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  3. ちひさんのレビュー一覧

ちひさんのレビュー一覧

投稿者:ちひ

156 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本靖国問題

2005/10/21 00:06

靖国神社は一習俗ではなく一宗教です。

19人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 靖国神社国家護持問題や国家による追悼施設建設問題の入門書。
 東西両本願寺が靖国神社や政教分離の問題などについて、今までずっと口を酸っぱくして主張し続けてきた内容をそのまま、宗教者ではなくごくフツウの哲学者・ごく普通の論客が、ついにまったく同じ内容・同じ主張・同じ目的をもって語り始めた。そういう意味では非常に画期的な書である。逆に言えば内容的に目新しいことはあんまりないということかもしれないが、とてもよくまとまっている。
 いわゆる靖国神社国家護持派が主張する内容に対しては、感情的にも論理的にも、きっちり反論することができるし、完膚無きまでに論破することができる。それをあらためて白日の下に晒してくれていると思う。
 政教分離は憲法に定められているから従わなければならないというものではない。歴史や他の国家での政教一致がどんな悲劇をもたらしたか・もたらしているか・もたらしつつあるかを眺めれば、政教はすべからく分離されるべきであることがわかる。でも「一般大衆」の目に見えた右傾化が激しい昨今なので、こういう内容でも「サヨク的」と思われたりしてしまうんだろうか。だとしたら淋しいことである。
 (余談。毎年夏に東西両本願寺の有志が河原町界隈で「非戦・平和」をキィワードにデモ行進している。そのメンバの一人が「高橋哲哉の『靖国問題』には今までわたしたちが言ってきたことがまったくそのまま書かれている。すごくよく読まれていると聞く。わたしたちの本はまったく読まれてこなかったのに。本当にそのままなのになあ!」的なことを言っているのを聞いた。嬉しがってるのか悔しがってるのかよくわからなかったが、たぶん両方なのだろう。)

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紙の本

紙の本2円で刑務所、5億で執行猶予

2010/02/08 05:09

懲罰では更正できない。

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本にデータを挙げて紹介されている事実の一端は以下のようなものである。
 
◇少年犯罪は増加傾向にない
◇団塊の世代の周辺人口の犯罪は増加傾向にある
◇「割れ窓理論」は拡大解釈しない方がよさそうだ
◇「スケアード・ストレイト」は再犯率を高めた
◇「ブートキャンプ」はそれほど効果的ではない
◇怒りをコントロールするプログラムがある
◇犯罪防止にまつわるショック療法には副作用が多い
 
 法務省等が集めた公式な・信頼できるデータを精査すると、マスコミが煽るほどに少年犯罪は増加傾向にない。逆に犯罪数が増加傾向にあるのはいわゆる「団塊の世代」、戦後生まれの世代においてである。また、明治以降の近代日本でいちばん犯罪が多かったのは、わたしたちがノスタルジックに振り返りたがる昭和30年代であった。
 
 外国から輸入される「割れ窓理論」や「ブートキャンプ療法」が万能ではないのは、冷静にデータを読めばすぐにわかる。また「スケアード・ストレイト」(交通事故防止ではなく犯罪防止の方)など、犯罪防止にまつわるショック療法には一時的な効果があっても、根本的で持続的な効果は認められない場合が少なくない。
 
 なお、犯罪を防止するために「懲罰」を与えるのは逆効果である。そんなふうに痛めつけることに重きを置くよりは、更正を促すプログラムを充実させた方がより効果的だしコストパフォーマンスも良い。
 
 「誤解を恐れず大胆に要約すると、犯罪者が立ち直るためには、その人を立ち直らせたいという思いを強く持った人との出会いや関係性が重要であり、その関係性を通して、自分が社会にとって役に立つ人間であるという自己イメージを持つことができたときに、人は立ち直ることができる」
 
 「北風と太陽」みたいな話だ、ということだろうか。
 
 浄土真宗本願寺派の機関誌である『宗報』の2009年11・12月号に掲載された「治安悪化の真実と厳罰化の意味」は、この本の内容をまとめたものである。そこにはこうある。
 
