紙の本
『本たち』の物語
2009/01/05 21:26
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サムシングブルー - この投稿者のレビュー一覧を見る
『遠い朝の本たち』は、須賀敦子さんの記憶の中のひとと本をめぐる16の物語です。
この本はクリスマスに友達がプレゼントしてくれました。大切に読みました。『遠い朝の本たち』が語りかけてきます。遠い昔『小公子』のセドリック、『三銃士』のアトスに胸をときめかせていた頃を思い出しました。
最初の物語『しげちゃんの昇天』『父ゆずり』最後の物語『赤い表紙の小さな本』がいいです。
須賀敦子さんは昭和4年兵庫県武庫郡に三人兄弟の長女として生まれます。彼女は父ゆずりの本好き。女が本を読んでると、女はろくなことにならない、と言われた時代です。しかし、彼女は父から母から、叔母から本を贈られて育ちます。戦前戦後と青春を本とともに過ごしたなかで、彼女は同級生のしげちゃんにだれよりも影響を受けます。しげちゃんは女子大を卒業して修道女に、彼女はフランスに留学します。そして35年後に再会します。その再会場面が胸を打ちます。
『赤い表紙の小さな本』ってどんな本だと思いますか。それは誕生日帳です。そこではしげちゃんは「しいべ」と呼ばれています。「しいべ」の誕生日3月4日に「個性を失ふといふ事は、何を失ふのにも増して淋しいもの。今のままのあなたで!」と書き綴っています。
あなたにとって『本』とはなんですか。
紙の本
アルバムの頁をめくるように、忘れ得ぬ本の思い出が綴られていく
2004/07/09 22:09
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:風(kaze) - この投稿者のレビュー一覧を見る
人生のまだ「遠い朝」だった頃に出会った本たち。雪のひとひら、ひとひらが舞い落ちてきて、いつしか降り積もるように、須賀さんの心の引き出しにしまい込まれていった本たち。子供だった頃から無類の読書好きで、あれこれと本を読んでいった須賀さんが、スクリーンに投影するようにして、自分の心の糧となった本について語っていったエッセイ集です。
初めてその本に触れた時には、「なんなんだろう、これは?」と、首をかしげてしまった言葉への疑問。それがある日、「ああ、あの言葉はこういうことだったのね。いま、分かったわ」と、天啓のように脳裏にひらめくその瞬間。
初めてその本を読んだ時、ハッとさせられ、記憶の中にとどめられた本の中の文章。それら文章たちが、オルゴールの蓋を開くと音楽が鳴り出すように、再び心によみがえるその瞬間。
そうした忘れ得ぬ瞬間を、本と自分とを結ぶ思い出の数々を紡いでいった須賀さんの文章の、なんて素敵なこと。わくわくしながら、引き込まれるように、この一冊を読んでいきました。
クーリッジの『ケティー物語』の世界に夢中にさせられ、その本が取り持つ縁を語った「まがり角の本」。
アン・モロウ・リンドバーグのエッセイに心を奪われた思い出を綴った「葦の中の声」。
アントワーヌ・ド・サンテグジュペリの作品との邂逅、その文章に心を強く揺さぶられた記憶を書きとめた「星と地球のあいだで」。
ワーズワース、イェイツの詩が描き出すイメージに、「こんな美しいことがあるか」と見とれ、魅せられた「ダフォディルがきんいろにはためいて……」。
16のエッセイはどれもそれぞれ素敵ですが、格別、この四つのエッセイに惹かれるものがありました。
本をめぐるエッセイ集では、これまでは長田弘さんの『風のある生活』(講談社 1984年刊行)がとっときの一冊でしたが、本書はそれに優るとも劣らないとっときの二冊目になりました。
須賀さんの文章の見事なこと、そこに込められた思い出の生き生きと輝いていること。本を友とし、本の旅人と自他ともに認める方に、ぜひどうぞとお薦めしたい一冊です。
おしまいに、須賀さんが自分の肖像画をささっと描いたスケッチのような、そんな文章を引かせていただきます。「まがり角の本」と題されたエッセイの冒頭の文章です。
>(p.85 から)
紙の本
魂の静寂を思わせる文章の礎となったものたち
2004/03/31 18:58
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投稿者:ろこのすけ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「何冊かの本が、ひとりの女の子の、すこし大げさに言えば人生の選択を左右することがある。その子は、しかし、そんなことには気づかないで、ただ、吸い込まれるように本を読んでいる。(省略)その子のなかには、本の世界が夏空の雲のように幾層にも重なって湧きあがり、その子自身がほとんど本になってしまう」
