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  3. ホキーさんのレビュー一覧

ホキーさんのレビュー一覧

投稿者:ホキー

42 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本ロリータ

2010/04/29 22:15

ロリコン趣味の原典は、むしろ、ロリータ幻想の、醜さを戒める

10人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ロリータコンプレックス、つまりロリコンの語源である。現代日本で、明に暗にロリコン趣味が興隆しているが、原典の『ロリータ』は、むしろ、ロリータ幻想が、醜く・害悪であることを強調している。

ロリコンの本質は、単に年下好き、であることでなく、幼い者の判断力の未熟をいいことに、「その人を自分の思い通りにできる、とする妄想」である。それはまた、少女が現実を生きる人間であることを認めず、幻想を少女の人生に押し付けることでもある。

たしかに”ヒロイン”の少女ロリータは、当初は元祖ロリコン・ハンバートの欲望のままになっている。しかし、しだいにハンバートを手段とみなして金品を要求したり、ハンバートの意に沿わなかったりすることが多くなってくる。これは、ロリータが現実の人間であり、ハンバートの幻想をまるごと受け入れる存在ではないことを示している。

そして最後には、生活臭溢れる中年女性に変貌することで、「いつまでも私の少女」であるはずだったロリータ像の、幻想性が明らかになるのである。

 小説冒頭での、ロリータへの思いの独白、「ロ、リー、タ。舌先が口蓋を3歩進んで3歩目で軽く歯にあたる。ロ。リー。タ。」は、ハンバートが、長年「ロリータ、ロリータ」とぶつぶつ言いながら思いを膨らませてきたことがよく伝わる。一方で、それは、リアルな人間関係の中ではくぐまれた愛情ではなく、あくまでも、妄想による独善的な思いであることも読み取れる。

ロリータが、現実世界の人間であると認識できないハンバートは、現実を、自分に都合よく解釈する方向で、現実と欲望のギャップを埋めようとした。結果、彼の現実認識はどんどん現実を離れてゆく。小説後半で、ハンバートが、単に性癖が異常というだけでなく、あらゆる言動が妄想的な精神異常になってゆくのはこうした背景による。

客観的視点から見たその行動は、醜く、滑稽である。この姿が、ロリータコンプレックスに対する作者の評価である。

少女のことを「ニンフェット」(妖精)と呼び、幻想的な存在とみなすハンバートだが、むしろ、現実の少女を「妖精」と見るハンバートの考え方の方が「幻想」だったのである。

★  ★  ★
現代日本では、2次元空間・3次元空間の両方で、さまざまの形でロリコン趣味を掻き立てる文化が生まれている。その中には、直接的に「少女」を打ち出すのではなく、ロリコン趣味が別のイメージに展開されてるものも多い。したがって、『ロリータ』が示したロリコン趣味の落とし穴に、知らずにハマってゆく危険も高くなっている。

たとえば「メイド」は、「仕える者・逆らわない者」として、ロリータ幻想の延長線上に位置する。メイドへの憧れが最終的には性欲に根ざしていることは、コスプレとメイド喫茶以前のメイド文化を、アダルトビデオやピンク映画が担ったことを思い起こせばたやすく理解できる。

また、「メガネっ子」も(意外性を狙ったキャラクター設定がさまざまに試みられた現在では、状況が複雑になっているだろうが、少なくとも原理としては)、メガネ=学業に没頭=異性関係のスキルを積んでいない→多少の人生経験のあるものには思い通りに操られる、というステレオタイプ(あくまでもステレオタイプ)を利用してイメージ展開した、ロリータ的存在である。

メガネっ子がロリータのイメージを引き継げた文化的土壌は以外に古く、セーラームーンの水野亜美(たまにメガネを着用)どころではない。少なくとも、1970年、山岸りょう子の『ミスめがねはお年頃』までは遡れる。

 これらの趣味は、趣味として一概には否定できないのだが、それがリアルな人間関係とは違うのだということを分かりつつ楽しむ必要があろう。大抵の人にとってはそれは分かりきった余計なお世話だが、そうした客観的な視点を持ち得ない人・性愛の対象を思い通りにできるという幻想を抱いている人は『ロリータ』を読んで、『ロリータ』の主張に立ち返るべきである。

   BH惺さんの書評に刺激を受けて書くものである

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紙の本

紙の本もこもこもこ

2009/09/01 21:28

『もこもこもこ』による国政選挙の考察

15人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

巨大な一者が他者を飲み込み、膨張し、破裂する緊張と、元の世界が回帰する弛緩を、きわめて抽象的に、シンプルに描いた名作である。

本作におけるシンプルさは、少なくとも2つの点で、決定的な効果を生み出している。
第1は、シンプルであるゆえに、1歳台の子どもですら、この緊張と弛緩が織りなすカタルシスを感じ取れる。
第2は、多様な解釈が可能である。巨大な神の体の各部分が世界の構成物になってゆくタイプの創世神話を思い起こしてもよい。たとえば、『リグ・ヴェーダ』の「原人プルシャ」、インドネシア・ウェマーレ神話の「ハイヌウェレ」etc.
また、その神話の型を受け継いだ民話や昔話と比較するのも面白い。有名な『オオカミと7匹の子ヤギ』・『赤ずきん』、民話に素材を取った、絵本『ねんどぼうや』、現代の創作絵本『むしゃむしゃ武者』etc.いずれも『もこもこもこ』が最大公約数である。
輪廻転生を想起する解釈にも出会ったことがある。

