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中村びわ(JPIC読書アドバイザー)さんのレビュー一覧

投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー)

655 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本虚無への供物 新装版 上

2004/07/06 14:18

時代と犯罪の関係を意識しながら、美しく幻想的に、しかしいびつでバロックに提示された特別な存在感ある小説。

18人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 東京創元社から全集の形でも刊行されているが、ずっと分厚い1巻として出ていた講談社文庫版が2巻になって登場した。どこの文庫も、文字を大きくするための改版が進んでいるから、その流れに沿った改訂には違いないだろうが、この2004年という年は、どうやら作家・中井英夫にとって節目の年らしい。

 2月29日が『虚無への供物』刊行40周年の日であったそうだ。そして15年前の6月、中井英夫は終の棲家と考えていた世田谷区羽根木の地から離れざるを得なかった。私事で恐縮だが、羽根木は隣町。中井氏の散歩道だったところを私は始終うろついているらしい。
 50年前の1954年9月26日、青函連絡船「洞爺丸」が転覆した。1155名もの犠牲者が出た国鉄最大の事故であり、タイタニック号に次ぐ海難事故ということになる。ギュンター・グラスが『蟹の横歩き』で扱った大戦中のヴィルヘルム・グストロフ号転覆——ナチス・ドイツが伏せていたため9000人もの犠牲者を出したというのに知られざる事故だったから、それが史上最悪の海難として、洞爺丸は3番目の規模である。青函トンネル着工の直接の引き金となったこの事件を舞台に、水上勉が『飢餓海峡』を書いているが、『虚無への供物』もこの事故を背景としている。
「ザ・ヒヌマ・マーダー」と作中人物に名づけられる連続殺人事件が、ゴシックな屋敷のなかで展開していくわけだが、そもそも主要登場人物の氷沼蒼司・紅司兄弟の両親は、洞爺丸沈没事故で両親を失ったという設定である。その「ザ・ヒヌマ・マーダー」の幕が切って落とされる日付が1954年12月10日。黒天鵞絨(ビロード)のカーテンそよぐ下谷・竜泉寺のゲイ・バア「アラビク」から始まる。
 加えて言うなら、物語が始まったのと同じ日付の1993年に、中井英夫はみまかった。——ドラマティックなものに引き摺られてしまうのは、私だけではあるまい。
 
 アンチ・ミステリーという形をとって『黒死館殺人事件』『ドグラ・マグラ』とともに推理小説の3大奇書として挙げられる本書である。本格派推理小説にふさわしい複雑な謎解きを収斂させていくことではなく、逸脱させたり破綻させたりを平気でやってのける作品の魅力については多くの人が語っているので、ここでは触れることを遠慮する。
 注目したいのは、そのようにアンチ・ミステリーという形をとったことの根にあったものである。

 冒頭、バア「アラビク」の立地についての話を少し振ったあとにすぐ、作者は1954年という年の陰惨な事件の数々に触れている。連続殺人事件の物語を始めるに当たって、その年の殺人件数の異常な多さに触れ、さらに二重橋圧死、第五福竜丸、黄変米、そして洞爺丸の諸事件を挙げ、それをあっさり「新形式の殺人が次から次と案出された年だからでもある」(11P)と裁定している。 
 高度成長前夜の50年代は、松本清張が『日本の黒い霧』でも表わしたように、GHQの思想統制などにより、インテリ層にとっては何とも暗澹たる閉塞感に満ちた時代だったろう。それを『虚無への供物』という言葉ですくいあげ、全篇にその時代の空気を漂わせたこと——これは戦後日本文学のひとつの大きな収穫ではないか。

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紙の本

紙の本シュナの旅

2002/01/08 11:01

「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」の原点と言える宮崎駿のコミック絵本。オールカラー147ページとは何とも贅沢、しかもこのお値打ち!

14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 チベットの「犬になった王子」という民話が元になっているという。宮崎さんがアニメ化を夢見ていたけれど、地味な企画ゆえ商業ベースでは実現できないとあきらめていた。声がかかって1983年にこのような形にまとめたと作者あとがきに詳しい。
 余談になるがそのことを考えると、旧ソ連で地味ながら質の高いアニメが何本か作られていたことは、作家にとっても私を含む観客にとっても何たる僥倖だったのだろうかと思える。
 カバーに刷られた解説には、「宮崎駿のもうひとつの世界」と書かれているけれど、「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」といった宮崎作品を、驚異や歓びをもってくぐり抜けてきた今の私たちにとって、この作品はそれらアニメの原点という印象であり、決して異色の作とか別世界という感じは受けない。実際この物語の主人公あるシュナは「もののけ姫」のアシタカを彷彿させる。

 このレビューの見出しで「コミック絵本」なんていう言い方をしてしまったけれど、表現形式がまさにコミックと絵本を足したようなスタイルになっているので、イメージを喚起しやすいと思ったのだ。マンガのようにコマ割りになっている。が、一番外側の白枠はあまり設けられていない。つまり絵柄が「断ち切り」になっているものが多いのだ。見開きいっぱいの画面も沢山あるので、そういうのを見ると絵本のようでもある。また、吹き出しがきわめて少ない。本文が口承伝説の語りのようだから地の文がほとんどで、「〜と言いました」と述べる代わりに吹き出しが僅かに使われているだけなのである。
 ジブリファンにとってはスタイルのことなんてどうでもいいかもしれないけれど、「この形式だからできていることがある」と私には思えた。そして、こんな形式だというのに絵は動いているのである! そう見えてしまうことの不思議…。

 物語は、氷河がえぐった谷底の貧弱な土地にある小さな王国に始まる。時ははるかな昔か、あるいはずっと未来のことだったか…という。宮崎アニメファンにはおなじみの設定で想像しやすいと思う。
 王国の後継者シュナは、旅人がもたらした実りの粒を携え、その生きた種を求めて旅立つことを決意する。生きた種は金色の殻に包まれ、その黄金の穀物が豊饒の波となってゆれる土地が西のかなたにはあるのだという。旅の途次、シュナはうわさに聞いていたグール(人喰い人種)らしきものに行き会い、さらに人身を売買する都城に迷い込む。そこで心惹かれる姉妹に出会って救い出したいと願う。