 「人は社会とつながらずに生きていくことはできない。刑罰後の更正には社会とのつながりを取り戻すことが不可欠であるが、社会的制裁を含む厳罰は、社会とのつながりを断ち切ってしまう。当然、これによって刑罰後の再犯が助長される。厳罰化は、刑罰と社会的制裁の微妙なバランスを崩し、更正の道を絶つことで再犯を促進している。」
 
 「事実は小説よりも奇なり」と言われるが、この本には逆に淡々と「事実はそれほど劇的でもなければ面白くもない」という事実が書かれている。だからあまり顧られていないようだが、もったいない。大変に建設的な内容である。

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紙の本

紙の本ジャーナリズム崩壊

2008/09/12 02:53

ジャーナリズムから批判精神を取ったら、何も残らない。

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 タイトルから、「日本のジャーナリズムはここまで崩壊している!」という嘆き節が展開されているものと思って読み始め、‥‥予想は少し裏切られた。
 
 日本の新聞社が実質的には海外で言う「通信社」や「政府公報」的な活動ばかり熱心にしていること、「記者クラブ」が「負の世界遺産」に登録申請可能なのでは?と思えるほど閉鎖的・排他的であること、記者の目線が庶民から離れ「あちら側」になりがちなこと、NHKの記者になるには政治家の推薦状を持っているのが有力なコネとして働くこと、不偏不党で客観的な報道など人間には不可能である事実を日本の各メディアが無視し続けていることなど、現状での多くの問題点が指摘されている。
 
 つまり「崩壊している」の意味合いが違っていた。「昔はまともだったが今は崩壊している」という指摘ではなく、「現状ここまで崩壊している、でもこれは最近のことではない。ここ数十年ずーっとこんな感じである。」という、崩壊の開始ではなく継続が指摘されているのである。
 
 おもな「崩壊」ターゲットは新聞であるが、NHKその他TVもひどい。宮内庁関連の「報道」が完璧に横並びなのがジャーナリズムとして如何に異常事態であるのかがよくわかった。また国内政治に関する報道内容が各メディアまったく同一である理由もよくわかった。‥‥逆に言えば、日本のジャーナリズムは一体何をしているのか、これで本当にジャーナリズムを名乗っていていいのか、まったくもって、よくわからなくなって来る。
 
 指摘されてみれば、大新聞やTVでいっせいに同じ報道がなされるのは非常に不思議なことなのである。また、記事の引用元を明示せず「一部週刊誌によると」や「‥‥であることがわかった。」などと言ってぼかし、読者を意図的に一次ソースから遠ざけてはいけない。そう、言われてみれば指摘される通りだ。今までなぜ気にせずに新聞を読めていたのか不思議でならない。
 
 要するに、盗作・剽窃・カンニングが日常的にすぎる現状が最大の問題であるのだろうと思う。
 
 報道を鵜呑みにするなどとんでもない。批判精神を持たない不健全な日本のジャーナリズムと付き合うには、ジャーナリズムが忘却の彼方にやってしまった批判精神をこちらが自覚的にもって臨むしかない。

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紙の本

希代の漫画家サイバラが語る「カネ」の話。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 西原氏には、かつて隔週刊の麻雀マンガ雑誌に連載された『まあじゃんほうろうき』という作品がある。賭け事が禁止されているはずの日本で、堂々と賭け麻雀をやり、堂々と負け(というか読んでいるこちらが本気で心配するほど負け続ける)、その顛末を堂々とマンガでおもしろおかしく紹介する。笑えない水準の負けこそが強烈なネタとなる。「他人の不幸は蜜の味」という言葉があるが、まさにアレなのか。わけがわからないくらい笑える。絵は汚い。字もうまくない。言葉使いも下品。やってることも格好悪い。でも激烈に面白い。
 
 タイトルだけは『麻雀放浪記』のパロディだが共通項は「賭け麻雀」だけである。でもカネを軸に人生を「麻雀」で「放浪」する西原氏の「記」録であるのは間違いなかった。
 
 その後、氏に『ちくろ幼稚園』というマンガがあるのを知り、読んだ。可愛らしい絵なのにえげつない。でも温かい。「ただ者ではない」と思った。やがて氏の最高傑作とも言われる『ぼくんち』にも出遇えた。
 
