WEAVER 流星コーリング

WEAVERのドラマーであり作詞も担当する河邉徹さん2作目の小説『流星コーリング』の
一部連載をhonto電子書籍ストアで期間限定・独占無料配信。(全4回予定)

第1話

  1. その4
  2. その3
  3. その2
  4. その1
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ONOFF

【流れ星と春の思い出】

 

――去年 春

 

 生まれつき、おでこに小さなあざがあった。

 左側の眉の上に、ちょうど平仮名の「へ」のような形に、くすんだ色がぺたりと貼り付いている。小中学生の頃は、それが理由でからかわれたことが何度もあった。

 高校生になってからも、人に見られるのが嫌で、できるだけ前髪を伸ばして隠すようにしていた。

 そんな些細なことを気にしなくても、と言う人もいるかもしれない。そもそも理解してもらえるようなものならば、コンプレックスと呼ばなくても済んだだろう。

 小さなコンプレックスは、長い時間をかけて心に染み着いていく。気が付けば、それも自分の人格を構成する一つの要素になっていく。

 俺は、人に自分のあざを見られていないか気にすることが癖になっていた。前髪を気にする。クラスメイトと話していても、視線が気になる。

 だからふと、これがなければ、俺はどんな人間だったんだろうと思うことがある。

 たまたま俺にはあざだったけれど、誰だってみんなコンプレックスがあるものだろう。身長、体型、顔のパーツ、声、におい。

 知らないうちに重りを背負わされて生きている人は、どのくらいいるのだろうか。

 俺は頭の中で、「喜び」と「悲しみ」が両端に乗るシーソーを描き出してみた。

 自分でも気づかないうちに、「悲しみ」に重りを載せて生まれてくる人がいる。そんな人は、逆側の「喜び」にほんの少しの重りが載ったところで、シーソーは「悲しみ」に落ちたまま、ビクともしない。心の釣り合いは取れないままだ。

 世の中はそんな風に、知らない法則がたくさん働いているのだと思う。法則の中、「悲しみ」が当たり前になってしまった心は、そちらに沈んでいることさえ自分で気づけない。

 心はシーソー……。

 その春、俺は芝生の上に寝転んで、星空を見上げながら、そんな結論にたどり着いていた。

 解き放たれたように広がる星たちでさえ、お互いの重力という法則に縛られ、同じ軌道をぐるぐると回り続けている。

 人間もきっと、遠くから見ればそれと同じなんだろうと思う。

「……ねぇそれ、星空を見てる時の顔じゃないよ」

 突然傍らで、鈴を鳴らしたような声がした。見ると、すぐ横に詩織が立っていた。彼女はいつも足音を立てずに歩く。制服のスカートの下には、学校指定のジャージを穿いていた。もう春と呼べる季節だけど、夜の学校は冷えるからだ。

「結局、また四人しか集まらんかったね。天文部って同じ学年だけで二十人くらい名簿にはおるのに」

 詩織は暗闇の中、不満そうに唇を尖らせた。伸ばした髪が、すとんと胸の上まで下りている。暗闇でもその表情がよく見えるのは、前髪がきちんと目の上で切り揃えられているからだ。羨ましいな、と思う。俺はそんな風に顔を見せられないから。

「ほとんどは部活してたっていう内申が欲しいだけじゃろ」

 星空に視線を移しながら俺は言った。実際のところ、俺もたまにしか活動しないこの部活の、その「たまに」がめんどくさくなることもある。

「那月ちゃんも連れてきたらよかったのに」

「中学生は連れてこれんよ」

 那月は俺の妹だ。いや、訂正。那月は俺の生意気な妹だ。昔から偉そうなところはあったが、中学生になってからは兄と一緒に歩くことさえ拒否するようになってしまった。どうせ誘っても、あいつがこんなところに来るはずがない。あれが噂の思春期というやつなのだろうか。

「あ、そうだ、さっき観測会で覚えたことのおさらいしよっか」

 そう言って、詩織は俺の隣にごろんと寝転んだ。彼女の髪の香りが夜の空気にふわりと漂って、なんだか落ち着かない気持ちになる。今日は学校に泊まるので、家で風呂に入ってきたのだろう。

「わー、綺麗。寝転んだら見やすい。りょう、いい方法見つけたね」

 俺たちがいるのは廿日市中央高校の屋上だった。地域の緑化活動の一環で、何年か前から屋上の半面だけ芝生になっている。さっきみんなで観測会をしていたのは、屋上の入り口の扉を挟んだ逆サイドである。そちらの方が海側なので街明かりが少なく、より星の観測に適している。

「……こんなんしてるとこ真希に見られたら、またなんか言われるで。四人しかおらんのにイチャイチャすんなーって」

「真希は優しいだけよ。そう言って、居心地が悪くないようにしてくれてる」

 いつも参加している天文部の二年生は、俺と詩織の他に、真希と洋介しかいない。確かに男女四人の中で、二人に恋人同士になられると、あとの二人はその扱いに困るのかもしれない。

「……あれが北斗七星でしょ。で、その先端からずーっといったところにあるのが、北極星。名前の通り、それが北の方角。で、その北斗七星は……くまさんの一部なんだっけ?」

「くまさんって何じゃ。おおぐま座の尻尾の部分な」

「そうそう。相変わらず記憶力ええね」

 そう言って詩織は俺の方に顔を向けた。そのままこちらを見つめているのが気配でわかる。詩織は時折こうして、意味もなく俺の顔を眺め続ける。俺は恥ずかしくなって、前髪を手で整えてから、ずっと星空を眺めているフリをしていた。

 しばらくすると飽きたのか、詩織はまた夜空に視線を戻した。

「あっ!」

「ん?」

 詩織は急に、ぶつぶつと聞き取れないくらいの声で何かを呟いた。

「……どしたんじゃ?」

「今流れ星が見えた気がして……」

 どうやら願い事をしていたらしい。

「気のせいじゃろ。そんな簡単に見れんよ」

「……そうかな」

「何願ったん?」

「えっと、来年もここで星を観れますようにって」

「そんな願い事、簡単に叶うじゃろ。もっと将来の夢とか願わんと」

 俺が笑うと詩織も笑った。それから、彼女は夜空に向かってまっすぐ手を伸ばした。

「でも綺麗な星空じゃねぇ。私昔から思ってたけど、星空って喜びが散らばっとるみたいじゃない?」

 そう言った詩織の横顔を、今度は俺がじっと見つめた。「喜び」という言葉に、さっき一人で考えていたことが聞こえていたのかと思った。

「なんで喜びなん? 悲しみかもしれんで」

 詩織の詩的な表現に、俺は何となく茶々を入れてみた。彼女の小さな顔と暗闇の境目が、じわりと夜に溶けてしまいそうに見えた。

「なんでかな? でも綺麗じゃけぇ、悲しみって感じじゃなくない?」

「美しい悲しみもあるかもしれんで」

「もう、すぐ子どもみたいなこと言わないの」

 詩織は口を尖らせ、叱るように言った。同い年なのに、彼女は俺にお姉さんぶることがある。

 ――喜びでいっぱいの星空。

 俺はもう一度、星空を見上げながら思う。単純に、いい表現だと思った。詩織は時々、こんな風に綺麗な言葉を使う。読んできた本の量は俺の方がずっと多いはずなのに、彼女の方がこういうのは得意だから不思議だ。