僕は、繰り返しが暗示されている緊張と弛緩を、「ケとハレ」に対応させる。つまり、祭事(さいじ)による非日常の緊張感が、日常生活のうっぷんをガス抜きし、その後の日常への生気を得るのである。「ケとハレ」には、非日常の前後には、変わることのない日常の存在という含意もある。

「ケとハレ」、祭事(さいじ)に関連したタイムリーな解釈は、国政選挙による狂乱騒ぎである。すなわち、先の、村・一地方規模の祭事(さいじ・まつりごと)を、全国規模の、もはや祭(フェスティバル)化した、政(まつりごと)へと捉え直すのである。

【2009年9月1日時点での、上記の解釈においては、「もこもこ」は、全国を席捲した民主党、「にょきにょき」は文字通り議席や政権を喰われた自民党である。】

とはいえ、「ケとハレ」の解釈においては、こうした非日常期間の後には、前と変わらない日常が回帰するのであった。
国政選挙の熱狂は、あたらしい政権への多少の興味という生気を補充しながらも、いつしか日常へと埋没してゆく。その証拠に、「もこもこ」と「にょきにょき」に対応する政党は、4年前ならばちょうど真逆であった。

【すなわち、2009年時点のわれわれは、『もこもこもこ』を第1場面から生きたのではなく、4年前の読者が生きた『もこもこもこ』最終場面の、「もこ」のその続きを生きたのである、とも言える。】

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紙の本

ヴィゴツキーへの簡潔で本格的な足がかり

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

100ページ未満の小編にもかかわらず、充実感がある。
ヴィーゴーツキー心理学の全体構造を描写する、という著者の意図は達成されていると思う。

「内言」と、発達の最近接領域といわれることの多い「最近接発達の領域」というキーワードへの焦点化が良い。
「内言」概念の意義は、それが「意味」と結びついた「想像のイメージ」として成立することによって、
第1に科学的概念を可能にすることであり、
第2に、「意味」と感情・情緒が結びつくことにより、各個人に固有の人格形成とも関連することである。
第1・第2の点の総合として第3に、内言が豊かになることによって、自分自身の人生プランを考えるという発達段階に至れることであった。

上記3点は、いずれも学齢期もしくは思春期の重要な発達課題である。
そこで、本書の章立てとは順序が逆になるが、もう1つのキーワードである「最近接発達の領域」は、内言の意義のうちの第1点目を担う。
つまり、「最近接発達の領域」という概念は、あらゆる段階でのあらゆる機能の発達を言い表したものではなく、学校教育における学齢期の子どもの、科学的概念の発達についての概念であった。

このようにして、「内言」と「最近接発達の領域」というキーワードによって、【学齢期~思春期の子どもへの、学校教育における科学的概念の教授】が、単に客観的思考を育てるだけでなく、子どもの【人格形成】や【人生設計への階梯】にも関わる、
という、ヴィゴーツキーの発達観・教育観が構造的に理解されるのである。
この構造は、エリクソンの言う「アイデンティティ達成」という心理的成熟を、学校教育が担うことへの理論武装としても強力であると思われる。

本書は、学齢期~思春期についてのみ論じているが、言語と思考の発達が、学齢期以前では、より直接的な経験のみに規定され、より雰囲気に左右され、より他者を媒介に無自覚的になされるという方向へ議論を修正することで、幼稚園や保育所の保育者にも活用できる内容である。
事実、2~5歳児の発達の主導的活動は、ごっこ遊びであり、この活動の成立には、ヴィゴーツキー心理学の中核をなす、言語と思考の機能が欠かせないのである。

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紙の本

紙の本悪について

2009/03/13 00:20

ジョジョの奇妙な冒険と併読する精神分析

11人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書のタイトルだけを見て、サディスティックとかオカルト趣味とかを期待するのは間違いである。「悪について」というより、“人間性について”とか“生の全体性について”という方が、本書本来のニュアンスを捉えている。つまり、人間(個人・集団)が真に人間らしく生を輝かせるための方略を、真剣に論じた名著である。

★ ★ ★ ★
意外なところで、万人ウケしないが長い人気を誇る少年漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の人間観は、『悪について』と一致する。
『ジョジョ』の、少なくとも6部までの一貫したテーマは、「運命」という決定論が勝つか、「勇気と幸運」という非決定論が勝つかという構図の元、結局は両者の二者択一論を構成している。

たとえば、「自己の自由を獲得するため驚異的な努力をする《ならば》、必然の鎖を断ち切ることができる。」(p.199)という言説における、「必然の鎖」を、『ジョジョ』の、人生を呑みこんで無意味化する「運命」と読み替えることが可能である。また、その必然という『鎖に繋がれた』状態と、ジョジョ第5部の「人は運命の奴隷なのか」という問いかけとを重ねて読んでもよいだろう。

本書203ページの「勇気」は、まさに、『ジョジョ』における「運命」を切り拓く力の「勇気」と同じ概念である。1部でツェペリが「人間賛歌は勇気の賛歌」・ジョナサンが「策ではない、勇気だ」・ブラフォードが「ラック(幸運)とプラック(勇気)を!」と言ったまさにその「勇気」である。

逆に、「生に無関心となれば(中略)その人の「生」は終わりを告げていることとなろう」(p.205)とか、「生が終わらぬうちに生を否定する病気」(p.147)とかは、「勇気」と逆の立場であり、『ジョジョ』の中で、「生ける屍」として描かれているディオや、自分の生を生きない吉良吉影の位置づけと見事に対応している。
ディオ自身が「俺は人間をやめるぞ」と言っている。つまり、ディオは、“自分の生の充実を放棄した生はあたかも「死」である”という観念を具体化したキャラクターであり、そうした性質を持つ人間が、他者の生きるエネルギーを無意識のうちに奪っていくという事態は、エーリッヒフロムが言う「死へ向かう症候群」そのものである。

