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架空の“光る薔薇”の、おそらくは決して咲くことがない花の姿を思い浮かべるように、ふっと遠い眼づかい(本文389Pより)——それは、おそらく中井英夫のまなざし
2004/07/06 17:23
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
中井英夫という作家が小説につけるタイトルは、『人外境通信』『悪夢の骨牌』『真珠母の匣』『名なしの森』という具合に、どれもその幻想世界を彷彿させる誘惑に満ちた妖しげな光を放っている。なかでも『虚無への供物』は、また何とスタイリッシュな題名ではないか。
かれこれ20年の昔から「かっこいい」と思いつづけているが、この言葉はポール・ヴァレリーの詩篇「『虚無』へ捧ぐる供物にと 美酒すこし 海に流しぬ いとすこしを」からきており、中扉のタイトル下に添えられている。1950年代は欧州を虚無が覆い、実存主義の虚無との闘いが展開されている。フランス文学に親しんだ作家には当然その辺も射程に入っており、50年代の日本の閉塞感が重ねられていたことだろう。
しかし、この題は決して社会的な音としては響かない。ただひたすらに、哀感に満ちたものに対峙する孤独な人間の営みの残響だけが伝わってくる。
中扉をめくると献辞もある——「その人々に」と。洞爺丸転覆事故のような人為的災害の犠牲者たちに捧げられたのか。虚無の時代をともに生きた人びとに捧げられたのか。あるいは、孤独な人間の営みの残響を感じ取れる人へ向けられた言葉なのかもしれないとも思う。
部屋の住人の名前に合わせてインテリアの色がコーディネートされている。部屋から部屋、色の符丁を伴いながら殺人事件が起きていくのだが、そこには目黒や目白といった五色不動、薔薇の花などの色彩がにじまされる。色に集中して読み進めると不思議な位相が浮かび上がってくるかもしれない。
色のほかにも探偵小説やらシャンソン、東京の地誌に植物の系統分類、呪術に力学の平衡式などの多彩な要素が、どこかお茶目な登場人物たちの、都会的なポンポンポンとした調子の会話を滑らかに進めていく。
色の符丁ということにも少し絡むが、今回再読してみて私が気に留めたのは、探偵気取りでザ・ヒヌマ・マーダーに首を突っ込んでいる奈々村久生というチャーミングな女性の造型である。それを性格や仕草、行動で描いていくに当たり、まず着ている物から彼女のあでやかさ、存在感を演出してしまうのが素敵だ。
男性読者の多くはヒロインを前にして「どんな体をしてるんだ?」と考えるであろうから、たぶんこのような読みは女性読者の楽しみだろうと思うのだが、性的な場面なくしてそういうところでの描写で読ませてしまうのは、やはり作家の性的興味の問題であったのだろうか。
「ざっくりした黒白の七分コートに、緑の革手袋を脱いだところで、白い手と、化粧のない顔とが薄明りに浮いている(上巻13P)」「きょうは、正月以来、久しぶりの和服で、光琳風の飛び模様を染めつけた上代に、違い菱を織り出した銹朱に金の糸錦の帯、綸子の長襦袢が袖口からほどよくこぼれようというあしらいなので、せいぜいつつましい顔で控えていたが、(下巻253-254P)」「ダーク・ローズのお召に、金と黒のフランスレースを思わせるような豪奢な縫取りを見せた訪問着の久生も、優しい微笑を忘れず、(下巻324P)」——外衣から、場面ごとに応じて変わる彼女の内面の状況をさらりうかがわせることに成功している。
読み終えた読者にまたの再読を誘惑するこの小説の魅力は、司法では裁き切れない犯罪の実相とともに、論評では語り尽くせない幻惑性をふんだんに盛り込んだことなのだろう。
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「殺人淫楽」という言葉が出てきますが、それがなかなかふさわしい怪異な物語です
2005/11/21 22:44
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投稿者:yukkiebeer - この投稿者のレビュー一覧を見る
1954年、洞爺丸沈没事故で両親を失った蒼司・紅司とその従弟の藍司。悲しみにくれる間もなく、さらに紅司が入浴中に死体となって発見される。浴室は完全な密室で誰かが侵入した形跡はないが、果たして彼の死は本当に自然死なのか。蒼司の友人である俊夫、その許婚の久生、そして友人亜利夫ら素人探偵は、この密室事件を殺人と断定して真相を推理していく。しかし真相にたどり着く前に第二、第三の事件が発生していく…。
上下巻で800頁超もある大作ですが、文章は平易でぐいぐいと引っ張られるように読んでしまいました。1964年に書かれたこの作品は、最近の社会派推理小説のような骨太な正統派ミステリーというよりも、一時代前の乱歩や正史といった作家が築きあげた妖美な怪異譚という趣の物語です。下巻399頁にヘッセの「デーミアン」の名が引かれていますが、まさにあの小説のように、「あやかし」と形容するが相応しいほど浮世離れした淫靡な美しさを見ます。