 一連の作品を眺めて不思議に思う。「この人、何なんだろう? なぜこんなふうに描けるのだろう? 冷めた中に底知れぬ暖かさがある、この心地よい違和感は一体なに?」
 
 その謎がこの本を読むことで氷解していった。最貧層を描いた『ぼくんち』は氏にとって他人事の世界ではなかった。なるほど、人は環境とその人のポテンシャルの相乗効果によって作られていくものなのだ。
 
 西原氏の底知れぬ魅力が裏打ちされる本である。かつ、カネとの付き合い方・スタンスの取り方、職業その他について考えるために、幅広く意義のある一冊。

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紙の本

メディアが捏造する「霊」の幻想世界

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 帯には「斬り捨て御免! 江原さん、細木さんから、ユリゲラー、FBI超能力捜査官まで 新進気鋭の宗教社会学者がブッタ斬る!」とある。しかし著者みずからがブッタ斬るわけではない。著者は、読者が彼ら「テレビ霊能者」をブッタ斬るために必要十分な情報を提供してくれている。
 
 江原啓之・細木数子という大物は第1・2章で徹底検証。ユリ・ゲラーや宜保愛子、丹波哲郎などの単発系は第3章で「テレビ霊能者クロニクル」と題し俯瞰する。第4章では日本人の宗教性を分析し、今後を展望する。
 
 大学で若者を相手に講師をされているからか、文章は論理的でありつつ平易で読みやすい。各章の終わりにいちおう「まとめ」があるのも親切である。
 
 また、「テレビ霊能者」たちから似非[えせ]の「癒し」をもらっている人にはちょっとした目覚めの機会を提供してもくれるだろう。入門的であり、わかりやすいと思う。

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紙の本

なりたくてギャンブル依存症になる人はいない。依存症の実態は想像を遙かに超えてすさまじいが、しかし、生還は可能である。本人も、周囲のひとも、ともに勇気を得て、はじめの一歩を踏み出すことの出来る本。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本に登場するギャンブル依存症の人の実に9割がパチンコ・スロットがらみである。法的にはギャンブルではないパチンコ・スロットがギャンブル依存症を今日も作り出している現状は改善されなければならないだろう。
 
 帚木蓬生氏の著作は以前『臓器農場』を読んだことがあった。社会派で提言的・啓蒙的な、それでいてエンターテインメント性も豊かな素晴らしい小説であった。
 
 この本は社会派のルポである。
 
 前半ではギャンブル依存症の実例が詳しく紹介される。依存症の人は一体どういう精神状態になっているのか。どのくらいのお金がギャンブルに捨てられるのか。周囲はどのように振り回されるのか。何もかもがダメになっていくさまが本人の視点から語られ、本人がそれをどうとも思っていないことが心底からの恐怖を誘う。
 
 後半はギャンブル依存症から生還するための方策である。気を紛らわすことや互助組織が大変に有効であることも教えていただいた。
 
 ともかく、ギャンブル依存症は病気であり、治療しなければ絶対に治らないことがわかる。
 
 もし、もし、これを読んでいる人の中に、ギャンブルから逃れられず困っているひとや、知人にそういうひとがいる人がいたなら、読んでほしい。この本は必ず闇の中の一筋の光となるだろう。一人で悩まず相談しよう。「人は変われる。一緒なら。」とも言う。

 同じパチンコを少し違った角度から扱う、溝口敦『パチンコ「30兆円の闇」』、若宮健『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』などと併読すると、理解がより深まると思う。

 なりたくてギャンブル依存症になる人はいない。依存症の実態は想像を遙かに超えてすさまじいが、しかし、生還は可能である。本人も、周囲のひとも、ともに勇気を得て、はじめの一歩を踏み出すことの出来る本。

 ★は、可能なら10コ以上つけたい。

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紙の本

聖域なき議論のための「課題図書」。

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『おぼうさん、はじめました。』の著者が、お坊さんを始めてしばらく経ち、いろいろ考えいろいろ実践しています、ついては、こういう提案があります‥‥という本。
 
