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muneyukiさんのレビュー一覧

投稿者:muneyuki

50 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

ルーヴルに飾られた、記念すべき「マンガ」

28人中、28人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

たとえ一般的に「変」でも、全く本人は変とは思わない。変じゃない。むしろカッコいいと思ってる。
そうした作者と登場人物の強力な思い込みっぷり、強力な自分ワールドの形成感。
突き抜けた変態は、英雄を匂わせるのです。
本作はそんなジョジョの、ルーヴルの協力によって出来たスピンオフマンガ。

そして、漫画誌の単行本では通常有り得ない、全ページフルカラー。
これがまた漫画自体にかなり印象的に効果を与えていて、
「えっ」と一瞬思考が止まる瞬間、「何だって」と何かに気付く瞬間、ただ押し黙って呆然とする瞬間が描かれる際に、
コマ全体、もしくはキャラクターが『白抜き』で描かれるのです。
僕達が実際に生きていて色を失う瞬間を、白抜きで表現する、というフルカラーじゃないと出来ない演出。

シーン毎の色合いの変化による演出にも、
フルカラーであることの喜びを噛みしめさせられます。

またジョジョ作中では漫画家である岸部露伴が、ルーヴルを取材の為に訪れるというストーリーですが、実際に綿密にルーヴルとの連携が行われた成果が至る所に伺えます。
通常の閲覧室の様子、バックヤードの風景、そこに向かうまでの通路や内装の細々した部分。
ルーヴル美術館に行った事の無い僕の様な人間は勿論の事、
行った事のある人でも「あぁ、こんな場所が在るんだ」「美術館の裏側ってこうなってるんだ」と
まるで美術館の「お仕事」を見学しているような雰囲気が味わえます。

本編と比べると短編ながらも、きちんとジョジョらしい
「な…何を言っているのか分からねーと思うが
俺も何をされたのか分からなかった…」
という不条理な恐怖と、人間賛歌とが盛り込まれていて、
ジョジョのスピンオフとしても、一個の漫画作品としても非常に楽しめる内容でした。

こうした「マンガスタイル」のまま、ルーヴルに飾られた、というのは村上隆が海外で評価されるよりもずっと、一人の日本人として、漫画ファンとして嬉しく思います。

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紙の本

紙の本ドリフターズ 1 (コミック)

2010/07/08 15:39

スーパー偉人大戦×指輪物語

21人中、21人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 あさりよしとおの言葉だったか、「オリジナルなんてない。与えられた素材の中でどれだけ個性が発揮出来るかが作家性というものである。」うろ覚えなので過分に間違ってるかと思いますが、この物が溢れ返る世の中、完全にオリジナルたることは無理です。自分がやってる事はやや違うだけで、世界の誰かが必ずやってます。それでも出来不出来、順位、そして個性によってその「やや違う」が客観的には驚くほど別のものに成り得るのです。

 前作「Hellsing」にて、日本のマイナー漫画の枠を大きく脱して、世界の一部の漫画好きに広く親しまれるようになった(何を言ってるのか分からない)平野耕太さんの新作、「ドリフターズ」。
 ざっと大まかに言うと、スーパー偉人大戦×指輪物語、一応無理にジャンル分けするとファンタジー漫画です。エルフやドラゴンの跋扈する世界に、唐突に送り込まれてきた島津義久が織田信長、那須与一と意気投合、天下取っちゃるぜ!という、なんかもう字面だけでもワクワクします。
 当然日本偉人大戦ではないので、時代・国入り乱れて様々な英雄が乱入してきます。ハンニバル、土方歳三、ワイルドバンチ、ジャンヌダルク。ある程度の史実に平野耕太エッセンスが加わり、魔人と化した偉人達が狂乱。面白くない訳が無い。
 
 完全オリジナルキャラクターでも無いし、世界設定だって顔の見えない魔王が弱き者共を蹂躙しようとしているまんまロードオブザリング。でもまず主人公チームの組み合わせもこれまでに無いものだったし、そいつらが剣と魔法の世界に召喚されるというのも有りそうで無かった。(知らんだけであるかもしれんが)

 下手なオリジナルで世界を全て構築するより、ある程度何処かから借りて来て、枠はもうそこに任せちゃって、自分は描きたい部分に専念するという点で、平野さんはものすごく上手い。
 例えば、ジャンプ漫画は明らかに過去作の焼き直しにも関わらず、漫画家に一から作る事を要求し、漫画家が無自覚に自分の中から取り出した過去作の思い出からオリジナルを「創り出し」、どっかで見たようなコピーみたいな作品が出来るという皮肉な作品が多い。

 オリジナリティを出すのは難しい。でも、平野耕太は色んなモノから拾ってきた素材=コピーを意図的・自覚的に使う事で、凄まじくオリジナリティに富んだ作品を生み出す。素材セレクトのセンスと、設定だけ間借りし、ひどく演劇調の平野節を叫ぶキャラクター。まだ一巻ですが、確実に面白い漫画になりますよ、これは。

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紙の本

紙の本ふたりの証拠

2011/08/03 10:57

言わない事、言えない事

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

2011年7月27日、日にちは微妙に違いますが、レイハラカミ、小松左京の訃報と共に彼女が亡くなった事を知りました。
そういえば買ったのに読んでなかったな、と思って、
『ふたりの証拠』を読み始めました。

『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』という彼女の代表三部作の内の真ん中が本書。
悪童日記だけ大分前に読了しており、すっかり話の筋を忘れていましたが、『ふたりの証拠』は十分に一冊の本として独立して面白い本でした。

『悪童日記』においては、主人公達を含め周囲の人間は固有名詞を持たず、
一人称は「ぼくら」という複数形で語られます。
この作品のラストで二人は自分達ではっきりとそれぞれの思いを固め、
別れる・分かれることとなります。

そして、『ふたりの証拠』の開始時、
「ぼくら」は初めて「リュカ」と「クラウス」という名前を獲得して、
別々の人間である事が自覚的・客観的に示されます。
国境の向こう側へと「行った」クラウスと、
そのまま其処へ「残った」リュカ。
本作では残ったリュカについての物語が語られます。

「ぼくら」であることを失ったリュカには、もう何もない。
美しい青年に育ったリュカではありましたが、
彼には目指すべき将来も、愛すべき家族も、人間的な欲望も、
何も持たない街の影の様な存在として人々に「白痴」と呼ばれながら、
家に暮らし、農業を営み、それでも何とかギリギリに人間的な生活を送っています。