 表紙の絵は、そこのシーンに関連している。とても大切な場面だけれど、獣にまたがった雄々しいシュナが黎明をバックに疾駆する…なんていう正攻法が、表紙としてはやはりすんなりしてインパクトがあるとは思った。
 40代前半の若い宮崎さんの頭にすでに広がり始めていた宇宙が、さーっと幕を開けていくような快作だ。本を読む習慣のないティーンエイジャーに入り口として手渡すにもよさそう。
 この本、私は地元の書店で美しくディスプレイしているので目に留まり衝動買いした。『白い犬とワルツを』の例もあるけれど、ふだんは見ないアニメ文庫の棚にささってたって出会えなかった1冊。書店員さんの気持ちの熱さがうれしかった。

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紙の本

紙の本時の娘

2001/12/17 12:50

江戸川乱歩が「ベスト級の論理探偵小説」といって愛読したミステリーの名作。リチャード三世の謎に挑む入院中のベッドの上の警部。歴史家瞠目の推理手順。

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本のカバーの折り返しに、ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』、チャンドラー『長いお別れ』、ダール『あなたに似た人』といった名作が挙げられているのを見て、そういった巨粒と同じようにミステリー好きが読んでおいてしかるべき本なのかと、「格」を初めて知った次第。
 作者の名もお初だったが、『ロウソクのために一シリングを』という最近翻訳が出たばかりの彼女の代表作の1冊は、ヒッチコック「第3逃亡者」の原作だそうだ。

 探偵もののミステリーについて全然詳しくないけれど、解き明かされる対象としての事件が複雑で凝った構造をもつものと、事件を解く手法が特異で面白い構造をもつもの、両者が相まったものという分け方が可能なのではないかという気がしている。
 最近の日本のミステリーを少しかじったりレビューなんかを読んでいると、事件がこれでもかとばかり迷宮のような構造をもって、読者は小出しにされたヒントを追いかけながら、幾たびも作者に裏切られるという楽しみを得ることが多いように思う。

 この『時の娘』は、どちらかというと探偵の個性や設定の方により重きを置いていて、とてもユニークな探偵小説である。
 偉丈夫のロンドン警視庁のグラント警部は足腰を痛めて入院している。事情は詳しく述べられていない。グラント警部ものはいくつか書かれているので、英国ファンには自明なのかも…。
 見舞いにくる女優の友人が、これまた関係がはっきりしないのだが、退屈を紛らわすために歴史上の人物の肖像版画を沢山もってきてくれる。「刑事らしく顔を吟味したら?」という薦めだ。
 その気になったグラントは、早速検討を始め、一枚の非常に個性的な男性の肖像に心を惹かれる。
 それが獅子王リチャード三世。シェイクスピア劇になっていて有名だが、わずか2年の治世にも関わらず、2人の甥っ子を権力のために虐殺したということで英国史上悪名高き王である。

 ところが、病院の医師や看護婦に訊ねると、彼がどんな病気持ちか、どんな性格に見えるか興味深い反応が返ってくる。グラントも、その肖像画の顔は殺人犯人のそれに見えない。シロと当たりをつけた上で、病室に出入りする人たちに頼んで歴史書をもってきてもらい、リチャード三世の人生を辿ってみることにする。
 途中、グラントにとっては大変ありがたい援軍が参加することになる。女優の友人の知人でアメリカから来ている歴史研究生である。農民一揆の研究をしている青年だが、グラントと文献を読みながら推理をつなぎ合わせていくうち、すっかりリチャード三世という人物の魅力に取りつかれていく。

 歴史家たちは歴史的事実を追いかけるあまり生身の人間を見つめていないと憤慨しながら、コンビは物的証拠を重んじ人の噂を排除して、誰が利益を得るかという発想でリチャードという人間と周囲の人間を追いかけていく。歴史上の事件といえども、現代の事件に通じるという信念をもって…。
 このミステリー小説で史実がひっくり返るのか——その結果は読んでのお楽しみ。入院先のベッドの上でも知的なゲームで楽しみを見い出そうとする英国人気質やら、論理的な会話が特徴的でたぐい稀な1冊である。
 英国史に詳しくない人でも、丁寧な巻頭の解説やグラントの推理で、読んでいくうち薔薇戦争前後の知識が身についてしまう。

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紙の本

ポルトガルの海は世界の涯てに広がり、ペソアの詩は人間の精神の涯てに広がる。複数の異名を持ち、それぞれの人格に詩作をさせた特異な詩人の作品選集。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ペソアの詩には、入れ子構造の箱を開くようにして出会う人が多いかと思う。
 すなわち、須賀敦子という優れた文学者がアントニオ・タブッキという独特の雰囲気を持つ小説家を紹介してくれ、そのタブッキという作家が、このポルトガルの詩人の研究者でもあり、『フェルナンド・ペソア最後の三日間』という小説も書いていたという流れで辿り着くケース。
 あるいはまた、ノーベル文学賞に顕彰されたジョゼ・サラマーゴというユニークな世界観を持つ作家が『リカルド・レイスの死の年』という小説を物しており、そのレイスが、ペソアの異名のひとつであるという流れで辿り着くケースなど。

 本書は1985年に出された初版本の65篇の詩に解説とあとがき、そこに21篇の詩とあとがきを付して刊行された増補版である。「続巻」とまではいかないが、重版の予定がなく初版在庫切れで新刊流通ルートから姿を消していく海外文学の本が多いなか、この「増補」は訳者にとっても読者にとっても珍しい僥倖なのだと思う。
 その初版本のあとがきに引かれたR・ヤーコブソンの言葉が、この特異な詩人を読み継ぐ価値を十全に伝えている。
「(18)80年代に生まれた一群の偉大な世界的芸術家たち——たとえばストラヴィンスキー、ピカソ、ジョイス、ブラック、フレーブニコフ、ル・コルビュジエなど—
—の一人としてフェルナンド・ペソアの名もあげなければならない。こうした芸術家たちの特徴がすべてポルトガルのこの詩人に凝縮されてあるのだ」

