さらにはおもしろくて止められない書物を読んでいるかのように、あなたが考えたり感じたりしているようにもできるだろう。じつはそのあいだじゅう、あなたは大脳に電極を挿しこまれたまま、水槽のなかに浮かんでいる。あなたがこれから人生でするはずの経験をすべてまえもってプログラミングしてあるこの機械に、生涯つながれたままでいるのがよいだろうか。p84
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ベーシックインカムの社会実験をやったフィンランドのお隣のノルウェーの哲学者の「work」という本の翻訳です。バリー・シュワルツ「なぜ働くのか」からのラース・スヴェンセン「働くことの哲学」。ここのところ「仕事」についての本ばっかりなのは、サラリーマン人生の終わり方を意識しているから?あるいは若い人たちの「働き方改革」を考えなくちゃならないから?でも「仕事」ってものが非常に時代的なテーマに浮上しているのは確かかも。この本では一緒にアダム・スミスとカール・マルクスも浮上しています。「仕事はその姿を変えつづけてはゆくだろう。そしてこんにち仕事とみなされているものの多くがーそして未来の世界においては、おそらくもっと多くのものがー、まえの世代がレジャーと呼んだものにおそらくずっと似たものになりはするだろう。そうはいっても、私たちがそれを仕事とみなすかぎりは、それは依然として仕事だ。」トム・ソーヤの漆喰塗の二重性。やらされるのか?やりたいのか?あるいは仕事の報酬からの解放。う?これってベーシックインカム?今「働き方」について考えることは時代と社会と人生を考えることでした。だから哲学か…
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ごくざっくりと言うと、著者は仕事に対する過度な期待を戒めようとしている。それは、天職観念の変形でもあるような、自己を創造し続けなければならないというロマン主義的思潮の影響である。たえず自己を表現・創造し続けなければならないというこの使命は仕事によって果たされる、われわれは仕事を通じて生の意味を作り出すのである、というような。例えば、給与も単に生活のため、労働の対価として与えられるというだけでなく、アイデンティティとして解釈されてしまう、というように、さまざまな事象の裏に潜むわれわれの無意識のロマン主義を暴く、という趣もある本。
何の意味もないというニヒリズムに陥ってしまうと労働が給与のためだけになってしまってますますつらいが、一方で自己のロマン主義を直視・相対化して仕事に意味を求めすぎるのをやめてはどうかと著者は提案する。
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・ジェレミー・ベンサムの考えたパノプティコン。パノプティコンとは、看守は全囚人を監視できるが、囚人のほうには自分たちが監視されているのかどうかがまったくわからないように設計された牢獄だ。囚人には自分がいったいいつ監視されているのかがまったくわからないために、結果的につねに「きちんと」ふるまうようになる
・「仕事の終焉」は近い将来に起こることではない。仕事はその姿を変えつづけてゆくだろう。そしてこんにち仕事とみなされているものの多くが、そして未来の世界においては、おそらくもっと多くのものが、まえの世代がレジャーと呼んだものにおそらくずっと似たものになりはするだろう。そうはいっても、私たちがそれを仕事とみなすかぎりは、それは依然として仕事だ
・私たちが高望みをやめないかぎりは、なにが起きても私たちは失望せざるをえない。失望が生じるのは、そもそも期待をいだいているからだ。期待が高ければそれだけ、失望する公算もうなぎのぼりになる。生きるうえで究極の意味が仕事からもたらされると期待すると、やがて失望に見舞われる。同じことは愛情や友情から芸術、そのほかなんにでも当てはまる。究極の意味などそもそもない。それだけで私たちを満足させてくれるようなものなどひとつとしてないのだ
・こんにち私たちは概して仕事に過度の期待をかけており、とりわけ仕事は、私たちが生きてゆくうえで必要とする意義をもっとたくさん提供できるはずのものだと思いこんでいるようだ。おそらくそうした期待が満たせることはないし、私たちは仕事を求めて彷徨う者と化し、仕事から仕事へと渡りあるくが、最後まで探しているものは見つからずじまいだろう
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[コメント]
働くなかで、私たちは世界に爪あとを残してゆく
「仕事は人生の意味そのものを与えてくれるか」
「自己実現の神話を信じすぎることで、かえって仕事が災いになってはいないか」
「給料の額と幸福感は比例するか」……
著書が27か国語で翻訳されているノルウェーの哲学者が、幸福で満たされた
人生を求めるうえで仕事がどのような位置を占めるのかを探求する。