しかし、突然の闖入者によって、リュカにも一つの希望が示されます。
其処から始まるのは、リュカの、人間としての再生の物語。
戦争によって色んなモノが歪められた街の中で、
色んなモノを失った人間達と共にリュカの、リュカ個人としての物語が漸く幕を開けます。

けれども「正確ではない言葉」を、「甘っちょろい言葉」を排した
アゴタ・クリストフがそんなに甘甘なストーリーを描く筈も無く。

僕達人間には、「美しい」とか「楽しい」とか、
うまく完全には言葉で表せない感覚的なモノがいつも心の中に存在しています。
うまく言い表せないモノだから、色んな言葉を借りて来て
「天上の如き至福」とか「ヴィーナスの嬰児のように美しき」とか
色んな思いを言葉に託します。

しかし、その過程で何かをサボってないか。
本当にその感覚を心に刻みつけたか。
言葉選びに耽溺しているだけではないか。
クリストフの描く『ふたりの証拠』は、全く感情表現が排されているにも拘わらず、読者の心に揺さぶりをかけてきます。
何故こんなに「カッコいい言葉」を使わないのに、心を締め付けられるのか。

『悪童日記』においては、感情表現が排される事で、子どもの子どもならではの残忍さ・冷酷さが強調され、衝撃的な印象をより強めていました。
しかし、本作『ふたりの証拠』においては、その技法は喪失感や悲しみを強調する為のワザとして作用しています。
そういった感覚は、完全に人と共有する事は出来ない為、ついつい私達は「カッコいい言葉」を使って、より自分だけのものとして大事に大事に心の中にとっておこうとします。

甘い。

この本の最後で、今までの物語が一気に引っくり返されます。
それでは今まで描かれてきたモノは何だったのか?一体誰の語りだったのか?
早いとこ『第三の嘘』も読まなければ…。

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紙の本

乾いた湿り気

14人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

俺が線が細い絵、あんまり好きじゃないのはそこに熱烈な思いの反映を感じられないからです。無論、漫画なんて所詮暇潰しだし、そんな疲れるの読みたくない、ってのも分りますが、せっかく時間使うならちょっと疲れるくらいのを読みたいのが俺。

しかし、書き込みが少ない、線が少ないから、思いが希薄であるというのは早計。
「デフォルメ」は世界を無理矢理シンプルに捕え直し、三次元の模倣では無い、二次元が二次元である事の優位性を探さなくてはならない、逆に知能と感性をフル回転させる作業なのです。

古くはトキワ荘、彼らが生み出した「漫画表現」を流用しつつ、8頭身のキャラが画面を走り回るのが現代の主流漫画表現でしょうか。
頭身は(理想的な)リアルに近いキャラクター達がこぼれ落ちそうな眼や一本線の鼻を装備してるのも変と言えば変。今こそ、ディズニー的、手塚的なデフォルメに立ち返ることで、漫画が漫画たろうとしてもよいんではなかろうか。俺が好きなウエダハジメ、西島大介はそうして立ち返りつつももっと可能性があるんじゃない?とゆるーく挑戦してる感じ。

前置きが長文化しました。
この『虫と歌』って漫画で初めて市川春子さんって人の漫画読みましたが、これはすごい。
頭身はすらっと少女漫画の理想形の如きですが、線のシンプルさが一筆書きかよ、って位簡素。簡素な線は作者の熱を排除して、共感・同情で泣かせることを拒絶し、読者の心にダイレクトにストーリーをぶつけることに成功しています。

内容。
四編の短編からなる本ですが、一貫してテーマは『人外が人を模倣する悲喜劇』。
そもそも模倣という行為はその対象以上には成り得ないという主観的悲劇・客観的喜劇を併せ持つものです。
昔からヒト以外のものがヒトになろうとする物語は世界中の人に愛されるテーマでした。
人魚姫しかり、雪女しかり。
なぜ愛されるか、それは分り易いからだ、と思います。
劇中人物と自分を重ね合わせた時、明らかに自分とは違う点がある。
劇中人物の独力でその違いを越えられない為に、自分の想定する結果とその行為にギャップが生まれ、笑いや涙が生まれるのです。ビートたけしも言ってましたよ、「笑いの源は差別」って。
『人外』にはその明確な自分との差異がある。

この短編集に登場する四人、いや人じゃないんですが、人と数えたい四組は皆自分が人ではない事を自覚しながらも、人を否定せず、人にそっと寄り添う。
テーマはすごく日本的というか、湿度の高い「泣ける」系なんですが、この春子さんの線と描き方はかなり乾いています。人物の心情を解剖学的に、下品に深く切り込んだりせず、あったことだけをサラッと描きだす。だから、喋る事・する事そのものが思想になり、読者の心にスッと沁み込む。読後感も非常に爽やかです。

俺の好きな話は『日下兄妹』。
言ってしまえば、うる星やつらから連綿と続く押しかけヒロインものなんですが、当初は単なる「違和感」が「妹」に成長していく物語。主人公はクーデレ。
「育てる」ってのはきっと誰にでも楽しいもので、その間の苦労を苦労と感じる割合によってその楽しさに個人差が出るものなんだと思いますが、知り、分ろうとし、分り合おうとした時、既に育ち切ってしまっているのが育成の常。
故に別れ。
何で顔も無い「ヒナ」がこんなに可愛く見えるんだろうか。

あちこちに散りばめてある「ギャップ笑い」もドロッとさせないことに一役買ってます。
「ああん やめて ごろうさん こんなところじゃおとうさまに」
「こっちにしなさい」
のやりとりなんか暖かさと同時にニヤリがもうね。
変な漫画じゃないよ。

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紙の本

言語学ぶ意味なんてあんの?