 外国語で書かれた詩を、原語に当たらず十分に鑑賞することができるのか。この疑問は、「俳句の良さは外国語なんかにうまく翻訳されっこない」と答を出すのと同じ理屈で、ポルトガル語を解さない読者としては触れたくない問題ではある。
 しかし、語の意味の連なりや二重三重の掛け言葉、韻の踏み方といったもののすべてが理解できなくとも、こなれた日本語に置き換えられた詩片に触れるだけで、この詩人がいかに人間の意識の極北に達していたのかは分かる。
 21世紀初頭の今このとき、20世紀前半に複数の自己を生きて創作をつづけた詩人の言葉は、突き抜けた虚無の境地とも言うべきところから、読み手である私の元へと響いてくる。
 虚無に覆われ尽くすのがイヤだからこそ、抵抗のため、真理に近づかんと本を介して古今東西の知識を求める。だが、もはや上昇や発展をしていかない社会にあって、しかも年を重ねていくということは、これはもうどうしようもない虚無を底辺に抱え込んでいるわけである。進化や成就ばかりが人類の求めていくべき価値ではないし、勝ち負けというスケールで勝ち組に入ることが即、個人の幸福につながるわけではないと頭では分っていても、それでも尚虚無はつきまとう。
 たとえば本名ペソアの手になる詩片にこういう部分がある。
「知識はあまりに重く 人生はあまりに短い/ぼくのなかへ這入れ おまえたち/
ぼくの魂をかえよ おまえたちの軽やかな影に/そして連れ去れ このぼくを」
 そしてアルヴァロ・デ・カンポスの一節。
「いずれにしても 存在することが疲れるというなら/そうであるなら 高貴に疲れよ」
 

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紙の本

紙の本ふたりはきょうも

2002/07/16 11:47

この巻の最後に収められている「ひとりきり」というお話は、何十ぺん読んでも飽きない。そしてラスト3行の魔法のことばで、必ず目を熱くさせられる。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 全部で4冊ある<かえるくんとがまくん>シリーズ20話のうち、どれが一番好きかを考えたとき、その判断には大いに迷ってしまう。
『ふたりはともだち』のなかの「おてがみ」は、国語の教材として採択されたことがあり、ふたりのキャラクターの面白さが存分に発揮されたお話だ。『ふたりはいっしょ』の「はやくめをだせ」は言葉のやりとりと連続する行動の楽しさが捨てがたい。その次に収められた「クッキー」も同じ魅力にあふれており、子どもの一番の興味「食べ物」を素材にした童話はやはりわくわくするなあと思う。同じ本の最後に収められた「がまくんのゆめ」は息子のリクエストが最も多いお話である。
 季節色がよく出ている『ふたりはいつも』のなかでは、「アイスクリーム」の絵がおかしくてたまらないし、「おちば」のすれ違いにはいつも作者のユーモアに対する才気を感じさせられる。

 しかし、どれかひとつということになると、シリーズ4巻めである本書『ふたりはきょうも』のおしまいに収められた「ひとりきり」をやはり挙げたくなってしまう。ローベルは、この作品を「決め打ち」と覚悟したのだと思う。それは3行の結びに読み取れる。
 抜き書きしようかどうしようか迷うところだけれど、この3行というのは、がまくんとかえるくんのお話を知らない人や、この「ひとりきり」のお話を知らない人には、何てことのない、さりげない記述だと思う。だから、引用しておこう。
——ふたりきりで すわっている かえるくんと がまくんは、しんゆうでした。
 そのうち原文を確認しておこうと思いながら、ついつい忘れてしまっているのであるが、少年の魂を抱きつづける詩人・三木卓さんの絶品の翻訳により、この童話シリーズが素晴らしい原作に加えて新鮮な息を吹き込まれ、長く読みつがれてきたことを象徴する部分であると思う。

「余計なお世話」「本の紹介の禁じ手」だとも自覚しつつ、「ひとりきり」のあらすじもまとめてしまう。心地よい響きとリズムに仕上げられたこの童話のテキストは、どうせ実際に触れてもらわないことには、その魅力を感じ取ることなどできないのだ。
 かえるくんの家を訪ねたがまくんは、玄関ドアに「〜でかけています。ひとりきりになりたいのです」という自分宛ての手紙を発見して、憮然とする。ぼくと友だちなのに、どうしてひとりきりになんかなりたいんだろうと受け止めるのだ。あちこちさがすと、かえるくんは川のまんなかの島にすわっている。
 彼をどうにか励ましたいと思ったがまくんは、ランチを作り、バスケットに詰めて持っていく。かえるくんに叫ぶがまくんのセリフがまた、いい。
「ぼくだよ。きみの しんゆうの がまがえるだよ!」
 でも、遠いので声はかえるくんには届かない。がまくんは、かめに頼んで島に連れていってもらうことにする。かめは、ひとりっきりになりたいひとは放っておいてあげればいいのにと言い、言われたがまくんは、もしや自分の至らなさのせいで、かえるくんがひとりになりたいと思ったのかと危惧する。
「〜おねがいだから また ともだちに なっておくれよ!」と必死で叫ぶがまくんは、かめから滑り落ちてしまう。持参のランチは、びしょぬれになってしまい…。

 「存在」して「感じる」ことの素晴らしさ——それを何度も教えてくれるお話である。
 

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紙の本

紙の本ふたりはいっしょ

2002/07/16 10:48

「家庭」のことを背景に出さない。「きみ」と「ぼく」の楽しく豊かな世界だけにこだわったこのシリーズは、すべての子どもに平等に開かれた秀逸な童話だと思う。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 息子のいろいろな友だちが家に遊びにやってくる。サンバを口ずさみながら踊りだしてしまう子や、日に1回は電車を見ないと落ち着かない子、登校拒否気味だが美しい絵を描くという自己表現手段がある子、ミュージシャンのお父さんのようになりたくてピアノの即興演奏を習っている子…。わずか7歳にして、個性というものはこうまで開花しているのかと感心することしきりである。
 親の庇護を受けている幼少期であるから、家庭環境や保護者の精神状態などが、それぞれの子どもに見事に具現化されている。自分のうちのことは棚に上げて「なるほどねえ」とついつい興味深く観察してしまう。わが子もどこかで観察されていることだろう。

 家族のトラブルが多い現代社会において、子どもたちが置かれている状況というのはなかなかにシビアである。だが、そのシビアさに無頓着な人も結構いる。入学式の祝辞でPTA会長が「お母さん」という言葉を連発した。ムッときた私は、翌日早速、校長宛てに苦情の手紙を書いた。「片親しかいない子だっている。子育ての晴れがましい記念日に、わざわざそういう話を出さなくてもいいだろう。寓話で語れ」というのが主旨である。
 このサイトを見る人のなかには、「読み聞かせ」に興味をもっている人、仕事やボランティアでそのような機会を持つ人もいると思う。「家族」というのは、確かに子どもの本の世界において欠かせない重要なテーマではあるのだが、くれぐれも扱いに注意してほしいと願う(何かえらそうな言い方だけれど)。