 わたしは著者と同じ浄土真宗の僧侶で「寺族」だ。寺で暮らしている家族のことをそう言う。学生の時は一応お寺を離れて東京や京都で一人暮らしをしていたが、今は北海道の生家・お寺で暮らしている。いわゆる「どっぷり」状態である。そうなると、お寺が「世間一般」とは異なり、結構特殊な環境であることがよくわからなくなってくるし、お寺が何のためにあるのかも、やっぱりよくわからなくなって来る。そして、世間一般の人と自分との間にある「お寺」や「宗教」、「仏教」などとの向かい合い方、理解の仕方、そういうのが全然違うことにもどんどん鈍感になってくる。
 
 それじゃあやっぱりいけないわけで、それもあって読んでみた。
 
 ‥‥うーん。耳が痛い。「どっぷり」に気を付けて暮らしているつもりだが、やっぱり気を付けても気を付けすぎることはないとあらためて思う。
 
 いろんな提言がなされている。「その通りだ!」も「それはどうかな?」も「そんなこと言っても‥‥」も、いっぱい詰まっている。たくさん唸らされたり汗をかかされたり気が滅入ったりした。
 
 なかでも「そうそう!」と思ったのは、「在家」の考察と、お葬式についての考察である。
 
 真宗の僧侶が一人のこらず「在家のお坊さん」であることからくるいろいろな矛盾は、著者にまかせておかず、わたしもきちんと考えなくてはいけないと思う。(しかしどうやって考えていけば良いのか。)
 
 また、僧侶が「直葬」や「無縁社会」など、葬儀形式や看取りの変化のあれこれ、人と人とのつながりの希薄さなどを考えるとき、「根底には「このままでは自分たちの生活が維持できなくなる、だから今のうちになんとかしなければならない」という、宗教的な動機とは関係のない世俗的な動機があるにもかかわらず、それを直視することなしに、宗教的理念で装ってしまっている」問題も指摘される。「無意識になされる保身的な議論」が怖いということである。「仏教界を、世界を、本当に良い方向に持って行きたいと思ったら、私たちは聖域を残さずに真剣に議論しなければならない。」そのとおりだなあと思いつつ、課題の深刻さにお腹がきりきり痛む。
 
 一般向けか僧侶向けか、対象がどうもはっきりしないように思って読んだが、それは関係ないことに気付いた。どのような思いで書かれた本であれ、もらうべきものがいっぱいあるからわたしのための本である。
 
 また、真宗の僧侶ではない人が読んでも、お坊さんの「本音」以上のものが聞けるので大変おもしろいと思う。提言もある。
 
 読書感想文なんかとは別の意味での「課題図書」だと思う。特に真宗の僧侶は必読だ。そして「聖域を残さずに真剣に議論しなければならない。」
 
 重要な課題をたくさんありがとう、正直「うへえ」です。‥‥なんて言ってばかりいないで、しっかりしなければ。

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紙の本

紙の本現代萌衛星図鑑 第1集

2009/09/08 17:54

人工衛星を主人公にした、一種の、正しいラノベ。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「今週のオススメ書評」で書評が紹介されていて、それを参考にして購入。日本の人工衛星のいくつかを擬人化して紹介している。マンガあり、イラストあり、写真あり、文章あり。そして笑いあり、涙あり。
 
 マンガやイラストはいわゆる「萌え系」である。だが絵がカワイイだけではなかった。写真や資料はきちんとJAXAから提供してもらっている。文章は、擬人化されただけの、フツウの人工衛星のことを書いているはずなのに、なぜかとても感動的である。それは、開発されるに至った経緯から、開発上の問題点、開発されてどうなったか、打ち上げのとき何が起こったか、そして、どのように役目を終えていったか‥‥などなど、人工衛星の「一生」を追っているからかもしれない。人工衛星はそれ単体としてではなく、技術者・開発者、研究や運営に携わっている人たちすべての思いが結実して人工衛星として存在しているのだ。そのあたり、盛り上げるべきところは大いに盛り上げて書いていて、一種ラノベ調である。すばらしい。
 
 著者のしきしまふげんさんは、JAXAの公式サイトでもイラストがすごく好意的に紹介されている。☆(『萌図鑑』の表紙となっている「かぐや」とはちょっと違う絵。)人工衛星の擬人化はこの本だけじゃなかったみたいで、そういう同人誌を出しているようです。秋葉原に行けば買えるらしい。
 
