紙の本
普通の日々に感謝する
2011/03/17 15:25
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:こぶた - この投稿者のレビュー一覧を見る
偶然同じ時期に「白血病」を発病した同じ会社に勤める記者とカメラマン。
辛い抗がん治療を続け
二人の運命は明暗を分け
カメラマンは闘病の末亡くなり
記者は寛解し退院するが
1年後再発し弟をドナーに骨髄移植を受ける。
骨髄移植を受ける前、受けている間
そして現在を綴っている。
私が大学病院の内科病棟で働いていたころ
骨髄移植が新しい治療法として始まったばかりで
抗がん治療の苦しさに耐え頑張っている患者さんたち、
骨髄移植を待ちながら命を落とす若い人たちを多く見てきた。
あのころより飛躍的に
抗ガン剤による化学療法は進歩し
副作用を抑える治療も進んだ。
それでも
この本を読むと
まだまだ苦しい治療と分かる。
その治療に耐えて生き抜くのも
本当に運以外のものではないことも。。。
著者はこうつづる
僕は闘病を続ける中で、どれだけ強く生きたいと願っても叶わなかった仲間たちをたくさん見てきた。生きたいという思いと、本当に生き続けられるかどうかは、まったく関係ない。中略運よく生き続けることができた僕は、
彼らの分まで生きなければならない。と。
志半ばに病のため命を落としていった人たち、
事故や天災で命を落とした人たち
いつ自分もそちらの側に立つかもしれない
そう思うと
今ここに当たり前の日常があることに
感謝する。
そして普通の日におめでとうを言う
逝ってしまった人たちを悼みながら。。。
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著者より献本御礼。
無菌室ふたりぽっち
今田俊
正直、闘病記の類いに感動するには、私はあまりに多くの本を読んで来た。
そして患者たちに同情するには、あまりに統計を知りすぎている。
人は一人の例外なく、必ず死ぬという意味で生まれた時から不治の病の患者だとすら達観している。
しかし、本書を読了してからは、はっきりこう感じる。「白血病だけはご勘弁」。
本書の価値が、そこにある。
「やっぱり健康が一番」と思わせる闘病記と出会うのは、白血病に罹るより稀かも知れないのだから。
本書「無菌室ふたりぽっち」は、白血病の闘病記。著者は急性骨髄性白血病にかかり、一度は寛解したものの再発し、弟の骨髄移植を経て今に至っている。まだ「これで大丈夫」だと医学的に言うには、もう三年この状態が続かなければならない。
著者は、この経過にうんざりしている。そして本書を「いやいや」書いている。
数多の闘病記に欠けているのは、このいやいや感だ。
実際、致死性の病というのは、「ただの悲劇」ではない。むしろ英雄譚の母ですらある。
プロですら、こう言ってしまう程。
4 白血病の発生率
かつては、洋の東西を問わず、メロドラマや悲劇の若きヒロイン達は結核に罹って死んでいったものですが、昨今は結核の代わりに白血病が広く用いられています。また、実話を題材にした小説や映画などにも白血病が良く登場するのは、若者が罹るがんの中で最も頻度が高いという理由があるからです。
この「悲劇を通した英雄譚」というのは、戦記物にも通じるところがあると思う。方や人の病。方や人々の病。なぜ人はこれほど「病気の話」が好きなのかというぐらい、フィクションノンフィクションを問わず世には闘病記が溢れている。勝利すれば「この艱難辛苦を乗り越えて」、敗北すれば「彼/女は短い人生を精一杯行きました」…人々が苦痛と苦難を乗り越える、あるいはそうしようとする話に、我々は動かさざる(moved)を得ない。目の前のカレーに手を伸ばさずにはいられないが如く。
セカチューから"Stay Hungy, Stay Foolish"まで、世にはこうした感動が溢れているし、私だって実はそういう話は実は嫌いじゃない。ただ食傷しているだけだ。こうまで多いとまるで乗り越えるべき苦痛がない方が悲劇であり不運であるかと思い込んでしまいそうになるぐらい。
自分が闘病記を書いたとしても、そういうお話にしてしまう自覚もある。
しかしだとしたら、その苦痛を取り除くための努力というのは堕落なのだろうか?日本の文化というのはそれを暗示しているところが結構ある。たとえば無痛分娩は、なぜ21世紀の今になってもこれほど普及していないのか。私の娘達も実は普通分娩で生まれている。"No pain, no gain"という諺は英語にもあるけれど、それの意味するところはgainとはpainの代価でなければならないということなのか?
私は、それは人類が霊長を名乗る以上間違っていると思う。"the least pain for the most gain"を目指すのが、文明人のたしなみというものではないのか?