「こんなゆっくりできるんも、二年生の冬くらいまでかなぁ。来年の今頃になったら、絶対受験受験ってみんな言っとると思う」

「そうじゃろな」

 さっきの詩織の願い事は、そういう意味もあったのだろうか、と思った。

「はぁー。私受験とか、もっと遠い未来じゃ思ってた。もう今から進路決めとる人とかおるじゃろ?」

「うちの学校も進学校じゃけ。しゃーない」

「りょうは広島の大学の教育学部って言ってたっけ?」

「そうじゃなぁ。……今んとこな。迷っとるけど」

 自分が何をやりたいのか分からない場合に、親と同じ道を選ぶ、という選択肢がある。俺の親は両方とも教師だった。父は中学、母は小学校の先生だ。

 自分に向いてるものが何かなんて、自分ではなかなかわからないものだ。自由に何にでもなれると言われても、逆に困ってしまう。勝手に敷かれたレールの上を行けば、失敗してもそのレールのせいにすることも可能だ。でも、自分で選んだ道を歩けばそんな逃げ道はない。だからなんとなく、親の姿に影響されて将来を決める人は多いと思う。俺も本が好きだけれど、それを進路の理由にするには勇気が必要だ。

 自由なんて、まるで北極星のような道しるべもない、真っ暗な夜空みたいだ。……お、今のは詩織みたいだったかも。

「……三年生になったら、こんな風に過ごす時間もないかな?」

 詩織がまたこちらに顔を向けた。見なくてもその表情までわかる気がした。俺はまた気づかないふりをして星を見つめていた。

「ちゃんとメリハリつけたら大丈夫じゃろ。二人でいる時間も、勉強の時間も大事にして」

「ええね、そんな素敵な受験生カップル」

「そのためにも、詩織も今からコツコツ勉強しとかんとな」

 俺が詩織に視線を移すと、目が合った。大きな瞳に穏やかな光が反射して、中で優しい星が輝いているようだった。

「そうじゃね。りょうは毎日勉強してて偉いなぁ。私も見習わんと。がんばろ!」

 詩織は夜空に向かって、拳を突き出して気合を入れた。彼女の横顔は、滑らかな直線と柔らかい曲線でできている。詩織は学校でも目立つタイプじゃないから、みんな彼女の横顔の美しさを知らないのだ。俺はそれが嬉しくもあった。

 俺がじっと見つめていると、屋上の入り口から甲高い声が聞こえた。

「詩織ー! りょうちゃん! そろそろやるよー!」

「あ、真希が呼んどる。観測会の次は勉強会じゃね。……今いくー!」

 詩織は返事をすると、すぐに立ち上がって扉に向かって歩き出した。俺はなんだか急に寂しい気持ちになった。もう少しだけ、この星空とその横顔を見ていたかったのだけれど。

 

 廿日市中央高校の天文部には、毎年そこそこの部員が入る。しかしそのほとんどが兼部で入部する者ばかりで、数ヶ月もすれば姿を見せなくなる。運動部と兼部した生徒は、大抵そちらの方が忙しくなり、天文部どころではなくなるらしい。実際に今日のように、いつも参加している四人は全員天文部以外の部活をしていない。

 俺と詩織は真希に呼ばれ、階段を下りて化学室へ向かった。暗闇の廊下には、赤い非常灯だけが鈍い光を放っていた。冷たい空気に、俺の足音と詩織の小さな足音が硬く響く。

「……おばけでも出そうじゃね」

 詩織がむしろ歓迎するように言った。

「変なこと言うな」

 そういう感情は、一度そちらに傾くと本当に怖くなるので、俺は何も考えないようにした。

 化学室に入ると、すでに真希と洋介は席に着いていた。天文部の顧問である山波先生は教卓のところで、何やら分厚い天体の本を広げている。

「お、来た来た。何か変わった星でも見つけたかい?」

 先生は柔らかい視線を俺と詩織に向けた。今年五十二歳になるらしい山波先生は、普段授業では地学を教えているが、若い頃に長い間東京で天体の研究に携わっていたらしい。ネットで先生の名前を検索すると、彼についての記事がいくつもヒットする。その界隈では有名な人らしい。

「違います先生。二人は地上にある『愛の星』とか、『青春の星』なんてものを探してたんです」

 真希が上手いことを言った。そんなところに回る頭があるなら、別のところに使えと思う。

「普通にさっきのおさらいしとったんじゃ」

 俺はとりあえずそう反論しておいた。真希は膨らんだ髪を手櫛で整えながら、どうだか、と冗談交じりの視線を俺と詩織に向けた。ふわふわともくるくるとも言える真希の髪の毛は天然のくせ毛らしいが、それが意外と似合っている。もっとも本人は気にしているようで、似合ってるよ、なんて言ったらマジで怒るだろう。湿気の多い日は大変らしい。

 彼女は活発な性格だが、家は宮島にある神社で、これでも一応神職の娘である。

「そうかぁ、参ったなぁ。でもね、夜空には実際に、ロマンチックな神話もたくさんあるんだよ」

 先生の言葉に詩織が「そうなんですか?」と興味を示しながら、いつもの一番前の席に着いた。化学室は授業の時、一つの大きな机に三人が並んで座るのだが、部員の少ない天文部が集まる時には、一人一つずつ広々と使っている。

 詩織の左横の机が洋介、その後ろが真希、詩織の後ろが俺の定位置になっている。

「例えば今の季節なら、春の夫婦めおとぼしと呼ばれる、二つの星を南の空に見つけることができるよ」

 先生は四人にそれぞれ一枚の紙を配った。先生がさっき広げていた分厚い天体の本のコピーだ。紙の右上には「春の星空」と書かれていた。さっきまで見ていた星空が、A4の紙一枚に収まっている。

「もしかして、アルクトゥールスとスピカのことですか?」

 そう言ったのは洋介だ。

「その通り。よく知ってるね」

 洋介は先生に褒められ、丸メガネの奥の涼しげな目を、愛嬌のある三日月型にした。なんでも興味を持ったものに対してまっすぐな彼は、星だけじゃなくてちょっと変わったことにも詳しかったりする。車の構造なんかにも興味があるらしく、この前もよくわからない専門的な雑誌を読んでいた。一昔前なら、それでオタクだと言われて、女子にとって減点の対象になっていたかもしれない。今はそんなことはないようで、話題も豊富な彼は、陽気な文化系男子としてクラスの女子にも人気だ。塩顔とも言えるさっぱりした顔も、今風な雰囲気を醸し出している。

「先生、どの星ですか?」

「まずは、さっき屋上でも見た北斗七星を見つけるとこからだよ。柄杓の柄の部分をぐーと延ばしてくと、オレンジ色の星が見える。それが夫婦のうちの夫にあたるアルクトゥールスだ」

 先生は滑舌のいい、よく響く低い声で説明した。

 俺は言われた通りに、紙の上の夜空に北斗七星を見つけた。柄杓の持ち手の部分を、ぐーと平行にたどっていく。そこに、他の星よりも微かに赤みを帯びた星が光っていた。

「あ、これね! アルクールス!」

「アルクトゥールスじゃって」

 名前を間違えた真希に、前に座っている洋介が振り返って訂正する。

「それそれ。ほんまじゃ、オレンジ色じゃ。奥さんの方はどこ?」

 真希の視線を受けて、先生は説明を続けた。

「そのままさらに同じ方向へたどっていくと、純白に輝く星がある。これがスピカ」

 俺は先生の言う通りに、ぐーっとさらに指で同じ方向へなぞった。他の星より、白い光を放つ星があった。

「ほんまじゃー。白いなぁ。いいなぁ。うちは星になるならこんな星になりたい」

 真希はうっとりしながら言う。詩織といい真希といい、天文部の女子はロマンチックが止まらないらしい。真希の方が少し手に負えない感じではあるが。

「ちなみにスピカの意味は『尖ったもの』ってことで『スパイク』の語源とも言われているよ」

「お、そりゃ真希にぴったりじゃな」

 そう言った洋介を、真希はキッと睨みつけた。多分、そんな表情がスパイクにぴったりなのだと思う。

「でも、二つの星は結構な距離がありますよね。ぴったり並んでいるわけじゃないのに、どうして夫婦って呼ぶんですか?」

「ほんまじゃ。しかも距離は永遠に変わらんのじゃろ?」

 詩織と真希が、それぞれ疑問を投げ掛けた。

「離れているけれど、昔の人はきっと、その二つの星の色を見てそんな風に思ったんじゃないかな。それに実は、アルクトゥールスはスピカに向かってゆっくりと動いてるんだよ。五万年後には、二つの星は仲良く並んでいるとも言われている」