と言う書き出しではじまる「まがり角の本」の章。
幼い須賀さん自身がほとんど本になってしまうほど吸い込まれた本「ケティー物語」。北米の庭の広い家に暮らすケティーとその弟妹たちの物語。ケティーが須賀さんと同じ長女で総領だったことに親近感を覚えたという他に、庭についての想い出が重なって惹き付けてやまなかったこの本を12歳の須賀さんは愛読して終わりだったわけではない。
繰り返し読んだこの本の中に理解できない言葉「サテンの帯」(アメリカ人のいう「帯」ってなんだろう?)「車つきベッド」(一体何だろう?)、それらが須賀さんを「大きくなったら外国に行きたい」と思わしめ、「外国へ行ったらきっといろいろなことがわかるだろう」と誘(いざな)った。
つまり、冒頭の「何冊かの本が、ひとりの女の子の、すこし大げさに言えば人世の選択を左右することがある。」に至るのだった。
須賀さんが60歳に手が届くとき、長い間、実体のわからない言葉だったこの「車つきベッド」の存在をアメリカ旅行中に偶然にみつけ、ようやくその意味を知ることとなった。
50年間、この謎の言葉が「いくら窓を開けても出ていかない、しつこい煙みたいにくすぼり続けていたのを知って、私は大声をあげそうになった」と言わしめる。
1冊の本が人生の選択を左右し、深く内在しつづけ息づいていることは須賀さんにとって読書がもはや肉体の一部になっていることの証左なのであろう。
また「葦の中の声」の章では、アン・リンドバーグが指し示す「まやかしのない言葉たち、ものごとの本質をきっちりと捉えて、それ以上でもそれ以下にも書かないないという信念と、重かったり大きすぎたりする言葉を使わない」というアンの思考自体が須賀さんにとって均質なものだと吐露するに及んで、この思考はまぎれもなく須賀さん自身のものでもあることを読者は作品に伺い知ることが出来る。
人生が多くの翳りと、それと同じくらい豊かな光に満ちていることを知らなかった「遠い朝」、須賀さんが読んだ様々な本たちは、友達、弟妹、父母、叔父たちとの愛おしい思い出と紡ぎあって須賀さんという人物の陰影を深く濃いものにして私達の前にみせてくれた一冊。須賀さんが病床から推敲を加えた最晩年の作。
須賀さんの物事の本質をきっちりと捉え、それ以上でもそれ以下にも書かないない。重かったり大きすぎたりする言葉を使わない。といった自らを厳しく律した魂の静寂を思わせる文章の礎となった「遠い朝の本たち」。
本書は読者の心にいつまでも忘れ得ぬ「須賀敦子」を刻んでいく。
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投稿者:メイチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
ただただ読書が好きな少女が、自分と社会を結びつけるのに悩む姿に共感。それでも道を切り拓いてきたんだから須賀敦子はすごい。
須賀さんがともだちについて語るときの雰囲気が好き。ちょっとしたことがすごく印象に残ったりするんですよね。とりあえず柿をむきたくなりました。
紙の本
不思議な「幅」の魅力
2001/10/01 19:20
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投稿者:山田登世子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
須賀敦子の世界に入って行くには、いろいろな扉がある。ここに収められた思い出の本の数々は、それだけの数の扉だ。懐かしい本、意外な本、ああ、やっぱりと思わせる本。どれから読んでも須賀さん独特のあのひたひたと心にしみる世界に届いてゆく。だから通読するより、おもむくままに好きな本から読み始めるのがいい。
わたしはまず《シエナの坂道》を読んだ。「神に呼ばれて」すべてを捨て、まっすぐにただ一つの坂道をのぼりつめるように生きた聖女にひかれた大学時代の須賀さんの、ただならぬ「潔さ」にやっぱりと深くうなづく。そして、パラパラ頁をめくって、次に読んだのは、《「サフランの歌」のころ》。一転、中原淳一の夢見る乙女や「少女の友」の甘いドリーム・ワールドが少女時代の愛読書だと知って、拍子抜けするような意外な気持ちになる。とともに、あまり言われてない須賀敦子の世界の「感覚性」にはっとさせられる。やすらぎや哀しみという「癒し系」の感性で愛される彼女の作品の底に、うずくように官能的でイタリア的な肉体性を感じて、どきりとさせられるのだ。少女は、夜の部屋にたちこめるミモザの匂いを「皮膚で受けとめ」、そのあと、「春」という「言葉を探りあてて」、その夜のことを深く魂のひだにたたみこむ──さりげなく書かれていながら、まぎれもなくこれは作家の啓示体験である。
