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大量のラノベの引用があり、それぞれの引用にそれとなくハッとするような指摘はありつつも、次のページをめくる頃にはその感動も薄れ、章をまたぐ頃には何の話だったのか忘れてしまうぐらいに印象が薄い話。
一冊を通して命題なんだったのかわからず、恐らくばっちりとした命題があったとしても読み終わるころにはそこにあまり興味がなくなっており、なんていうか、すいませんでした。
■『設定は恋愛ゲームを擬したラノベの王道だが、ある意味で真面目にシミュレーションゲームをなぞっていた頃のラノベと一線を画すのは、主人公の悩みどころが、「誰と恋に落ちるのか」ではなく、「誰もが傷つかずにいるにはどうするべきか」にあることに変わっている点だろう。それはつまり、恋愛ごっこならぬ、友達ごっこに青春を捧げる高校生たちの物語なのだ。』
■『小鷹は結局、友達を選んで「ぼっち」から抜けだそうするが、それでも、2009年のシリーズ開始より文庫本八巻を費やして友達一人とは、なんとポップでないことか。』
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W村上とラノベとの現代若者してんのずれに関する指摘はなかなか興味深かったけれど、結局結論として何が言いたかったんか半分も理解できんかった。
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ラノベのなかと謳ってはいるけど半分くらいはW村上からの引用だし題名から想像すると肩透かし感じます。変にラノベから引用するのではなく学生さんと本読みあったと書いてあったからその子たちは自分たちをどう思ってるかとかそういう生の声があるともっとよかった気がします。結局「若いうちに旅をしろ」と言いたかったのかなあ?
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おもしろい。
ラノベを読んだことのない人間だから楽しめたのかもしれない。
詳しい人はまた別の評価に’なるのかも。
ラノベから読み解く現代は、「おたく」が台頭し、だからこそ撤退する。大衆化した「おたく」はもはや初期の「おたく」ではないだろう。
ラノベでは「ぼっち」。
未来に期待できず、決して成長しない。でもひきこもりではない。
うーん、渡航の作品を読んでみようかな。
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帰属感=ノスタルジア(四方田)
ラノベ・・・自らを偽物に貶める態度=読者の態度
ポップ・・・権威はコケにされ、ヒーローは大衆と愛を分かちあう。
⇔ラノベ(疎ましい)
ライト=成熟したポップの上に成り立つ、本命ありきの浮気相手
よりアメリカに近いのはどちらか
田舎に張り付いたアメリカ・・原風景
オタク文化の成熟⇒村上隆、平成日本における「絶望」=へたれた社会のポップ、表層的な軽さ=スーパーフラット
穂村弘・・「遅れ」、ポップな無意味
東浩紀・・オタク系文化の歴史とは、アメリカ文化をいかに「国産化」するか、その換骨奪胎の歴史だった
涼宮ハルヒの閉鎖空間=現代日本に辟易した若者たちに見出された、可能性としての「個」の在り方
ラノベの態度・・「ぼっち」であることに積極的であり続けるラノベのヒロインたちと、彼女たちの絶望に肩入れするフツーの男子たち。⇒彼女たちに絶望した男子たちは??
「おたく」=卑下した自身を起点にした徹底した自己言及を繰り返す、同一話題では友情を育めるが、それ以外には排他的。
「ぼっち」=ラノベ世代のアンチ・ヒーロー、ぼっちであることを通してのみ友情を育み、互いに立ち入らない。自己卑下はしない。自分なしでも世界は動いているという認識。
ポスト冷戦期=戦勝国のない分割世界
村上春樹・・文化的雪かき、誰も傷つかない書き方
西尾維新・・趣味としての小説
ラノベの主人公=(変わっていく世界の中で)変わらない「個」であることを望む
ノストフォビア=?個人的トラウマ?