「すご! 五万年かけて、夫婦はそばに寄り添い合うんじゃね。なんて深い愛の力じゃ」

「五万年後に、スパイクでぶっ刺されんとええけどな」

 ふざける洋介に、真希が後ろから消しゴムを投げつけた。

「……あ、そうだ先生。流れ星って見たことありますか?」

 詩織が思い出したように言った。

「もちろんあるよ」

「本当ですか? さっきそれらしいのを見たんですけど……やっぱり見間違いですよね。珍しいものですし……」

「どうだろうね?流れ星は、実はそこまで珍しいものではないんだ。名前に星と付いているけれど、星と呼べるようなサイズではなくて、ほんの数ミリの塵にすぎない。あとでもう一度屋上に行ってみよう。夫婦星を見つけるついでに、流れ星も偶然見つけられるかもしれないね。じゃあ次は……」

「先生ー、その前に詩織が持ってきてくれたケーキ食べましょう」

 先生が次のプリントを配ろうとした時に、真希が提案した。

「あ、そうなんです。私の母が今日の残ったからって、持たせてくれたんです。準備室の冷蔵庫に入れておきました」

「おお、ありがとう。じゃあケーキを食べながら話すことにしよう」

 いや、普通怒るところだよ先生。

 しかし、ケーキ付き勉強会。悪くない。しかも詩織の家のケーキは美味しい。

 それからみんなでケーキを食べながら、先生の天体の講義を聴いた。春の星座の話。うしかい座、猟犬座、おおぐま座の神話。

 もう一度みんなで屋上に行くと、夫婦星は本当にくっきりと輝いていた。

 二年生になる直前――春の天文部の活動は、そこにいた全員にとって楽しい時間になった。

【受験生と人工流星】

 ――現在

 

 窓の向こうの空は、薄い雲がぺたりと貼り付いていて、まるで時間が止まっているようだった。それでも確かに季節は動いていて、十一月なのに、教室は随分と冷え込んでいる。冬の気配が確かにすぐそこまで来ていた。女子は既に膝掛けなんかを脚に載せて、暖をとっている。無理もない、風邪は受験生にとって大敵である。熱なんて出してしまったら、時間が勿体ないことこの上ない。

 先生が新たな設問の解説を始めた時、チャイムが鳴って授業が終わった。みんなは解放されたように背伸びをしたり、昼の弁当の残りを食べ始めたりしている。

 今日も残りあと一時間で学校は終わる。休み時間には特に話す相手もいないので、俺はとりあえず携帯を眺めていた。

「……りょう、りょう」

 廊下側の窓の向こうから呼ぶ声がする。見ると洋介だった。彼は俺と目が合うと、他のクラスの教室にもかかわらず、ズカズカと教室に入ってきた。

「なぁなぁ、ニュースで見た? 今日もテレビでやってたけどさ」

 何の話をしてるのかわからん。と言えばいいのだが、何だかそれもめんどくさかったので、顔でそう言ってみた。

「いや、だから、人工流星の話じゃ」

 意外と伝わったようだった。

「人工流星? 何じゃそれ。初めて聞いたわ」

「それでも天文部かぁ!?……まぁ受験生じゃけ、しゃーないな。俺もあんまりネット見んようにしとったけぇ、全然知らんかった」

 洋介は早口で喋りながら、左手でメガネを押し上げた。

「なんと来週な、世界で初めて人工的に流れ星を作るっていう計画があるんじゃと。それもこの広島で」

 両手を広げながら、洋介は大仰に言った。

「変わった計画もあるんじゃな。流れ星って作れるもんなんか?」

「前に山波先生も言っとったじゃろ。小さな塵が、大気圏に突入して流れ星になるって。じゃけぇ、ロケットを打ち上げて、そこから塵を放出したら作れるらしい。ロケットの打ち上げにはお金がかかるけど、原理的には可能で、その塵はまるでビー玉くらいの――」

「ストップ。……可能なんはわかった」

 止めない限り、休み時間中この話に付き合わされることになるだろう。話を遮られて、洋介は少しだけがっかりしたように見える。

「何でそんなもん開発されたんかな?」

「今年は大規模なスポーツの国際大会が日本で開催されるじゃろ? きっとそういうイベントで使われるんじゃろ。流れ星って、願い事叶ったりしそうで縁起いいけぇ」

「でも人工流星とか……願い事も叶わなそうじゃ」

「そうは言うけど、天然がいいとは限らんで。魚も養殖のが安全で旨いこともあるって、死んだ漁師のじーちゃんが言っとった」

 魚と星を一緒にするなよ、と思った。

「また四人でいいから観に行きたいな。……もう長いこと集まってないし」

 洋介が、ちらりとこちらに寂しそうな目を向けた。

「……行かんわ。受験生じゃけぇ」

「いや、一日くらい大丈夫じゃろ」

 俺の反応にいけると思ったのか、洋介はさらに説得にかかった。

「気分転換も大事じゃ。高校生活最後の青春じゃろ? ってか、りょうはやっぱり……」

 何かを言いかけた洋介と目が合った。

「……ごめん。えっと、推薦じゃけぇ、もう受験関係ないじゃろ?」

 急に声のトーンを落とし、俺だけに聞こえるくらいの声で洋介は言った。

「……まだ結果出てないって」

「でも、指定校推薦って、ほぼ確定なんじゃろ? ……やっぱり東京行ってしまうんかぁ。広島って言っとったのに」

 洋介はしつこく食い下がってきた。

「せっかくじゃけ、その日集まった時に、進路のことみんなに話したらどうじゃ?
真希もりょうのこと気にしとった」

「……別に関係ないし」

 そこで、休み時間の終了を告げるチャイムが鳴った。

「じゃあ、人工流星観に行くの、ちょっと考えといてくれ」

 そう言って、洋介は自分の教室に戻っていった。どうやらチャイムに救われたようだ。

 洋介が小さい声で話してくれたのにも訳があった。俺はまだ誰にも、指定校推薦入試を受けたことを言ってないのだ。学校の生徒で知ってるのは洋介だけだろう。それもたまたま、担任の先生が洋介は既に知っているだろうと思って、雑談で俺の話をしてしまったことが理由だ。

 そもそも、みんなが一日十時間勉強しろだの言われている中で、自分だけ推薦をもらったことは正直言いにくい。自ら進んで言えるはずがない。

 それに、受験した大学は東京の大学なのだ。それが理由で、俺はまだ詩織にさえ話せていなかった。

 三年生になり、進路相談の面談で、先生は推薦という方法もあると教えてくれた。

 このまま流れるようにして自分の未来を選ぶことに疑問を持っていた俺は、その選択肢について深く考えるようになった。

 親と同じ道を進むことは安心かもしれない。でも、それが本当に自分のやりたいことなのかはわからない。それならこうして別の場所に行って、新しい自分になるための道を探すのもいいのではないかと思ったのだ。

