紙の本
間違えることを知ったうえで
2019/08/14 12:09
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投稿者:ら君 - この投稿者のレビュー一覧を見る
錯視や錯覚、判断間違い、私たちは間違える。
そのことを知ったうえで、間違えないようにするのか、敢えて間違えるのか。
それは、知らないで間違えるのとは、大きな違いだと思う。
読んで良かった。
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「人間とはかくも間違う生き物である」ということがよくわかる一冊です。錯視や錯誤、身体と感情の関係、モンティーホール問題を筆頭とした直感の危うさ、各種バイアスなど、事象自体は私が日ごろ読んでいるビジネス本などでもたびたび取り上げられているものが多いのですが、心理学や脳科学の観点から著者がわかりやすく解説してくれている点、専門家の本領発揮といったところ、さらにはあまり小難しくならず素人でも読みやすい内容にまとまっている点も◎。
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p92
感情が生起してから、それに対応した身体的反応が生じると考える人が多いことでしょう。たとえば、悲しいから泣く、怖いから震える、楽しいから笑う、などなど。ところが、感情と身体的状況との関係については、逆のパターンもあります。泣くから悲しい、震えるから怖い、笑っているから楽しいといったことです。
実際、感情の生起によって生じると考えられるさまざまな生理的反応、たとえば、心拍が早くなったり、発汗したりすることは、自分の情動の生起を経験するよりも早く生じることが知られています。ただし、身体の生理的反応だけで感情が生起するわけではなく、そうした生理的反応の原因をどのように帰属させるかによって、情動の種類や生起が決定されます(情動二要因理論)。つまり、自分自身の感情の内容は、外界や身体情報にもとづいてラベルづけされることで決定されるのです。
・マガーク効果
視覚が聴覚に影響
・ラバーハンド錯視
・ダブルフラッシュ錯視
視覚が聴覚に影響される
p148
自分の持つ信念に合わないことは認識されにくいという特性があります。仮にその事柄が認識されたとしても、記憶には残りにくいのです。
逆に、自分の持っている信念に合致することが生じた場合は認識されやすく、記憶にも残りやすいのです。そのため、いったん獲得された信念は強化されやすく、破棄されにくいことになります。このような信念の維持されやすさは、「確証バイアス」と呼ばれる認知的錯覚の一つです。
実際の事柄と対応しない信念は「迷信」と呼ばれます。
p152
自尊感情とは、自分自身が意義のある存在であるとする感情的判断のことです。…
私たちは、自尊感情を傷つけないように、自分の失敗はあまり認知しませんし、記憶もしません。うまくいったことだけ覚える傾向があります。
自分の引き起こした出来事に対するこのように都合のよい認知を行う傾向の基礎には、自我防衛機制という自尊感情の保全の仕組みがあると考えられます。おそらくは、自分の本当の能力を正当に評価することは、自我の安定にとっては厳しすぎることなのでしょう。
この自我防衛機制には、さらにやっかいな特性があります。自分の信念と一致しない情報の提供者や、自分が高く評価しているものの価値を低下させる人やものについては、心的価値を落としたり、嫌いになったりしやすいのです。
これは、自分が信じていることがら、自分が信じている高く評価している対象と、その対象を低く評価する情報やその情報の発信源の両方を認めることで生じる認知的な不協和を避けるための自動的調整によるものと考えられています。
・虚記憶
・現状維持バイアス
・正常化バイアス
・楽観主義バイアス
・確証バイアス
・同調バイアス
・コントロール幻想バイアス
・損失回避バイアス
・計画の誤謬
・集団浅慮バイアス
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視覚・聴覚・嗅覚といった五感における錯覚、身体運動と関わる錯覚が知覚や心理に及ぼす影響、虚記憶など、人間の知覚の本質について解説されています。確率判断と直観に乖離が生じるというのがなんとも不思議。また典型的な「囚人のジレンマ」の構造を、手塚治虫先生の漫画『火の鳥 未来篇』の事例で説明されていたのは意外で、囚人と取調官の場合のみよりも理解が深まりました。