生きがい、意味、人生、実存。この本は暇と退屈に向き合うことを運命
付けられた人間存在の諸問題に、〈働くこと〉という実に身近な観点から
取り組んでいる。読者はここに、いかに生きるべきかという倫理的問いに
ついての一つのヒントを手にするであろう。──國分功一郎
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哲学者が書くエッセイやコラムのような趣です。けれどもテーマは決して軽くなく、働くという事について広く考えを展開していきます。
複業を始めてから仕事って何だろう?とよく考えるようになりました。「単なるお金を稼ぐ手段」から「働きがいを得る」まで様々です。サラリーマンの仕事と自分の会社の仕事とを比較する機会は多いし、色々と考えさせられる事が起こります。
著者は古代ギリシャの哲人から現代まで、様々な考えを引用しながら読者に対して考えるように導いてくれます。
当然読むだけで答えは出ないものの、これからも考え続ける勇気を与えてもらい背中を押された感じです。
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ノルウェーの哲学者による、原著の名前は[work]
働くことそのものについて、そもそも序文で仕事を語る上での不可能さを語りつつ(多国籍企業のCEOも、アフリカの農園主も同じ[仕事]…そもそも広範すぎて正解を求めることそのものがまちがいじゃね?という)
ギリシャ時代に遡った働くことの歴史的な捉えられ方(苦痛としての仕事)
そして変遷(天職としての仕事)
からのロマン的変形が今日の(自己実現としての仕事)
という価値観の変化を辿り、
管理されること、給与を得ること、レジャー、幸せとは?人生とは?ということを仕事を通して考えた散文的な文章。
そもそも正解はないんだけど、それでも仕事のない人生は絶望だし、一方で仕事中毒の人生も本当に幸せなの?[ゼロ・ドラッグ=仕事を阻む支障が全くない]という理想的な労働者でよいの?自己形成の手段として仕事さえも消費の対象になり、仕事に対して過剰に意味を求める現在の風潮に首を傾げつつも、誰しもが何かしら社会に爪痕を残す手段が仕事であるし、精神的にも肉体的にも健康になる良いところもあるんだから、怠惰に流されるんじゃねえぞ、人生は仕事がすべてじゃねえけど、ちゃんと自分で考えろよ、と読んでバチバチに響いた。
最近じぶんの向き不向きやら仕事の意味、やりがい等々やSNSから見える友人、有名人の{栄華}を見て考えグルグル回っていたが、そもそも仕事は苦痛のことだし、あくまでも人生の一部、全体的な幸せを求めながら身の回りの面倒をまるっと愛して行きていこう、と思わせられたのでとてもよい読書であった。
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働くことの哲学というよりは、働く史とでもいうようなもので、ギリシア時代から現代に至るまでの働くの捉えられ方を概観するような内容である。
哲学であるならば、そもそも「働くとはなんであるか」が語られるべきであるが、その辺は大雑把で「仕事とは私たちが自己形成を遂げてゆくものであり、私たちが何者であるかを表現する要素である」ということが、特に根拠もなく語られている。
一方で労働調査における根拠のなさや反証可能性について複数指摘されており、調査された=正当な根拠であるとは言えないことを示唆してくれている。
近代に入ってからは批判の弁舌が冴えており、特にマネジメントの項では痛快に皮肉を飛ばしている。ドラッカーは一定認めているようであるが、ぜひスヴェンセンから見たドラッカー論が読みたいものである。
飽食の時代においては仕事すら消費の対象であるというのは慧眼であり、現代はそれがゆえに流動的で不確実な時代とされている。この辺りはバウマンの漂流する個人などに通ずるところである。
最終的に、働くこと、仕事をすることは、人生において依然重要な要素ではあるものの、それ以上でも以下でもないとされているのは、さもありなんととるか、もう少し踏み込んで欲しかったととるか意見の分かれるところではないだろうか。それはおそらく本書のタイトルに期待した内容の鏡写しである。
ネタバレになるが作者はイギリスのコメディ、ジ・オフィスが大好きである。
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人生における欲望はアイデンティティへの欲望であり、仕事はあくまでその一手段。消費も、友人も、家庭も、余暇も、すべてそれ。仕事に多くを求めすぎてはいないか。それが不幸を生み出してはいないか。
仕事と実存的な欲望との関係だけでなく、仕事と社会構造との関係も重要。ここから考えると疎外が、仕事の無意味さを生み出している。生産性を目指すことによる分業、管理。または、自己実現の論理を組み込んだ管理という薄寒さ。
疎外と、過度のアイデンティティへの期待。この二つを次のテーマとしたい。