そ���たしなみに対する「躾」は、逆説的ではあるが、painをきちんと伝えることだと思う。それが「殺された方がまし」だというほどの痛みであれば、いやでも苦痛最小を目指すようになる。そして白血病というのは、まさにこの「殺された方がまし」というほどの痛みを治療過程で伴わずにいられない疾病なのである。たとえば、こんな具合に。
P. 126
キロサイド大量療法が始まった。
点滴による3時間のキロサイド投与を1日2回。これを一日おきに3回行う。多量の抗がん剤を体内に入れるため、治療中のケアは慎重に行われる。薬の投与中は、目や口からしみ出してくる抗がん剤を洗い流すための洗眼と、口腔洗浄のためのうがいを10分おきに行わなければならない。これを怠ると一時的に目が見えなくなったり、口の粘膜がダメージを受け口内炎ができてしまう。抗がん剤の不快感に耐えながら、1日のうち6時間は10分おきに洗眼とうがいをし続けなければならない。ベッドと洗面台を往復するのがしんどいので、砂時計とにらめっこしながら洗面台の前にへばりついた。
しかもこの時の抗がん剤治療は、全く効果がなかったのである。
白血病の闘病とは、こうしたことの繰り返しであるようだ。半殺しどころかほとんど全殺し。本人よりガンの方がほんのわずか先にくたばることを願いつつ、治療というなの拷問に日夜耐え続ける…
著者が受けた治療は、日本で考えられるベストの治療であることは、本書を読み進めればわかる。それでこれほど痛いなら、「一般的な」治療はいかほどのものか…
とはいえ、我々は読み物ですら「純粋な痛み」など願い下げな生き物でもある。そして本は読み物であると同時に売り物でもある。感動すら得られない闘病記なんてそれこそ医者ぐらいしか読まないのではないか?
本書は、もう一人の患者を登場させることで、この白血病治療にも似たジレンマに挑む。著者より10年若い「エンドーくん」だ。こちらの物語はずっと「よくある」闘病記に近い。早くに父を亡くし、苦学してカメラマンとなり、生涯の伴侶となるべきひとも得て、人生がまさにはじまったその時に発病し、そして逝去。全米はまだしも、「全読者が泣いた」ぐらいならいけそうな物語である。
しかし、本来読まれるべき闘病記というのは、感動の物語であってはならないのだ。それではまるで戦争の悲劇を描いた作品が戦争を賛美するために引き出されるような本末転倒ではないか。そんなところで感動していては、「それを避けるためにどうしたらいいか」なんて考える余地が心に残らないではないか。
その意味で、本書は本来の闘病記の役割をいやいやと、しかしきちんと果たしている。
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例えそれが悲しい物語でもそうでなかったとしても、闘病記というものはどうしても敬遠しがちになる。それでもやはり知ること、感じること、考えることは必要だ。
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著者は週刊朝日の編集者。ある日、突然の立ちくらみを経験、会社の診療所の医師に相談した事から、白血病になったことが分かる。内容は今に至るまでの闘病記と、ほぼ同時期に同じ病になった同僚の話し。当たり前かもしれないけど、治療ってとても大変ですね。
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白血病を発症した朝日新聞記者による闘病記。しかし、ただの闘病記では片づけることのできない、さまざまな数奇な運命がそこに折り重なり合う。同時期に白血病を発病した、面識のない同僚カメラマン・エンドー君、エンドー君と奥さん、著者と奥さん、著者と弟さん。大病を患うことによる二人称の孤独な世界が、克明に描写されている。
本書を読むのは非常に辛い。治療の辛さや著者の悲鳴が、リアルに伝わってくる。また、人様の人生を、”読み物”という形で冷静に消費している自分自身にも嫌気がさしてくる。それでも、最後まで読み切れてしまうのは、それ以上に冷静な著者の筆力と、抗えない運命に「僕は僕の意思で生きているんだ」と立ち向かう、著者の意思の強さによるものだ。
読んでいる最中、何度も自分が同じ病気になったらということを考えてしまった。平穏無事な毎日が、ある日突然30%という確率論の世界に陥ることの理不尽さ。頑張っても報われないかもしれない非日常な日常。それ以上に大変な周囲の人々・・・
今日ぐらいは、妻に優しくできそうだ。ありふれた日常こそ素晴らしい。
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他人事が自分事になり生死を考える。それを他人は他人事のように考え自分事として考えられない。経験した人達だけの世界を垣間見た。
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「ドラマティックな白血病という病気」という宣伝に軽く怒りを感じながら、本屋で手にした。少し立ち読みをして、そういう反感を忘れてしまったので、購入しいっきに読んでしまった。まさに移植をする人や白血病と診断された人はこういう反応をしこういう状況になると、うなづきながら読み進めた。
団十郎さんとは違い、普通のサラリーマンの子供をもつお父さんが白血病になり、闘病をしていく。年齢も働き盛り。