12人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

留学してきたやつって、どうもムカつく。
それは海外経験のない僕の嫉妬フィルターもあるのでしょうが、
「やっぱ日本は狭いねー。アメリカでは~だったよー」
といったテンプレのような馬鹿は居ないまでも、
海外に一か月行った程度で人間レベルが上がったように言う奴が必ずいる。
ほんで、英語が喋れるだけで物凄い得意げになる奴。
『だけ』じゃなくて努力の結果だから威張ってもいいっちゃあ良いんですが、
小学校からの英語教育反対派の中でよく言われる「自国の文化もまともに習得してない奴が、他国の文化から学び取れるもんなんか大したもんじゃねーだろ!」という言説に僕は大賛成な訳です。

「言葉」の中には、思想・思考が自ずと含まれる訳で、
日本語の中に生まれ育ったからには、どれだけカバーしようが「日本語人」であり、
英語の中に生まれ育ったからには「英語人」なのです。

そうした僕の留学経験者への何となくのイライラを、リービ英雄さんは見事に形にしてくれています。

僕にとってリービ英雄さんは「高校の時教科書に出てた人」であり、「万葉集を英訳した人」でしか無かったのですが、後者の方で僕の語学嫌いを何とか治癒するのに役立つんじゃないか、と覚えていた人です。
今回「筑摩選書」発刊によって、初めて著作を読ませて頂きました。

「英雄」と名乗っていてもこれは「小泉八雲」みたいなペンネームであり、彼は生粋のアメリカ人です。
敗戦後、日本人はどうしても「アメリカ様」のイメージを取り払えず、ここまで生きてきたと思います。何の躊躇いもなく英語で喋りかけて来る観光客に対し、堂々と日本語で対応できる日本人がどれ程いるでしょうか?こちらが旅行に出かけても誰も日本語で返してくれないというのに。
にもかかわらず、リービ英雄は母語の英語ではなく、周辺言語たる日本語で書く。

本書はそうした彼の自伝的エッセイです。
外から入り込んで来た、日本の作家。
『万葉集英語抄訳』を携えて日本にやって来た若きリービは

春過ぎて夏来たるらし白妙の衣乾したり天の香具山

の香具山を実際に目にして、訳の中で「hevenly Mt.Kagu」と表現されているのと違って、
単なるHillではないか。と失望する。
無論、ただ失望するだけでは終わらないのですが、その「入り込んで来た人」の視点というだけで、もう、面白い。

自分で当然の如く読み流している文字を、第三者的視点で見つめるとこういう風になるのか、という感動が、実に美しく読み易い文章で表現されています。
三流大の自分ではとても太刀打ち出来ない文章力。そもそも文章で食べている人に対してこんな事を書くのが失礼極まりないのですが、下手な日本人作家の何倍も文章が上手い点に、作者がアメリカ人であることなどモノの一ページで忘れてしまいます。

本書を読み進めていく内に、言語はただのツールではなく、世界である事・歴史である事・人格である事が理解できるようになってきます。
極稀に「歴史研究家」「地域研究家」の中に対象地域の言語を理解出来ないにも拘らず、誰かの書いた文章を元に研究をしている方々がいるそうです。果たして、彼らはこの本を読んだ後でも研究家を名乗る事が出来るか。

言語を学ぶ事、それはつまり思想や体系にまで至ってこそ意味のある行為なんだなぁと思いました。
よーし、冬休みにはアメリカか中国、どっちか絶対行こう!という気分になりつつも、やっぱ語学習得ってしんどいんだな、やだな。等と。

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紙の本

「共感」という力の源について、フーゴは何に勝ったのか

10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本作の主人公は、表紙を見ても分かる通り、
ジョジョの奇妙な冒険 第五部「黄金の風」の主人公チームとして登場するパンナコッタ・フーゴ。

ジョジョファンの間では、「スタンド能力強過ぎて、ラストバトルに参加させられなかったんじゃ…」などと噂をされるほど、主人公チームの中で唯一ボスとの戦闘にまるで神の意志であるかのように全く関与せず、チームメイトと別れた場面が最後の登場となってしまった可哀想なキャラ。

知的なのに、ブチ切れると一番ヤバい、というキャラ造型に魅力を感じた人も多い筈。

「神」の意思によって一番大事な場面で居なかった彼は、果たしてどんな心境からボスとの戦いに参加しなかったのか、そして参加しなかったことで彼のその後はどうなったのか。
これが本作で描かれます。個人的には壮大な帳尻合わせって気がしないでも無い。

実際には居たであろう、しかし本編には登場しなかったキャラクター達が登場し、
新たなスタンド、新たな仲間や敵とフーゴのスタンドバトルが繰り広げられます。
ちなみに登場するスタンドが全てジミヘン縛り、というちょっとしたギミックもアリ。
また、登場するキャラクターが既存の別のキャラクターとちょいちょい関係していたり、アイテムが共通していたり、とファンサービス要素満載。
乙一さんもですが、上遠野さんもジョジョが好きでたまらないご様子です。

で、何が書きたかったのかというと、内容紹介では無くて、
作中でフーゴが何故勝てたか、ということ。

5部、フーゴが仲間たちと断絶するシーン。
何故ナランチャは迷った挙句、別に好きでも無い女の為に組織を裏切る事が出来たのか。
ほとんど知らない彼女に対して、「トリッシュはオレなんだ」とまで断言出来たのか。
フーゴにはそれが分からなかった。

そんなフーゴに、冒頭・ミスタは言い放ちます。

「おまえは正しかったとも言える。現にブチャラティたちは死んじまった。同行しなかったおまえだけが生き残っている。(中略)ディアボロとジョルノの凄まじい戦いの中で生存できた可能性はゼロだったはずだ。オリコーさんだったからな、おまえは。その辺の判断はさすがだったよ」

作者が認めるほどの「最凶」のスタンドを持ちながら、フーゴは何故オリコーさんで居られるのか。
「スタンド」とは、精神エネルギーが具現化したモノ、という説明があります。
ではフーゴは持ちスタンド「パープル・ヘイズ」そのままに、いつもフシュルルル…と唸りながら獲物を探しているようなバーサーカータイプの人間か、というと全くそんなことは無くて、どちらというと理知的な参謀タイプの人間です。
そんな人間であるにもかかわらず、時折、「パープル・ヘイズ」じみた狂気をチラつかせることがある。

フーゴ登場時、ナランチャに勉強を教えてやっていたものの、一向に覚えが悪いナランチャに対してブチ切れたフーゴ先生は、彼の右頬にフォークをブチ込むッ!!
読者が、フーゴが社会生活に適応出来てるか心配するレベルのヤバさでしたね。