ミーハーな「少女の友」からはるかな神秘の道へ──近づきやすさとはるけさ。この不思議な「幅」こそ須賀敦子の魅力なのだと思う。(山田登世子/フランス文学者 2001.4.10)
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筆者はイタリア研究で有名な方。多読家ですね。幼少時期からの読書の思い出を綴っている。
ムンバイからのフライトで読む。
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ぐっぐっと何か力をいれながら書かれているようで、
ひとつひとつ選び抜かれた言葉が重い。
はじめとおわりが、著者の友人じげちゃんの昇天。
やさしい言葉と、正直なことばでかかれているから、
なんだかとても心にしみて、
ついうるうると来てしまう。
著者の読書歴を垣間見ると、自分は読書好きではあるけれど、読書家ではないと思い知らされる。
父親との本でつながれた関係には自分を重ねたし、
本を通じて「あの時の自分」を手繰り寄せられるのは
うらやましくて、自分も将来そういう風にできような
そういう読書をしているかと問うてみることにつながった。
私の好きな米原万里も、須賀敦子も、
自分の昔を振り返って「少女時代」という言葉を使うが、私は自分の幼いころをどうしても「少女」という言葉で捕らえられなくて、すごく新鮮だった。
私もいつか、自分の昔を「少女」として受け止めるのだろうか。
「そのために自分が生まれてきたと思える生き方を、
他を顧みないで、徹底的に探究する」というくだりに
線を引いた。
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この本の中で知った、「さようなら」という日本語の意味。
「そうならねばならぬのなら」・・・本当に、なんて美しい諦めの表現だろう。須賀敦子さんは、アンの文章を読んで「もう一度日本語に出あった」のだろう。私は、須賀敦子さんが紹介してくれなければ一生このことばの意味を知ることはなく、感動もなく使っていただろう。
須賀敦子さんの文章には、必ずはっとさせられる。
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(2004.05.26読了)(2001.03.12購入)
幼き日々に出合った本の思い出を綴ったもののはずなのだが、須賀さんの他の本と同様、思い出の本はどこへやら、自分の話し、友人の話になって、嗚呼そういえば本の話だったわねと、本の話に戻る。読んでるほうもそうそうそうだった、と話の発端を思いだす。
●しげちゃんの昇天
小学校の同級生で、大学も一緒の大学だったしげちゃんとの交流の話。
神戸の六甲山の近辺で育ち、父親の仕事の関係で、東京へ移ったが、戦争が激しくなったので神戸に戻り、専門学校、大学とまた東京で過ごした後、大学を卒業するに当たって、須賀さんは「学生の一人一人を、厳格に、しかし丁寧に育てるというような校風が、そのころはうっとうしくて、私は一日も早く、学校の枠から逃れたいと焦っていた。それでいて、卒業して関西の家に帰るのも死ぬほどいやだった。家族との日常に戻るのが、黒い雲の中に入れといわれたように、重く、息苦しく思えた。」「私たちの世代の女子学生の多くがそうだったように、本を読むことが、職業になるとも考えず、結婚以外に女として誇りを持って生きる道はすべて閉ざされていたような、頼りない、暗い、閉ざされた日々だった。」と心境を述べている。須賀さんは、1929年の生まれだけれど、先日見た「堀文子展」のパンフレットに、1918年生まれの堀さんが画家を目指した理由として「女性が学問を志したり自立する自由がない時代、何人にも支配されない真の自由を求めて」と書いてあった。女性にとって自由に生きるというのは、難しいことなのかもしれない。男は簡単というわけでもないけど、比較の問題として、難しさの度合いが違うのかもしれない。
1986年に病気療養中のしげちゃんに、「調布であった時、大学のころの話をして、本当にあのころは何一つ分かってなかった、と私があきれると、しげちゃんはふっと涙ぐんで、言った。本当よねえ、人生って、ただ事じゃないのよねえ、それなのに、私たちは、あんなに大いばりで、生きていた。」という話をした。
僕も50数年生きて来たけど、人生ってただ事じゃない!