 「またヲタクが好みそうな本だなあ」と思いながら(自分をすっかり棚に上げて)読んだのだけど、これは案外すごい本かもしれない。自分がなんにも知らずに、でも何か知ってるつもりで毎日「ひまわり」から来る写真を眺めていたことがわかったし、いろいろちょっと、見方が変わってしまった気がする。擬人化ってすごい。

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紙の本

紙の本寺よ、変われ

2009/09/02 00:33

「すべき」ではなく「したい」が、わたしを・寺を・世界を変えて行く。

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 出版されてすぐ購入、たちどころに半分読み、その後なぜかパタッと止まってしまったが、やっと読了した。止まった理由は、内容的に叱られている気がしてキツかったからだと思う。叱られる気がしてキツイのは、自分の為すべきことの書かれた読むべき本であるゆえだと思う。
 
 前半は、仏教や現代の日本をめぐる現状分析と、「高橋卓志はいかにして今日の高橋卓志的な問題意識を持つに至ったのか?」という自己分析である。
 
 後半は、「どうすれば寺は変わるのか? 寺が変わればどうなるのか?」プラス、高橋卓志が今まであまり明らかにしてなかったと思われる、「高橋卓志、『イベント』以外の日々あれこれ」的な、バイタリティ溢れる実際の紹介である。本願寺派のご門主が上田紀行氏と対談して「エンジン」「ハンドル」と言っていた、その両方がまったくすごいのだ。
 
 高橋氏、お坊さんからよく「あんたのやってるのは顕徳だ」(本来やるべきではないことをしている)と言われるらしい。でもそう言う人が「陰徳」(本来やるべきこと)と思っていることを高橋氏は「あたりまえのこと」として全部すでにやっている。その上でこう言う。
 
「仏教者には保持する三つの主義があるという。第一に、先の宗教評論家【註:118頁】の言う、原始仏教への回帰や解脱[げだつ]へ向かう修行中心の原理主義、第二に、安心[あんじん]、決定[けつじょう]、そして信仰中心の生活に向かう信仰主義、第三に、「苦」の現場に向かい、そこでさまざまな「苦」と切り結びながら、「苦」を緩和・解消しようと試みる社会対応主義である。主義は他の主義を容易に認めないものだ。しかし、戒が失われ、棄信感が増大し、多様で異質な「苦」があふれる現代社会に、単一の主義を完遂すること、主張することには無理がある。それよりは、それらの主義を統合・連携させ、絶妙なブレンドを生み出す方が現代に即している。神宮寺【註:高橋氏のお寺】の仕事(活動)は、原理主義を標榜しながらもそれをバックグラウンドに置き、信仰主義は当然行うべきこととして日々実践しながらも披瀝せず、常に現場を見据え、社会対応主義に徹するというブレンド方法を採っている。原理主義や信仰主義は、表に見える必要はない。しかし、それらは通奏低音として、神宮寺の仕事の地下水脈を流れている。流れていなければ、このような仕事はできない。」(120~121頁)
 
 何をどういふうにして日常と関わっても良いのだと思う。あえて言えば、逆にすべてがダメでもある。何故なら、わたしたち人間が為すことは、すべてが「人」の「為」すこと、つまり「偽」であり、大慈大悲・小慈小悲でいえば「小」の行為に決まっている。やりたいから仏教的な肝心要のところ(だと本人が思っているあたり)の研究をやる・やりたくないからやらない。同様に、やりたいから社会対応型の仏教をやる・やりたくないからやらない。
 
 法然聖人は「お念仏申しやすいように生きなさい」とおっしゃった。つまり仏教研究をしていた方が救いを感じやすいのならそうすれば良いし、社会対応型の仏教をしていた方が救いを感じやすいのならそうれば良い、ということだと思う。こだわらなくて良いのだと思う。
 
 「仏教が盛んになっていくために自分は何をすべきだろう?」と考えるよりも、「わたしに救いが届いている!」と感じられるかどうか、そしてその後で「仏教が伝わっていく今この時、わたしは何がしたいだろう?」と感じ考える、それがすべてなのだろうなあ、そう思う。
 