 ……しかしそのはずが、今になって俺は迷っている。

 自分が東京に行こうとした本当の理由は何だったのだろう。上手く思い出せず、自分の中で曖昧になっている。

 指定校推薦を取り消すだなんて、簡単にできることではない。推薦してくれた学校の顔に泥を塗ることになる。最悪来年から、学校がその枠をもらえなくなることもあるだろう。それに、もし同じように推薦を受けたがっていた生徒が他にいたとしたら、俺がその枠を奪ってしまったことにもなる。

 そんなことも全てわかった上で、俺の心は揺れていた。

 東京に行く。生まれ育ったこの街を出ていく。大切な仲間と離れなければならない。そして詩織とも……。

 授業が終わったら、今日はすぐに学校を出よう。また洋介に誘われたら、なんて言って断ればいいのかわからなくなりそうだ。

 

 

 授業の後のショートホームルームが終わると、俺はすぐに階段を下りて校門へと向かった。

 見上げると、さっきまで空に貼り付いていた雲はもうどこかへ流れ去っていて、今は真っ青な高い秋の空が広がっていた。

 校門を出て、川沿いを駅に向かってしばらく北へ歩いたところに、角が焼肉屋の交差点がある。詩織はその信号の下で待っていてくれた。電柱に背中を預け、目を閉じて音楽の世界に浸っているようだ。耳から延びたイヤホンのコードが、スカートのポケットへと繋がっている。

 詩織は以前、邦楽だけじゃなくて、イギリスのバンドも好きで聴いていると言っていた。それがどんな曲なのか知らないが、見た目にそぐわず、渋い音楽の趣味があるのかもしれない。今もそれを聴いているのだろうか。

 詩織はこちらに気がつくと、イヤホンを耳から外して、胸のあたりで小さく手を振った。ここから一緒に帰るのが、三年生になってからの日課になっていた。

 毎日とはいえ、会って話すのはこの時間だけだ。きっと周りの高校生カップルと比べると、一緒にいる時間は短い方だろう。それでも自然とそうなるようになったのは、二年生の頃から、受験生の恋愛について話し合っていたことが理由だった。お互いに真面目な性格なこともあって、下校の時間は一緒に過ごしても、それ以外の時間にダラダラと時間を無駄にするカップルにはならないでおこうと、二人で話していたのだ。

 もちろん寂しさはあった。だけど、ゆっくり過ごすのはこの一年を乗り越えてからでいい。そう約束したことが、ちゃんと実現できていた。短い時間だとしても、俺も詩織もこの時間を大切にしている。

「何の歌聴いてたん?」

「『I would die for you』って歌だよ」

 歩きながら俺が訊くと、詩織は歌のタイトルを言った。やっぱり英語のタイトルだった。

「恋愛の歌なの」

 詩織は胸の下まで伸びた髪を揺らして、嬉しそうに言った。そんな詩織の姿を見て、俺はなんだか安心した。

「……今日さ、洋介が人工流星の話してた」

「何それ?」

 こちらを向いた詩織と目が合った。既に瞳に興味の色が浮かんでいた。

「なんか、人工的に流れ星を作る研究があるんじゃと」

「へぇ。流れ星を作るなんて、ぶちロマンチックじゃね。山波先生がいたら解説してくれたじゃろなぁ」

 詩織はカバンを右手から左手に持ち替え、一瞬空を見上げた。高い空に、さっきは見えなかった雲が向こう側にだけかかっている。まるで空が半分に分かれているみたいだった。

 山波先生は俺たちが三年生になった春に、他の学校へ異動になってしまった。今は別の先生が顧問をしてくれているが、もはやただ名前だけの顧問という感じである。それも仕方ない、山波先生のように天文学に詳しい先生などなかなかいないだろうから。

「……詩織はそう言うと思った。でも人工的な流れ星とか、願い事も叶わなそうな気がせん?」

「そうかなぁ。宇宙さん側から見ると、人工的とか気にしてないんじゃないかな。宇宙さんは向こうの山もこの川も、駅もマンションも、全部自然なものって思うかも」

「宇宙さんって誰じゃ。……でも確かに宇宙から見たら区別はつかんかもな。とはいえ、建物は誰かが造ろうって意志を以って造ったものじゃけぇ、自然とは違うじゃろ?」

「えー、じゃあ天然の蜂蜜だってさ、蜂さんが作ろうって意志を以って作ったものでしょ? この地球の生き物がすることなら、何をしても宇宙さんから見れば自然だよ」

 スカートから伸びた白い脚が小石を優しく蹴った。土色の小石はコロコロ転がって、草むらに飛び込んだ。

「……蜂に意志なんかないじゃろ」

「えー、蜂さんのことバカにしないでよ!」

「いつからそんな蜂好きになったんじゃ」

 俺が言うと詩織は笑った。雲間に光る太陽のような、とても綺麗な笑顔だった。

「とにかく、流れ星なら願い事は叶うよ。資料にも書いてあったじゃろ? 『流れ星は、神様が天の蓋を開けて下界の様子を眺める時に、蓋の間から漏れ出した天の光。その光が見えている間に三回願い事をすれば、神様は願いを聞き取ることができて、願い事が叶う』、でしょ?」

「……そんなんもあったな。ってかよく覚えとるな」

 去年の夏、俺たちはジュニアセッションのために、いろんな資料に当たって天体のことを勉強した。ジュニアセッションとは、全国の天文部が集まって活動を発表する、他の部活でいうところの大会みたいなものだ。長野県の野辺山にある、国立天文台の敷地内で行われた。そこで俺たちはまとめてきた星の神話を、みんなの前で発表したのだ。詩織が言ったのは、その時に見つけた流れ星に関するどこかの国の言い伝えの一つだった。流れ星に関する伝承は、世界中で様々な種類があった。

「覚えとるよ。楽しかったけぇ」

 そう言って、詩織は道路と歩道の間にところどころ設けられた、十五センチくらいの低い段の上にぴょんと飛び乗った。両手でバランスをとって歩いて、またすぐ飛び降りる。

 何でもないこの時間が、とても価値のあるものだと思った。特に受験生になってそう思う。

 俺たちは二人でいる時や、天文部の仲間といる時はこうしてよく話す。だけど、それ以外の場所ではこんな風に誰かと話すことはない。俺は多分、人とあまり目を合わせない、コミュニケーションに難あるクラスメイトだと思われていると思うし、詩織だって、見た目も派手じゃない、大人しい女子だと思われていると思う。だから、二人がこんな風にたくさん話している様子をクラスの人が見れば、多分びっくりするだろう。地味な者同士がくっついたと、バカにするやつもいるかもしれない。でも、それでもいい。

 俺はこれで幸せだから。

 

 

 仲良くなったのは、詩織が声を掛けてくれたからだった。

 一年生の時、俺たちは同じクラスになった。

 最初に話したのは、体育の時間だった。体育の時間に、俺は教室で本を読んでいた。

 あざが見えないように伸ばした前髪も、それが何の役にも立たなくなるのは体育の時間だった。俺はもともと運動が得意じゃなかったけれど、眉の上の「へ」の字のあざは、いつしか運動するということ自体をコンプレックスに変えていた。

 高校に入学して新しい環境になってから、心のどこかでずっと人の目を気にしていたのだと思う。俺は体育がある日に体調を崩すようになった。一度休むようになると、みんなが自分の休んだ理由を噂しているような気がして、体調は繰り返し悪くなった。俺はそんな悪循環から逃げるように、教室で必死になって物語の世界に入り込んだ。

 詩織も同じように、よく体育を休んでいた。彼女は教室の窓から、みんなが校庭を走っている姿をずっと見学していた。後から聞いた話では、単純に羨ましかったらしい。彼女は体が弱くて、激しい運動ができないと言っていたから。