●父ゆずり
「幼いころは、父が本を買ってくれて、それを読み、成長してからは、父の読んだ本を次々と読まされて、私は、知らず知らずのうちに読むことを覚えた。最近になって、私が翻訳や文章を発表するようになり、父を知っていた人たちは、口をそろえて、お父さんが生きておられたら、どんなに喜ばれたろう、という。しかし、父に教えられたのは、文章を書いて、人にどういわれるかではなくて、文章というものは、きちんと書くべきものだから、そのように勉強しなければいけないということだったように、私には思える。」
僕も神さんも本が好きなので、子供たちには、絵本から始まって、童話、マンガ、少年少女向け、といろいろ買い与えてきた、幸い本好きに育って、いまは、宮部みゆき、江國香織、川上弘美などを家族で回し読みしている。子供にはもっと古典を読んで欲しいのだが、学校で宿題にでもならないと読まない。自分で必要と感じて読む気にならない限りどうしようもない。読みたいけど、あるかなと聞いてくる本については、ほいほい喜んで貸したり、手元に無��時は、探してきて与えたりしている。自分で買うのに任せればいいのだろうけど、ついつい面倒見てしまう。子離れしないと。
須賀さんの本では、父からもらった本として、「即興詩人」が出てくるが、まだ読んだことが無い。気になる本ではある。
●葦の中の声
「アン・リンドバーグは横浜の埠頭をぎっしり埋める見送りの人たちが口々に甲高く叫ぶ、さようなら、という言葉の意味を知って、新しい感動に包まれる。「さようなら、とこの国の人々が別れに際して口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だろう。」
さようならは、「それではこれで」みたいなものと思っていたのだが、あきらめの表現だったのだろうか?
アン・リンドバーグは、「海からの贈り物」の著者で、飛行家のチャールズ・リンドバーグの妻だという。
●ベッドの中のベストセラー
「私の中には、旅に出たいと、遠くの土地にあこがれ続けている漂白好きの私と、ずっと家にいて本を読んでいれば満足という自分とがせめぎ会って同居しているらしい」
本が好きで、本を読むだけで満足というわけに行かずフランスやイタリアに留学した須賀さんの自己分析。僕は、須賀さんみたいに探究心旺盛ではないが、本の虫であると共に、ヨーロッパ(ギリシャ、イタリア、スペイン、イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、オーストリア、ロシア)、中南米(メキシコ、ペルー)、中近東(シリア、ヨルダン)、2度目のイタリア、エジプトと旅行してきた。(パック旅行だけど)
●赤い表紙の小さな本
「詩というものに惹かれるようになったのは、小学校の5,6年のころだったろうか。それはちょうど、「私」という言葉が、ものを書いたり、言葉を話したり、歩いたり、笑ったりしているこの自分全体を指すのだということに気付いて、それをまるで重大事みたいに、凄い、凄い発見しちゃった、と騒ぎまわっていたのを、級友たちに、当たり前じゃない、と軽くいなされて落ち込んでいた、ちょうど同じころではなかったか。」
詩は、言葉に対する感性の問題という面があるので、「私」という言葉の意味を発見して、大騒ぎする須賀さんは、感性豊かで、詩を味わうに相応しい人ということになると思う。
上田敏の訳したダヌンツィオの詩「燕の歌」は、
彌生ついたち、はつ燕
という風に始まるという。ところが、原文では、
聖ベネデットの祭りの日の、ことしはじめてのツバメよ
となっているという。聖ベネデットの祭りの日というのは3月21日なので、これを彌生に置き換えたのだろうという。21日ではごろが悪いからついたちにしてしまうというのもなんとも凄い。
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ある言葉に一連の記憶が池の藻のようにからまりついていて、長い時間が過ぎたあと、まったく関係のない書物を読んでいたり、映画を見ていたり、ただ単純に人と話していたりして、その言葉が目にとまったり耳にふれたりした瞬間に、遠い日に会った人たちや、そのころ考えていたことがどっと心に戻ってくることがある。