 「すべき」ではなく「したい」が、わたしを・寺を・世界を変えて行く。

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紙の本

紙の本愛と痛み 死刑をめぐって

2009/02/17 16:44

やはり秀逸な辺見庸。

9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 かつて『もの食う人びと』という秀逸なルポルタージュをものした芥川賞作家である著者が、日本でおこなわれている死刑と、その周囲に漂う不思議な雰囲気、ならびに「世間」や「日常」に思いを馳せて暴き出す、愛と痛みの危うい関係。
 
 著者は、自分が自分に都合の良いものしか愛せない存在であることに愕然とし、自分の都合とまったく関係なく他者を愛したマザー・テレサに思いを馳せる。そこから愛を考え、痛みを考える。死刑を考える。戦争を考える。
 
「死刑は地方自治体や中央裁判所が執行するものではありません。では誰が執行するのか。私はこう考えています。死刑は国権の発動ではないのか。国権の発動とは、自国民への生殺与奪の権利を国家にあたえるということです。私たちがその権利を黙契によって国家にあたえる、これが死刑なのではないでしょうか。」 
「他国民にも死刑を拡大していくのが戦争というものなのではないか。戦争とは大規模な死刑執行のことではないか。」(ともにp.109)
 
 著者がそう言っているわけではないが、「日本で執行される死刑には愛も痛みもない」ということに思える。愛があれば死刑なんてしない、そんな単純なことではない。痛みがなければ死刑なんて無意味だ、そんな単純なことでもない。何かが欠落しているからこそ日本の死刑は成立しているのだ。
 
 個人的な印象だが、最近、死刑に関連する書籍が増えていると思う。本書はその中でも特に、大変に重く大変に広く、また深い内容となっている。

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紙の本

TVやネットにあおられずに、せめてもう少し考えてみよう。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 中学生向けの「よりみちパン!セ」シリーズ、今回は少年犯罪と、犯罪の後のことについて考えている。例によって大人が読んでも良い内容、いや大人こそが読むべき内容と言えるかもしれない。
 
 本は、扉や目次や前書きからではなく、まず漫画から始まる。相手を死に追いやるような罪を犯した少年たちや、その家族たち、また死に追いやられてしまった少年の家族たちを描いた、非常に重い内容の漫画である。人を死に追いやる犯罪は、言葉にならない「やりきれなさ」ばかりをいかに生みだすのか。それが、こちらが逃げ出したくなるような迫力で伝わってくる。この漫画家(武富健治)の作品は今まで読んだことがなかったが、多くの事実をもとにして、この密度、この奥行き、このラストで描けるのは、すごいと思う。
 
 漫画の後は以下のような章立てである。
 
 第1章 子どもでも、死刑になるの?
 第2章 「少年法」は、子どもを守ってくれるの?
 第3章 「少年院」って、どんなところ?
 第4章 「少年法」が改正されたのは、なぜ?
 第5章 犯罪少年の家族は、どうしているの?
 第6章 被害にあった人は、ゆるしてくれるの?
 
 少し前まで、少年犯罪と大人の犯罪との線引きはどのように行われていたのか、そこにはどのような願いや期待があったのか、そして今はそれがどのように変わってきているのか、その原因は何か、そして、いま私たちが考えなければならないことは、しなければならないことは、何だろう。
 
 読んでいて、ため息をつきながら空を仰いでしまうことが何度もあった。たぶん我々は、少年犯罪にまつわるいろいろなことを実際にはまったく知らないのに、TVのバカが視聴率を稼ぐために無いこと無いこと(有ること無いこと、ではない)言ってるいるのを真に受けすぎていて、知ってるつもりになっていすぎるのだ。
 
 ネット検索で知識ばかり詰め込んでも2ミリだって賢くはならない。ちょっとだけで良いから、ブラウン管も液晶もプラズマも消して本を読もう。そして、もっと、自分の頭でしっかり考えよう。

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紙の本

死刑、このややこしいモノ

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 人を殺した人間はどう裁かれどう罰されているのか。そしてそのことはわたしたちにどう受容されているのか。わたしたちはそれについてどう思い、どう考えているのか。
 