とどのつまり『悪について』は、『ジョジョの奇妙な冒険』と同様に、「人間賛歌」を奏でているのである。『ジョジョ』との併読をお勧めする。

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紙の本

紙の本じぶん・この不思議な存在

2010/07/13 21:42

誰でもなくて誰でもあることの肯定的意味付け

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 大学の講義を下敷きにしているだけあって、思春期から始まり青年期に先鋭化する発達課題にもとづいて書かれている。
 自分の存在を確かにするためには他者を参照する他ないが、他者を参照することで自分の中に他者が流入し自分が自分でなくなるという矛盾を抱えつつも、他者(や世界)との関係でかろうじて自分なるものを形作っていくというのは、まさに、思春期から青年期の姿である。
 思春期には、こうした自分の定義へのとまどいが、観念的な問題として現れる。そして、進学・就職・結婚などの各種ライフステージを通過する青年期に、この問題が、現実的な選択-ひいては他の選択肢の切り取り-の問題として先鋭化するのである。


 さて、自分らしさの追究において、自分の社会的属性を全て取り去ったあとに残る〔何かしらの自分らしさ〕という観念を、本書では、そんなものはない、と否定的に取り扱っている。この鷲田の見解と、『拡散-ディフュージョン-』大倉得史・ミネルヴァ書房との比較が面白い。『拡散…』は、未来への選択肢を切り取っていく過程や他者を自分の参照項とすることと、自己解体のせめぎ合いが、いかにして青年期の発達課題だと言えるかについて詳細に記録した名著である。この『拡散…』では、鷲田が捨象した〔何かしらの自分らしさ〕に、“自分らしさ”の最後のよりどころを求めている。

 この〔何かしら〕のものは、「具体的な意味」を持たないので、それが自分を「具体的に意味づける」ことがない点で、鷲田の言うとおり、そんなものはないと言える。
 同時に、いかなる属性も帯びない〔自分〕とは、まだあらゆる可能性にひらかれていたころの・すなわちいかなる〔自分〕なるものも形成していなかったころの名残であるとも考えられる。そのような〔自分〕とは、自分に固有でなく誰にでも共通に与えられているはずで、結局、“自分らしさ”の感覚の根源すら、【誰でもあって誰でもない】という共通の属性に支えられているとも言える。

 そのような訳で、思春期の自己への問いを壮大に描いた、10年前に公開されたほうの劇場版『エヴァンゲリオン』では、自分と他者の境界を失った人間たちの寄せ集めが、【誰でもあって誰でもない】存在である巨大な「綾波レイ」として描かれたのである。

 さて、このように、自分の輪郭線を曖昧にする【誰でもない】ことの観念が、中年期の危機を乗り越えると、逆に、自分を際立たせる原動力になる。

 つまり、「われ自身」のような、狭い範囲の自分が消失し、代わりに、他者や世界に息づく形での広い意味での自分の存在が拓けてくる。いわば、以前には、“「自分は」誰でもあって誰でもない”として拡散していた自己像が、【誰でもなくて誰でもあるの「が自分である」】と、引き受けられるのである。
 このように見ると、思春期に意識に立ちのぼる【誰でもあって誰でもない】観念が、はるか中年期の発達を準備している。

 理論的にはこのようになっているものの、思春期から青年期の課題を描いた本書が、定年後のサラリーマンの自己規定への揺れまでカバーしていることから、逆に、現在の日本が、青年期の発達段階で停滞していると見ることもできる。
 それはおそらく、労働・経済・消費・家庭・地域社会といった幅広い問題圏を拓く視点であり、結局、思春期から青年期のひとりの自分への問いが、生涯発達の視点を経て、いわば文明のあり方を問い直す契機ともなりうるのである。

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紙の本

紙の本カウンセリングの技法

2009/11/25 22:59

社会福祉援助技術の威力~保育士の立場から~

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

社会福祉援助技術の専門書としては、バイスティックの『ケースワークの原則』の次に読んだ。

保育士である僕が、『ケースワークの原則』を読んだ理由は、『保育所保育指針』の「保護者支援」という章が、「バイスティックの7原則」に基づいているか、少なくとも「7原則」の内容で記述のほとんどがカバーできることに気付いたからであった。

ところで、『ケースワークの原則』は、支援を効果的に進められる基盤である「援助関係成立のため」の議論であり、ケースワークやカウンセリング過程の初期までしか扱っていない。
これに対応して、『ケースワークの原則』に依拠した『保育所保育指針』は、「保護者支援」の全体像をカバーしていない。

したがって、本書のような本から、『ケースワークの原則』および『保育所保育指針』の先を行く、保護者との関わりのヒントを得られるのではないかと考えたのである。
事実その通りで、保育所の出来事に置き換えて本書を読んだ結果、ものすごい量のヒントが得られた。

たとえば、p.31。「リレーションが形成されてから」という条件を付して、カウンセラー自身の価値観を前面に出す「コンフロンテーション」の技法を論じている。これなどは、非審判的態度で来談者との援助関係の成立を目指すバイスティック7原則の、明らかに先の段階を述べており、『保育所保育指針』がカバーしていない範囲を示している。