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私たち人間は意図的に錯視が生じる状況を作り出し、それを利用して画像を用いた視覚情報を伝達したり、楽しみを得たりしています。錯視や錯覚を利用している生物種は人間の他には見つかっていないと思います。(p.37)
ジュースのいっぱい入った缶と空の缶を縦方向に2つ重ねると、見た目の体重が大きくなります。その状態で持ち上げた場合と、ジュースのいっぱい入った缶を1つだけ持ち上げた場合とを比べると、後者の方が重く感じられるのです。(中略)ものを持ち上げた際に生じる重さの近くは、実際の重さとは直接的には関係のない、明るさや大きさのような視覚情報も取り入れて決定される、多感覚的処理の結果として成立するのです。(p.70)
「代表的ヒューリスティックス」:ステレオタイプ、固定概念との近さ、想起しやすさに影響を受けやすい判断の特性
「利用可能性ヒューリスティックス」:想起しやすい対象に対して、想起しにくい対象よりも高い評価を与えやすい(知っている町の人口をより多く見積もる)
「係留ヒューリスティックス」:はじめの情報で初期判断することで次に考える内容を規定してしまう。(p.131)
「現状維持バイアス」:現状によほどの問題がない限り、現在の状況の変化を望まず、現在の状況を改変するよりも、その状態を維持することを好む傾向。(p.146)
「保有効果」:ある物品を所有している場合には、そうでない場合と比べてその物品を高く評価する傾向。(p.148)
過去には地震によって巨大な津波が生じていたことはさまざまな場面で、何度も指摘していたにもかかわらず、十分な対策が取られることがなかったことには、「安全神話」を維持できる情報だけに注目し、それに反する情報やその情報源を否定する確証バイアスの陥穽に電力化会社や官僚、為政者や地域住民が落ちていたように思われます。(p.163)
想像力の膨張は具体的な個人を対象にした想像に限定されません。たとえば、アメリカ人はこう、あるいは、中国人はこういうことをしがちだと、ステレオタイプをもとに想像していると、彼らが実際にそうしたことを行っているところを見たわけでなくとも、その現場を目撃したような虚記憶が形成されやすくなるのです。(p.195)
認知的な処理に負荷が少ない事柄は記憶に残りにくいことが知られています。ネットなどですぐに情報検索できるとしたら、その情報にたどり着くまでの認知的負荷は、そうした外部記憶を頼らない場合に比べるとかなり少なくなるものと考えられます。外部記憶に頼ることができる事柄が私たち自身の内部記憶に保持されにくいという現象の基礎には、こうした記憶家庭の特性があるのかもしれません。(p.248)
実際には多様な事柄にかかわっていたとしても、その事柄があまり記憶に残らなかった場合、その期間は、特別なことがなく、あっという間に過ぎた期間として記憶されやすいのです。つまり、実際には多様なことを行っていても、その間に記憶された事柄が少ないと、充実した時間を送ったという実感が得られにくくなるのです。(p.249)
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なぜ人間は間違えるのかを(1)知覚認知の有限性、(2)環境や行動様式を作り替えるという行動特性、(3)錯覚を自ら利用するという行動様式、の3点から解説した本。
錯覚や認知バイアスについて論じた本は数あれど、ヒューマンエラーという観点から心理学、行動経済学、神経科学といった分野を横断的に扱った本は珍しい。
それぞれ重要単語が太線になっており、用語の定義が分かりやすくされているため、心理学の勉強にはもってこいの一冊だ。
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人間は知覚、身体、感情において錯覚する。直感も以下の様々なバイアスによる制御が働いている。
・現状維持バイアス
・損得回避バイアス
・現在志向バイアス
・確証バイアス
・楽観主義バイアス
・正常性バイアス
・集団浅慮バイアス
また、記憶すら虚記憶を生成しうる。
ということを理解するべし。
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人はミスを犯したくて犯しているわけではなく、錯覚や認知資源に限界があるから。本書は、視覚や聴覚などの感覚の錯覚から始まり、直感や記憶の改変など、幅広く人間がミスを犯す原因・過程が書かれている。広く浅く勉強するには良いと思う。
誤植や脱字が多かったのが気になった。
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人間の知覚認知能力は動物などに比べて優れているのか?