ノスタルジーとノストフォビアは共存する⇒時間の不可逆性が前提
60〜70年「現代日本」のノスタルジア
第二次世界大戦後の断絶〜さらなる断絶
空間的な旅⇒我々自身の顔、帰属感がないということ? ※農村の変化
「近過去」のノスタルジアへの可能性
家は帰る場所ではなく出る場所 ※家出
??⇒ぼっちには捨てる家すらない、共有できない、ノスタルジアすら許されない。
…やれやれ
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大変面白かった。ラノベは覗き見的に2,3冊読んだ程度で「なんか軽いのがちょっと物足りないなー」と感じられ、個々の作品は熱心な読者ではなかったのだが、ジャンルとしては、これまでの小説とは違う価値観や今時の世相を色こく反映してそうなニオイを、何となく感じていて、ラノベ全体をメタ的に俯瞰・解説する本書は、まさに待望の本であった。
単にラノベの解説本ではなく、現代日本との関わりから、従来の文芸や社会の変遷と共に優れた分析、解説になっており、一気に読ませた。個々の作品も読んでみようかなと思わせる。
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ぼっちというのは永世中立国のようなもんだ。そこに存在しないことで波風を立てず、トラブルに巻きこまれることもない。世界がもし百人のぼっちだったら戦争も差別もなくなるに違いない。おい、そろそろ俺にノーベル平和賞くれよ。
今いる世界は本当にリアルな世界かどうかということに、常に僕は疑いを抱いていると村上春樹が語るとき、その物言いを支えているのは、つまりポスト冷戦の世界が非現実的であるのはそもそも冷戦期の世界が非現実であったからだという反ノスタルジックなロジック。
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バブル期以降に若者に受け入れられた、
衒学的な虚像を題材にした小説。
ぼっちが自由に、見えるらしい。
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明治の教授が明治出身者のラノベを素材に,ラノベを通して現代日本を語るという。キーワードは「ぼっち」。読みやすい反面,文学批評らしく,主題が見えにくいような。とりあえず,わたしは八幡くんは結構好きな部類に入るキャラです。
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初め、面白そうに思えたけどイマイチ。最近の文芸批評は、文芸を社会学的に分析してるだけで、その典型的な評論。ラノベ作品の精読をして欲しかった。
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ラノベの軽さが自嘲から来ているとは!
でも群れない。ぼっちーズはあくまでぼっち。スネ夫が邪険にしてくるのだ。
でもでも薄い連帯感はあって、オタクらしく振る舞ったりする。仲間内でしか通じない単語を使ったりして。
これに対して村上龍の若者像は、群れてる。ポップとかなんとか言うけど、団結して敵と立ち向かうのだ。
でも無傷の素敵さにはドキッとした。失う経験があってこそのいまの無傷さであるはずなのに、それを忘れちゃうんだな。
ノスタルジアにひたれる一人はみんなのためには今の若者像ではない。いまだって黒歴史は作られ続け、ノスタルジーには遠く及ばない。
村上春樹はみんな傷つけずに気持ちよくなることのできる世界を描いているそうだ。そりゃはまるひともいるわーとおもう。
ポップに生きられたらいいけどさー、無理。なんでってそんなに連帯しないし、楽しいことばかりを考えられるほど未来に希望はない。立ち上がる意味も感じられない。
ノスタルジアが病だったとは笑える。たしかに現実逃避だもんね。
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ラノベから現代日本(というか主に若者)を考察した1冊。「別にそこまで細かく分析しなくても良くない?(作家がそこまで考えてるか怪しい気がするけど・・・)」というツッコミを所々に入れたくもなるけど、文芸評論っていうのはそういうものなのだと目をつぶろう。
内容としてはハルヒから変態王子まで最近出たラノベを網羅して分析していて、全然作品を読んでない者としては面白かったです。