 そして詩織は、しばらくして見学にも飽きてきた頃、今度は本を読むという習慣を持っている俺を羨ましく思ったらしい。何回目かの体育の授業の時に、「何読んでるの?」と俺に声を掛けてくれた。

 その時俺が読んでいたのが、何周目かわからないほどにお気に入りの『銀河鉄道の夜』だった。それを見た彼女は、唐突に星の素晴らしさを俺に語り出した。星は願い事を叶えてくれるのだとか、亡くなった人はみんな星になるのだとか。想像力豊かな人だな、と思った。

 俺も負けじと自分の知っている星の話をいくつかした。『銀河鉄道の夜』の銀河鉄道はあの世を走っているのだとか、『星の王子さま』の作者には「計画のない目標は、ただの願い事にすぎない」なんて名言があることとか。

 それを聞いた詩織は、「願い事だとしても、願うのはいいことだよ」と少し不満そうに言った。俺の言葉じゃないのに、俺に反論されても困る。ともかく、教室で二人の会話は意外にも弾んだ。

 最後に、

「一緒に、願い事しようよ」

 と詩織は言って、帰宅部の俺を天文部に誘った。どんな誘い文句だ、と思った。

 天文部の存在さえよく知らなかった俺は、最初は丁重にお断りした。だけど、毎回体育の時間、彼女は俺を勧誘し続けたので、とうとう一度見学に行ってみることにした。

「りょうにすごく合っている部活だと思うから」と彼女は言った。それは正しい誘い文句だった。

 それから、詩織と一緒に過ごす時間が少しずつ増えていった。

 

 

 落ち葉が秋風に吹かれて、カサカサと音を立てながら、俺と詩織の間を流れていく。高校から駅までの道沿いは、川を挟んで家々が立ち並んでいる。

「……それでも、何で広島なんじゃろな? 試験か?」

 俺はふと疑問に思った。試験だとしても人工流星なんて催しは、だいたい東京のような大都会でした方が話題になるものだ。

「何でだろうね。でも、きっと何か理由があるんだよ。物事っていうのはそういうもんじゃ。……って、りょう自身がそう言ってなかった?」

「そうじゃったかな?」

 時々詩織は、俺もよく自分で覚えていない、俺が言ったことを覚えている。

「でも、東京でした方が話題になりそうなのは確かじゃね」

 今度は落ち葉を優しく蹴ってみてから、さっき俺が思ったことと同じことを彼女は言った。

「りょうは東京、行きたいって思う?」

 詩織が急にそんなことを言うので、俺は一瞬息を呑んだ。

「ん……あ、あんまり興味ないかな」

 戸惑って変な否定の仕方をした俺に、詩織は小首を傾げた。

「どしたの?」

「いや、詩織は? お店継ぐん?」

 俺は話をそらすように、詩織に尋ねた。

「私は……あんまりケーキ作る才能なさそうやけ、お手伝いくらいならできるけどって感じかな。まだ覚悟が決まらんから、とりあえず広島の大学に行こうと思う。それなら、学校行きながら家のお手伝いもできるし……」

 詩織の家は小さなケーキ屋さんを営んでいる。お父さんとお母さんは昔同じケーキ屋さんの工場で働いていて、そこで出会ったらしい。

 俺は詩織が抱えている迷いも、自分と似ているものだと思っていた。自分の向き不向きと環境が一致するとは必ずしも限らない。そんな同じ悩みを抱えているから、俺と詩織は似た者同士になれたのだと思う。

「りょうは模試の感じなら、受験も大丈夫そうじゃろ。りょうが選んだ道を、私は応援しとるよ。大学生になったらいっぱい遊ぼね」

 詩織がそう言うので、俺は胸が痛んだ。

「……そうじゃな」

 どこへ向かえばいいのか、俺はまだ自分でもわかっていない。

 詩織はまた段の上に飛び乗った。絹糸のような髪がふわりと揺れる。車道を車が勢いよく走っていった。万が一、向こうへバランスを崩したら危ないぞ、と言おうと思ったけどやめた。想像するのも嫌だった。

 駅に着くと、改札のところで俺たちは立ち止まった。

「じゃあ、今日も予備校行ってくる」

 予備校は広島市の方なので、俺の乗る電車は詩織とは逆方向である。

「偉いなぁ。私も頑張る。じゃあまたね」

 手を振って離れていく彼女に、俺はいつちゃんと話せるのだろうかと思った。

 大きなビルの一階から四階までが、その予備校のフロアになっていた。

 授業が終わって階段を下りていくと、受付のところに、見覚えのある後ろ姿が立っていた。少し横を向くと、マスクのゴムが耳にかかっているのが見えて、それでレオンだとわかった。彼は天文部の一つ下の後輩で、去年までは一緒に部活動をしていた。もちろんレオンというのはあだ名で、ちゃんとした漢字の名前があるわけだが、誰もその名前を思い出せないくらいに、レオンというあだ名は定着していた。

 話し掛けずに、俺が後ろを通り過ぎようとした時、彼はタイミング悪く振り返った。

「あれ? りょうさん?」

「……お、レオンか?」

 無視するわけにもいかず、俺はあたかも今気づいたように返事した。

「りょうさんもこの予備校に通ってるんですね」

 レオンは無表情な上に、花粉症だとかでいつもマスクをしている。今日も、顔の半分以上を白いマスクが占めている。今はそういうやつだと理解できるが、出会った頃は何を考えているのかわかりづらかった。

「うん。いつからおるん? こんなところで会うのは初めてじゃな」

「僕たちは先週からお試しで授業を受けてるんです。良さそうなら、冬期講習から通ってみようかなと思ってます」

 予備校が、初めて来る高校生向けにキャンペーンをしているのだろう。そんなポスターが貼られているのを見た気がする。

「『僕たち』って、一人じゃないんか?」

「あれ……りょうさんですか?」

 レオンの後ろからやって来たのはモナだった。彼女もレオンと同じく、天文部の後輩だ。

「お久しぶりです」

 と言いながら、モナは珍しそうな顔でこちらを見ている。レオンとは対照的に、考えていることがわかりやすいのがモナだ。今はツチノコを見たというような顔をしている。

 実際、二人と会うのはかなり久しぶりだった。学校でもずっと会うことがなかったので、モナのような表情になる気持ちもわかる。

「……りょうさんが通ってるなら、この予備校は良さそうですね。りょうさん、頭いいですもん」

「そんなことないって」

 とだけ言うと、三人の間にしばらく沈黙が流れた。何かを話さなければいけない気がした。

「……でも、講師はみんな熱心でいいと思うよ。あと、登録すれば家で東京の有名講師の講義を聴くことができる。それならスマホでも聴けて、好きな時間に授業受けられるしな。俺は去年、親にもらったちょっと古いノートパソコンが部屋にあるけぇ、それ使って授業受けとる」

 訊かれてもいないのに、俺は予備校の情報をまくし立てた。そうなんですね、と二人は俺の様子を気にするでもなく、返事をした。

「……ほいじゃ、俺もう帰るけぇ。またな」

 もう話すこともなかったので、俺はすっと背を向けて、入り口に向かって足を踏み出した。

「……来週、人工流星が降るんです。知ってますか?」

 後ろでモナの声がした。勇気を出して言ったみたいに、声がうわずって聞こえた。

「観に行かないんですか?」

 レオンも訊いてきた。どうやら、みんなその話題で持ちきりのようだ。

「うーん、受験生じゃしな」

 とだけ言って、俺は後輩の方を振り返ることもなく予備校を後にした。

 

 

 

 予備校から家に帰ってくると、郵便受けに自分宛ての封筒が届いていた。その封筒を開いて通知を読んだ俺は、僅かの間、時が止まったように体が固まった。そして苦しさを感じて、初めて自分が呼吸を止めていたことに気がついた。