 夏休みのはじめ、そのような事情を抱えた子も伴い、海辺の友人宅に転がり込むつもりでいる。読んだ本のタイトルを8冊書くという宿題が出ているから、5日間の日程で、それを片づけさせてやりたい。かばんに何の本を詰め込んでいこうかと考えたとき、真っ先に思いついたのが、このローベルの<がまくんとかえるくん>シリーズである。
 ローベルの本は、『ふくろうくん』にしても『どろんここぶた』にしても、奥深いところで人間存在の意味を感じ取らせるような内容の話が多い。それを平易な言葉で、且つ楽しいエピソードで表現する。見事な寓話である。
「君がどんな状況に置かれているのであれ、自分を信用して大切にして生きろ」という作者のメッセージを強く感ずる。そして、この<がまくんとかえるくん>では、「友だちとのつながりをエネルギーにして、日々にささやかな幸福を見つけつづけよ」という思いを受け止める。

 シリーズほかの『ふたりはいつも』『ふたりはきょうも』『ふたりはともだち』同様に、5つのお話が収められている。「よていひょう」は、朝起きて一日にすることを書きつけたがまくんが、それに従って行動しようとするのに、予定になく風にメモを吹き飛ばされてしまい困ってしまう話。落ち込むがまくんを救ってくれるのはかえるくんである。
「がまくんのゆめ」は、舞台狭しと活躍する自分と、それを席で見守る観客のかえるくんのファンタジー。がまくんが名演すればするほど、客席のかえるくんが小さくなっていってしまい、がまくんは大いに焦る。究極の選択を迫られるがまくんは夢にうなされるが、その枕辺にはちゃんとかえるくんが立っていてくれるのである。
「ローベルの本を繰り返し読んでさえいれば…」——私はいつもそう思っている。

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紙の本

美しい風景や動物・植物に囲まれ、古くからの季節の行事を大切にし、家族とともにある喜びに感謝する−−自分の幸福を繊細に描き出し、人と分かち合おうとする絵本。価値観が合えばギフトに素敵です。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 TV番組「王様のブランチ」で紹介されて以来、もう1冊同じ作りの絵本『喜びの泉』とともに大いに売れたと聞いている。

 1915年に米国北東部ニューイングランド地方で生まれ育ち、今もそこで暮らし続ける絵本作家ターシャ・テューダーの生活が、これらの絵本とともに紹介されて、この人の生き方自体が一つのブームを形成している。この2001年の夏休みの間には、横浜のそごうデパートで、暮らしぶりを紹介し原画を展示する催し物も開かれている。

 ガーデニング、キルト、カントリー風家具、カントリー風キッチン小物など、女の人が家にいて、日々をいかに楽しく充実して過すかということが流行するなか、その気分にぴたり添うものとして、ターシャの世界が現われたわけである。

 1月からの各月、見開き2画面ずつで、家族や村の人びとと楽しんだ年中行事が紹介されている。孫娘がおばあちゃんに、ママがわたしぐらい小さかったときのことを話してと乞われて教えてあげるという構成になっている。たぶんターシャ自身の少女時代の様子が中心だろうと思う。

 新年のパーティー、クリスマスシーズン最後の日のゲーム、聖バレンタインデーのカードやプレゼント、ワシントン誕生日のパイに劇、3月のメープルシロップ作り。イースターの卵の木の飾り、家で飼う小動物たちと喜ぶ春の訪れ、5月の花祭り、リンゴの花の下でのティータイム、聖ヨハネの祝日の大がかりな人形劇。
 7月に入ると独立記念日があって、爆竹の音に始まり、家族はごちそうをカヌーに積んで島へピクニック。8月にはママの誕生日があり、夜開かれたパーティーで、小川を流れてバースデーケーキがやってくるという演出。9月の労働者の日は人形たちのお祭りで、すべてが人形サイズ。
 10月はリンゴジュース作りに大騒ぎのハロウィーン。感謝祭を経て1年分のろうそく作り、そして最大の行事・クリスマスがやってくる。

 子どもたちが着ているもの、食べ物や食器、建物や家具、畑や庭、作業のための道具など、描き込まれすぎない程度にリアルに再現されており、見ていて楽しい。民俗学的な意味もあるのではないかと思う。

 絵本としての美しさ、魅力で特徴的なのは、ユニークな飾りケイだ。絵のすべてが飾りケイに囲まれている。花や葉、小さな動物、ベリーにリボンといったモチーフが四季の恵みを演出している。それとともに、このケイで囲むということがターシャの思いを象徴しているようにも感じられる。それは、冒頭に添えられたイェーツの言葉にうたわれている。

−−そこは、美しいものがいつまでも美しく、喜びが知恵であり、時が永遠をうたう国なのです。

 この絵本には、確かにターシャの生活のなかで得た幸福への感謝の念が封じ込められている。それは神や人びと、自然や物すべてに向けられている。  

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紙の本

死ぬまでに読んでおくべき本、苦悩したときに手にとるべき本。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「20世紀の100冊」という企画があれば、多くの識者がこの本を挙げることと思う。

 著者のフランクル博士の経歴は、『フランクル回想録20世紀を生きて』に詳しいが、精神医学者でフロイトの精神分析、アドラーの個人心理学に続き、ロゴセラピーという独自の精神療法を創始した人である。
 博士はその生涯において三つのイズムと闘った。
 人間の自由意思を否定するナチズム、フロイディズムに象徴される人間の心までもが対象にされる科学的還元主義、人生の無常感から陥りやすいニヒリズムである。

 幼いころから完全主義者であったフランクル博士は、前途洋々の医学者としてウィーンで生活をしていた。しかし、ナチスの進攻で急激な変化がもたらされる。ユダヤ人の戸籍局が閉鎖される前に最後に結婚を許された博士と新妻は収容所に送られ、やがて悪名高きアウシュヴィッツへ移送になる。

 この『夜と霧』の原題は「強制収容所における一心理学者の体験」といい、収容所到着ののち選別が行われ、過酷な労働を強いられ、それに慣れていく過程から、解放され生活の場へ戻っていくまでという段階を経て、人々がどのような心理状態に陥ったかをプロの医学者としての目で再現させたものである。