カウンセリング全過程の概説の学習は、保育士仲間にお勧めである。
数あるカウンセリングの本から本書を選んだのは偶然であるにつき、本書をとりわけ勧める訳ではないが、少なくとも本書は「当たり」である。

扱っている技法自体は、専門外の僕ですらどこかで聞いた名前が多いのだから、専門家にとっては、ひょっとすると物足りないかもしれない(あるいは物足りるかもしれない。専門家ではないので分からない)。
しかし、その初級レベルに合わせた丁寧さが、保育士の読者にはありがたいのである。
また、「表現上の技術」としての会話例が多いのもありがたい。これは、保育・教育の本で、ねらいに適った言葉かけの例示があると助かるのと同じである。もちろん、一字一句その通りに言うという意味ではなく、「なるほどこのように言えば、相手のプライドも損なわずこちらの意図も伝わるなあ」と感心するのである。

なお、スキンシップの扱いと、低所得層の来談者に原稿清書を手伝わせて面接料代わりにしたという2か所のみが違和感があった。後者の場合では、来談者が、カウンセラーの原稿に目を通す・・・つまり、カウンセリングの舞台裏をのぞいてしまう・・・ことで、混乱したり、カウンセラーとの信頼関係が保てなくなるのではないか、と危惧したのである。

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紙の本

紙の本日本共産党

2009/08/24 21:42

有権者の支持とは直接関連していない、組織の内部矛盾について述べている

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

党の公式文章を豊富に引用した、党組織・組織体質の批判的分析は、なかなか楽しい。白眉であったのは、
・『赤旗』購読部数・党員数が、共産党の主張と裏腹に、国政選挙の議席獲得数と連動していない
・共産党が、憲法9条の改憲に反対の方針を打ち出したのは、実はごく最近のことで、それまでにも方針が右往左往している
といった所。他の党幹部個人を対象にした3・4章では感情的トーンを帯びている。

自分の労働組合が共産党系統であることから、自分たちのことを言われているように錯覚する記述も多く、この系統の組織にとって本書の分析が汎用性が高いことを感じた。自分の組織の矛盾・問題点を客観的にみることができ、それと上手に付き合ったり、それの流れに呑まれないようにしたりする視点を得られた。
逆に、運動団体・組織との接点がない人・共産党にオカルト的興味を抱いているわけではない人に、わざわざ勧めるほどの本ではない。


・やむをえないのだが、核心部分と思われる内容に進むほど、他の政党との比較が少なくなり、共産党独自の体質なのか、どの組織も陥る可能性のある形骸化の表れなのかの判断がしずらい。
・序章の「なぜ多数の国民から支持されないのか、なぜ多数の国民の支持を獲得することができないのか。」「どこかに共産党が国民に受け入れられない理由があるはずだ。」という問題提起が、終章のごく短い部分を除いて、全体の議論とかみ合っていない。豊富なデータ、出典を盛り込んで、本書の大半を成す内容は、組織の内部矛盾についてであり、有権者の支持とは直接関連していない。
これらは大きな減点対象である。


さて、以下は余談である。
共産党は、日本でのプロレタリア革命が当分実現しそうにない以上、現行体制で少しでも共産主義に近づける路線を採らざるをえない。すなわち、社会民主主義である。

そこで、社会民主主義路線の共産党が、文字通り社会民主党と、単に少数で潰し合いをしない戦略以上に、仲がよいのもうなずける。

自民党は、民主主義における(新)自由主義路線なのだから、社会民主主義路線の社民党や共産党と相いれないのは当然である。

いっぽう、民主主義のうちの「自由民主」か、あるいは「社会民主」か、
自由民主党と社会民主党、両方と名前がかぶっている民主党の、どっちつかずで揺れ動いている現状を、不思議と党名が表している。

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紙の本

紙の本いやだいやだ

2011/04/17 12:10

子どもでなく、大人がギクリとするべき名作

8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

大人による子どもへの初歩的な心理的虐待の典型を描きだしている。

『いやだいやだ』の母親にとっては、大人からの心理的独立への一歩を踏み出そうとして背伸びするルルちゃんも「悪い子」である。そして、「悪い」子どもへの懲罰として、食べ物も、おもちゃも、人間関係の心地よさも与えない。また、保育園に行かさないことで子どもと社会との接点を断ち、被虐待児を囲い込む。
 本来は、「いやだ」という自己主張は正常な発達であり、また、仮に悪い子どもというのがあったとしても、そうした子どもにも、十分な栄養やおもちゃや人間関係の心地よさや社会との接点が与えられるべきである。

1歳半以降の自我の芽生えと拡大に伴って、大人に対して「イヤ」と抵抗する子どもへの当てつけとして、大人が子どもに本書を読み聞かせる時、自らの態度を省みてギクリとしなければならないのは、子どもではなく大人の側である。

 なお、本書の母親においては、大人の指示に子どもが【直ちに】【従う】ことを要求しているために、「自分は自分であり、大人とは別の人格を持つ」と気づき始めた子どもとの衝突が深まるのだと想像する。この円満解決には、保育士7年間の経験からすると、大人が、子どもの気持ちに譲歩しつつ、大人の要求を、子どもが自分で選びとったと思える形で提示することがある程度有効である。
例えば、
○いっぺん同意する。
○おもしろい感じで誘ってみる(歌にのせる、動きを付けるなど)
○実物を見せて誘ってみる(ご飯を見せて、「ごはんだよー」)
○しばらく時間が経ってからもう一回誘ってみる
○子どもに気づかれない場所で手伝ってあげる (自分でするといって聞かない時)
○2つのうち1つを選ばせる(赤い服か青い服かどっち着る?)

