紙の本
欲求不満がつのる竜頭蛇尾の親鸞伝
2010/01/23 15:08
5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あまでうす - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本仏教界の巨聖にして偉大なる宗教改革者、親鸞の波乱万丈の物語の後篇です。
おおいに期待していたのですが、ちと物足らず。そのわけは、本作がどうにも尻切れトンボの終わり方をしていること、それから作者が主人公をあまりにも現代人の感覚に平準化しすぎているためか、歴史的現在という架空の時制における親鸞像のエラン・ヴィタール(生命の飛躍)が説得力をもってうまく立ちあがってこないことにあるようです。(ちなみにこの文飾技術に格別の冴えをみせたのが司馬遼太郎でした)
比叡山のエリートであることを弊履の如く投げ捨てた若き日の親鸞は、京の大谷吉水で専修念仏の教えを説いた法然上人の弟子となり、民衆と生活をともしながら生活するようになります。おのれの欲と煩悩にさいなまれながらも、仏道の修業に励むわれらが主人公は、やがて法然の「異端的正統の後継者」として、唯一無二のお気に入りとなるのですが、やがて守旧派である南都北嶺の意を体した後鳥羽上皇の強権発動によって「念仏停止」の命令が下り、あわれ法然一派は死刑や流罪の厳罰に処せられてしまいます。
親鸞もまた越後に流されることになるのですが、彼が法然の一番弟子である立場を脱して、彼独自の浄土真宗の思想世界を切り開いていくはずの不遇時代の知的格闘がまったく描かれないままで物語が唐突に終わってしまうのは、中途半端そのものです。著者にはいっそう奮闘努力していただいて、聖人の半生記ではなく、完全な親鸞伝をめざしてほしいと思います。
しかし問題は小説の出来映えではなく、専修念仏の教えの是非でありましょう。経文解析や荒修業や只管打座をえいやっと切り捨て、ただただ「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えるだけで、悪人はもとより善人さえも極楽往生できる、と説いた宗教家の志操の高さと切れ味の鮮やかさ・激烈さは、当時もいまも変わらない凄みをもって私たちに迫ってくるように感じられます。
♪われに問うほんとうに南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽往生できるのだろうか 茫洋
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法然から親鸞へのつながりがよくわかった。信じ合い、託し託される深い絆にあこがれの気持ちを抱いた。
厳しい修行に励む強い精神力もあるが、まっすぐに物事の本質をつかむ資質は生来のもののように思える。一筋に仏道に邁進する姿はとても美しい。一途でかたくなでもあるが、そういう不器用さが、友や伴侶を引き寄せたのかもしれない。
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2010.02.14 日本経済新聞に掲載されました。
2010.03.14 朝日新聞「売れてる本」で紹介されました。
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山口晃さんの挿絵が入っている特装版を読みました。
面白くグングンお話に引き込まれ、興味深く読みました。
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ここ数年の五木寛之の話に、オウム真理教の元教祖Aのことがよく出てくる。Aのような人間であっても念仏すれば救われるのか、という問題提起だ。
この本は、その問いに対する五木寛之の答えを出していると思う。
この本に黒面法師という悪行の限りを尽くす修験者がでてくる。このような人間が救われるのか否かという問いが読者にも投げかけられてくる。
そして、綽空(親鸞)が言う。「救われる」と(下巻193頁参照)。
なぜ悪人であっても救われるのか?
それはそもそも悪人、善人の区別さえつけないといった考え方がもとになっているようだ(下巻237頁参照)。
フィクションとしては、上巻が面白く、下巻はパワーダウンした感じがする。
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末法の世に僧になりまよい続けた主人公が法然と出会う。念仏を唱えることで悪人も救われる この境地に達し親鸞という名前を変え越後へ流されるまでを描く。個性ゆたかな異型の登場人物がストーリーをおもしろく彩る。
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親鸞誕生までのお話。
仏教が時代の要請にどのように応えていったか理解しやすい。
エンタテイメント要素が強いのでサクサク読める。
それと引き換えに台詞を中心とした時代考証は切り捨てられているが。
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下巻は比叡山を降りてから、流罪になるまで。
最後の数ページでやっと親鸞になる。ちょっと時代劇なところがある。
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範宴→綽空→善信→親鸞
気にはなっていたものの、内容に興味が持てず手に取れなかったんですが……上司に薦められ、借りて読んだら思っていたよりずっと楽しめました。法然上人のお話を聞いてみたくなりました。
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後半に入りどんどんお話が面白くなってぐいぐい読めた。自分も一緒に修行してる気分を味わえた。ちょっと賢くなった気がする~