 日本版では、出版者たちの議論の末に、強制収容所に関する詳細な解説が巻頭に、目を覆いたくなるような写真や図版の資料の数々が巻末に付された。それは、まさに現世に存在した地獄を証明するもので、幾多の偶然や強い意思の力で、ここから生還したフランクル博士という人の、神によって生かされた命の尊さを読み手に強く刻んでくれる。素晴らしい構成である。

 『夜と霧』というタイトルは美しい響きであるが、非ドイツ国民でナチスに対する犯罪容疑者が夜間秘密裡に捕縛されて収容所送りとなり安否・居所を家族や親戚に一切知らされず、のちには集団責任として家族ぐるみで一夜のうちに連れ去られた「夜と霧」と名づけられた命令から来ているということである。

 私は本書を学生時代に手にとってパラパラ読んだことがあっただけであるが、結婚して子どもを持つ身になった今、精読して改めて強烈な打撃を受けた。
 家畜のように扱われることにも慣れてしまう人間の性質、品位ある善意の人間とそうでない人間とに分別される極み、異常な状況においては異常な反応がまさに正常な行動となる瞬間など、収容所のみならず、今の社会の混沌にも普遍的に通ずる問題が多くひそんでいる。
 そんな中、愛する人間の像に心の底深く身を捧げながら浄福を得たり、同僚と一日に一つ愉快な話を見つけユーモアを心の武器として闘いぬいた人たちに、果てしない人間の可能性を見る。

 イメージが豊かな人であれば、何回も本を置いてやりきれなくなったり、積み上げられた中古のマネキンたちのような虐殺現場の生々しい写真に吐き気を催すことと思う。
 だが、人間の心に潜む悪魔の存在を忘れないためにも、一読するべきであると思う。

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紙の本

紙の本香水 ある人殺しの物語

2003/08/14 14:01

シュールでグロテスクで残酷。80年代ドイツ最大のベストセラー。映画化されるって、パゾリーニやホドロフスキー作品のように?丸尾末広か花輪和一がアニメ化してもいいが。

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 18世紀のフランスに天才肌のおぞましい男がいた、という紹介が最初のパラグラフでなされる。何の領分においてかという説明として「香りというつかのまの王国に」とそのパラグラフは結ばれる。つづいて当時の町、ことにパリがいかに悪臭に満ちていたかの記述があふれ出してくる。
 昔のヨーロッパでは入浴の習慣がほとんどなく、人びとの体臭がすごいがために香水というものが発達してきたとか、トイレや下水道の整備がされていないから疫病がまたたく間に広がったという聞きかじりの話を思い出しながら読み進めていると、最初に紹介された天才の酷い出生が語られ始める。
 
 文庫版でわずかに6ページの第1節。「げっ、キモい!」という人と「こりゃすごそうだ!」という人が、ここですっぱり岐かれることと思う。見かけだおしではなく、クライマックスにはそれに見合った盛り上がりがあり、結末にもそれに相応しい幕切れが用意されている。ヒートアップしていくだけなのだから、覚悟の決め時というものだろう。
「孤児のグルネイユは生まれながらに図抜けた嗅覚を与えられていた。真の闇夜でさえ匂いで自在に歩める。異才はやがて香水調合師としてパリ中を陶然とさせる。さらなる芳香を求めた男は、ある日、処女の体臭に我を忘れる。この匂いをわがものに…」
 カバーのあらすじで、ある種の方向性や面白さを嗅ぎ取る人もいると思うが、これはあまりに慎ましやかでおとなしすぎる案内というものだ。

 全体は大きく3部に分かれている。
 第1部の舞台はパリ。主人公グルネイユの生まれと育ちの異常さが、成長してのちの悲劇の一因となることが語られる。読者にとっては、シュールな虚構物語を頭に構築していく上でスムースな導入だ。生まれ育ちに加え、異常に発達した嗅覚と特異な体質がグルネイユを香りの世界へ導き、香りを通して世界を認識させていく様を描いている。物語にとっても必要欠くべかざる土台。
 自分の鼻や分析・記憶に対する自信の獲得が、自分は何者かという成長期の自己同一性獲得に結びつく。それゆえ何を目的に、何を欲望して生きていくべきなのかが徐々に露わになっていく。
 第2部は7年もの歳月が流れるというのに、ごく短い。彼はひとつところに留まり修行僧のように過ごす。修行僧のように心の平安を得たのち、自らの決定的な欠落を発見する。その発見が、これまでにない全く新しいタイプの香水作りの動機になる。
 第3部は、彼のなかの猟奇が全開する祭典の場である。猟奇的ではあるが、グルネイユはレクター博士のような根っからの「悪漢」ではない。ターゲットに向かうときの集中力、そのための禁欲や美学には共通するところがあるものの…。

 語りの上手さに舌を巻くし、香水の知識を得られたり、時代の雰囲気に浸ったりというだけでもよく出来た小説だ。しかし、何よりもスリリングな楽しみがある。それは、禁じられた欲望をグロテスクに昇華させていくことの面白さを求めながら、自分のなかの卑しい欲望、危ない欲望を刺激するのが許されることだ。読書という行為のなかだけであるならば…。

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紙の本

紙の本恐竜

2002/09/03 11:02

親は人込みが苦手、子は電車や車に酔う——で、幕張メッセに赴くことなく、この図鑑で手軽に済ませる中村さんちの恐竜博。

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 30年以上前、私が買ってもらった旺文社の図鑑は、たしか全6巻ぐらい。「動物」「植物」「魚」「昆虫」「鳥」「気象・宇宙」といったところが各巻の内容だったように記憶する。ここ数年、子どもたちが好きなものの知識カテゴリーのなかに「恐竜」という1ジャンルが定着したことについては、羨望混じりの感懐がある。
 本書の8頁「カンブリア紀の海にいた生き物たち」の項に「澄江(チェンジャン)動物群」のコラムがある。1984年7月に、中国の学者が未知の動物を含む化石を次々と発見した。それはカンブリア紀に爆発的に現れて広がった生物たちの貴重な記録だったそうだ。
 30年のあいだに、古生物に関する発見と研究は日進月歩で展開してきた。よくは分からないが、おそらく、それを支える穴掘りの技術や、骨から様々な情報を読み取るレーザー技術などが同様に発達してきたことも大きな貢献なのだろう。また、人類の関心が地球環境に向いてきた事実も、古生物学への興味の底流にあることと思う。