「ある程度」有効であると言ったのは、一般的に、子どもはそれでも大人に抵抗するからである。
 しかし、大人の要求と子どもの「イヤ」の衝突が、例えば3割減り、その分、子どもが気持ち良く自分で生活できる場面が少々でも増えれば、それだけでも育児の負担感は3割分以上に劇的に軽減される。すると、子どもへの嫌悪感から食事を与えなかったり、抱っこを拒否したりして心理的な溝がさらに深まるという負のスパイラルからの脱却も、だいぶん容易になるのではなかろうか。

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紙の本

最初期の幼稚園から現代の保育を観る

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 短期間で閉鎖した施設を除けば日本初の幼稚園である東京女子師範学校附属幼稚園の初代園長である関信三の生涯を中心とした、日本の幼稚園前史と最初期の幼稚園史である。関信三が明治初期に幼稚園関連の洋書を翻訳するさい、内容を自分なりに咀嚼して紹介できた背景には、長崎・横浜・ヨーロッパで長期間キリスト教思想に触れていたという経験がある。さらにその経験は、もともと所属していた浄土真宗と、政府それぞれの密命を帯びた、宣教師らへのスパイ活動の結果だった。明治初めの混乱期を象徴するかのような顛末である。
 関信三の経歴以外にも、明治の混乱期らしいさまざまな皮肉・誤解が初期の幼稚園史を彩る。しかも始動した幼稚園とその理論・思想は当初より相当いい線に行っていた。現代の保育関係者としては感動的ですらある。詳細はぜひ本書に当たって見て欲しい。

さて、関信三の幼児教育思想の中でとりわけ「今日的である」と強調されているのが、外面的な教授でなく遊びによる自発性を通じて幼児は発達し、それが人類の幸福と自治の基礎を培う(p.17)とした子ども観であった。

 しかしこれにとどまらず、本書には、他にも現代において改めて価値をもつ視点がちりばめられている。とりわけ2点を指摘しておく。
 第1は、貧富の差などを問わず全ての幼児の受け入れを目指した、保育料無償化の理想である。これは関信三の当時では、フレーベルなどのロマン主義の影響による思想であったのであろう。しかし、現代、児童福祉の一環である保育分野にも市場原理による応益負担が持ち込まれようとしている状況においてこの思想は、親の就労権や子どもの発達権という権利保障の課題と絡んで価値をもつ。

 第2は、p.230での、関信三の死去やそれに続く関係者の引退・異動によって当初の幼稚園の理念を受け継ぐ者がいなくなり、この結果として、幼稚園が小学校の教科教育の前倒しとして機能し始めた、とする指摘である。
 現在まで一部の保育園・幼稚園に存続する「小学校の下請け」という保育観が、わが国の幼稚園史の最初期に、しかも、遊びによる子どもの自発性を通して行ういわば王道の保育観のすぐあとに登場していることは、非常に興味深い。
 なお、このような教科教育と保育の関係が論じられるさいに、例えば保育所の関係者が「幼稚園は幼児『教育』だから」と、幼稚園が小学校の下請けを担っていることを前提とするような、「保育」と「幼児教育」の用語自体の誤解・混乱の問題がクロスオーバーする。このとき、p.190前後の、「保育」「保母」「幼児教育」それぞれの語源を解釈した議論が読みごたえがある。とりわけ「保育」と「保母」の典拠が『礼記』にあるとした部分からは、「保育」が当初より、専門性を有した営みであると認識されていたことが読みとれる。“「保育」は保護・養育の略だから「教育」未満の概念である”という主旨の揶揄は、上記の議論の前に簡単に崩れる。

 本書の価値を下げるものではないが、2点指摘しておく。
 p.12、「邑(いう・ムラ)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを」といういわゆる国民皆学の思想は、確かに「学制」の理念であるものの、謳われているのは「学制」ではなく、学制公布の前日に公布された『学事奨励に関する被仰出書』である。

 p.218、関信三が幼児の教育を「無形中の無形」ととらえたことについて、「それは、今日の言葉でいえば、「生きる力」(文部科学省「幼稚園教育要領」)(中略)と表現されているものである」と、「生きる力」と完全に同一視してしまうのはさすがに勇み足である。
 それは第1に、文部科学省は小学校以上の学校段階でも「生きる力」を目標に掲げているから、「無形中の無形」が幼児教育の特性だとした点と異なる。第2に、文部省(1996年当時)が「変化の激しいこれからの時代を[生きる力]」として示した3つの定義に、関信三の子ども観は、矛盾はしていないとはいえ、意識的であるわけでもない。第3に、『幼稚園教育要領』の「ねらい」に示されているのは「生きる力」ではなく「生きる力の基礎」である。

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紙の本

紙の本ぐるんぱのようちえん

2009/05/03 09:54

日本神話と併読する絵本

8人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

意外なことに、「ぐるんぱ」の歩みは、『古事記』や『日本書紀』といった日本神話のスサノヲと機を一にしている。

スサノヲは、潜在的には最高神アマテラスを恐れさせ、のちにヤマタノオロチを倒すほどの武力・英雄性を備えている。
しかしその能力を制御・活用できず、成人した後も、出生前に死別した母・イザナギを慕って泣き喚くことで地震・嵐を引き起こし、父・イザナギから課された海の統治も行わない荒ぶる神であった。 
さらに姉・アマテラスへの狼藉をはたらき、
神の国である高天原を混乱させた結果、そこを追放された。
追放に当たっては鼻汁・髭などを取られるとともに穢れ祓いの儀式に強制的に参加させられた。