戦闘シーンで敵に狂気をぶつけるならともかく、日常生活の場において、仲間であるナランチャに対してその狂気をぶつける。
仮にも理知的である筈のフーゴというキャラクターは、何故「パープル・ヘイズ」を発現したのか、といえば彼の本性が「無意識的な狂気」であり、日頃はそれを抑圧している為ではないかと考えられます。抑圧することで、彼は何とか社会生活に順応していた。表面的には理知的なキャラクターとして。「パープル・ヘイズ」という自身の人格に対して、フーゴはこれまできちんと向き合うことなく生きて来たのです。
自身に対して向き合う、ということは「ジョジョの奇妙な冒険」では度々キーシークエンスになっていて、「スタンド」という能力が自身の精神から発現するものである限り、それは当たり前の論理なのです。
にもかかわらず、フーゴはこれまで本当に心の底から自身と向き合う事無く生きて来た。
故に、ナランチャが踏み出せた「一歩」も、彼は踏み出す事が出来ず、踏み出せた者達の気持も理解出来なかった。

感情を柱にして闘う際に、やはり「自身に潜むモノ」を発見することは重要な課題です。
「他者を理解すること」によって、新しい道は開ける。
で、その「他者理解」とは=「同一視」ではありません。同一視とは過分な思い込みであり、自分を守るための防衛機構、いわば自己完結した「逃げ」に等しい。
つまり「ヒーローなりきり」が痛々しく見えるのは、それが自己完結しているためです。

そうではなくて、何故新しい道が開かれるのかといえば、
「共感」とは文字通り相手を共に感じる、つまりあくまで「自分」と「相手」という心理的距離を取りながらも、相手の立場に立って、相手思うこと・考えること・感じることを、相手と同様に感じようとする、理解しようとする、自身の心の動きだからです。いわば、相手を素材にして、自身を発見する、ような。

だからこそ、この『恥知らずのパープル・ヘイズ』において、

(シーラEは……ぼくだ。彼女の怒りは、ぼくの怒りだ……!)

とフーゴがシーラE(新登場キャラ)に対して共感した時、かつてのナランチャの選択に共感出来た時、彼は目前の敵と共に、「一歩を踏み出せなかったかつての己」に対して、打ち勝つことが出来るのです。

あと、散々書きましたが、小説単体で素晴らしい!ディモールト・ベネ!ってものではないです。あくまで「五部既読の人向け」の小説ですので、お気を付け下さい。

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紙の本

ヨナ、最後の選択

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

待ちに待ったヨルムンガンドの最終巻。

10巻の表紙をココ一人が飾ったのと対比的に、
11巻の表紙はヨナ一人が飾ります。

11巻は、ココの提示した問いに対してのヨナの選択から始まる。

10巻の最後で、ココは「ヨルムンガンドシステム」、世界中のコンピュータの情報改変と、コンピュータ制御が必須になる管制システムとの諸々を把握する、という超中二システムを提示します。
しかし、その立ち上げの為に、システム発動の瞬間、「空」に存在する70万人の命を犠牲にしなくてはならない。

ココはそれを「世界平和の為に必要な犠牲」と切り捨てるつもりでいるものの、
ヨナにはどうしてもそれが納得出来ない。

かつて、ヨナの発した台詞、
「それでも僕は世界が好きなんだ」
これをココは理想論に過ぎない、と斬って捨てます。

この漫画で何度も強調されて来た、「現代の戦争=ビジネス」という図式。
日本に居るとついつい見失いがちですが、現代においては既に「水」は、天からの恵みでは無く、一企業の占有物・商品になりつつあります。
ココは、第三次世界大戦は石油では無く、水の奪い合いによって、確実に起きる、と述べます。
その実態については、「フロウ ~水が大企業に独占させる!~」という映画に詳しいので、少しでも興味のある方は是非に。


で、火種は既に燻り始めていて、戦争は無くならない。

武器商人でありながら、ココはそうした現実が堪らなく嫌いで嫌いで仕方が無かった。
ヨナの「世界が好き」というスタンスに対し、ココは「世界が大嫌いだ」と表明します。

ココがヨナを引き入れたのは、「武器商人でありながらも戦争が、戦争を起こす世界が、憎くてたまらない自分」と近しいものを感じたからでした。
「武器が憎くてたまらない、にもかかわらず有能な少年兵」であるヨナならば、根底の所で似た者同士である者ならば、自分と分かり合える筈だ、と。

しかし、ヨナの取った選択は、こうでした。
彼女に向けた銃を収め、海に飛び込む。その場から逃げ出す。

ヨナの憎む「戦争」、ヨナの好きな「世界」と
ココの廻す「戦争」、ココの嫌いな「世界」とには、ズレがあったのだから、当然と言えば当然の結果です。
けれども、ココには何故ヨナが逃げ出したのか、自分と分かり合えなかったのかが理解出来なかった。

ヨナの出発点は、両親を戦争で失ったところ、そして守るべき存在・3人の子どもたちのこと。
ココの出発点は、武器商人の一族として生を受けたところ、そして武器商人として世界を渡り歩いたこと。
出発点が違えば辿り着くゴールも違う訳で、もう二人の道は分かれるべくして分かれた、と言えます。
そして、チャプター"NEW WORLD"は終わりを告げ、
次章"ウォー・モンガー"ではココと分かれたヨナがその後どうしたのか、
そして終章"恥の世紀"で「武器商人と旅をした」ヨナの最後の選択が描かれます。


正直なところ、一巻を買って読んだ時は、「あっ、買って失敗した!」と思っちゃったんですよね。
なんかゴチャゴチャして見辛い画面だし、主人公チームのキャラが多い割に全員が(漫画的な)特徴のあるキャラじゃなくて覚えらんないし、ちょっとミリオタ臭い話で興味無い人間からしたら小難しいし、なんて思ってました。
同誌掲載のブラクラの方が分かり易くエンタメしてます。

勿論この漫画もバリバリエンターテイメントしてるのですが、つか漫画的なキャラクターで溢れ返ってるのですが、キャラクターを描いてるんではなくて、キャラクターが「生きている世界」を丁寧に描いているからこそ、キャラ物よりも小難しく、でもちゃんと読むと非常に面白い漫画なのです。
そして、
・きちんとそれが現在の一歩先を行くサイエンスフィクションであること
・世界観を描くことに終始せず、アクションシーンもしっかり面白いこと
・少年、ヨナの心の成長物語であること
から、最後まで読んで良かったなぁ、と思える漫画でした。

ココに銃を向けるヨナ、そしてそこから更に成長した姿を見せるヨナ。
その成長ぶりが実に気持ちの良い、最終巻です。

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紙の本

継承すること

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本誌は未読で、極力情報を得る事を避けているので、あくまで29巻の感想です。

・・・いやぁ、これはもう、いくら待たされても評価せざるを得ない。面白い。
しかも、かなりギリギリの所で、きちんと「少年漫画」であることを保ってる。
かなり皮肉っぽい雰囲気でありながら、「友情」「努力」が勝利に繋がっている、という。

読みながら思っていたのですが、
「友情」=その場に存在しない自分以外の人の思い

「努力」=過去から未来へ繋ぐこと

生存フラグが確定=「勝利」に繋がってるんでない?