私はさほどミステリーには詳しくありませんが、こうした懐かしき時代に属する探偵推理物語は必ずしも多くの読者を現代に獲得することができないのではないでしょうか。熱烈なるファンを得たカルト的要素を含む小説であると同時に、最近のミステリーファンを寄せつけないところが多分にあります。
ですから「推理小説史上の大傑作」という謳い文句は誤解を与えると思います。むしろ怪奇趣味に溢れた、奇妙な浮遊感をずっと味わいながら読む作品といったほうがふさわしいのではないでしょうか。
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奇書ではない
2024/02/21 16:22
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投稿者:栄本勇人 - この投稿者のレビュー一覧を見る
(ややネタバレ)犯人がいることが分かってしまうが、特殊な動機は納得のいくものであった。読み終わると全体の筋の美しさに関心するが、やや冗長に感じる。簡潔にしてしまうとこの作品である必要はなくなってしまうのだろうが…。
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遥か昔、高校生の頃に旧文庫版を読んだ覚えがあるのですが、京極と綾辻の帯解説につられてふらふらと買ってしまいました。
上下巻に分かれているのですが字が大きいので割と早く読み終えることができます。
意外な真相、真犯人もさることながらその結末のつけ方が秀逸でした。
当時の世相が生み出した『犯人』。どちらが内側で、どちらが外側か。それを判断するのはいったい誰なのか。
悲しく、切ない読後感。文章の上手さも評価の高い理由ではないかと思われます。
今読んでも少しも色あせない名作です。
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牛乳こーひい。の人生、この本によってどのくらい変えられてしまったかというと、一番大きなことは、そうさなあ、戸籍を新設したことですかのう(本当です)。
第二次世界大戦後まもない頃。不幸な事故で両親を失った兄弟と従弟が住む東京/目白の氷沼家に、さらなる不幸が、連続密室殺人が起こる。氷沼家長男の旧友、その友人にして探偵小説大好きのシャンソン歌手、その婚約者にして氷沼家長男の頼れる親戚筋であるジャーナリストなどなどがこの謎を解く為に推理合戦を繰り広げる!
美しい薔薇と、氷沼家の美しく不幸な兄弟とその従兄弟たちと、古今東西の探偵小説と、東京を護る不動尊。巧みな罠。見事な構成。人間というものの実体。最低限守るべき、人間同士の約束というもの。果たしてそれは守られているのか、過去も未来も現在も?
実は小説の主題そのものを今現代に生きるわたしたちに問いかけることをしている超絶的な小説。すげーよ。
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虚無への供物、通称虚無供(誰だこれ最初に言い出した奴は)はアンチ・ミステリーなんだそうです。この言葉も著者の中井英夫が作ったそうな。殆ど推理小説を読んだことが無いので、他の推理小説と比べてどうであるとかアンチミステリーとは一体何なのかとか偉そうに講釈垂れることができないんですが、面白かった。本当に面白かった。特に終章の怒涛の告発から最後まで一気に読まなければ気がすまないくらい。
推理小説ってまるで写真のように余計なものを削ぎ落とし削ぎ落とし必要なことだけ書かれた文章というイメージがあって、これもまあそうなんだけど、中井英夫は文章が上手い。気になって色々検索してみたところ、彼はこの小説以外には一切推理小説を書いていないのだそうです。それなのに4大(3大)ミステリーの一つに入ってしまうなんてすごい。
けど、そもそも彼は推理小説が得意というわけでは無いんだと思う。なぜってトリック解説部分を読んでても、意味が分からない。というか、情景が想像できない。これは単に私の想像力が貧困なだけかもしれないんですが、例えば体に結ばれたロープの行き先や横たえられた体の向き、恰好が分かり辛い。ところが少しロマンチックな情景を書かせてみると非常に上手い。耽美的といわれるのも頷けるw一番最初の文章が「黒びろうどのカーテンは、そのとき、わずかにそよいだ。小さな痙攣めいた動きがすばやく走りぬけると、やおら身を翻すようにゆるく波を打って、少しずつ左右へ開きはじめた」これで雰囲気が充分に伝わってくる。上手い。
推理小説の読み方にも幾通りかあると思います。自分は読みながら自分で犯人は誰なのか推理していくタイプなんですが、そういう人は読みながら、与えられた伏線やちりばめられたピースで1枚のパズルを完成させようと試みる。私たちはえてしてパズルの完成品が四角形だと思ってしまう。そして完成したパズルには何かしら完成された絵がプリントされていると予測してパズルを組み立てる。(3Dパズルやミルクパズルは除外すること。)それこそ固定概念であり、私たちはそういった考え方をいったん破壊し、別の見方をしなければならない。全く関係ない絵が隣り合わせになっても、出来上がったパズルの縁が真っ直ぐでなくても、完成品は完成品であり、それが全てである。