 章立てによる明確な「角度」の設定はないものの、死刑にまつわる人々の思いについて多角的に論じている。
 
 傾向として常に少数派の立場から世界を見がちな森達也の著作なので、全編にわたって死刑廃止派の論調で進むのかというと、‥‥そう簡単ではない。
 
 著者は自分で資料を集めて考えるだけではなく、存置派・廃止派、いろんな人に意見を聞きに行く。会えない場合は文書で質問し、回答を得、それを本文で紹介するだけではなく、非常に濃い密度で自ら受容し、煩悶し、悩む。インタビューを受ける側の意見がレコーダの前で揺れるのだ。聞き手の森が揺れないわけがない。読む我々が揺れないわけがない。
 
「近年の日本においては特に、発達したメディアを媒介にして、被害者遺族が抱く応報感情への第三者の共鳴が拡大しつつある(他国に比べて日本のメディアは、殺人事件を報道するパーセンテージが突出して高い)。これもまた裏返しの不安と恐怖の表れだ。価値や規範を可視化できない個々の苛立ちや恐れが、絶対的な正義の存在を希求する。人は規範に従いたい生きものなのだ。規範がないのなら無自覚に作り出す。そんな究極の規範が、この世界のどこかに存在していてほしい。人はそう願う。
 これがこの国における死刑制度の本質だ。
 冤罪や誤判がこれほどに多いと言われても、社会防衛の効果は実はほとんどないと説かれても、この幻想の正義を崩壊させることに人は簡単には同意できない。そもそもそんな論理に、意味など最初から置いていない。だって怖くて不安なのだ。つまり論理ではなく情緒。だからこそずっと、水掛け論が続いている。
 ならば僕は、論理から情緒を引き剥がすことを試みる。」(p.243)
 
 本がここまで進んでこのような語りが出てくる(そしてまだまだ進んでいく)ということは、この本はたしかに「死刑をめぐるロードムービー」(p.234)なのである。存置派・廃止派それぞれの意見や生き方を我が胸に引き受けて悩んだ上で、彼が最後に至る「結論」とは。
 
 2008年、日本ジャーナリスト会議賞受賞。

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紙の本

若者が破滅的行動に走る原因を作った責任を果たすか、果たさぬか。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 今回初めて知ったが、著者の島田裕巳と、批判されている中沢新一は、東大の同じゼミで直接の先輩と後輩なんだそうである。島田から見て、チベットに行く前の中沢には不安な影が見えたが、その後、チベット密教のグルに師事しているという彼から届いた手紙には、とても元気な姿がうかがえたそうである。
 
 島田は、同じくオウムに人生を狂わされた者として、中沢がチベット密教の信者の立場からオウムと麻原彰晃を手放しで賞賛し、地下鉄サリン事件後も宗教学者としての責任を果たしつつあるようには到底見えないことから、中沢が果たすべき責任を追及する。
 
 中沢自身が経験したチベット密教の修行の段階をつぶさに書いたのが『虹の階梯』である。私も1990年代前半に友人から勧められて途中まで読んだが、まるでフィクションかと思うほど、あまりに超神秘主義的・霊的な記述が多く、到底読了できるものではなかった。しかしその本をもとに多くの若者がオウム真理教に走った。いまでもアーレフの中で基本的な経典として読み継がれている、それが『虹の階梯』、中沢の代表作である。
 
 島田裕巳は、オウムから最も近いところにいながらその危険性を見抜けなかった自分に宗教学者としての限界と責任を感じ、事件後、まず、おろおろし、その後はブレもあるものの、自身の責任を果たそうとして活動し続けている。対し中沢は、オウム真理教事件の前後、オウムと社会に対して何をしたのか、何をしなかったのか、そしていま、何をしようとしているのか。
 
 スピリチュアルブームの「いま」を読み解く必読書である。

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紙の本

紙の本精霊の守り人

2007/09/27 04:02

本当のファンタジー。

9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

文化人類学者の書いた冒険ファンタジー。「守り人」シリーズの第一作。
 
 舞台は「新ヨゴ皇国」。川に落ちた第二皇子・チャグムを、女用心棒のバルサが救い出す。チャグムの母親・二の后は、バルサに心からの御礼をし、のみならず、バルサが断れない立場にあることを知りつつ、控えめに、チャグムの護衛を依頼する。そして物語が紡がれ始める。
 