つまり、何が少年漫画っぽさを感じさせたかというと、
「きちんと少年漫画的な順序を踏んでいるキャラクターは生き、」
「そうでないキャラクターは死ぬ」
という、「少年漫画」というルールを下に、運命が確定しているような部分にそれを感じたのです。

幾つか例。
他の漫画や映画だと、確実に死亡フラグであろう決意や台詞を漏らしているキャラ。

シュートやイカルゴ。

何回も死亡フラグを立てますが、生き残るんじゃないかと。
彼らの「努力」は「友情」へと繋がっている為です。

「努力」の方向が「友情」では無く、「自分」であったり、もしくは「ほぼ自分」という自分と同一視するキャラへのものであった時、そのキャラクターには未来が無くなる、のでは。

例えばネテロ会長。

多分この漫画中、最強の部類に入るキャラクターだろうに、王に対して思いっきり噛ませ犬化してしまった。
結局、会長の強さは、王が述べるように「個の頂点」だった為ではないか、と思います。
王の反則級の強さの要因は、彼が「種族の頂点」である為に持つ「思いの強さ」です。彼自身では無く、「キメラアント」という種族に属する者達全ての願いがここに集約されているのです。
その王に対し、会長は滾る、滾るとか詰めるもんなら詰めてみなとか、結局のところ、他者の思いを介在すること無く、自分の為に闘ってしまった。負けるのも道理っちゃあ、道理なのです。少年漫画的に。

で、相対する王。

ただ、無条件に存在して居れば、「迷いの無いキメラアントの王」として、「種族=第三者の思いを継ぐ者」として、無敵の存在だったにもかかわらず、王・メルエムはコムギと出会った事により、条件付きの存在、即ち「自分探しモード」、非常に揺らぎ易い存在になってしまう。
コムギを存在意義の柱として確立出来れば、まだ無敵だったのでしょうが、その意義も失ってしまった。
このシーンの後、王は死んだり生き返ったりしてますが、後々コムギが復帰して王と出会う様な事があったとしても、「無敵の存在である王」はこのシーンで死が確定したのではないでしょうか。

で、ゴンさん。

自身が仰っているように、彼は「ここで終わり」なのです。
少年漫画的に、「死者の思いを継ぐ為」、例えばカイトの思い、「キメラアントの殲滅する為の闘い」であれば、アリだったのですが、明らかにゴンさんは「死者の為」闘ってらっしゃる。

死者の思いとは、口寄せや交霊術みたいなシークエンスを挟まない限り、遺された者の身勝手な思い込みでしかない。
故に、「自分の為に闘う」ゴンは死ぬ。

・・・とまぁ、ゴンが、レオリオとかクラピカ辺りのポジションであれば確実に死ぬシーンでしょうが、一応主人公なのでココで終わらせてしまうと話が終わる。
どうやってソコの所理由付けをするのか、次の巻をまた楽しみに待ってます。
まさか富樫先生だし、精神世界でカイトが出て来て「生きろ、ゴン・・・!」なんて興醒めシーンはやらない筈、ですよね?

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紙の本

ココの出した答えは世界中のエゴを押し潰すほどの、エゴイスティックな答えだった。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「戦争」は起きています。
ただ、この国が舞台となっていないだけで、世界のありとあらゆる場所で戦争は起き、
世界は変化し続けているのです。

『ヨルムンガンド』は現代の戦争が向かう少し先を、生々しく描きだします。

十巻の表紙をデカデカと飾るのは主人公の一人、ココ・へクマティアル。
彼女は若き死の商人、武器ディーラー。
各国に兵器を売り付けて私腹を肥やす、へクマティアル一族の娘です。

一巻の一番最初、もう一人の主人公、元少年兵・ヨナの「僕は武器商人と旅をした」というモノローグから物語は始まります。
彼はココの私兵集団・9人目のメンバーとして、雇われるのです。

その私兵集団のメンバーがまた異様にハイスペックで、各国の軍隊やら、警察の対テロ部隊やら、マフィアやら、自衛隊の諜報部隊やら、と様々な経歴、人種の人間から出来ています。

また、物語は連載期間中、2010年位の、実際の国際情勢を下敷きに描かれます。
アフリカの小国なんかはイニシャルトークで語られたりもしますが、アメリカやイギリス、中国なんかはそのまま登場し、アメリカが使用した無人兵器や中国のアフリカ進出等、現実と話題を同じくする所も多々アリ。

九巻において、ココの兄、キャスパー・へクマティアルは「ヘクマティアル・グローバル・グリッド」という「商品」を打ち出すのですが、これは元々世界中を飛び回って武器を売り付けていたへクマティアル一族の輸送網と、彼らが打ち上げた126機の人工衛星から成る、総合兵站・指揮通信システム。
つまり、世界中の何処でも、輸送物資届けちゃうし、戦況の把握もやっちゃうよ、全部代わりにウチの会社がやっちゃうよ、という戦争の民営化。

