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1993年刊。日本文化の中に見え隠れする朝鮮文化とその影響を探訪するシリーズ10巻目。巡る先は朝鮮半島の玄関口たる北九州(筑前・筑後・豊前・豊後)。
面白いんだが、著者の限界も露わに。
勾玉に代表されるように、古代日本(弥生時代)にて、文物の流入流出は、その支配権の帰属如何を問わずに行われていた。
もとより、朝鮮半島からの文物(一部は人も)の流入は、列島内の文化の発展方向を規定したのは間違いなく、重要性は動かないのは当然である。
しかし、騎馬民族征服仮説(流石に列島は馬・遊牧文化とはならず)に大きく疑問符がつく中で、これを所与の前提と看做すことには、前提条件に対する思索の甘さが付きまとう。
さらには、文物の移転が人の移転にのみ従属する考えに固執し、弥生時代の交易の意味を等閑視する誤謬が目に付く。
当然のことだが、文物の移転流入が、直ちに流入先への支配権を流入元が持っているというわけではない。そして、これは支配権の帰属如何の議論が、民族対立といった感情的な問題とはならない、列島間の文物移転においても等しく妥当するものだ。この点を等閑視しているきらいは強い。
もっと問題なのは、かような観点からの著者に対する若手研究者の的確な批判に対し、著者が感情的に反発する件。老害ではないか?とまで邪推できそうな著者の態度では、(恐らく)正しい部分にも懐疑を抱かせてしまうだろう。誠に残念という他はない。
また、この問題は、著者自身において、大陸や半島の検証がすっぽり剥落しているからかもしれない。
もちろん、ある観点から見た列島の古代遺跡の有り様というシリーズの価値が揺らぐわけではないが…。