紙の本
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)
2008/10/05 19:08
11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:GTO - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本が大きく転換した日のひとつである。秀吉死後からその日に向けて凝縮されていく歴史の内側、そして戦後処理を見ていくことで徳川幕府が成立時に抱えた制約までを論じている。大坂の陣から幕府成立に関しては紙面も少なく十分に論が尽くされていない感があるが、秀忠の遅参と徳川方に豊臣大名が多いことに関しては、大変に示唆に富み腹にすとんと落ちる説である。
関ヶ原の合戦というと、前日から当日の兵の動き、戦いの経過を詳細に記述するものが多いが、これはそのような戦術史ではなく戦略史である点が素晴らしい。戦争は外交の一種であるが、他の歴史上の戦いを扱う書籍でも戦術史的なものが多い。しかし、勝敗は決して戦場だけで決まるものではなく、開戦以前の外交(根回し)や、戦後のビジョンが大切である。戦術家は関ヶ原の両軍の配置を見て西軍が勝つのが当然だと思うようだし、戦略家は家康の事前の外交戦略を重視し東軍が勝って当然と思うかもしれない。しかし、関ヶ原の場合、著者が書いているように、どちらが勝ってもおかしくない戦いであったのだろう。
歴史の常で、敗者の西軍がどのように考え行動したのかは、この本でも東軍に比べ情報が圧倒的に少ない。次には西軍側から見た関ヶ原や、さらに大坂の陣へと至る過程を西軍側の視点から論じてもらいたいと思った。そうすることで、著者の関ヶ原以降の家康の行動分析が妥当かどうかがはっきりするように思う。
この著者特有なのか、はたまた長くこの時代を研究しているためか、文体が時代がかっている。また、一般的でない語彙(専門用語)が解説なく使われているので、専門外には読みづらいのが難点であるが、読み始まれば、読者をワクワクドキドキさせる話運びで、最後まで一気に読ませるお薦めの一冊である。
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ほとんどケチの付けようがない内容
2008/05/29 07:13
11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:LR45 - この投稿者のレビュー一覧を見る
タイトル通り、歴史に興味がない方でも知っている関ヶ原の戦いについて述べられている本である。
関ヶ原の戦いのみに論点を絞っており、非常に読みやすかった。
まず、関ヶ原の戦いが起こる伏線となる豊臣政権の評価から始まり、なぜ関ヶ原に至ったかを鮮やかに描いているように思えた。
筆者は、秀忠率いる徳川主力軍が関ヶ原に間に合わなかったことを大変重要視しているように見受けられ、また、秀忠遅参がどういう結果をもたらしたかを理論的に説明している。
詳しくは読んでのお楽しみということで詳細は省くが、秀忠軍が徳川方の主力であり、その遅参は家康にとって大打撃であり、戦後論功行賞にも大きく作用したということを、秀忠軍の軍構成から証明している。
また、図を用いた説明も適時適量用いられており、関ヶ原において家康本隊は、もし敗北した際には逃げ場がないという状況であったことも、その図からわかる。
惜しむらくは、著者は関ヶ原の後の政局についても論述しているのであるが、その説明がどう考えても納得のいかない説明にしかなっていないことであろうか。
秀頼の上洛によって実現した家康と秀頼の直接対面においても、家康はあくまで秀頼を臣下としてみなしていなかったばかりか、主君に対する扱いをしたということを論拠とし、家康に豊臣家を滅ぼす意志はなかったと論じるのである。
だが、どんな歴史家の研究推論よりも、実際に起こった大坂の陣の方が信憑性という意味で圧倒的に差があるのであって、大坂の陣を起こす口実、夏の陣への布石(壕を埋めるなどのごり押し的な行為など)を考えると、家康が何が何でも豊臣家を滅亡させる意志を持っていたのはほぼ確実であると考える。
著者の言うとおり、家康が豊臣家にほんのかけらでも敬意を持っていたとするならば、秀頼の息子まで殺す必要はなかったし、むしろ助けて、石高は少なくとも大名に取り立てていて然るべきであろう。
話はそれたが、この問題は関ヶ原の戦いそのものとは直結するものではなく、「関ヶ原合戦」と銘打った本としては、星5つに十分値すると思う。