それだけでもものっすごい俺は「近未来の戦争像」の恐ろしさに震えるんですが、
ココの思うものは、そのへクマティアル・グローバル・グリッドの更に上を行く構想。

タイトルの「ヨルムンガンド」、北欧神話における「世界蛇」に関しては、毎巻見返しにこんな詩が載っています。

五つの陸を食らい尽くし
三つの海を飲み干しても
空だけはどうすることもできない。
翼も手も足もないこの身では、
我は世界蛇。
我が名はヨルムンガンド。


今までは世界を股に「ビジネス」を展開するココを象徴する言葉だった、「ヨルムンガンド」。
この巻に来て、それは同時にあるシステムの名であることが判明します。

この巻でキャスパーがちらりと喋る台詞。
「我々の都合で戦争を起こし、都合が悪ければ平和を守るのだ」


現代の戦争とは、既に闘争の本来的な意味である、価値観のぶつかり合い等ではありません。
エゴの押し付け合い。
ココが見出した、恐ろしくエゴイスティックな答えは、世界中のエゴを踏み潰し、作中で神に並ぶに等しい、と評価されますが、ココ自身はその評価に対し、自分は神を超えたのだ、と。

それで済んでハッピーエンドなら、作者はわざわざ「ヨナ」なんてキャラを持って来ません。
ヨナの、ココに対する返答は、果たして。


一巻において、ヨナはココに対して「ココはなぜ武器を売る?」と尋ねました。
武器を憎み、武器商人を憎むヨナと、カリスマ的な武器商人のココ。
全く相反する二人。
その問いに対して、ココは「世界平和のため。」と答えます。

一巻の時点では、それがヨナをごまかすためのココの口から出まかせなのか、本気で信じ切っているのか、ココの顔に張り付くような笑顔のおかげで、その真意は見えませんでした。

けれども、この十巻に来て、猛烈に伏線が回収されます。

とはいえ、未だヨナの「僕は武器商人と旅を『した』」が何故過去形で表記されているのかは分かりません。ある種必然的であったこの巻の最終シーン。
次巻、最終巻でどのような決着が着けられるのか、非常に楽しみです。

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紙の本

紙の本虐殺器官

2012/01/27 04:30

一つ段階をすっ飛ばした、現代の戦争の行く末。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

戦争における、合理性、そして誰かの都合が優先される、という状況が進行して行ったらこうなっちゃう、という世界が『虐殺器官』の世界。

「戦争」が描かれるのですが、それはあくまで主人公、クラヴィス・シェパード大尉の一人称で描かれます。クラヴィスは何度も戦闘を経験し、人の死に触れ、己の死を身近に感じながらも、「死」に慣れない。「死」に引っ張られ続けます。
それはテクノロジーの発達が、「死」と「思い」を分けてしまった世界だから。

「オルタナ」というコンタクトレンズ状のコンピュータを角膜に貼り付けて、
麻酔技術の一種である「痛覚マスキング」によって痛覚を認識しつつも「痛い」と思わない状態を創り上げ、
薬品と洗脳を使って戦闘用に感情を調整し、
クジラやイルカの筋肉を流用した兵器が使用される。

言ってしまえば「僕の考えた最強の兵隊」のような状況が表わされる訳ですが、
戦争の方向はどんどんそうしたマンガチックな所へ流れていく、それが現状。

『虐殺器官』の中では戦争をする為に必要な素材、食料や戦場・作戦データ、使われる兵器の輸送、兵士の調整等、全て民間の手が入っています。
効率化を図ることこそが、「民間」が軍に勝る点です。

非常に「ファンタジック」な筈なのに、それを本気でやろうとしているヤツらが居ることを感じさせられてしまうのが、怖い。
行く行くは、こういう在り方も有り得るんだろうな、と。

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紙の本

魔法のアイテムが無くても通じ合える

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書はコンラード・ローレンツという近代動物行動学を確立した動物学者によるものです。友達が貸してくれて読んだのですが、文系の僕が読んでも非常にわかり易くて面白い。

 彼は解剖や実験を嫌い、動物のありのままの姿を観察することを極限まで行う事で、立派に学術的な体系を作り上げているのです。家にいっぱい動物を放し飼いにしておいて、その社会に自分を組み込んでもらえる努力を行い、動物達自身にその社会構造を教えてもらう、という。彼の娘さんは幼少期「逆檻の理論」を適用されて育ったそうです。なんぞそれ。何のことはない、ちっちゃい娘さんが動物達に傷付けられる危険のないよう、動物達じゃなくて娘の方を檻に入れちゃえばいんじゃね?って事です。笑った。

 擬人化しすぎだろ、との批判もあったそうですが、仕方ないです。あなたは自分の好きなものに対してどれだけ冷静に分析出来るのか。そこをしちゃうのが学者なんでしょうが、動物を家族とみなしちゃう位許してあげてください。彼の文章は、訳の分らないものを客観的に扱う際の「~ようだ」「~らしい」があまり出てこず、ほとんど言い切り型です。その言い切りは、学者特有の自分を信じるあまり研究対象に冷酷になるそれではない。自分は手が二本あるから、君も手が二本。温かみのある、当然。彼にとって動物が、得体の知れない隣人ではなく気心の知れた仲間だからです。

 ムツゴロウさんがヒグマのごんべいに求愛を受けたように、コンラートさんもコクマルガラスのオスに、口の中に唾とミールワームをこね合わせたものをつっこまれそうになり、ちょっとそれを拒んでいるとどちらかの耳にその生あたたかい虫の塊を鼓膜の所までぎゅうぎゅう押し込められています。
 劇的な事件の連続ではなく、こうした生き物との日常のやり取りが、一匹一匹の個性と共に描かれていて、とても幸せな雰囲気を醸しだしています。丹念に目の前の仲間と向き合う事で、付けると動物と会話できる「ソロモンの指環」という魔法のアイテムが無くとも、コミュニケーションは取れる。相手が何を思い、何をしたいのか。そこにどんな意図が存在するか。それを必死で考える著者の姿からは、生物学・動物学・心理学といった学問分野を飛び越えて、人間として大事なものを学び取ることが出来ます。
 
 卑屈になった動物に顔色を伺われるのでなく、自分が暮らす分には全然問題ない程度のお金を使って動物を助けた気になるのでなく、目の前の一匹の動物を愛することで愛されることこそ、真に動物好きだということなんじゃないか、とこの本を読む事で思えました。

 

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紙の本

将棋漫画の形をしたバトル漫画

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「大きい」というのはもう、それだけで強い。『ハチワンダイバー』は字がでかい、コマがでかい、汗がでかい、目がでかい、数字がでかい、乳がでかい。それらが何故でかいかと言えば、思いがでかい、思いが強いからなのです。(乳は違いますが)
 そして、それらの大きさが漫画に勢いを付け、勢いが馬鹿馬鹿しさを押し切る事で、ありえねぇよって展開も爽快感を持って読者は一気に読み切れるのです。

