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mistypinkさんのレビュー一覧

投稿者:mistypink

2 件中 1 件~ 2 件を表示

紙の本

ならずものにできることは、恐喝と略奪?

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

そうか、33年前になるのか。ある友人が「津村喬はすごい。吉本に全く影響
を受けていない新しい世代の理論家だ」と呟いたのは。強圧的な啖呵が肌に
合わず、吉本隆明をろくに読んでいなかったノンポリの私にも、これからは
社会問題の焦点が差別、公害やウーマンリブの領域になることは理解できた。

この本はポストモダニズム批評の概念装置で1960年代の新左翼運動やそれを
取り巻く文化的現象を兆候的に読み込もうとする試みである。
この本は徹頭徹尾現在の視点から、現在の問題状況を意識して書かれてい
る。そのために60年代の重要な問題提起を指摘しながら、無理矢理図式に
押し込んでしまった感が残る。
左翼ではない私にとってスターリン批判以降の左翼の混迷や新左翼の意義
などピンと来ない。たいして重要なこととは思えないのだ。
しかし、ウォーラーステインに拠らずとも、68年が新しい時代の始まりで
あることは疑いない。せっかくの史論である。左翼の語彙ではなく、哲学史
的な視点でこの本の見取り図をおさらいしてみよう。

結局、神の死の後になおも超越的価値を求めたのが新左翼だったのではない
だろうか。神の死の後、平和共存における社会主義の優位や後進国革命とい
う奇跡を果たした偉大な指導者毛沢東の神格化は黄昏の偶像崇拝であろう。
古典的な革命が不可能故に信じる否定神学がトロッキストの永続革命論だ。
革命家は昼寝するわけにも行かず、プロレタリアート人間に生まれ変わり、
未だ未熟な、<そのとき>には足手まといになるであろう他党派を粛清
する。
あるがままの現実に晒され、現在の行動が超越へと繋がると痙攣してみせる
多くの新左翼活動家は内在主義者だ。彼らはささげられた人々のために戦う
のではなく、疎外された自己の全体性を回復するために行動する。完全な
自己同一性の希求は一方ではプロレタリアート人間/赤軍兵士=死してなお
永劫回帰する自己のゾンビ化に回収される。他方、一国革命主義として土着
や民族の根源に独自性を求めるナショナリズムに着地する。
神の死の再確認は聖職者的知や前衛党の神話を終焉に至らしめる。しかし、
それは普遍化されない大衆の欲望を、あるがままの現実を無条件に肯定する
ことではない。このようなフェイクとしての存在=故郷回帰は保守的革命の
体現者、三島由紀夫によって退行的に先駆されていた。

自己同一性の裂け目に他者を見出し、差異と同一の反復の上に新しい主体の
創造をめざす動きはまず第三世界論に始まり、内なる差別構造へ向かう。
平和共存、55年体制による平和で豊かで民主的な生活を送っている、その
日常が冷戦の戦時体制、平坦な戦場である。やってはこない革命をただ待つ
だけでも、馬鹿馬鹿しさ騒乱の中で溺死しないためにも、自己自身を1個の
他者として、他者相互の関係性そのものを更新する<超越論的>戦略が必要
なのだ。畢竟それは政治から文化=メディア戦略に主戦場を移行する。
著者は労働力商品足り得ず、社会的価値を剥奪されたジャンク、ならずもの、
回教徒(ユダヤ人収容所の)にアクセントを置く。これはアウトロー的
ロマンティズム、ヒロイズムではないか。
津村喬が素描した先進国版文化大革命は、のっぺらぼうに拡散していく
情報ー環境管理型社会のど真ん中に無数の異化を組織化することで
あったように思われる。(なお、タイトルは反語である)

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紙の本

現代思想おたく向けのSF蘊蓄話

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この対談に関しては、既に多くの賞賛が寄せられている。
確かにおもしろいし、刺激を受ける。だが、読後漠然とした不満が残るのも
事実だ。見当はずれな言いがかりを承知の上で、その現実に対する感度に
ついて批判を試みたい。

端的に言えば、「世俗的で対症療法的な『現場主義』」に対して「ボトム
アップ式に理論をたたき直す」試みがあまり成功していないのではないだろ
うか。

たとえば『審判』の「掟の門」や『収容所列島』との関連で語られるスターリニズムの不条理性、確率や数値化の言及を読めば、現代のビジネス人は苦笑するしかないだろう。中国等の工場に対抗してリストラを進める国内生産基地や消費不況の中でノルマを達成しなければならないセールスにとって、不条理は現実以外のなにものでもないのだから。日々の作業は時間効率性を追求され、能力査定で個人の商品属性は計数化される。転職の自由はある。しかしそれを現実化するには資産、社会福祉、労働力商品としての自己の優位性が担保となる。確定記述の束として属性管理されながらも匿名で交換可能であるが故にそこで生きるしか選択肢がないのだ。東が情報管理社会のモデルとして参照する自動改札機ではパンチ音を鳴らす駅員もまたデリートされていた。

東は消費社会論の重要性を指摘し、すぐに市場と言い換えているが、80年代ポストモダニズムの消費社会論はあたかも下半身のない身体のように、生産や流通を捨象して成立していた。オタク産業化の延長線上にリナックス革命に言及するが、オタク的映像の進化がスポーツ用品のCMを商品から自由なスポーツそのものの表現に達したとしても、製品がインドネシアや中国の出稼ぎ労働者によって製造されていることに変わりはない。情報資本主義の矛盾を見逃しているというのではない。認識される現実、参照先が一面的なのだ。多様性や自由の認可とそれと気づかれぬ管理の二面性は市場の全体性を考慮すれば当然のことでしかない。

東はまた、フクシマを引用して、プライベートな優生学を止める方策がないという指摘を鋭いと言う。現に出生前診断に悩む家族にとってそれは「おもしろい話」どころではない。現実がとっくに問題意識を追い越している。
あとがきで大澤はコロンバイン高校事件とコソボ侵攻の同時並行性を挙げ、内在する敵と戦争の関係を指摘する。それを言うならば、ジュリアーニのニューヨークがゼロ=トレランスの実験場だった、つまり棍棒で浄化された安全都市に飛行機が激突したことに触れなければならないだろう。

「冷戦崩壊期のスノッブなシニカルな消費社会」の後に出現したのは、世界的競争の血なまぐさい世界だったように思われる。無論ヴァーチャルな次元で血の匂いや暴力性は巧妙にフィルタリングされてはいた。そこでは生権力の影である死権力が優生学とセキュリティを携えて主導権を握る。もはや自由というものも、気が付けば畜産処理場という猶予期間を<平穏無事に生き延びる自由>に切り下げられてしまった。

この対談で欠如しているのは「第三者の審級」でも「大きな物語」でもなく、現実認識なのだ。このままではポストモダニズムの語彙でポストモダニズムの限界を語る近過去SF談義でしかない。


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