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資本主義の発達によって消費の主体としての個人になるべく教育を受けてきた若い世代は、個に分断され潜在的な
不安を抱えながら生きている。かれらが、ラノベやBLに走る心理をその不安と性欲の吐露だと考える。また、2000年から10年の間に静かに多くの物が変わり、特にネット社会の進化、意識が変化した。その変化を父性の消失した母性の時代として若者の社会の捉え方の変化を、ブラック企業を例に考える。
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うーん、まだなんかしっくり来ない。
堀井さん、大ファンなのですが。
ただ、2013年の今から00年代ってどういう時代だったか振り返る、ということか新鮮!
その切り口だけでも充分楽しめる。
若者の世相を見るのにサブカルから出発しているのも良い。
でもなんかまだしっくりこない。
再読します。
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自分は著者とは世代が異なりますが、ここ20年ほどのあいだにもやもやと感じていたことがちょっとすっきりしました。
ああ、自分が感じていたもやもやはそこからきていたのか…と。
20世紀後半(終盤)から現在に至るまでの世相というか、時代の雰囲気と流れをおもに若者の行動や考え方を中心に概観しています。
良きにつけ悪しきにつけの暴力の時代、父性と母性が共存して居た時代から非暴力、母性優位の時代へ。
表面的には「やさしい」時代になったのだけれど、その裏でかくされながら様々なものが消えていっていた。
私自身が深く関わっているサブカルな部分に関しては、どうしても外から見た方の評論だなーというところもありましたが、一般的なマスコミの見方に比べれば実際に足を運んでらっしゃることもあり、「こんな風に見えるのか」と受け止めました。
様々な関わりをもって殲滅されず、殲滅せずに生きていきたいと思いました。
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堀井憲一郎さんの現代評論。
僕は、今の時代は「変わり目」だとは思うものの、そこまで激しい「変わり目」であるかというと、それはどうかな~と首を傾げてしまう。日本の歴史を観ても、明治維新や太平洋戦争の敗戦といった、人の生き方を180℃も変えてしまうような「変わり目」はたくさんあったし、それと比較しても、今はもっと緩やかで柔軟性に富んだものになっている。たぶん、今の世の中が高度に成熟していることが、知らず知らずのうちにセーフティネットになっていて、その恩恵を受けているのだ。
ゼロ年代を俯瞰して、インターネットやサブカルチャーの興廃から、日本社会の構造の変化について考察している。「世間」という上から下まで貫いていた共同体(価値観)が、高度経済成長の終焉とインターネットをはじめとした情報化によって崩壊して、同じ感覚を共有できる人々だけが集まるタコツボ的な社会が形成されていった……というのが大まかな主張だと思う。表題の「やさしさ」は、この新しい社会を形成している価値観、「殲滅」はその価値観が旧来の価値観を滅ぼしていることを示している。
ゼロ年代の評論というと、宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』みたいなザブカルチャー評論が中心というイメージがあって、それについての総括が待たれるのだけれど、社会状況と文化を結びつける評論はこれからもなくならないだろう。面白いから。でも、やっぱりサブカルチャーはサブカルチャーなわけで、全体を俯瞰することはまず不可能であり、切り貼りすればいかようにも語りようがあるわけで、ちょっと鵜呑みにするのは避けたいところだ。ハイカルチャーの対であるサブカルチャーは、サブカルチャー自身も相対化して、常に振り子のように振れるから、取捨選択も容易だったりする。
現代評論は俯瞰が不可能なので、その評論には頷けるところと、頷けないところがある。一応の理屈は通っているものの、一つには政治についての話がないことと、もう一つには世界についての話がないことで、ゼロ年代の評論としては不十分さがあった。このあたりは、この本が「若者」についての評論することが中心になっていると思う。サブカルチャーと若者の親和性。
なので主軸に語られているのはサブカルチャーで、経済・政治についてはほぼ書かれていない。小泉純一郎についての言及がないし、世界でいえば911以降のアメリカについての言及がないのは、さすがにこの時代の社会を描きだすという行為に、絵具が足りていないように思う。書かれていないことを集めれば、「そうでもないよね?」と言うこともできそうだ。
書いていることに集中すれば、作者の鋭い観点が多々ある。特に、「やさしさ」によって「暴力」が排除されつつあるものの、「暴力」そのものは決してなくならないという主張は頷けるものがあった。暴力すらも旧来の価値観(ルサンチマンや若者の暴発といった見方)からは外れたものとして、秋葉原の通り魔事件について言及されている。この意味もなく発露する暴力性は、たぶんゼロ年代を通じて社会の上から下まで起きていて、サブカルチャ��はもとより、政治の世界では郵政選挙、世界では911などがあって、ついには東日本大震災でピークを迎えた。