 けど、本来将棋って長考する思考遊戯なんじゃねーの?
 NHKの対局の放送を見ても分かる通り、将棋は外面上は静かにゆっくりと進行するゲームです。にもかかわらず、『ハチワンダイバー』では内面はともかくとしても、外面にまで激しさが表れ、さながらバトル漫画の如く、キャラクター達は叫び、唾を飛ばし、涙を流し、悶え苦しみます。本来の闘争の姿を、思考遊戯に持ち込んで来るのです。
 無論、実際の棋界でも命を懸けて戦っている人は幾らでもいると思います。そうした「棋士としての苦しみ」は現在連載されている別の人気将棋漫画、『三月のライオン』で描かれています。しかし、『ハチワンダイバー』は「命を懸けている」漫画ではなく、「命を賭けている」漫画なのです。賭けは競い合いではなく、奪い合い。闘争により本質的なものです。つまり、将棋を飛び越えて、「人間としての苦しみ」が描かれているのが『ハチワンダイバー』なのです。
 
 まぁ両者はアプローチの仕方が違うだけで、『ハチワンダイバー』はより直接的な描かれ方をしているだけなのですが、前述した「でかさ」によってより勢いを獲得しています。

 今回、何故か単行本が二冊同時に発売されて、16巻と17巻の表紙で合わせて一枚の絵になっています。向かい合う、ヒーローとヒロイン。どんな意味合いがあるのかはまず読んでみるのが良いと思います。

 16巻ではついにラスボスの「鬼」が登場。その底知れない魔王っぷりは『ベルセルク』のグリフィスの様な、指輪物語の冥王サウロンの様な、純粋悪。
 17巻では超タフネスを相手にした、100時間ぶっ続け将棋。ただ起きていても100時間なんて果てしないのに、最高に頭を使いながら起き続ける100時間。
 どちらも、とても文化系をテーマにした漫画とは思えない勢いに満ち溢れています。

 エンディングはそんなに気にならないけど、ラストバトルがどんな風に行われるのかが非常に楽しみな漫画。

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紙の本

混沌の中から拾い上げるという強さ

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ニューヨークに暮らす7歳の少年、オスカー・シェル。
彼は戯言使いで、ビートルズファンで(特にリンゴの)、無神論者で、タンバリン奏者で、アマチュア科学者で、という非常に多彩かつ楽しげな雰囲気を湛えたキャラクターです。

しかし、彼は9・11によって、父親を亡くしてしまった。

彼の父親は彼に謎のカギを遺して、この世から去ってしまった。
本書において、彼はそのカギがはまるカギ穴を探すこととなります。
けれども、本書が描くのは、「わくわく少年冒険譚」ではありません。
勿論「父と子による時を超えた感動の物語」でもないし、「9・11というシチュエーションを借りたテロリズムバッシング」でもありません。
本書に描かれるのは「僕」の在り方、「世界」の在り方。
それは人生であり、人であり、性であり、生であり、死であり、詩であり、悲劇であり、喜劇であり。

『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』の物語の発端はドレスデンの空爆です。
「ドレスデンの空爆」を物語に引用した例として、僕はカート・ヴォネガットの『スローターハウス5』を思い出したのですが、本書もスローターハウスと同じく、「世界は悲劇で構成されている」という空気を感じさせます。

「ドレスデン空爆」と「9・11」には何の連関性もありません。
けれども、それは同じ世界で起きている。
9・11のテロによって殺された人達は中東地域に直接ダメージを与えた訳ではありません。
けれども、確実にアメリカはアラブ、イラン、イラクを滅茶苦茶にした。
だからといってその報復を僕は肯定する訳ではありません。
人が生きている限り、戦争は無くならない。
これは僕の哲学や思想では無く、単なる事実なのです。けれども、そうした普遍的な事実と、個人の事情には何の関わりも無い。
主人公、オスカー・シェルは一つの疑問を持ちます。「何故、パパが死ななくてはならなかったのか。」原因や因果関係の追求では無く、それは感情です。その疑問に纏わり付かれ、オスカーは街を彷徨う。

ヴィジュアル・ライティング、タイポグラフィーや図版を大量に使用し、ある種「ライトノベル」の如き様相を本書は湛えています。けれども、本書はそれらを使う事で「受けを狙う」訳では無く、より過剰に感情を訴えて来る素材として使用しているのです。

本書の一番最後に収められている、連続写真。
小説を、絵や写真を使って説明するのはある種禁じ手とも言えますが、この本に収められた様々な「禁じ手」の意味性が、一挙に最後の連続写真でグワッと開放されます。この衝撃を是非とも味わって欲しい。

「9・11」という歴史的な事件は、僕ら日本人にとって悲劇では無く「海外ニュースの一つ」でしか無かった。けれども、日本にも「3・11」という巨大な衝撃が与えられた今、本書に込められたこの感覚、同じ世界で全てが起きている、起きていることが全て自分にとっても起きていることである、という感覚が共有しやすくなったのではないかと思います。
けれども、ただ、それらが全て悲劇であることは当たり前のことです。
そうでは無くて、それらはヨハン・シュトラウスであり、ピカソであり、おまんこであり、丘であり、性であり、生であり、死であり、詩なのです。全てはものすごくうるさく訴えかけて来て、ありえないほど近くで起きている。
悲劇によって構成される世界から、如何に喜劇を拾い上げて来れるか、如何に喜劇に再構成していけるか、それがオスカーの、人間の強さであり、尊さだということ。それを本書は切実に描いています。

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命とは、善悪とは、殺しとは

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漫画『ザ・ワールド・イズ・マイン』の主人公は二人。

「俺は俺を肯定する」「命は平等に価値が無い」と言い放つ、究極のエゴイスト、モン。
その圧倒的暴力性に惚れ込み、最大の協力者となる、トシ。
二人合わせて「トシモン」と呼ばれるようになる、殺人鬼の物語。

漫画自体は、このトシモンという殺人鬼と、ヒグマドンという怪獣の進撃との、二つの脅威に晒される日本を、人々やその心理を、描く作品です。

モンは上に書いた通りの横暴さ、個人の横暴さを通り越した天衣無縫さともいえる個人主義者で、タイトルのような思想性、「世界は自分のモノである」を柱とする人間です。その柱、目的の為に、躊躇なく、差別なく、人を殺します。