それが著者は外国の言葉、動詞だそうな。こういう話を読むのも面白い。幼少時代に読んだ本ってけっこう大事なんだなと改めて思ったり。
そしてコピー機のない時代の大学生活というものに思いを馳せてしまった。
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1929年生まれで、翻訳家、エッセイストとして活躍された須賀敦子さん。
幼い時の思い出と共に、その時々で夢中になった本たちについて書かれています。
本好きにはたまらない内容でしたが、文章も素晴らしく、須賀さんの目を通して見た昭和の風景が浮かんでくるようでした。
サン・テグジュペリに夢中になったり。
アン・リンドバーグの文章に感化されたり。
自分も読んでいた本が出てきたりすると嬉しくて、勝手に親近感を感じたりしていました。
特にアン・リンドバーグの『海からの贈り物』というエッセイは大好きで、たくさんのことを教えてもらった本だったので、須賀さんの感想にすごく共感してしまいました。
アン・リンドバーグは大西洋単独横断飛行を成し遂げた、チャールズ・リンドバーグと結婚した、自身も飛行機を操縦する女性飛行士で、夫婦で日本にも訪れています。
興味を持った本もたくさんありました。
例えば森鷗外の『澀江抽斎』や翻訳した『即興詩人』なんて、読んだことがなかったので、とても読んでみたくなりました。
とてもたくさん本を持っている友達が、なかなかその本を見せてくれないので、思わず「ケチ」と思ってしまうところとか、子どもの頃から本に魅せられていた須賀さんの気持ちがすごくわかる☆
いい読書ができました。
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遠い朝・・・まだ人生の深さなど知らなかった少女時代・・・そして、大人になるまでに読んだ本の思い出をその時代の風景やエピソードを織り交ぜて語っている。単なる本の紹介でなく、その本と自分との関わりを美しい文章で綴られている。
中でも、サンテグジュベリ(星の王子様)やアン・モロウ・リンドバーグ(海からの贈り物)への深い思いに共鳴してしまった。
ちゃちゃ
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須賀敦子は憧れの人。この本は大変な読書家で「いつも本に読まれて」いた彼女の、本との出合いとエピソードがたくさん書かれている。彼女の作品は私にとって、読むたびに刺激を与えてくれる特別な存在。背筋を伸ばして潔く生きていた彼女が選び抜いた言葉は本当に美しい。だからページをめくるのも勿体無くて時間をかけて読む・・。とても大切な本のひとつ。
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須賀さんの本を読むのは初めてではないけどすごく久しぶり。
本に対する思いや本をめぐる出来事について書かれたエッセー集。
この方の感受性に触れることで誰もが優しい気持ちになれるんじゃないかと思います。
全部楽しく読めたんですが、その中に「人間のしるし」という本に関するエピソードがありました。
(私その本知ってる?多分読んだことある?)と思ったものの、借りたのか買ったのか詳しくどんな話だったとかは思い出せません。(後から探してみましたが家にも見当たりませんでした。)
もやもやしつつ読み進んでいたら須賀さんがその本の中の一文を引用してました。
それを読んだ瞬間、鳥肌!
私もその部分抜粋してノートに書きだした記憶がある!
思いもかけず須賀敦子さんとの共通点を見つけてすごくうれしくなりました。
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小川洋子の『カラーひよことコーヒー豆』の中に出てきた、
まだ読んでいない本だったので迷わず手を伸ばしました。
どことなく寂しく、でもとても幸福な読後感に浸ることが
できました。
言葉の選び方がとても無駄がない。そしてすっきり整って
気持ちがいいのです。
幼いころの本との出会いや思い出は私のそれとは全然違って
思い切り豊かなのだけど、出合ったわくわく感はよく分かります。
彼女の文章を読むとたとえ夏の描写があっても初冬を感じる
のは、全体に漂うどこか寂しい雰囲気のせいでしょうか。
読み終わるのがもったいないと思ってしまいました。