働き盛りだから抱える問題もある。そういうことが丁寧に経時的に書かれていて読みやすいと思う。そしてわかりやすい。
宣伝文句は一般人にはインパクトがあるのかもしれないけど、もっと、素直なところで、違う宣伝文句にしてほしいなと改めて思う。
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白血病という病気への理解はこれまでになくすすんだ。もし自分が、という気持ちにさせるのには十分な内容だった。だが書名の「ふたりぽっち」というのはストレートにみるかぎりは偽りで、遠回りに解釈してなんとか許せるか、という感じ。昨今多いタイトル負けの本かもしれない。でも内容はかなりストレートで、よい本だった。とにかくタイトルが悪い。
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2011/2 読。
生きて会うことはできなかった、同じ病気の2人。
移植で分けてもらって、同じ血を持つ2人。
泣ける部分もあった。
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朝日新聞記者の白血病闘病記である。「ふたりぽっち」とは同じ時期に朝日新聞系の雑誌のカメラマンが同じように白血病で入院し、数回のメールによる交流があったためである。カメラマンが存命中に深い交流があったわけではない。しかし、このような重い病気を患うと、きっとなにかの支えや共感が必要と感じるから、一般人の私たちが感じる以上に身近に感じたに違いない。闘病記というものを初めて読んだが知っているようで知らないことが多かった。記者という職業柄、文章もとても簡潔で理論的、客観的に表現していてよくわかった。著者自身は生還し、社会復帰していることもあり、重たい読後感はない。「ガン」という病気はやはりたいへんな病気だと痛感した。
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白血病。
それが身近な人や自分自身にも起こる可能性があるものだと初めて知りました。
自分だったら耐えられるのか?家族だったら?などいろいろ考えて怖くなったり、不安になったりしましたが、それでも読んでよかったと思います。
事実を知ることは大切だな、と思いました。
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同じ会社の同僚が同じ時期に白血病という、
死にとても近い病に冒される。
1人は亡くなり、一人は生還する。
全ては運のみなんだろうか。
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2011年5冊目。
204頁。
白血病を発症した朝日新聞の経済記者。偶然、同時期にアエラ編集部のカメラマンも白血病に。同じ会社の同じフロアにいたこともあったが、知らない同士だった二人。入院を機に、互いを知り、互いを励みに病と闘う。だが運命の神様が二人の明暗を分ける。志半ばで逝った若いカメラマンの分までと、職場に戻った記者が1年後に再発。骨髄移植をすることになり、ドナーは没交渉だった弟に。さまざまな「二人」が交錯する感動の闘病記。
(Amazon内容紹介)
とにかく、白血病にだけはなりたくない。読了後に感じた、最初の感想。過酷な治療と環境に、自分が耐えられるとは思えない。
p.104
正直に本当のことをいえば、棺に入ったエンドーくんの姿を見て、僕は怖くて仕方がなかった。どうしても自分の姿がだぶってしまう。いつ自分があの箱の中で目をつぶっていてもおかしくない。自分が花に埋もれている姿を何度想像したことか。
なぜ僕だけが生きているのか。
p.107
かつて不治の病といわれた白血病も今で治る病気だと言われている。でもこれは前向きすぎる物言いであって、実際には、「依然として致死率が高い難病であって、なかには運よく治る人もいる」というのが現実だろう。
p.117
白血病は食事、喫煙や飲酒などの生活習慣によって引き起こされる病気ではない。遺伝的要素もないといわれている。誰もがなる可能性がある疾患なのだ。
それはもう、なってしまったら運が悪かったとしかいいようがない病気だ。
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白血病で骨髄移植をされた方の闘病記。骨髄移植時の前後の話が、他の方の闘病記より、詳細に書かれており、読みやすかった。
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突然の発病、寛解、そして再発、移植。白血病と闘い、2010年発行時点で病に勝ちえている筆者ともうひとり、残念な結末を迎えてしまった人の記録。現役記者の方だけあって、感情と言うより状況を記している点が、他の方の闘病ものと違う気がしました。私は10年以上前にノリでドナー登録した口ですが、移植しても安泰でない事実は驚きです。ただドナーに関してのリスクや表現が怖く、ドナーやめたくなりそうにも。この辺りは骨髄バンクの会報とちょっと違うので、誤解の元になったら勿体無いかも。(実際、複数回提供している人もいるので)。患者さんにとって、一助となりそうな一冊だと思いました。