 世の中には、本当のファンタジーと似非のファンタジーとが存在する。その境界は決して曖昧ではなく、非常にはっきりしている。
 
 簡単に言えば、ファンタジーは「作る話」ではなく、作者からむしろ逸脱して勝手に「できていく話」である。著者がでしゃばって「語る」ファンタジーは似非ファンタジーである。エンデは機関車の行く手が閉ざされてしまい途方に暮れ、やがて道が拓けるまで、何日も待たなければならなかった。グウィンはアースシーから吹く風に身を預けた。宮崎吾朗はアースシーから吹き寄せるもう一つの風に身を委ねた。
 
 そして上橋菜穂子は、精霊の守り人に出会った。
 
 『攻殻機動隊』のS.A.C.シリーズを手掛けた神山健治氏がアニメ化している。そのアニメも大変に面白いらしい。

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紙の本

紙の本グーグル八分とは何か

2007/02/06 15:49

もはやネット神話ではない。

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 日本で初めて「グーグル八分」の被害に遭ったサイト「悪徳商法?マニアックス」の運営者・吉本敏洋(Beyond)氏が、グーグル八分の実際と、それに付随するたくさんの問題を指摘し、大きく警鐘を鳴らしている。

 「グーグル八分(ぐーぐるはちぶ、Google八分)とは、インターネットの検索エンジンであるGoogle(グーグル)で本来なら上位に表示されるはずのウェブサイトが、検閲などにより検索の対象から外れるよう操作され、検索の結果に表示されない状態をいう。村八分になぞらえて呼ぶ言葉である。[出典:ウィキペディア]」(表紙より)

 当初「グーグル八分」は「ネット神話」に過ぎなかった。「グーグルがそんなことをするはずがない」と広く思われていたし、わたし自身も絶対そんなことはないと思いこんでいた。しかし。

◎悪徳商法?マニアックスとグーグル八分
「悪徳商法?マニアックス」(悪マニ)は、悪徳商法に関する情報を収集、考察、提供しているBeyond(吉本敏洋)氏による個人サイト。二〇〇三年一二月二八日よりサイトの一部のページがグーグルの検索結果に表示されなくなり、二〇〇四年一月に「グーグル八分」であることが判明する。その後、同サイトでグーグル八分問題を取り上げ、追い続けている。(裏帯より)

 今では「グーグル八分」が実際に行われていることがグーグルによって公式に認められている。2007年1月21日のNHKスペシャル『グーグル革命の“衝撃”』でも、ほんの五分(ごふん)くらいではあったがその問題に触れていた。

 この本で扱っている内容は、本来ならネット上に公開されて然るべきであると思う。でもそれができない。いや、もちろんしようと思えばいくらでも出来る。しかし実際に「グーグル八分」にされているページのURLをピンポイントで紹介してくれているし、また、そのページがなぜ「グーグル八分」になったのか、判明しているのであればその理由を公開してくれている。である以上、この本の内容は最初から最後まで、一言一句、残らず、間違いなく「グーグル八分」になる。

 知らないうちに一方的に「グーグル八分」にされることがまず問題である。また、確認しようと思えば確認できるからと言って「八分」にして良いというものではないし、確認できない「八分」もある。事実上の寡占に極めて近い状態にある検索エンジンが対象者に断りなく検索結果から外すのは、いろんな意味で、やはりまずいだろうと思う。

 差別の問題を語るときに頻出する言葉に「寝た子を起こす」がある。『大辞林』にも「(寝ている子供を起こしてむずからせるように)一応おさまっている物事をことさら騒ぎたてて、またもつれさせる」とあるように「終わった問題を蒸し返すな」という意味だが、「被差別部落に生まれた人が使う場合は、これが違う意味になる。/「差別について知らない人に、無理に教えることはない」という意味だ」(森達也『いのちの食べかた』99頁)。

 この本が出たことでよりいっそうグーグル八分がひどくなるのでは? と考えることもできる。しかし本書は、そのような危惧に対し「私は、紆余曲折があろうとも、最後には真理が勝つと信じています。」と答える。

 氏の論説には生半可ではない説得力がある。中でもネット社会における「名誉毀損」と「表現の自由」についての分析や提言は秀逸である。

 Beyondさんのサイトは悪徳商法?マニアックス。

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