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関ヶ原合戦のテキスト
2017/09/02 21:04
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投稿者:キック - この投稿者のレビュー一覧を見る
関ヶ原合戦のテキスト。
第1章は本能寺の変から関ヶ原直前、第2章は会津征伐から三成挙兵、第3章は関ヶ原合戦、第4章は戦後処理、第5章はまとめという構成。
巷間では「天下分け目の関ヶ原」として、東軍の勝利により「徳川の世」が開かれるものと描かれています。しかし、歴史はそんなに単純ではありません。関ヶ原合戦は、決して「徳川の戦い」「徳川の勝利」ではないことや、合戦後、家康は豊臣の滅亡を画策せず、むしろ共存の道を模索していたこと等々、驚くような歴史の事実が理路整然と纏められていました。歴史ファンにお勧めの本です。
ところで、映画「関ヶ原」を観に行きましたが、1981年の正月に、3夜に渡って放送された石田三成を加藤剛が演じた「関ヶ原」の方が比べものにならないくらい、格段に良かったです。民放系のテレビドラマにも関わらず、森繁久彌、三船敏郎、三國連太郎、大友柳太朗、宇野重吉、丹波哲郎等々、驚くような豪華キャストを今でも覚えています。石坂浩二のナレーションも印象的でした。
最近は、大河ドラマでさえも「ファンタジー大河」と呼ばれるほど軽くなっています。やはり昔の方が、テレビドラマは骨太だったような気がします。
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関ケ原の合戦を描いた類書に抜きんでた一冊です!
2020/03/12 13:27
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、「天下分け目の合戦」として日本史に残る関ケ原の戦いについて詳述した画期的で興味深い歴史物語です。関ケ原の合戦は、豊臣時代の政権内部で発生した諸問題によって、それがやがて徳川家康と石田三成という二大勢力の形成に収斂していきました。そして、慶長5年の9月15日に両陣営が関ケ原でぶつかるのですが、その内容はどのようなものだったのでしょうか。類書が多い、歴史上非常に興味深い関ケ原の合戦を、非常に詳細に描写し、その内容を詳しく伝えてくれるという点では、類書に抜きんでた一冊です!
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「へうげもの」副読本。
2013/03/16 00:56
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投稿者:わびすけ - この投稿者のレビュー一覧を見る
徳川と豊臣の併存がこの時点ではありえたという視点は刺激的。ここを掘り返すだけで、まだまだ戦国モノは豊潤な可能性があると感じられる。選書で発表されてからほぼ20年が経過。徳川家康の変心の要因について、著者の現在のご意見が是非伺いたい。
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関ヶ原合戦のことが知りたいのなら、この一冊を読めばかなり理解できると思います。1994年に刊行されたものを文庫化しており、内容としては特別真新しくはないため、最新の本と併読するとなおよいと思います。特に秀忠についての記述は『関ヶ原合戦と大坂の陣』で訂正を加えています。
笠谷先生は他にもたくさんの関ヶ原合戦についての研究書を出されていますが、この本を併読しつつ、だとかなりわかりやすくなります。関ヶ原合戦図や、禄高の変化も書かれているので、そういった意味でも使いやすいかと。もう20年以上関ヶ原合戦の研究をなさっている方であることもあり、信頼はかなりおけると思います。
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関ヶ原合戦の知られざる側面を解説する良書。
ポイントは
1.徳川秀忠率いる軍勢こそが、徳川の主力軍であった。
2.東軍の総大将である家康の名代は松平忠吉であった。
3.西軍の誤算は大津城攻めにあった。
上記3点だけでも、関ヶ原合戦のイメージがずいぶんと変わった。
1.関ヶ原にいた家康軍3万とは、守備隊が主で敵に攻めかかるための軍はせいぜい6千というから、今までのイメージとは違ってさぞかし頼りない軍隊だったということがわかった。
中山道を関ヶ原へ向けて急ぐ秀忠軍には、榊原・本多・牧野といった歴戦の将がついており、攻めるための陣容であった。