 俺は東京の大学に合格した。

 この気持ちは何だろう。心の容器は喜びでいっぱいになるべきだったのに、切なさのかけらがいくつも浮かんでいた。

 同時に、これまでに喜びというものが、ただ紛れもない純粋な感情として胸に訪れたことがあっただろうかと思った。

 誕生日にプレゼントをもらった時、俺は喜びを表現しようと努めなかっただろうか。

 くじで幸運を引いた時、いずれその反動のように来るかもしれない不幸のことを考えずに、素直に受け入れることができただろうか。

 今、この喜びを手に入れてしまえば、それと引き換えにどんな悲しみが訪れるのだろう。悲しみに癖のついたシーソーは、喜びに重りが載ると、そちらに負けないよう、さらに悲しみを上乗せするかもしれない。

 これから、父と母にこの封筒が届いたことを報告して、期限までに入学の書類を送って入学金を支払えば、俺は喜びを手に入れたことになる。

 ……期限までに。

 期限は来週中である。人工流星が降った次の日に書類を送ればギリギリ間に合う。逆にそのタイミングで送らなければ、入学の意思がないとみなされるのだろう。

 それに、来週の土曜日は詩織の誕生日でもある。

 そんな時に俺が東京に行くと言ったら、詩織は何と言うだろうか。どうして相談しなかったのと責めるだろうか。そばにいてほしいから、離れないでと言うだろうか。

 むしろ、そうしてくれた方がいいかもしれない。

 詩織はきっと、俺が決めた道ならと、不平も言わずに応援してくれるのだろう。

 俺はその通知を最後まで読んでから、もう一度封筒にしまい、隠すように自分の部屋の机の中に入れた。

 朝目が覚めると、カーテンの隙間から強い光が差し込んでいた。昨日いつも通り閉めたつもりが、少し隙間が開いていたらしい。

 俺はまぶしさに目を細めながら、壁に掛かっている時計を見た。いつもより時間は早かったが、もう一度寝付けそうにもなかったので布団から起き上がった。

 ベッドと逆側の壁には、俺の背と同じくらいの高さの本棚がある。昔から本を読むのが好きだった俺は、そこに読み終えた本をしまっていた。ぎっしり詰め込まれたお気に入りの小説を眺めていると、自分がこれまで本当に生きてきたのだということを、確かめることができているような気持ちになる。

 部屋を出てリビングに向かうと、扉の向こうで、平日なのに珍しく人の気配がした。父と母はいつも俺が起きる時間には出勤しているので、きっと那月だろう。しかし彼女はいつも、俺が家を出るくらいの時間に起きてくるはずだ。

 リビングに入ると、やはり制服を着た那月が座っていた。テレビの前の机で、朝食を食べている。

「あれ? おはよ」

「おはよう」

 那月はこちらを見ずに返事をした。

 こんな時間に起きてくることなど珍しい。彼女はいつも学校に間に合うギリギリまで寝ている派なのだ。中学は近くなので、早起きするくらいならば走って間に合わせればいい、という精神だ。

「……今日は早いな。何かあるん?」

「別に、お兄には関係ないじゃろ」

 なんと、質疑応答すら許されないのだろうか、と俺は内心傷つきながらもテーブルの上を見た。

 母が用意してくれた俺の分の朝食がある。小鉢に盛り付けられたサラダとハム、そしてスクランブルエッグだった。俺はリビングから対面キッチンへ入り、いつものようにトースターに食パンを入れた。タイマーをグリっと回す。同じ時間に設定したつもりでも、なぜか食パンは焦げる時と焦げない時があるから注意しなければならない。

 ギギ、と椅子を引く音がしたのでリビングを見ると、妹が立ち上がってカバンを肩に担いでいた。

「じゃ、行ってきます」

 妹は素っ気なく言って、逃げるようにして家を出ていった。同じタイミングで朝食を食べるのが嫌だったのかと思うと、また少し傷つく。

 ギリギリ焦げずに焼き上がった食パンを取り出して椅子に座ると、テレビでは朝のニュース番組が流れていた。

 アナウンサーがスタジオの大きな画面の前で、何かを伝えている。

『今夜は人工流星が流れます。幸運なことに天気もよく、壮麗な流星が見えることが予想されます――』

 今日か、と俺は思った。後ろの大きな画面には、美しく尾を引く流れ星の写真が映っている。人工流星が降るのは二十一時からで、その時間の雲の動きが図になって表示された。

『街ではそれに合わせて、いくつかの催しが行われています。今市内のレストランと中継が繋がっています』

 アナウンサーが言うと画面は切り替わって、広島駅のそばにある、大きなホテルの中のレストランが映し出された。真っ白なクロスが被せられたテーブルが並んでいて、それぞれのテーブルの中心には、火の点いていないキャンドルが立てられている。

『こちらでは、今夜は星にまつわる特別な料理が提供されるそうです。窓の外は今はまだ明るいですが、今夜ここからの景色は、とてもロマンチックなものになるでしょう』

 天井まで覆われた窓からは、確かに夜空がよく見えそうである。夜景を売りにしているレストランも、今夜ばかりは夜空が主役らしい。何ヶ月も前から予約している人もいるのだとか。こんな風にテレビで宣伝されると、どの店もすぐに予約でいっぱいになってしまうだろう。

『花金の選択肢として、皆さんも世界初の人工流星を観るために、大切な人と夜空を見上げてみてはいかがでしょうか?』

 そう締めくくると、また映像はスタジオに戻った。

 世界初。大切な人。

 詩織……。テレビの影響は絶大だ。高校生活最後の思い出だと思うと、俺は少しだけ興味を惹かれていた。

 

 

 その日の一時間目の授業は英語だった。「wouldには様々な用法がありますねー」と、英語の先生が抑揚のない声で文法解説をしている。俺は何だか集中できずに、ぼんやりと話を聞いていた。

 時間通りにチャイムが鳴って授業が終わる。そして、最初の休み時間に彼は姿を現した。

「りょう、りょう!」

 来るだろうなと思っていたが、まさか午前中からとは。洋介は俺の姿を見つけると、迷いなく教室に入ってきた。

「どした?」

 俺は努めてめんどくさそうに言った。

「今日だよ今日、人工流星。どこに観に行こうか? 広島駅のビルのとことかよく見えるらしいな。今日も朝、テレビでやってた」

 多分俺も同じの観たけど……って問題はそこではない。

「いや、まだ行くとは言っとらんじゃろ」

 なぜか腕を組んでにんまりしている洋介を一瞥して、俺はそう言った。

「いいじゃろー。もう推薦の合格通知、来たんじゃろ?」

「……なんで知っとるん?」

「あ、やっぱり」

 洋介のメガネの向こう側の涼しげな目がニヤリとしている。

「……ハメたな」

「せっかくじゃ、今日天文部のみんなに報告したらどうじゃ? 流星の観測場所は、ちょっと山波先生にも尋ねてみるけぇ。この前も電話で先生と話したけど、この人工流星は大体直径二百キロの範囲で見ることができて、その仕組みとしては――」

 ジリリリリ!