推理小説としての完成度が高いのかどうか分かりませんが、面白いのは確かです。
犯人の動機やトリックに納得がいくか人それぞれだと思います。たぶん推理小説好きな人は動機に納得がいかないと思います。私でさえ納得いかなかったしwでも理解はできる。なぜなら自分は文学好きな人間だから、好きだ。
乱歩やドグラマグラや黒死館を読んだことがある人のほうがより楽しめるかもしれません。私はタイトルしか知らないくらい推理小説界に疎いのでちょっと損した……
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とにかく盛り沢山の引用と回りくどい展開の繰り返し。それが全て終焉の為の布石と成るのならここまでされると圧巻です。社会派の一面もありますが、ミステリー要素満載です。著者のミステリーへ対する愛情の溢れた証と思って良いと思えます。一度では理解するのが難しい作品。何回か読むことによって、違った一面を見せてくれると思います。そうは言ってもかなり読み難いので、軽はずみには手を出せない作品ではありますが。
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現代に通じるものがあると思う。「いまの時代では、とにかく、ぼくたちは何かに変わりつつあるのかも知れないね。人間じゃない何ものかに。一部分ずつ犯罪者の要素を持った生物というか……」この台詞、かなりグサッと胸にささりました。
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下巻で明かされる壮大なトリック。まさに奇書。まさにアンチ・ミステリ。殆ど笑い話。お前らいない方が事件解決するよと思っていたらやはり犯人に皮肉られました。まあトリックではなく読み物としての面白さ、重層性、社会風刺といった点では一級品。日本三大奇書と言われてるけど、作者もそうなることを意図して書いたところが見受けられて多少鼻につく。
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さっき読み終わった。
エッッ・・・、動機がそれ??そして○○さんと○○○さんはデキてたの!?
そして藍ちゃんも男同士で寝てたのか〜(笑)
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アンチミステリーの意味がようやく分かりました。上巻より更に面白くてどうしようかと思いました。
下巻:色々な事件が混ざり合ってさらに複雑に。ただひたすらに読み進めて最後まで来ると、言葉も出なくなる。ああそうか、だから虚無への供物なのかと、色々なところで唸らされました。
2008/1/13
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殺人の動機はかなり文学的ですよ覚悟してください、とさんざん噂に聞いていたこの本。
どんな不条理な理由なんだ、と思っていたらそれなりに納得できました。にんげんのそんげん。
優しすぎるのか、それとも自分勝手すぎるのか、よくわからない。誰かの尊厳を守るために他の誰かの尊厳を軽視するなんてことがあっていいのか?
いや、よくないよな。そしてそれは誰にとってもわかりすぎるほど自明の理で、だからこそ「虚無への供物」だったんだなあ。
下巻にきて犯人は皓吉ではないか、いやいや藍ちゃんではないか、と二転三転。
シャンソンやバー『アラベスク』もここへ来て意味を持ち始めます。
目赤、目青、目黄のあたりの三角形&薔薇&現在・過去・未来のつながりは面白かった。
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老人ホームでの火事。死亡した蒼司の祖父の妹・綾女。紅司が付き合っていたという男・鴻巣玄次が実在しないと結論つけた推理マニア達。新潟に戻る藤木田。アパートで殺害された鴻巣玄次。事件にかかわる氷沼家の番頭役・八田皓吉。屋敷を売る準備を始める蒼司。玄次のアパートに住んでいた黄司と思われる男の正体。帰国した奈々の婚約者・牟礼田俊夫。牟礼田の推理と彼の書いた小説に隠された真実。
2009年5月25日初読
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いよいよ探偵(?)が出てくるが、その登場によって更に話はぐるぐるに。
オチというか、落ち着かせ方は悪くないのに
途中のぐるぐる加減とヒロインのウザさが勿体ない。
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最初の方、というかほとんど終りの方まではそこまで面白くは感じなかった。
でも犯人の動機が語られたとき、この本を読んでよかったと思った。