2の関ヶ原合戦開始時に、抜け駆け一番槍を行った松平忠吉(家康三男)は、家康の名代として、家康到着前の東軍の総大将的な役割を担っていた。これは、江戸にいる家康と岐阜の豊臣恩顧の武将達をつなぐ重要な役割を担っていたのだろう。家康家臣だけでは、最前線にいる豊臣恩顧の武将達をまとめあげる精神的支柱にはならなかったはずだ。
3は、西軍を裏切った大津城の京極氏に西軍は主力部隊である立花宗茂、筑紫広門、毛利秀包らを向かわせた。これらの武将は西軍の中でも最強部隊に属するため、決戦当日に参加できなかったのは西軍にとって痛手だった。仮にこれらの武将が参加していたならば、決戦が1日で終わる事はなかった??など様々な憶測が生まれる。
特に立花宗茂は、朝鮮出兵の折、二千の兵で明軍数万に正面から戦いを挑み、見事これを打ち破ったというから凄い。
関ヶ原には三千の兵を連れてきていた。
などなど目からウロコの関ヶ原のエピソードの数々。
充実した読書時間を過ごさせていただきました。
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関ヶ原合戦時の大名配置図やら合戦後の領地の増減、大名配置図などの資料が豊富ないい本です。私みたいな初心者からそれなりに知識のある人まで楽しめるんじゃないかな。
個人的には地元の変遷がすごく面白かったです。
佐竹義宣は常陸水戸54万石が出羽秋田30万石に減封・所替になったのですが、他にも『南総里見八犬伝』でおなじみの里見家が常陸鹿島→安房館山、武田信吉が下総佐倉→常陸水戸、秋田実季が出羽秋田→常陸宍戸と存外に関ヶ原合戦の余波を受けていました。
佐竹義宣は石田光成と親交も深かったらしく、豊臣七将の光成襲撃事件の際に光成を助けて大坂を脱出させたとか、常陸の佐竹領の太閤検地の検地奉行は石田光成だったとか。知らなかった!
ほんとにこのお値段でこの内容はお得すぎます。
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東軍七万、西軍八万の激突主力秀忠軍遅参が持つ意味は。
関ヶ原での東軍の勝利は徳川の力によるものではない。秀忠の軍勢三万の遅参。外様大名の奮戦。不測の事態が家康の計算を狂わせた。苦い勝利。戦後処理の複雑な陰翳。三百年の政治構造がここに決定される。天下分け目の合戦を詳述。
第一章 豊臣政権とその崩壊
第二章 三成挙兵
第三章 関ヶ原の合戦ー慶長五年九月十五日
第四章 戦後処理ー征夷大将軍任官の政治的文脈
第五章 むすびにー関ヶ原合戦の歴史的意義
滝野川さんの「今日は9月15日」というコメントに触発されて読む。親本を読んでいるので再読というべきか。
親本の講談社選書メチエは1994年の刊行。手元にあるのは2000年の第3刷なので、その頃、読んだはずである。本書を読んだ時の衝撃は、いまなお忘れる事は出来ない。
(ちなみに所持している親本には第2版注記というものがいくつか載っており良識的なのが嬉しい。)
文庫版は、2008年の刊。親本にあった注記は無いが、補論が付け加えられている。
本書が画期的なのは、備えの視点から、徳川軍の戦力は中山道を通った秀忠軍にあり、家康軍は旗本中心の防御的な舞台であったと論じたことにある。ゆえに合戦の勝利は、豊臣恩顧の外様大名の力に負う事が大きく論功行賞においても、外様大名を厚遇する必要があり、江戸幕府の支配体制に影響を与えたというものである。また、関ヶ原合戦から大坂の陣にいたるまでの間は、二重公儀体制であったとしている。
今から読むと、やや古びている部分もあるが関ヶ原を語るうえで外せない1冊であると思う。戦闘の経緯については、参謀本部編による日本戦史に依拠しているという点は不満な気もする。
ひとつ気になるのは、北政所と淀殿の抜き差しならぬ対立が、東軍についた武将たちの動向に影響したという点である。この点は、いろいろ批判もあったようであり、文庫化にあたり著者は補論を設けて自説を補強しているのであるが、個人的には補論を読んでも納得いかなかった。(両者の対立を物語る直接的な史料はないものだろうか)
p199養源院蔵の豊臣秀頼画像が、「徳川」秀頼画像とされていた。単純な校正ミスだと思うが残念。
とはいえ、いまなおお勧めの1冊であることに変わりは無い。
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その後400年の歴史を決定付けた関ヶ原の真実が裏の裏までよく見える。本題ではないとはいえ、大阪の陣の記述が大変そっけないのが唯一の不満。