この現代評論は、ゼロ年代の気分について語ったものであると「あとがき」には書いていて、確かに時代の変わり目の、旧来からの価値観が通用しなくなり、新しいルールが次々に生まれ、模索していたころの空気について、腑に落ちる程度には説得力があると感じられた。でも、今にして思えば、失敗したものが大部分ではあっても、成功したものもたくさんあって、その成功したものが10年代の気分をつくっていくのだと思う。それは、批判的になりがちな現代評論とは別の、肯定的な言説によって、また描き出されるのではないか。
若者論として、その文脈で読めば、非常に優れた本だと思う。
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00年代をサブカル的視点でどんな時代だったかを考察した本。
堀井さん、ファンなのですが。
なんだか今回はためいきが重たかった。独創的な視点と文章のキレも心なしか鈍い。なぜこんなに憂いているのか。結局2013年版にアップグレードした「昔はよかった。大事なものが失われた。今の若者はかわいそう」っていうことを言ってるだけの気もする。もちろん言ってる本人は本気なのだけどね。面白いな、とハッとさせられる部分もある反面、居酒屋でオッサンの愚痴をきいている気怠さ。
思慮深く頭のよい中年男性は皆、リリー・フランキーが提唱した通り「中年鬱」になって、村上龍のようにどんどん顔が険しくなっていく運命(と書いてさだめ)しか待っていないのだろうか。村上龍の最新刊の顔写真の険しさ、尋常じゃないことになっていた…。
ただ、結論の「人に迷惑をかけて生きよう」は同意。大げさな例えだけど、自分の葬式でみんなが「いい人だった」と泣いているよりは「あいつのせいでほんとに人生めちゃくちゃになった。死んでほっとした」と言われてるほうが、いい人生なんだろうな。(いや、あくまでも大げさな例えね。)
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00年代に思春期を過ごした自分にとっては、身の回りの空気の変化に対する違和感をうまく言い表した新書であった。言い当て妙である。3、4章を読むと文章中には一言も書かれていないにもかかわらず、「草食系」という言葉が頭に浮かぶ。欲望が予想されているというのも面白い。若者論として良書だと考える。
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迷惑くらいかけようぜ。
迷惑くらいかけられようぜ。
最後のまとめにとても共感した。
全体に関してはこういう捉え方もあるのかー!と興味津々だった。
少し気になったのはこの作者さんの憂いすぎ?な感じ。
そんな気にするほどのこと?と想ってしまうくらい嘆きの側面を感じてびっくりした。
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かつて携帯電話は10桁だった。それで全部表示できないから新しい携帯電話を購入していたそうだ。記憶にもない。90年代後半って記憶にもないようなことがたくさんあった時代。
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見た目のクリーンさが整えられ、そのぶん生活危険度が増していく
包括的な文化をめざすことをずいぶんまえからやめていた。それが00年代。
暴力的なものを隠し、気がつけばこんなはずでは、という世界になっていた。
愚痴のような、反省のような、日露戦争とコミケをあわせて考えたりして、まあとにかく、分断されながら、局所的に増大している社会の例が次々に。読んでいるとすっかり鬱々としてくるのだが、しかし何故か読むのがやめられない。まあ、迷惑をかけたりかけられたりしようぜ、ってね。
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個人が、地域や家族という共同体から分断された現代を、社会的出来事とともに考察。
日韓ワールドカップサッカーや今年の紅白歌合戦などの、韓国に対する風潮を考察している章は、自分の中のもやもやが言語化された様な気がした。
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コミケを「個どうしが閉鎖性を持ちより拡大し続ける場所」、とする表現に的確さを感じた。
インターネットはオープンだ、と言いながら、実態はクローズドが蔓延しているのだな、と。
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堀井憲一郎の、一見軽妙で、奥の深い時評。自分が時代の当事者であることをしっかり認識した上で、その自分も含めた「現代」を冷静に見つめる視点がここちよい。
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大体は『若者殺しの時代』とおなじ
まあこういうことを言う人も必要だよね
ただ、ちょっとその情報は違うんじゃないかと思えるものもあった
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http://www.amazon.co.jp/review/ROEGF47RCVJMW/ref=cm_cr_rdp_perm
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偶然にもこの本の前に読了した「だから日本はズレている」と同質の本。こっちの著者は60代なので比較して読むと面白いのかもしれない。