 予想を上回る入場者数を更新しつづけ、会期延長もされた幕張メッセの恐竜博は9000平方m規模。「この地球(ほし)には、まだまだ不思議が眠っている」という素敵な惹起文句にその広さがふさわしいのかどうかは知らないが、解明されていない恐竜の生活や習性を新たに発見するチャンスが、これから子どもたちにも十分に残されている——可能性の広がりは、この183ページの図鑑を入り口にしてもしっかりと感じ取ることができる。
<21世紀こども百科>という視覚に訴えるユニークな事典シリーズの姉妹編として、この巻を含む最新図鑑NEOシリーズの発刊がつづいているが、第1期だけで何と全16巻が予定されているということ。人気が高くてよく売れている「恐竜」のほかに、いろいろなジャンルでそれぞれに情報の充実があるわけだ。昔子どもだった私たちも、子どもに便乗してその恩恵にたっぷり浴させてもらうことにしよう。

 内容の構成はオーソドックスになされている。
 まずオリエンテーションとして、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀といった恐竜の生きた時代や進化に関する知識が紹介されたあと、恐竜とはどんな動物なのか種目分けの基準が説明されている。それに従って、以下でいろいろな恐竜が並べられていく。
 中生代の主な動物が竜盤目の(1)獣脚類(2)竜脚形類と、鳥盤目の(3)装盾類(4)鳥脚類(5)周飾頭類の5種類に分けられ、さらに翼竜や首長竜、魚竜などの「恐竜以外の動物たち」の項も設けられている。これより古い動物については、別巻刊行が予定されている。
 と、漢字のグループ分けで書いてもピンとこない。(1)ではスピノサウルス、アロサウルス、ティラノサウルス、オビラプトルなどの仲間が登場する。(2)ではブラキオサウルスほか、今回の恐竜博の呼び物である世界最大のセイスモサウルスを含むディプロドクスの仲間などが出ている。
 ステゴサウルスやオンキロサウルスは(3)で、イグアノドンは(4)、トリケラトプスは(5)——有名なものを拾っていくと、そんな具合である。

 特色は、何と言っても描きおろしのイラストの豊富さだ。恐竜イラストレーターの実力派・山本匠をはじめとする画家が気合いの入った仕事をしている。特に背景もついた絵が素晴らしい。「ロスト・ワールドを見てきたの?」という感じのリアルさがある。
 巻末の世界の恐竜博物館一覧や、学名も含む索引などの資料も便利である。

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紙の本

こいつはちょっとスゴすぎる!本と契り、本と刺し違えるであろう人の考え方。

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 表紙を眺めて「立花隆の書斎をちょっとのぞいてみたい」とか、タイトルを見て「立花隆の読んでいる本を買って、少し勉強でもしようか」とか、そんな甘っちょろい気分で読み始めると、とんでもない!

 政治、経済、科学、技術、医学、音楽など、様々な分野にわたる緻密で膨大なノンフィクションの文章をあれだけものすには、とんでもない知への欲求と、エネルギーやスタミナと、常に鍛えて脳力を高める研鑚と、いいものを書いてやろうという気概がいるのだと知り、考えてみれば当たり前かと思い、唖然とする。

 この本の後半に何年か分が掲載されているように、5週に1回立花さんが担当している「週刊文春」の読書日記は、いろいろなジャンルから選ばれた新刊本に関する良質な情報がぱんぱんに詰まったコラムである。ただしフィクションの本はめったにない。
 身辺雑記で自分のキャラを出しておこうとか、取り組んでいる仕事について触れようという卑しいもくろみはない。限られた字数で本の内容、造り、企画などに鋭く斬りこむ。あまりの素っ気なさに一抹の寂しさすら感じて、ごくまれに柔らかめの本が取り上げられていると、妙にホッとしたりすることがある。

 あのコラムの選書はどうしているのだろうか、担当デスクの元へ送られてくるであろう新刊の山に本人が探しに行くのか、デスクからお薦めがあるのかなどと考えていたが、その謎も解けた。
 東京堂をはじめとする神保町の書店の新刊コーナーに、自ら足を運んで買い求めてくるということである。
 それも彼流の緻密な取材の一つなのだと考えれば、納得できる。自宅に送られてくる本から知り合いの近刊を取り上げてゴマをすっておくという書評家とか、新聞社の会議室にずらり並べられた寄贈本を眺め、他の委員の顔色を見極めながら選書する書評委員などとはまるで違っている。
 自分が読みたい本、読むべき本を労をいとうことなく選びとるという姿勢が、自ら認める本好き、学問好きのゆえんである。

 メインタイトルが表わすように「こんな本を読んできた」という書物のリストやエッセイではなく、サブタイトルが表わすように読書に対する自分の姿勢を語り、選書や分類・整理法、目的別の読書法、ノートや記録のとり方などのテクニックが中心になっているのが、いかにもノンフィクションの立花式である。

 しかし、学生時代までに日本や世界の名だたる文学は読んでしまっているところがすごい。中学3年生だった立花少年の作文に出てくるその書名の数には圧倒されてしまう。
 初めての就職先・文藝春秋を辞めるに当たり「退社の弁」として社内報に寄せた退社理由が、真に読むべき本を読み、自分とは何かを考えていきたいからだというのもすごい。
 本の重みで抜け落ちないように補強された床を持つ要塞のような書斎づくりもすごければ、秘書の選考の方法がまたすごい。
 極めつきは立花さん自身の生活で、物を知ることが楽しいからと読んでは書くことに没頭し、本ばかりでなく新聞や雑誌に研究論文を当たったり、アメリカの図書館のコピー機を占領し続けて資料を整えるといった仕事と遊びの境のなさがすごい。
 ほうけたようになりながら一気に読んでしまった。