 洋介が面倒な説明を始めた時、教室に非常ベルの音が鳴り響いた。全員が意味もなく天井を見上げたり、誰かと目を合わせたりする。俺も洋介と目を合わせた。

「何じゃ?」

 すぐに音は鳴りやみ、校舎全体に放送が流れた。

『ただいまの非常ベルは誤作動です。災害等は起こっていません。繰り返します、ただいまの非常ベルは誤作動です……』

 厳しい体育教師の声が響いた。ちょっと怒っているように聞こえる。もしかしたら誰か下の学年の子がふざけ合っていて、たまたま非常ベルに当たったとかかもしれない。

「何じゃ人騒がせじゃな……。お、もう授業始まるな。場所については、もう一回山波先生と連絡とってから決めるわ」

「ちょ、待てって」

 洋介は俺の制止も無視して、足早に教室を出ていった。

 

 

 静かな授業中の教室に、先生の声だけが響いている。

 俺は机の下の携帯でSNSを覗いていた。「人工流星」で検索してみると、みんながそれを話題にしていることがわかる。

 瀬戸内海で打ち上げられたロケットが、宇宙で流星の素となるビー玉のようなものを吐き出す。それが大気圏に突入する際に燃えて輝き、人工流星となる。地上では直径約二百キロの範囲で観測できるらしい。

 夜空に光を輝かせるという点では、花火に近いかもしれない。しかし花火と比べても見える範囲はずっと広く、空さえ見えれば自宅のベランダからでも観ることができる。

 花火だけでなく、ショーと呼ばれるようなものは、みんなが今同じものを観ているという状況が、心を高まらせてくれるものだ。経験の共有は感動に繋がる。それがこれだけの広い範囲で行われるというのだから、その興奮は計り知れないだろう。多くの人が話題にするのも自然なことだ。

 そうして携帯を見ていると、画面の上に一つのメッセージが届いた。

[りょう。今日風邪ひいちゃって学校休んじゃった。熱はほんのちょっとじゃけ、心配しないで。寒くなってきてるから、りょうも気をつけて]

 詩織からの連絡だった。

 こんな日に風邪をひくなんてタイミングの悪いやつだ。どうやら、今日が人工流星の日だということは忘れているらしい。

 昼休みに、俺は迷惑かと思いながらも電話してみることにした。通話は学校では禁止されているので、先生の目につかない第一校舎と第二校舎の間のスペースで電話をかけた。

 数回コールすると、すぐに彼女と繋がった。

「もしもし」

「ああ、出れたか。大丈夫?」

「うん、心配させてごめんね。そんなに熱も高くないんじゃけど、大事をとって学校休んだの。朝よりちょっとましになってきたけど……しんどいから寝とくね」

「そっか。急に電話してごめん」

「全然いいよ。声聞けてちょっと元気出た」

「よかった。ゆっくり休んで」

 俺は電話を切った。試験当日に風邪をひくよりはましだろう。でもまさか、こんな状態の詩織に、今夜人工流星が流れるとは言えるはずもない。みんなで行くと聞いたら寂しがるだろうし、詩織なら無理してでも来るかもしれない。あとで、洋介と真希にも口止めしておかなければ。

 

 

 人工流星が降るのは二十一時の予定だった。洋介から連絡があり、俺は待ち合わせ場所へ向かうため、二十時前に宮島口駅に着いた。

 駅の周辺もすっかり暗くなっていたが、フェリー乗り場へ向かう道は、こんな時間でも多くの人が往来している。俺はその人の流れに乗らず、交差点を右にそれた。一つ角を曲がるだけで、一気に人気のない道に出た。それからしばらくまっすぐ歩くと、ファミリーマート宮島口店が見えてくる。そこが、洋介からの連絡にあった待ち合わせ場所だった。手前に広い駐車場があり、海を挟んだ向こうに宮島の影が浮かび上がっている。

 洋介と真希は駐車場の手前の、大きなコンクリートの段に座っていた。

「おー、待ったぞー」

「ごめん。ってかなんでここが待ち合わせ場所なんじゃ?」

 地味に、駅から距離があった。

「人が少なくて、コンビニもあって便利じゃからな。いつでもいいロケーションを見つけ出すのが、天文部のサガじゃろ」

「どんな理由じゃ」

 そんな会話をしている横には、真希がちょこんと座っている。

「りょうちゃん、久しぶりじゃね。……元気なん?」

 俺も真希を見るのは少し久しぶりな気がした。去年の天文部での活動以来会っていないかもしれない。相変わらずふわふわの髪をしている。

「……久しぶりじゃな。元気にしとるよ」

 良かった、と真希は安堵したように小さな声で言った。俺も少し懐かしい気持ちになった。

 当時、天文部で観測する時は、いつもみんな制服の上に防寒着を着ていた。冬は上にウインドブレーカーを羽織り、女子はスカートの下にジャージを穿く。今日は深夜に観測する訳ではないので、誰も上着は着ていない。真希もスカートの下はタイツを穿いているだけだ。

「あれ、先生は誘っとらんの?」

 山波先生の姿が見えない。遅れてくるのだろうか。

「ああ、先生も声掛けたんじゃけど、今日は美星町ってとこで観測の仕事をしとるらしいわ。じゃけぇ、この三人だけじゃな」

「びせいちょう?」

 初めて聞いた町の名前だった。

「美しい星の町で美星町。岡山にあるんじゃ」

「うち知っとる! 素敵な名前の町じゃなぁ。光害対策してて、夜は星がよく見えるって。うちもそっちまで行きたかったなー」

 真希はコンクリートの上で体を左右に揺らし、はしゃぐように言ったが、隣の洋介は首を振った。

「さすがに受験生には遠いじゃろ。やけぇ、先生に話したら力になってくれた。嚴島神社のクルージングが観光客向けに行われとるみたいで、そんな風に海の上から見るのが、周りが真っ暗で一番いいんじゃないかって」

「そんなもん、今日はもう予約でいっぱいじゃろ」

「それがな、先生にコネがあるらしくて、天文部の生徒ってことで少人数なら乗れる船を頼んでもらった」

「マジか」

「さすが先生じゃ! 船の上からとか最高!」

 真希は語尾に音符が付くくらいの勢いで言った。

「とりあえずみんなで宮島に行って、そこから船に乗せてもらおう」

 そう言って、洋介は段の上から勢いよく飛び降りた。

 三人でフェリーの乗り場まで歩いていくと、観光客が列をなして並んでいた。

 対岸からやって来た船が到着すると、たくさんの人が順番に乗船していく。結構人が多くて、乗船するまでに時間がかかるほどだった。

「いつもこんな人多いん?」

 俺は真希に尋ねた。世界遺産である、嚴島神社のある島だ。国内外問わず、やって来る観光客は多いだろう。

「いや、今日は特にじゃないかな? 金曜の夜は混むこともあるけど……でも夕方五時過ぎたら商店街も全部閉まって真っ暗やけぇ」

 真希の言葉には、どこか生まれ育った島への自嘲めいた響きがあった。

 船には景色を楽しめるデッキと屋内の両方に席がある。観光客はみんな外に出て、いずれ姿を現す、ライトアップされた嚴島神社の写真を撮ろうとカメラを抱えて準備している。俺たちは屋内の席を選び、俺が真ん中になって並んで座った。

 船は滑らかに出航し、宮島へ向かって走り出した。

「……そういえば洋介、お母さんはええんか?」

 俺は洋介に小声で言った。

「ええんかってどういうことじゃ」

「お母さんも星好きなんじゃろ?」

 確か以前そんなことを言っていた。洋介はお母さんと二人で暮らしている。ちょっと複雑な家庭なのだ。

「……仕事で忙しいじゃろな」

 俺は洋介の表情に、どこか後悔の影が潜んでいるようで気になった。

「今日は流れ星観終わったら、すぐお家に帰れるなぁ」

 俺と洋介の会話が聞こえていないようで、真希は島の方を見つめながら無邪気に言った。

「島の中で友達と遊ぶことないけぇ珍しいなー。あ、二人とも最終フェリー逃さんようにね。電車がなくなるよりも早いから」

 さすがに島に取り残されるようなことにはなりたくない。俺と洋介は強く頷いた。

 