特に「なるほど!」と思ったのは村上龍とかかつてのジャパニーズポップが対象にしていたのはスクールカーストの最上位から中間層にかけての「若者」であり、最近の"ぼっち"に主眼を置いたラノベが描いているのは「スクールカースト制度そのものからドロップアウトしたいけど引きこもりとかオタクになる気はない若者」という指摘。
そういえば今までに「ラノベが好き☆
」っていうリア充(いわゆるカースト上位層)にはであったことはないわとめっちゃ納得。
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ラノベ世代の若者が抱く上の世代との感覚的断絶感の正体を、それぞれの世代の作家が作品に描く「現代日本」を抽出して比較しようとするもの。断絶感の概形には納得するけど、文学批評研究を読み慣れてないからか不安が残る。という意味で星3つ。
こういう種類の本にありがちな「リア充」「DQN」みたいなワードに飛びつく、といった事が無かったので、そういう点では安心して読めた。そういうスラングはもはや大人の言葉とはかけ離れた世界のものである、という問題意識を始めに提示してくれているから。
この本は異世代との交流の薄い、交流を避ける人に読んで欲しいと思う。それでもなお異世代への不安が残るとすれば、なぜ不安なのかを突き詰めて考えることに意味があると思う。
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そんなに多く読んでいるわけではないのだけれども、ライトノベルにはぼっちキャラが多いということが分かった。自分も比較てkいぼっちな人生だったし、もっとラノベを読んでみてもいいかもしれない。
そして、この手のジャンルの本によく取り上げられる、『僕は友達が少ない』。あらすじ見ても評論見てもあまり読みたいと思わないのだけれども、面白いのだろうか? 逆に、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は読んでみたいと思った。
ところで、物語シリーズの西尾維新によると、小説を書くことは『労働』ではなく『趣味』らしい。はたして涼宮ハルヒシリーズの谷川流にとって小説を書くことは『労働』なのだろうか『趣味』なのだろうか。早く、新刊を見たいのだけれども。
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本書は決して「ラノベ」論ではない。本書が語るのはあくまでも、書名のとおり「ラノベのなかの現代日本」なのである。ライトノベル中に散らばる「現代日本」を知るヒントを拾い上げ、現代文芸の流れの中に組み込もうとする意欲的な評論だ。
その結果見えてきたのは、従来の「オタク」とは違う「ぼっち」という生き方である。「リア充」を中心とした「大衆」を否定し、自らの世界に独りであろうとする存在である。詳細は本書にて確認をしてほしいが、ここで特に取り上げたいのは「ぼっち」の「物語の主人公になれない」という特徴である。「ヘタレ男子」をその源流とする「ぼっち」系主人公は、その「ヘタレ」さ故に「物語の主人公」とはなれないという。
しかし、以前『変態王子と笑わない猫。』などのレビューでも述べたとおり、僕はライトノベルを取り巻く「エロ」にある種の危惧を抱いている。ライトノベルの主人公には、その性欲をアイデンティティとする主人公も少なくない。果たして彼らは「物語の主人公になれない」のだろうか。むしろ、性欲を堂々と披露できる男は、「ヘタレ男子」でありながら、そこに「リア充」の片鱗を感じることもできる。もちろん、ここで取り上げたような主人公たちは、本書の取り上げた「ぼっち」に該当しないという見方もできるだろう。けれども、そういった主人公群が存在する以上、性欲の披露は決して無視できないファクターなのではないか。
「村上龍」や「村上春樹」といった世界観とラノベを同列に扱うなど、本書にはかなり冒険的な仕掛けがなされている。時に、その冒険心が「行き過ぎ」を生んでしまっている感もあるが、一つの「試論」として評価されるべき一冊だろう。
【目次】
序章 ラノベを知らない大人たちへ
第一章 ポップかライトか
第二章 ジャパニーズ・ポップの隆盛と終焉
第三章 オタクの台頭と撤退
第四章 「ぼっち」はひきこもらない
第五章 震災と冷戦
第六章 ポスト冷戦下の小説と労働
第七章 ラノベのなかの「個」
終章 現代日本というノスタルジアの果て
参考文献
あとがき ラノベを知らない子どもたちへ