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紙の本

紙の本見えない都市

2003/07/15 00:56

広大無辺なフビライ汗の帝国にあるはずの諸都市のコレクション・カタログ。汗の寵臣マルコ・ポーロが語る紀行は、現実と幻想の垣根を取り払い、時空の垣根を取り払い…。

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 戦後イタリアを代表する世界的な作家カルヴィーノは、バルチザン体験を元にしたネオ・レアリズモの小説で出発し、奇想天外な寓話やらメタ・フィクションと呼ばれる実験的な作品、SF味ある幻想的で美しい小説などで常に物語の可能性を押し広げていった——熱狂的なファンが多いから、半分も読破してない私がこんなことをわざわざ書き出していると、「何だよ、今さら」と舌打ちされてしまいそうな気がして、及び腰になる。
 ハードカバーで『マルコ・ポーロの見えない都市』として出されていた本作品は、近年晴れて復刊されたので買おうと思っているうち、あれよあれよの品切れになってしまった。しかし、「待てば海路の日和」とも言うべきか、このたびの有難い文庫化である。作風は、上の「奇想天外な寓話やらメタ・フィクションと呼ばれる実験的な作品」というところに属する。

 さまざまな空想都市を描いた「幻想小説」であるので、読み終わった人が何か書くとすれば、独自の「読み」のあり方を提示するより他にないだろう。
 鎌倉幕府を震撼させた元寇、時はその時代で、チンギス汗から5代目のフビライ汗に『東方見聞録』のマルコ・ポーロが仕えたという設定である。シェラザードよろしく汗の支配する土地に散らばる都市の様子を語るのであるが、話が進んでいくうち、どうも時代設定や帝国の領土という境界線が崩れてくる。マルコ・ポーロが走破してきた都市について語るという前提すらが崩れてきて、彼の報告が体験に基づいたものか幻想の産物に過ぎないのかが判然としなくなる。つまり、そこでも境界線が崩れていく。
 イシドーラ、アナスタジア、マウリリア、イパツィア、フィリデなどユニークな響きの名を持つ都市の景観や成り立ち、不思議な属性などが語られていくが、後半ともなれば現代の都市のパロディーかと思われるものも登場する。だからこれは近代文明批評にも通ずるという「読み」も可能だろうし、魔法使いにわざを披露してもらうつもりで展開されるイメージに身を預ける「読み」もできる。奇妙な章立てに秘められているかもしれない作為を解く「読み」もあろうし、この都市群が他の作家や芸術家たちに与えた霊感を強引に重ねていく「読み」だってある。

 私はと言えば、上のいずれの「読み」も意識しながらページをめくったが、他に二つのことを感じた。
 フビライ汗とマルコ・ポーロの関係は、渋澤敬三というパトロンと、その庇護を受け50年かけて16万キロの距離を歩きつづけた民俗学者・宮本常一にどこか似ている。このふたりについては、『旅する巨人』という佐野真一氏の快著に詳しい。本当は自分も旅したかった渋澤が、財閥の総帥として事業に専念しなくてはならないがため宮本に思いを託し、取材者として類いまれな才能をもつ彼の見聞に耳を傾けるのを楽しみにしていたという。支配者の立場、そして語りの真贋。
 いまひとつはネット上の紀行だ。リンクを辿り様々なサイトに飛んでいくうち、信じられないカルトな世界に迷い込むことがある。昔訪ねた遠い国の都市の記憶にも似て、それはカルヴィーノが取り払った垣根のないどこかの世界のようだ。

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紙の本

紙の本はなをくんくん

2003/02/16 14:36

これだけ素晴らしい絵本を手にすることができたなら、あとは心を込めて読むだけで観る人たちを別世界へ連れて行ける——本の持つ底力を認識させられた。

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 この絵本との出会いは、もう20年近い昔にさかのぼる。
「とにかく売れる本を作れ」と上の人間にこづかれながら、本の価値とは何だろうかを自問自答し悩みつづけた新米編集者時代に出合った1冊なのである。

 モノクロームの絵であることに、まず驚かされた。
「若いお母さんたちが喜ぶように、赤や黄色など派手な色を使え」と言われていたし、実際カラフルな本が売場にも図書館にもあふれていた。ところが、この本は表紙を開けると白黒だけの雪世界が広がる。ネタバレで恐縮であるが(でも、絵本の価値は一目だけでも見なくては分かりっこないんだし)、最後の14画面めになって小さな黄色の花が現れる。
「ああ、これは『天国と地獄』じゃないか」と感激した。
 黒澤明監督の代表作のひとつ『天国と地獄』は、原作がエド・マクベインの87分署シリーズ『キングの身代金』で、『はなをくんくん』の邦訳が出された1967年(米国での出版は1949年)の4年前に制作されている。誘拐犯を追う見事なサスペンスの白黒映画だが、その終盤、犯人逮捕に結びつく煙が高い煙突から湧き上がるシーン。煙だけが赤に彩色されているのである。
 そのシーン効果を最大に引き出すためであるかのように、モノクローム世界が控えている。ただ1箇所だけに現れた色に、受け手が感じ取るものの大きさ——偉大な作り手たちが選びとった禁欲的でいさぎよい表現に深い感銘を受けた。

 2月の初旬に参加したお話会で、「まだまだ寒いけれど、春を待つ気持ちを皆で味わいたいから」と、この絵本を選んだ。読みきかせのベテランの人たちには、すでに定番としてレパートリーに入れられている1冊である。
 赤ちゃんから小学校高学年までさまざまな年齢の子たちが集まる場所だと聞いていた。ちょっと事情のある場所で、心にゆとりを持つことが難しいお母さんたちもいる。

 ストーリー展開はシンプルである。雪深い森のここかしこで、野ネズミやクマ、カタツムリ、リスたちが静かに眠っている。ふと、目を覚ました動物たちは、はなをくんくんさせて、その香りの元はどこだろうと次々に駆けていく。絵本の技法としてごく基本的、だからこそとても大切な「くりかえし話」のパターンだ。
 大勢の人たちの前で読んでいると、「ちょっと間がもたないんじゃないの」と思うぐらいに文字の量は少ない。だけど焦ることなく落ち着いて読めばいい。なかなか来ない春をじっくり待つ気持ちで、最後の画面の愛らしい花のことだけを思い浮かべる。観る人たちが「この絵は、よーく観た」と満足の表情を浮かべるまで、ただ待つことを忘れてはならない。安易にページを繰ってはならない。
 最近読了した本のなかに、「本を読むということは、書き手を今の時代に甦らせること」といった内容の印象的な記述があった。私はその日、作家がいきいき甦って本の世界に大勢の人たちを誘う様子を見た。そして、自分がこれまで本から得てきたものを、確かにそこにいた人たちに注ぐことができたという実感に満たされた。いささか大仰ではあるが、本の持つ真価というものは、このような私たちのささやかな営みによって時空を超えて残り行くものなのだと知らされた。