 

 宮島に渡ると、係員が切符を回収していた。嚴島神社の方では、たくさんの人が集まっているようだった。みんな、嚴島神社越しの流星を見ようとしているのかもしれない。写真映えもしそうだが、星の写真を綺麗に撮るのは想像以上に難しいことを、俺は知っている。

 フェリーのターミナルを出てから、俺と真希は洋介の後ろについて、先生の連絡に記された場所へ向かった。海辺から桟橋が延びていて、暗闇の中、小さな船がいくつか停泊しているのが見える。

 三人で桟橋へ向かって歩いていると、急に誰かに呼び止められた。

「君らが山波さんが言っとった子たちか?」

 声がした方を見ると、立っていたのは口元にヒゲを生やした大柄なおじさんだった。丸刈り頭に白いタオルを巻いていて、いかにも漁師という風情の人だ。きっと制服姿でこんなところを歩いていたので、気づいてくれたのだろう。

「そうです。えっと……船を出していただけるって聞いて」

 おじさんの見た目がちょっと怖かったので、洋介がビビっているのがわかる。頑張れ洋介。後ろから見てるぞ。

「おう、山波さんから聞いとる。人工流星の観測じゃろ? 三人だけか?」

「はい!」

 洋介は元気に返事した。

「じゃあついてきんさい。もう二十一時まで時間もあまりなさそうじゃ」

 俺たちはおじさんの後ろについて歩く。風向きのせいか、潮の香りが強くなった気がする。少し歩くと、すぐに桟橋に繋がれている小さな船が見えてきた。

「これがわしの船じゃ」

 船は七、八メートルくらいの長さがあり、近くで見ると意外と大きい。操舵室になっているスペースこそこぢんまりしているが、その後ろのスペースには、十分に俺たち三人が乗れる広さがあるようだった。船は波に揺られ、微かに上下している。

「すごい、かっこいい。こんな船乗るん初めてじゃ」

「おう、そうか。ほれ、飛び乗れ」

 おじさんは洋介の言葉に少し頰を緩めながら、俺たちを船へ促した。

 洋介は足を掛けて身軽に飛び乗った。船と陸の間に微妙に距離があって怖い。しかも辺りは船の薄暗い明かりしかない。次に、真希が船に足を掛けた。

「きゃ!」

 飛び乗ろうとした真希が、船の縁に足を引っ掛け、船の中へ前から盛大にズッコケた。スカートがふわりとめくれる。

「お、大丈夫か? ……あれ、お前」

「もう、見んといて!」

 真希はパッと立ち上がってスカートを直した。どうやら怪我はなさそうである。

「お前、真っ赤な毛糸のパンツ穿いとるんな。色気ないなー」

「アホ!」

 真希は恥ずかしそうにしながら、洋介の頭を結構強めに叩いた。

 俺は彼女みたいにならないように、慎重に船に飛び乗った。

「こんなに観光客の多い中で、僕らだけ特別にしてもらっていいんですか?」

「これはわし個人の船じゃけ、問題ない。商売で船を出すなら申請がいるんじゃがの」

 おじさんが手際よく、船を停めるビットからロープをほどき、操舵室に入ってエンジンをかけた。

 夜の闇へ、船は緩やかに駆け出した。自分のすぐ足元で、波立った水面が後ろへ運ばれていく。俺たちは思わず感嘆の声を漏らした。さっき宮島に来る時に乗った大型の船とは違い、小さな船はよく揺れる。三人とも船の縁につかまってバランスをとった。

「おじさん、先生とは何の知り合いなんですか?」

 エンジンの音に負けない声で、洋介が尋ねた。

「わしも星空が好きで、若い頃は山波さんとよく観測に行っとったんじゃ。いろいろ教えてもらったのう」

 天体好き同士の結び付きは固いようである。潮風が想像以上に冷たくて、俺は少し身を小さくした。

「……と、この辺が良さそうじゃな」

 おじさんがエンジンを停めると、辺りは急に静かになった。さらに船のライトを消すと、本当に真っ暗だ。広島市の方を見ると、全体が強い街明かりに包まれて光っていることがわかる。自分たちは普段あんなに明るいところで暮らしていたのかと、こうやって見ると思う。

「大きな船が通る時は、少しだけ波で揺れるかもな。まぁ離れとるから大丈夫じゃろ。明るいところを見ずに、暗闇に目を慣らしておきんさい。天文部なら知っとるか」

 俺たちはおじさんの言う通り、明るい方を見ないようにした。星の観測前は、しっかり闇に目を慣らしておかなければならない。人間の目は明るい方にはすぐ順応するが、暗さに完全に慣れるには最大三十分かかることもあると、山波先生から教わった。

「……二十時五十八分。もうすぐだ」

 洋介が腕時計で時間を確認する。

「方角はこっちでいいのね? 楽しみ」

 真希が夜空を見上げ、微笑んでいる。

 俺も、今か今かと夜空を見上げる。あまり見上げていると、首の後ろがちょっと痛くなってくる。だけど、下を向いてる間に始まってしまうかもしれないので、見上げ続ける。

 そしてその瞬間は、日常の延長線上にあるように、唐突に訪れた――。

 夜空に、一つ目の光が輝いた。

「あ!」

 真希が声を上げた。嚴島神社の向こう側、何もない夜空から突然現れたその光は、弥山の上の闇を斜めに三秒ほど切り裂いて消えた。

「見た?」

 真希がこちらを見た。俺は目を合わせて頷いた。思っていたよりも、ずっとはっきり見えた。

 もう一度空に視線を移すと、それはもう始まっていた。

 何もないところから、次々と光が生み出され、同じ方向へと流れて行く。

「……星が降っとる」

 洋介が小さな声で言った。それからスマホのカメラを空に向けて、写真を撮り始めた。流星が現れるたびに、どこか遠くから歓声が聞こえた。

「こりゃあすげえな」

 操舵室にいたおじさんも、感動して声が弾んでいる。

 光のインクが空に線を描いて、そして消える。いくつもいくつも現れては、闇に吸い込まれる。

「何個、願い事叶えられるんじゃろ」

 真希が、胸の前で両手を合わせながら言った。

「……すごいな」

 俺は確かに感動していた。

 どうしてこんなにも、感動するんだろう。

 光には意味なんて何もない。

 美しい花、空の色、星の輝き。どれも人を感動させるものに理由などない。理由なんてなくても、人の心はどうしようもなく動く。

 流星が降り注ぐ。今、夜空に奇跡が惜しみなく描かれている。

 人が勉強して身に付けた公式や論理なんてものは、奇跡の前では何の意味もない。

「詩織……」

 俺は思った。感動した時に、いつも一番最初に浮かぶのは彼女だった。

 これを、今日一緒に観られないのは残念だった。

 俺は意味もなく、彼女の元へ駆け出したかった。もっとそばにいたいと言いたかった。

 明日必ず、広島の大学に行くと決めたことを伝えよう。東京に行くのを迷っていたことは、わざわざ言わなくてもいいかもしれない。

 ただ、これからもずっと一緒にいるということを伝えよう。

 

 つづく

≪-テキストは横読み-≫

\インスト音源付き/

Movie

WEAVER「最後の夜と流星」

Profile

WEAVER 河邉徹(Dr.)

1988年6月28日、兵庫県生まれ。関西学院大学 文学部 文化歴史学科 哲学倫理学専修 卒。
ピアノ、ドラム、ベースの3ピースバンド・WEAVERのドラマーとして2009年10月メジャーデビュー。バンドでは作詞を担当。
2018年5月に小説家デビュー作となる『夢工場ラムレス』を刊行。

WEAVER公式HP:
http://www.weavermusic.jp

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