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立教大学文学部教授(歴史社会学、音楽科教育)の有本真紀(1958-)による、卒業式の成立・変容をめぐる近代史。
【構成】
第1章 卒業式のはじまり
第2章 試験と証書授与-儀式につながる回路
第3章 小学校卒業式の誕生
第4章 標準化される式典-式次第の確立
第5章 涙との結合
第6章 卒業式歌-「私たちの感情」へ捧げる歌
毎年3月になれば、全国津々浦々の学校で悲喜こもごもの卒業式が挙行されるが、その多くは「判で押したような」儀式である。にもかかわらず、そこに居合わせた人間の何割かは、固有の思い出・記憶として深く自らに刻み込む。
本書では、まず、明治期における卒業式の成立過程を明らかにする。当初地域毎に多様なプログラムが用意されていたものが、徐々に標準化され、祝日大祭日儀式の規格化と期を一にして全国的な規格化が行われていった。
次に、規格化された卒業式の中に盛り込まれたプログラムの内容に視点を移す。在校生・卒業生の送辞・答辞や卒業歌のプログラムの中に、学校生活の思い出を詰め込み、入念な練習により「すり込んで」いったことを明らかにする。
つまるところ、卒業式でめいめいが泣くのは近現代150年の中で練りに練られたプログラムの中でそうするように仕組まれた感情であって、生徒た個々人の思いが偶然に重なったものではないということである。
儀式・形式・演出による感情のコントロールといういかにも社会学的なアプローチで分かりやすい。また、最後の卒業歌の歌詞の分析という視点は面白いが、最近の卒業式ソングあたりも交えた分析だとより説得力があったのではと思う。
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有本真紀『卒業式の歴史学』講談社、読了。日本の卒業式には涙と感動がなぜ必要なのか。答えは近代公教育を概観する本書に存在する。式典をいち早く取り入れたのは軍学校と東京大学。合唱は東京女子師範学校を範とする。エポックメーキングは、明治20年代の随時入学廃止と新学期の統一(四月)。
明治10年代の小学校には卒業式は存在しない。しかし、同年一括卒業が式典を可能にした。送る側・送られる側の相互応答がシステム化されるなかで、「泣き」が演出される「感情の共同体」へ。よき「臣民」はここから巣立つことになる。馴化の経緯を丁寧に解きほぐす一冊。
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「卒業式で泣けないのはいけないことか?」と悩む中学生がいて、一方では「卒業式で泣いたことなんかないし」と豪語する者もいる。いずれにしても、卒業式では泣くものだという規範が前提になっていて、それは日本社会に特有のもの。」
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日本の卒業式=日本特有の感情文化。いわば「感情の慣行」と「感情の共同体」の形成。なるほど。そういうまとめ方があったか。もともと近代国家の威信顕示のために軍隊の身分昇格の儀礼として始まった卒業式。そこから大学→下等学校への普及していった。当初は卒業証書授与のための儀式でしかすぎなかったが、そこはさすが日本、和の感情文化とも呼ぶべき要素をうまく取り込んで今のスタイルへと変わっていく。こういうところってはやり日本の美しさの一つじゃないだろうか。
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近代日本の学校制度が形を成し社会に浸透していく中で、卒業式のあり方がどのように作り上げられ変わっていったかを、「感情」をキーワードに整理している。筆者の冷静な分析姿勢に惹かれる。近年の卒業式をめぐる騒動と今後もそれがさらにエスカレートしかねない世相の中、本書は卒業式・学校教育について考える重要な視点をいくつもあたえてくれる。
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タイトルそのまま。卒業生と在校生の掛け合いとか、確かに入念な練習してました。最後、花道みたいなところを通って去っていった記憶が。泣いたなぁ。。。本で印象に残ったのは子守教育所のエピソード。学校にも行けずに働かなくてはいけないからかわいそうというより、子守される子に悪影響を与えないよう教育する必要があったってところに感心。写真がSoCute。子守生徒総代の答辞が、自分を卑下し、雇用主や学校に感謝の念であふれてるが実際はどうだったか。卒業式の建前・儀式感と感情(涙)の合体が気持ち悪いんだけど、この合体こそが必要不可欠というところが大変興味深かった。
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なぜ卒業式をやるのか。礼のタイミングを合わせる意味なんてあるのか。歴史学はなんの役に立つのか。疑問に思う方は必読。
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先日、娘の卒業式に参列してきた。
ベタである。細かい部分で改善したほうがよいのでは、というところもたくさんある。だが、みんな一生にそう何度もないし、結婚式と違ってカネを出しているお客さんでもない(から、もっとカネがとれるような変化もない)し、そうしてベタのまま、この先も行くんだろうなあと感じた。
いつからベタなんだろう。探してみたらこの本があった。
学校は個の涙が許されない場所だ。だが卒業式という場所は、共同化の涙が前提となる。私は卒業式でも泣かない、泣いたことがない、などという言葉も、卒業式は泣くものだという観念の証左になってしまう。
儀式は儀式の為ならず。平素があるからこその儀式である。「みんな」という謎の集団による協同一致の精神の涵養から、感情教育、という、それってまとめて行う必要あるの的なものに突入していく。やがて人格とか品性まで求め出す。
「みんな」がまとめて悲しんだり喜んだり、というのは本当に「みんな」にいいことか?
けれど、先に挙げたような疑問は、儀式の正当性を揺るがすことになる。儀式が儀式であるかぎり、無意味なことだったのだ。
僕が学校という場を嫌っていた理由が凝縮されている。とはいえ、そういう「共同体」の構成プロセスのディテールがなかなか面白く、気持ち悪さと興味深さを共に愉しんだ。