一方のぐるんぱは、潜在的には「とってもおおきなぞう」という偉大さを秘め、のちに、職人の諸技術をことごとくマスターするという力を備えている。
しかし、その能力を制御・活用できず、「おおきくなったのに」「ひとりぼっち」が理由でさみしくなって「めそめそ」泣き、「いつもぶらぶらして」いた。
狼藉はないものの、こうして象世界の秩序を乱し「じゃんぐる」を追放された。
追放に当たってぐるんぱは、泥を落とされ、川で身を清めさせられたのである。


高天原追放後のスサノヲは一転、文化神・英雄神として活躍する。そしてヤマタノオロチを倒すとともにオオクニヌシに連なる国土の秩序化を担う神を多く産出するのである。

ジャングル追放後のぐるんぱは一転、「みちがえるほどりっぱ」になる。料理・被服・芸術という文化的技術をたちまちマスターし、徒弟制度を超える子どもの教育を秩序化した、つまり、幼稚園を開いたのである。


高天原の秩序を混乱させるが、一連の事件によって結局、高天原に新たな秩序化をもたらしたスサノヲの性格は、神話学では「トリックスター」と呼ばれる。
これは、旧来のシステムからの転換をもたらし、新しい世界を創造する役割のことである。

象世界や職人世界の秩序を混乱させたが、
最終的には、既存の品物に新たな意味を創造して、幼稚園という秩序へと転換した象の名前も、転換と創造にふさわしい「ぐるん」・「ぱ」なのである。

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紙の本

紙の本若い教師のための読書術

2009/04/19 12:59

時間的・空間的・経済的な視点から、包括的に読書を論じた、新領域の読書論。そして、真摯な教師論

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者が、その情熱で本書に込めたのは、「若者たちに、一人前の教師として巣立って欲しい」という願いである。
 たしかに、教師の仕事は、非常に多忙で、過酷である。本書でも、若年層の教師の高い離職率に胸を痛めたことが、執筆の動機の1つでもある。しかしながら、そうした過酷さを上回るやりがいが、教師の仕事には、ある。

 教師としての大きなやりがいを感じるためには、教師としての一定の力量が必要で、その力量は、教師自身の絶えざる学びが担保する。教師自身の学びへの、有力な方策が、『読書』である。
 しかし、多忙な教師が、読書という形で新たな負担を強いられるのでは意味がない。本書が提示しているのは、読書によって仕事に見通しが持てて、負担が軽くなり、いっそう良い仕事ができるような、読書のあり方、つまり、「無理なく学び続ける」ための読書のあり方である。

 ここで、本書の、「教師を目指している学生」や「若い先生」への焦点化が活きてくる。なぜなら、若い彼/彼女らにこそ、単に本を紹介するだけでは済まない読書への切実な障壁があるからである。
すなわち、
・たくさんの読書が最も身になる時期である学生や若年層こそ、最も収入が少ないという経済的な矛盾
・最も本を読むべき若いうちこそ、最も慣れない仕事に追われるという時間的な矛盾
・これら経済的・時間的制約にもかかわらず、読書を教育実践に役立てるために必要な、空間的な手立て
である。
 本書は、教師を目指している学生や若い先生の生活をまるごとコーディネートする視点によって、上記の課題を乗り越え、教師の生活の中に読書を位置づける方法を提案している。この点で、本書は、単なる速読とか、単なる本の紹介を超えて、新しい読書論の領域を開拓しているのである。

 逆に言えば、いかなる本を・いかに入手し・いかに教師の仕事に活かすか、という本書の議論は、「読書」という主題によって、広大で見定めがたい教師の専門性を、描き出すことにも成功している。その意味では、本書は「読書論」としての価値と同時に「教師論」としての価値も有しているのである。

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紙の本

社会福祉における古典の威力と限界、~保育士の立場から~

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

原著は1957年著。社会福祉分野で、対人援助の基本原理をまとめた古典の名著である。

タイトルから一目瞭然の通り、本書の主要な対象は、日本で言えば福祉事務所などで活躍するケースワーカーである。しかし、われわれ保育士の業界でも、援助関係を形成する技法である「バイスティックの7原則」は、重要視されている。たとえば、保育士資格の国家試験や市町村の採用試験で「7原則」の内容を問う問題は頻出である。

 「7原則」が、保育で必要となる局面は、一般的には、育児や家庭の状況について保護者と話す時であるとされている。そうした会話では、複雑な家庭の状況や辛い生育歴といったシビアな話題に出くわすことも少なくない。また、この4月から法的拘束力を持って施行された『保育所保育指針』で、「保護者支援」が保育所の業務として規定され、その支援のために保育士や保育所が「カウンセリングの技法」を用いて「ケースワーク機能」を担うべきとの説明がなされるに及んで、保育と「7原則」の関係がいっそうはっきりしたと言える。

 このような経緯から、本書の7原則は、保育士業界でも項目としてはまあまあ知られている。
 しかし、オリジナルである本書を読んで、新しい発見がいくつかあった。
 第1に、「7原則」と並んで、援助場面での情緒や態度の相互作用がはたらく「3つの方向性」が、バイスティックの理論の機軸を成している。「3つの方向性」概念によって、援助関係が個別的な人間関係から成り立つことが強調されている。
 第2に、「7原則」は、「援助関係を形成する」という「当面の目的のため」に設定されている。序文で執拗に繰り返されている通り、「援助関係」とは、良い援助が成されるためのスタート地点であり、いわゆるラポールのことでもある(バイスティック自身は、ラポールを、援助関係のいろいろな呼び方のうちの1つとしているが)。つまり、「7原則」はラポール形成のための基本原則なのである。