結論から言えばそんなことはない。
視覚や聴覚などの五感で感じ取れる範囲というのは動物と比べて非常に狭い。
そういう意味では人間の知覚認知能力はかなり適当。
でも適当だからこそ人間の面白さもある。
実は誰一人として自分と同じ世界を見ていないし聞いていないし感じていない。
だからこそ1人1人が世界を全く違うように知覚認知しているということを理解すると色々な事が見えてくる。
人間の記憶や判断というのも本当にいい加減というのもこの本を読むととてもよくわかります。
大好きな話しがいっぱい詰まっていてとても面白かっです。
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人間は思ったほど認知機能が優れているわけではなく、現実としてそこにある世界をありのまま認識できているわけではないらしい。しかもほかの動物と比べるとかなり限られた世界しか見えていないようです。人間である限り、一生聞けない音、見えない光、感じれない感触、嗅ぐことができない匂いがあるのだと思うと、不思議な気持ちになるなぁ。
そして、人間は思った以上にたくさんの認知バイアスや錯覚に絡め取られながら、無意識的に認知、思考しているとか。錯覚や錯視はさておいて、さまざまなバイアスの存在を知っているだけでも、今後自分が何か意思決定や思考するときの助けになります。知っていたからといってバイアスがなくなるわけではありませんが。
特に印象深かったのは、自己の利益を最大化しようと合理的な判断を重ねると、全体の利益は小さくなってしまう「囚人のジレンマ」のくだりから、機械依存の危険性を指摘した部分。合理的な判断の積み重ねが社会全体にとっての最良とは限らない。
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前半は知覚、後半は思考や記憶のエラーやバイアスの話。どれもよく紹介されているねただが、コンパクトかつものすごくわかりやすい。それに深みも感じられる。認知バイアスおそろしいねえ。
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2021/01/30読了
卒業論文でヒューマンエラーについて執筆したくて読んだ。
元々心理学に関心があったからか、認知バイアスの話を非常に面白く読むことができました。
認知バイアスに興味を持ってのめり込むには、最高の一冊なのではないでしょうか。おかげさまで、認知バイアスの本を最近読み漁ってます。
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以下、引用
●では、こうした言語を駆使した能力によって、知覚や認知のさまざまな問題を解決することはできるでしょうか?このことに関しては、興味深いことがいくつかわかっています。まず、経験や文字による伝達によって得られた知識によっては、なかなか錯覚や錯視は補正できないという点です。ただし、知識によって観察の際の枠組みを与えられると、錯覚や錯視を減らせる可能性があります。たとえば、「ミューラー・リヤー錯視」という有名な図があります。「<―>」「>―<」という二図を並べて見ると、中央の線分は、両端の矢羽根が内向している(前者)とより短く、外向していると(後者)とより長く見えるというものです。この錯視において、観察者に、それぞれの主線の端点をつないだ線が平行に見えるかどうかを判断させると、錯視の量が減ることが知られています。観察の枠組みについてのこうした知識を得ることで、錯視の程度を軽減することは可能です。しかし、こうした知識による効果は、当然のことながら、そうした枠組みのもとで観察できる状況に限定されます。
●たとえば、エビングハウス錯視(第一章図1-2)では、周囲の円の大きさとの対比と、その差の強調によって、中央の円の大きさが違って見えるという錯視が生じました。ところが、中央の円を、オセロゲームの石のようなものに置き換え、人差し指と親指とで「摘まむ」ときの指の間隔を測定すると、周囲の円の大きさが大きくても小さくても、錯視は認められませんでした。(中略)つまり、見るための視覚情報処理と、身体的動作のための視覚情報処理とでは、どうやら処理様式が異なっていて、同じ対象を観察していてもそれらの間には乖離があるようです。→指さし点呼、五感を使っての確認。
●テレビコマーシャルなどでよく使われているテクニックに、売り込みたい商品と人気のある俳優やスポーツ選手とを、同じ映像中に示すというものがあります。さらに、BGMに有名なヒットソングを流したりするのもコマーシャルではおなじみの手法です。一度であれ繰り返しであれ、人気者や高評価の音楽などと対で提示された対象は、その後、単独で提示された場合であっても、魅力的と評価されやすくなる傾向があります。この効果は、一度だけの対提示でも生じることがありますが、繰り返し提示する方が、より大きな効果が期待されます。