征夷大将軍とその世襲という既成事実ができた。また合戦を約150年繰り返したため一度軍事衝突が生じれば、小勢力の小競り合いでなく数万単位へと合戦の大規模化が生じてしまう。すでに全国の大名は戦国の黄昏を感じていたことだろう。
それが将来の禍根となるであろう豊臣の排除へと向かったんじゃないかな。
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[江戸前夜、天下両分]東西両軍が激しく争い、その結果が江戸時代の幕を開けることにつながった関ヶ原の合戦。戦に至るまでの経緯からその戦闘及び戦略の特徴、そして合戦がその後の政治体制の形成に与えた影響を考察した一冊です。著者は、クラシック音楽への造詣も深い歴史学者である笠谷和比古。
(失礼ながら)思いも寄らない傑作に出会ってしまいました。「なぜ重要な先陣に家康は豊臣系武将を配置せざるを得なかったか」、「なぜ緒戦が拮抗していたにも関わらず、家康を取り囲むようにしていた3万人もの軍勢を最後の最後まで合戦に投入できなかったか」などの問いを手がかりにしながら、合戦の全体像を描いていく様はお世辞ではなく圧巻。また、著者の筆により浮かび上がってくる関ヶ原合戦の尋常でない重要性にも身震いを覚えました。
本書の白眉は関ヶ原合戦が江戸幕府の政治体制にどのような影響を及ぼしたかを叙述した箇所。合戦において勝利を収めた家康が、実はその勝利の内実に苦悩しながら、見事としか形容のしようがないバランス感覚を発揮して体制を固めていったことが伺えます。それだけに、著者が指摘するように大阪の陣で「豹変」とも言える態度をとった家康の心が那辺にあったのかが本当に気になるところです。
〜関ヶ原合戦が歴史の過程のなかで果たした役割は、徳川幕府による日本全土に対する一元的で中央集権的な支配体制を確立したことではなく、むしろさまざまな局面において、分権的で多元的な政治秩序をその後の近世社会に対して付与したことにあるように思われる。〜
めっけもん的一冊でした☆5つ
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これまでの「東軍が勝って、徳川の天下ができましたとさ」みたいな考え方が、ちょっと変わるような、関ヶ原合戦の研究書。
合戦前後の詳細な大名の動向を知るのにも、良い本だと思いました。
序文を読むと、いつものトンデモ歴史解釈の人みたいな印象を持つかもしれませんが、本文でちゃんと考え方が示されているので、安心して読んで良いでしょう。(^^;
同じ作者で、大阪冬夏の陣に至るまでの話も読んでみたいのですが、研究者ってそんなに幅広くは研究対象としないんだろうなぁ。(^^;
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初出は1994年。関ヶ原合戦における東軍の意図せざる編成に、初期の幕藩体制を規定した政治史的・国制史的意義を見出している。「家康の戦略」という副題に反して、むしろ徳川家康のリーダーシップの脆弱性と豊臣系大名の強靭さを強調しており、豊臣秀頼の再評価と初期徳川幕府の西国支配の弱さという、近年の研究潮流に影響を与えたと言えよう。
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関ケ原の合戦およびその前後が詳細に記述されている。
徳川方に属する豊臣系武将の強さ、そして、その強さを認識しながらも豊臣家とは異なる公儀制を布くことで、反感を買うことなく実質的に日本を支配してしまう家康の強かさには感嘆せずにはいられない。
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「家康が大坂の陣を起こしたのが不可解」という著者のむすびにあるように、関ケ原は天下分け目などではなく、関ケ原後は徳川(武家)・豊臣(公家)の二重公儀体制であっという解釈。家康は関ケ原後も秀頼に対して特別待遇をし続けていた。
でも実際に大坂の陣は起こったわけで、その歴史的事実から遡って、関ケ原以降の15年間を解釈するのか?大坂の陣が起こるという事を前提とせず、純粋に史料批判を行って解釈するかの違いなのだろう。家康にどの時点でどの程度の野心があって、将来どうするつもりだったのかはわからない。通説では二条城会見で秀頼が立派だったので老人家康が焦ったという事だが、それにしても大坂の陣には大儀がないし、無理がある。この辺はまだまだ謎が多いと感じた。
尚、学術文庫なのでそれなりに硬派な内容ではあるのだが、小早川秀秋が「問鉄砲」に驚いて裏切りを決断というのは、史実ではないというのが優勢なのだが、著者レベルでも平気で俗説を記述してしまう点においては、その根強さを感じる所もあった。