 ところで、僕が学生時代使用したテキストは、「7原則」を、「基本原則として今なお重要な位置を占めている」と評価している(『社会福祉方法言論』法律文化社、1999、p.68)。そこで、第3の点として、この「基本原則として」「今なお」という記述に込められた、微妙なニュアンス、つまり、“あくまで基本にすぎない”“すべてそのまま妥当するわけではない”という多少否定的な評価は、本書を読んで初めて気付く。このことは、本書の巻末解説が手際よく解説している。
 そして、本書巻末解説が言うとおり、「7原則」があくまでスタート地点を示したに過ぎないとするならば、厚生労働省編『保育所保育指針解説書』で、「7原則」の中に完全に回収されるような「保護者支援」の解説文は、援助過程全体の解説としてはきわめて不十分である可能性がある。

さて、保護者支援とは別に、子ども理解や子どもとの関わりの局面にも、「7原則」は援用されうる。その源流は、2000年ごろ保育・教育業界でプチ・ブームとなっていた「共感」「カウンセリングマインド」との関連にある。
近年、強調されることが少なくなったとはいえ、「共感」や「カウンセリングマインド」の意義自体が低下したわけでは全くない。感情表現の意味や行動の理解において、ある種特殊なコツが要る子どもとの関わりでは、その子のありのままを受け止め、理解しようとする姿勢が保育者には必要で、その方略としてバイスティックが―むしろこちらの局面でこそ―保育の中に活かせる気さえする。
たとえば、「秘密保持」原則(守秘義務)に絡めて言えば、4歳くらいの幼児では、一見、大人から見るとたわいもない事柄(たとえば、昨日、お寿司食べた。)を、「内緒の話」として保育者が保持できること自体が、信頼関係を担保する要因ともなりうる。


ただし、保護者支援・子ども理解のどちらの場合でも、保育は、最終的には集団の力に依拠する営みである。そこで、保護者・子どものどちらとの関係でも、個別的な援助関係が、いつかは集団の中に位置づいてとらえられなければならない。その意味では、現在の保育業界において、集団援助技術の基本原理を示した「コノプカの6原則」などが、バイスティックの7原則と並んで、もっと強調されても良いのではないか、と思う。

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紙の本

紙の本ねないこだれだ

2009/03/02 22:06

現代っ子を不気味に言い当てた名著

9人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「おばけ」の普遍的イメージを提示した名作である。現代においてなお、全国の幼児の「おばけ」イメージは本書に依拠している。

本書を、単に子どもを寝かしつけるための本と考えると、本書の評価は誤る。現代っ子を怖がらせて寝かすには、本書はもはやのどかすぎるのである。つまり現代は、おばけの力をもってしてもいかんともしがたい程に、殺伐としてしまった。本書と『おばけのてんぷら』との併用で、お化けを怖がったり安心させたりのバランスをとることが出来るという作者の配慮を待たずとも、9時になると「こんなじかんに おきているのは だれだ」と脅しが入り、夜更かしと見なされてお化けになるという設定に、現代っ子はリアリティを感じない。

しかし一方で、“夜更かししてもおばけなど現れない”のではなく、夜更かしが常態化した現代において、「夜中に遊ぶ子」はまさしく、すなわちリアルに、「おばけに」なっているのだという不気味な解釈も可能である。
子どもの就寝時刻が9時を超えたら遅すぎるというのは、生理的な点では全く正論で、ごく最近まで世間一般にも共有されていた。
ところが現代では、幼児ですら9時の就寝はむしろ早寝とされ、このことへの実感が湧きずらいが、それは、我々と子どもを9時以降まで覚醒させる文化装置が、ごく最近に登場したことを思えば納得しやすい。すなわち、カラーテレビ・アニメ番組・ビデオ・テレビゲーム・コンビニエンスストア・レンタルビデオ・パソコン・インターネット・DVD・ケータイインターネット・ケータイゲーム…
 これらの夜更かし誘因はいずれも、本書初版の1969年以降に登場あるいは普及したものである(カラーテレビ1969年時点の普及率は10%台半ば)。

 夜更かしする子どもは、多くが、夜中の時間帯を、充実した時間ではなくむしろ、主に、上記のメディアから受ける、視覚と聴覚に偏った、しかも過度の刺激にさらされて過ごす。
 そのことによる悪影響は、第一に、攻撃性を抑えるスレトニンなどホルモン分泌不足による情緒不安定
 第二に、寝不足により昼間の活動が停滞する。
 第三に、音と光の強い刺激にさらされて、アニメやDVDのイメージがこびりつく。
 これらの結果として、リアルな人間関係に気持ちを向ける志向性が育たず、事物、すなわちモノへの志向性がそれを上回る。
 
 人への志向性という基盤を抜きに事物への志向性が強化された場合、あるいは事物への志向性が人への志向性を超えた場合、子どもの育ちには以下のような歪みが生じる
・人の話が聞けない
・特定の模様・図柄に異常なこだわりを示す
・人見知りがない(近しい大人とそうでない大人との重みが大差ないからである)、表情が硬い
・人間関係の調整が下手
・身のこなしがぎこちない、不器用
・親の子育て負担感が増す