●カウネマンが指摘したように、人間は認知的に怠惰です。そのことを考慮すると、この現状維持バイアスは、状況を変えることで生じるかもしれない実質的な不利益や心理的負荷を避けようとする傾向の現れかもしれません。実際、意思決定を長時間繰り返した後に個人の決定の質は低下することが知られています。意思決定は、それを行なうためにある程度の認知的負荷がかかります。そのため、意思決定をすること自体が、それなりにストレスフルな認知課題と言えます。
●実は、私たちは、自尊感情を傷つけないように、自分の失敗はあまり認知しませんし、記憶もしません。うまくいったことだけ覚える傾向があります。(中略)失敗を起こすかもしれないという、自分に不利な情報も自尊感情を傷つけることになります。そのため、失敗しや���さ自体、一般的には認知されにくく、記憶されにくくなります。逆に、自分に都合の良い情報は、他の情報よりも認知されやすく、記憶もされやすいのです。このような特性があるため、人間には失敗のリスクを過小評価しやすく、そのことによって、かえってリスクが大きくなりやすいという困った特性があります。
●たとえば、家屋や家財の損害を避けようとするような損失回避バイアスが、避難行動を遅らせることを指摘しましたが、(中略)避難をしないと、あるいは避難が遅れると、命や家族など、家屋や家財といった目の前にある物品よりもずっと高価なもの、大事なものが失われる可能性が高まることを指摘するのです。(中略)同調バイアスについては、周囲に先んじて自分だけ避難することを困難にする可能性を指摘しました。しかし、自分以外の多くの人がすでに避難行動を起こしていると認識すれば、同調バイアスによって、それと同様の避難行動を誘発しやすくなります。たとえば、実際に避難をしている人たちの行動を見せたり、あるいはその映像を見せたりすることで、それを見た人に避難行動を促すことになるでしょう。(中略)また、危険の兆候が認められた場合、あらかじめ早めに避難行動を採ることを自治会などの集団内でルールとして決めておく(中略)そうしたルールは、自分一人で決めてもなかなか実行できません。ところが、集団で決められたルールは、その集団への帰属意識が高いほど守られやすいのです(集団浅慮バイアス)普段から自治会で集会を開いたり、集団で避難訓練を行なったりするといった帰属意識を高める工夫と、こうしたルールを組み合わせれば、さらに効果的に避難行動を誘発することも可能です。
●ある状況を実際に体験していなくても、その状況を繰り返し想像すると、その状況について体験したような虚記憶が形成されます。つまり、実際に自分が行ったことがない行為でも、その行為をしたところを繰り返し想像していると、やがて、虚記憶が形成され、自分で実際にその行為をしたように思い出されるようになることがあるのです。この現象は「想像力の膨張」と呼ばれています。この想像力の膨張は、記憶の元が、実際の体験なのか、あるいはそのことを想像したことなのかが混同されるという点では、ソース誤帰属の一つとみなすこともできるでしょう。
●過去の感性的体験に関する記憶は、事後の情報によって捏造されたり、膨張されたりしたものかもしれないし、ピーク・エンドの法則に従ってあまりに簡易に集約されたり、自我防衛規制によって検閲的に編集されたりしたものかもしれません。感性的判断に関する記憶については、正確さを求めるのは困難で、変容された可能性が高いものとして受け入れるしかないようです。
●さらに、機械まかせの判断が多くなることは、日常生活上の私たちの覚醒度を低下させることも予想されます。自分自身で注意を配っていなくても、何かあれば機械が警告してくれるのですから、そうした道具がなかった場合と比べると覚醒度が低下してしまうのは当然のことかもしれません。覚醒度の低下は、全体的な認知処理のレベルを低下させることになるでしょうし、その結果として、日常的なさまざまな気づきは今より減ってしまう可能性もあります。そのことが私たち��生活に及ぼす影響は小さくないでしょう。
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人間の知覚認知は有限である。人間はヒューリスティクス的な判断を行い、様々なバイアスに陥る。そんなことがよくわかる。これらを心のどこかに留めおきつつ社会生活を送るべき、と思う。
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様々な錯覚について説明。(ほぼこれ)
人間はすごくない。すぐ錯覚する。
メタ認知。自己の認知の正確さや状態を認知すること。
どんな間違いを起こしやすいか理解して適応すべき。