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紙の本

紙の本あるクリスマス

2001/11/14 10:41

いつまでも子どもでいたかったのに成長してしまった——そのことの切なさを知る人へ。毎年取り出したい極上の1冊。

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 カポーティという作家は、存在自体がたまらなく切ない人だ。『遠い声 遠い部屋』『ティファニーで朝食を』『冷血』など様ざまな作風で成功の階段を上りきったのに、「プルーストのように一つの世界を描く小説を米国文学にも」と目した『叶えられた祈り』で、その階段から突き落とされることになってしまった。上流社会のスキャンダルをそのまま書いたため「南部出身の田舎者め! せっかく仲間に入れてやったのに…。身の程を知れ」とセレブたちに総スカンをくらったのである。
 大いなる可能性に満ちた『叶えられた祈り』が私は好きなのだけれど、そこに老齢の金持ち有閑マダムたちをお得意さんとするジゴロが登場する——そんなジゴロが、この『あるクリスマス』で少年の父として登場することに胸がぐっと詰まってしまった。カポーティへの敬愛に満ちた村上春樹さんの解説によれば、この短篇は、カポーティが父を亡くした翌年、そして、彼自身の晩年に書かれたという。
 カポーティの少年時代は、この本の主人公バディー少年と同じく父母に遺棄され、母親の実家に押し付けられて親戚たちによって守られてきたのである。16歳で結婚したアラバマ出身の母は若くて野心に満ち、大学に進学した。ニュー・オーリンズのビジネスマンだった父は、離婚後はジゴロ稼業に入る。不幸だったとは断言できないが特殊な事情を抱えた少年時代、そして小説家としての挫折という業を抱えたカポーティが、自分の来し方を振り返った晩年に書いたのが、この父と過した最初で最後のクリスマスの話ということになる。…たまらない。
 母のリッチな再婚相手が出した学費で名門の寄宿学校へ預けられるまで、カポーティ少年はアラバマの田舎で靴もはかずに豊かな自然のなかを駈けずり回っていた。家にはスックという遠縁の老婦人がいて、いつまで経っても分別がつかないその女性は、世話役であり、良き友だちでもあった。貧しいけれども甘い、彼女と過したクリスマスについては『クリスマスの思い出』という本が別に出ている。この『あるクリスマス』とは双子の関係にある。父と過したクリスマスの翌年、7歳に成長した少年が大好きなスックと見送った最後のクリスマスの出来事が書かれているので、できれば2冊揃えて読んでみるのがいいと思う。
 スックと過すのが好きな少年には、ニュー・オーリンズの父と過すクリスマスなど魅力がない。瀟洒な家に集まった女狐がうようよのパーティーで少年は所在なく、おまけに父が女狐の1匹とキスするところまで見てしまう。にぎやかだからサンタだって来ないと憤慨したその夜、暖炉のところでプレゼントを積み上げる父の姿まで見てしまうのだ。
 痛く切ない思い出を、村上さんが見事な流れの文章に再構成している。本文で泣かされたあと、解説にも泣かされてしまう。山本容子さんの版画は、お話のここをこう切り取って絵にするのかと驚かされるモチーフとレイアウトである。クリスマスを豊かにしてくれる極上の美しい1冊だと思う。

 

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紙の本

紙の本どろんこハリー

2001/10/25 10:54

<ほんとはくろいぶちのあるしろいいぬなのに、しろいぶちのあるくろいいぬになってしまいました>——数ある絵本のなかで一番好きな一文です。

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 今のところ一番好きな絵本は、モーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』、そしてその次に来るのが、たぶんこの『どろんこハリー』かな…と思っている。

 理由は、しゃれていて面白いから…。そして、読むと子どもが大いに喜んでくれるから…というのが、大きな理由のひとつになっている。

 先日、瀬田貞二先生の『幼い子の文学』を再読した。子ども文化への深い造詣と鋭い見識が楽しく気持ちの良い快著なので、絵本や童話を愛する人には是非お薦めしたい本である。
 その最初の章で、一つの仮説が提示されている。幼い子が喜ぶお話には、一つの形式というか構造上のパターンがあって、それは「行って帰る(there and back)」に尽きるのではないかというのである。小さい子どもの場合、単純に、自分の体を動かして行って帰る動作がとても多い。だから、発達しようとする頭脳や感情の働きに即した、一番受け入れやすいお話はそのパターンなのだと先生は述べられている。

 自分と子どもが好きな『かいじゅうたち〜』と『どろんこハリー』を真っ先に思い浮かべた。前者では男の子、後者では犬であるが、それぞれに冒険に出かけて行き、そして帰ってくる。

 ハリーのお話は、扉絵からすでに始まっている。だから、子どもたちには、ゆっくり扉も「読んでもらう」注意を忘れてはならない。前付けの計3ページの扉で、お風呂ぎらいのハリーはボディブラシをくわえて走り出すのだ。

 ブラシを裏庭に埋めたハリーは外へ抜け出し、工事現場や鉄道線路の橋の上、石炭トラックのすべり台などで思いきり遊び、まっ黒になってしまう。ここで、見出しに掲げた一文が登場する。この文を絵にしたのが表紙である。何の感情も注ぎ込まず事実を記述しただけの文。それでも、読む人の心をぐうっと惹きつけ、イメージを大きく開放してくれる。一茶や芭蕉の俳句に通じないだろうか。

 もっと遊びたいハリーだけれど、家の人たちに家出をしたと思われたら困るので、まっすぐ帰ることにする。裏庭に着いて裏口を見ていると、家族たちが出てくる。でも、「へんな犬」と言われて自分だと認めてもらえない。知っている芸をやってみせるけれど、それでもわかってもらえない。
 「なんだか ハリーみたいだけれど、これは ハリーじゃないよ」という言葉にがっかりしたハリーは、はっと思いつく。

 そして、埋めたボディブラシを掘り出してくわえ、2階の浴室めがけて走るのだ。家族は、このへんな犬がお風呂に入りたがっていることを察して、洗ってあげることにする。まほうみたいに汚れは落ちていき…。

 4色のセットインキであらゆる色を出すフルカラー印刷ではなく、モスグリーンにオレンジ、墨の3色を選んだ印刷となっている。ごちゃごちゃした描き込みのない、くっきりすっきり白地を生かした絵柄がまた、しゃれている。

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