 これら育ちの歪みを生じた子どもからは、現実の生活では地に足つかずフワフワした印象を受け、また、アニメやキャラクターの世界、すなわち異世界に生を支配されている印象を受ける。

こうして、「夜中に遊ぶ子はおばけに」なり「おばけの世界へ飛んで」行くという本書の結末は、 夜更かしと視聴覚への過度の刺激にさらされ、生身の情動交流を欠いた子どもの、異世界にフワフワ漂うような育ちの歪み、という不気味なリアリティを伴って、真実を言い当てているのである。

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紙の本

紙の本鬼の研究

2009/12/24 22:05

現代に生きる境界的存在の鬼

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これは文庫版。元の本は1971年。

民俗学に親しむと、「境界」には神秘的な性質が宿るという観念によく出会う。
2つの領域の間にある「境界」域は、あちら側・こちら側のどちら側にも属し、かつ、あちら・こちらのどちら側にも属さない、という特異な性質を帯びている。そこから、「境界」には、現実・日常の秩序が解体し、神秘的・非日常が立ち現われるという観念が生まれたのである。
また、日本において、道祖神すなわち「境界」の守り神として信仰を集めたのが、地蔵である。一方、日常の秩序すなわち生の意味を解体し、死を招く、否定的意味合いの「境界」を代表するのが、「人間であって人間でない」存在、「鬼」である。

本書における、鬼の、反体制・反秩序という位置づけも、境界性の特徴に沿っている。本書の特色は、その、境界的存在である「鬼」とされた存在(ときに人間自身)の、情緒面を前面に出している点である。『今昔物語』や『伊勢物語』などの解釈や時代背景の解きほぐし方は、それ自体で胸に訴える読み物である。前のかたの書評に見える「鬼哭が行間から聞こえてきそう」という一節は、この本書の味わいを言い当ててこの上ない。

一般に、異形・魔物というイメージの「鬼」が実は、人間自身が喪失している豊かな人間性を時に代弁しているという点に、鬼を研究する価値があるだと、本書から学んだ。

こうして、鬼の悲哀と衰亡を説いた本書の主題は「鬼は現代に作用するか」である。また、著者の結論は、鬼存在は「滅びつつある」である。
しかし、人間存在の境界域に押しやられた人間が、かえって人間性を強く訴えるという意味での、すなわち著者が強調する意味での鬼存在は、現代においてますます作用している、と評者は考える。

失業者・障害者・子ども・高齢者といった現実世界の社会的弱者は、社会の矛盾や人々の無理解のゆえに不利益を被っている。その不利益に無関心である者にとっては、社会的弱者は、人間でありながら人間らしく生きる権利のないもの、すなわち鬼である。逆に、社会的弱者の不利益に目を向ければ、彼らの存在が、人間のヒューマスティックな部分に目を向けさせる契機となる。すなわち、著者が強調する鬼である。
この状況は、中世以来の鬼が、被差別階級の人々とのダブルイメージで捉えられていたこととも合致する。

また、技術的には実現可能と思われるクローン人間や、脳死、人工中絶される胎児も“人間であって人間でない”境界的、すなわち鬼的存在である。これらにまつわる議論では、鬼が今なお、日常依拠している価値体系を揺るがし、「人間とは何か」をわれわれに突き付けているのだとも言える。

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紙の本

紙の本よるのようちえん

2009/11/25 22:53

場所が保持する人生の記憶

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

写真をよくみると、園庭に遊具の影があったり、窓際に日が射していたりすることから、本書は文字通りの「夜の」幼稚園を描いたのではない。

では、「夜の」とは何を意味するのか。
それは、「目に見えない」「理性では捉えられない」こと、ここでは、幼稚園のあちこちに埋め込まれた「場所の記憶」を指す。

有名な『まっくら森のうた』の「光の中で見えないものが、闇の中で浮かんで見える」という歌詞を参照するとよい。
光-それは理性・意識に対応している-にもとずく、「あれは○○である」「これは△△のためにある」という「見える世界」の知識を取り払うことで、より身体や情感に根差した、知覚されない、すなわり「見えない」知識が露わになるのである。
本書がなんとなく恐く感じられることがあるのは、「見えない」世界を提示されることで、意識のレベルでは自己解体の不安がよぎるからである。

見えない知識は、理性による知識と異なり、輪郭はぼやけ、「……である」と明確には規定できないものである。本書の中の、語彙としては意味を成さない音声の羅列がそれを表している。
また、絵本の読み手にとっては、この言葉にどのようなリズム・情感を乗せて読むかによって自分の解釈や個性を発揮できる。

明確には捉えられないこれらの「場所の記憶」に属する知識は、しかし、理性による知識以上に、人間個人の生命力の源泉を担っている。たとえば、われわれ大人にも「思い出の場所」がある。その場所は、その人固有の経験や人間関係と結びつき、固有の価値を持って、その人の人生を彩り、生きている実感をもたらすのである。

「場所の記憶」とは、こうして、一義的には「私が記憶する、その場所についての記憶」であるが、私自身の主観に視点をおき、それが「見えない」ことを考慮すると、あたかも/まさに、「その場所が記憶する、私の人生の重みづけ」である。
 そうした記憶の集積地である幼稚園の「夜」を描いた『よるのようちえん』は、「(今は大人になった者も含む)大勢の幼児が、自分の人生を作り上げてきた思い出がしみ込んだ場所」という、幼稚園の性格を見事に描き出しているのである。

本書が描く「場所の記憶」の観念は、マニアックな姉妹作『白ゆり50年』でより分かりやすく提示されている。

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