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おすすめ度:90点
綽空、善信と名を変えつつ、「親鸞」に至った前半生を、内面的な苦悩も含めて描ききっている。
紫野(恵信)との出会いがあり、法然上人のもとに帰命する。
真の念仏と出会い、真の師とめぐりあったのだ。
瓦のかけら、つぶて、小石のような、世俗の底辺にすんで、見くだされている人びととともに生きていく親鸞。
本作で完結になっているが、晩年の親鸞についての続編の執筆を強く望む。
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下巻です。
親鸞となる前の法念につき従う姿や、僧なのだが煩悩との葛藤や人間臭い(悪人や女)の話が面白かった。
教訓として
①今までのことにとらわれ過ぎ、時代の流れに取り残されないこと
②結局、民衆が一番強い層であること。
③信頼できる仲間がいるのは財産であること。
などなど読んでいてこれって今の時代にも言えるとすごく思った。
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いくら命を賭して過酷な修行を積み重ねても、仏は見えず、自己の煩悩も去らないことに苦しみ懊悩する綽空(親鸞)。
六角堂の百日参籠の際に、救世観音を見、聖徳太子のお告げを聞いた彼は、そのならいに従って、妻帯を決心します。
親鸞のプロポーズのシーンには、こちらもドキドキしました。
慈円のいる比叡山に戻らず、吉水の法然房に通い詰め、彼の弟子となった親鸞。
それはつまり、国家の官僧としての出世コースを諦めたということになります。
それでも彼は、市井で苦しむ民衆を仏道に導こうと決心したのです。
しかし、平四朗は親鸞を目の敵にしているらしく、まだ追ってきます。
玉虫を殺し、今度は親鸞の妻、恵信とその妹鹿野を手に掛けようとする彼。
よくよく女性を狙う男です。
その平四朗とつるんでいるのが、法然の弟子安楽。
安楽といったら、薄幸の美男子というイメージだったのですが。
平四朗といい安楽といい、著者は稀なる美男子を悪人とする傾向が強いのでしょうか。
法勝寺の八角九重塔での彼らと親鸞との対決、そして塔の炎上の描写は、まさに目の前で繰り広げられている出来事のようで、総毛立つ思いがしました。
恵信(親鸞)が妻帯し、悪人正機説を語ったとかつて習った時には衝撃的でしたが、当時の流れではそうセンセーショナルな話でもなかったようですし、彼の人生を追っていくと、その考えに至る必然性を感じました。
加持祈祷を是とする慈円と、念仏の本願のみとする法然、そして親鸞。
方向性の違いから、比叡山と決定的に袂を分かってしまいます。
それだけ比叡山は、民衆からは離れた天上の教義となってしまっていたのです。
全編を通じて、河原のつぶて石が、人の一生に例えられ、象徴的に使われています。
そのつぶてのような存在とされる、悪人や女性の側に立ち続けた親鸞。
いつしか法然の第一弟子とされるようになったのも、頷けます。
そして起こった 1207年の「承元の法難」。
後鳥羽上皇の女房松虫・鈴虫の出家がきっかけで、安楽・住蓮は、死罪となり、法然は土佐に、親鸞は越後に流罪になります。
完全な、宗教への政治の介入ですね。
六条河原での安楽の斬首シーンのむごさ。
親鸞から起こった、民衆たちの「南無阿弥陀仏」の大合唱は、読んでいて鳥肌が立つ迫力でした。
彼が師法然と別れ、妻と越後へ向かうシーンで、物語は終わります。
彼の一生が語られるかと思っていましたが、こののちの活躍は皆の知る通り、ということでしょうか。
以前、三越美術館の親鸞展で、彼が法然から賜った経典を大切に運んだ入れ物が展示されていたことを、思い返しながら読みました。
ドラマチックな面白い物語でした。
あとがきに、安楽のキャラクターを物語上変えたと書かれており、実際にはひどい人物ではなかったことにホッとしました。
一番好きなキャラクターは犬麻呂です。
昔、子供の頃の親鸞に助けられた恩義を忘れず、その後なにくれとなく彼の窮地を救ってくれるならず者。
親鸞は、悪人たちに守られて、仏の道を邁���できているんだなあと思いました。
それにしても親鸞、名前を変えすぎです。
流刑の時には俗名に変更させられているし、のちの研究者は追っていくのが大変でしょうね。
五木寛之の小説は、「蒼ざめた馬を見よ」くらいしか読んでおらず、その時には肩肘張った攻撃的な文章だという印象を持ちましたが、作家としてのキャリアを重ねたためか、採り上げた人物の影響か、この物語はとても熟成された穏やかな文章で語られており、読んでいて心が落ち着きました。
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親鸞聖人没後750年ということで、平安時代のことなのでおそらく残っている史実をもとに沢山のストーリーが肉付けされていると思う。おそらくフィクションが多いとも思う。
しかしながら、この本で親鸞聖人が法然上人と出会い親鸞聖人になっていく姿が人間らしい悩みや苦悩とともに描かれている。
生きていく上での悩む苦しみにもがく今の人、理不尽や不条理の中で苦しむ今を生きる人への救いにも思える。
流行りの癒し系ではなく、歴史の中に生きた1人の苦悩する僧の話しという読み方もできる。
仏教的に難しいことはわからないが、疲れた時に許され救われる一冊。
仏教の本と思わずに読んでもいい本。
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念仏。
それは何か。
人はなぜ祈るのか。
現代の日本では失われてしまった世界。
しかし世界中の国々では今も祈りがある。
多くの日本人から祈りが消えてしまったのはいつだろう?
盆暮れ正月、思い出したときしか
祈らなくなったのはいつからだろう。
その祈りも誰にでもなく、ただ祈るだけのように感じる。