トシは「フツーの人間」です。冴えない人生を送っていて、たまたまモンに出会って「しまった」が為に、それまでの自分の道徳性、理性、社会性、願望を隠していたモノを吹き飛ばされ、躊躇いながらも殺人鬼と化していきます。

モンが殺す際に、相手を殺してやろうという殺意はありません。
彼にとって自分以外の人間は「障害」でしかなく、ヒグマドンと同じ様に、ただ自分の進路に居るというだけで殺す理由に成り得ます。そこには他人をどうこうしてやろうという悪意・害意も無ければ、なるべく苦しまないようにという慈悲もありません。在るのはただ暴力のみ。

「善悪」という価値観は、他者が存在して初めて産まれるモノです。モンは法律的に「悪」ではあります。しかし、彼の世界には他者が存在しないのです。一応、相棒としてのトシを認識しては居るのですが、全く彼の言う事など耳に入れようともしません。殺す側・殺す側には何の関係性も無く、ただ行きずりで、殺す。
「モンの殺し」は、全く何の意味も無いのです。
「何となく」とか「腹が立った」という瞬間的な理由付けすらなく。
だから、野生の生物のような恐ろしさがあります。野生生物と違うのは、自分が暴力を振るえるという自覚を持っている事。道具を扱えるという事を知っており、殺した後の結果が食料を得る以外にも在る事を知っているという事。
限りなく野生に近い思考を持った人間、だからモンは怖いのです。でも、客観的悪者ではあるけども、主観的悪者では無い、非常に性質の悪い、悪者なのです。

その点、トシは初めての殺人に涙を流し、吐き気を催しながら、必死で殺し、やがてそれが加速してどんどん殺人者としての風格を表わしていきます。
トシは「一番大事な人の死」によって、真に殺人鬼として目覚めていきます。そう、「フツーの感性」を持っているのなら、タガが外れるのは「大きな喪失によって」であり、「フツーじゃない感性」を持っているのなら「一々そんな事は気にしない」のです。

そんな対称的な二人組の殺人鬼と、大怪獣は「日本」という国に、そして読者にどんなダメージを与えるのか。
ダメージ覚悟で読んで下さい。

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藤田和日郎の描きたかったドラマはココに在る

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僕は藤田和日郎さんの漫画が大好きで、
全て名作だと思うのです。

其れは全ての作品に熱い思いがあって、信念があって。
単純なエンターテイメントとして続きが読みたい、と思わせる以上に、込められたメッセージが読者に生きる力を与えてくれる作品だと思えるからです。

無論『月光条例』も藤田和日郎作品として、立派に「名作」だと思うのですが、
どうもうしとら、からくりほどの評価は得てない。
いや、僕自身、うーんこれちょっと微妙だなー、と思ってました。
思って「ました」。

『月光条例』13巻・14巻においては、主人公の過去が描かれます。
主人公・岩崎月光は青い鳥の主人公の一人「チルチル」です。
で、過去月光は、いやチルチルは、おとぎ話界の住人として「狂ってしまう」のです。
その際、チルチルは思いました。

「悲しい結末を迎える主人公の、運命を変えてやりたい」

そして、彼は『マッチ売りの少女』と出会い、
彼女の運命を、死の運命を変えることを決意するのです。

ここで、気になる作者の発言を一つ。

「マッチ売りの少女」が気に入らなかった。
なんでかわいそうな女の子がかわいそうなコトになっちまうんだよ!!
だけど本のさし絵に正拳を叩き込んでもムナしいだけだ。
だから僕はそのパンチを代理のヤツにぶちかましてもらうことにした。

うしおととら、こいつらはつまり・・・
そういうヤツらなんだ。

   (小学館「うしおととら」1巻 作者コメント)

もひとつ、どん。


かわいそうな「マッチ売りの少女」が嫌いで、僕はこいつらを生み出した。
少女を助けて戦うヤツら。でも。
少女を助けるヒーローなんざ、要らないのかもしれない。
7年間、こいつらに戦ってもらってようやくわかった。

だって。少女が戦わなきゃ。
ただ雪の中、手に息を吹きかけて泣いてちゃ、だれもふりむいちゃくれないもの。
戦わなきゃ。しんどくても辛くても、自分でやんなきゃ。(まんが描くのもね。)

ああ、ああ、そういうことか。
だから自分は、「マッチ売りの少女」が嫌いだったんだ。

 -背中をまるめてマッチなんてすってるんじゃねえ。-

  (小学館「うしおととら」33巻 作者コメント)

藤田先生はこれまでの漫画の中で、「不条理」と「無変化」に対する怒りを叫び続けて来たのではないでしょうか。
だからこそ、同じ怒りを抱えた少年達に共感と救いがあった。

『月光条例』のこれまでの展開は、藤田漫画の伝統に沿って、そうした怒りを爆発させてきました。
でもちょっと余裕のある怒りだった。
それ故に熱さが足りないようにも見えた。
しかし、それはこの物語の本質が「怒り」ではないから。
この「マッチ売りの少女の話」が描きたかったためではないでしょうか。

ここまでの『月光条例』は、平気で感情のままに、怒りのままに、物語の大筋を変更して来たにも拘らず、
「マッチ売りの少女の話」になった途端、物語の大筋は安易に変更すべきではない、という命題が提示されます。
話が違うじゃないか!
と怒りたくなるのですが、
きちんとそれについて説明付けがされます。
それを伝え終わると、マッチ売りの少女は悲しい悲しい自分の物語の中へ帰ってしまいます。

傍から見れば、どんなに不条理で、どんなに苦しい場所にも、それなりの意味がある。
その意味が取るに足らないものか、命に代えても守るべきものなのかは当事者にしか分かりません。
物事を一義的に否定してはならない、ただ怒れば良い訳ではない、のです。

そして、チルチル=月光が天の邪鬼である事、満月を苦手とする事の理由が明かされ、
終局へと幕開けが始まります。
未だ全ての謎は明かされ切っていません。

でも、一つだけ。
この漫画はこれまでの藤田漫画と同じ様に、完結した後、一度に読み通せるようになってようやく名作として評価される。
と予言しておきます。

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