投稿元:
レビューを見る
三浦しおんさんの解説が本書の性格を端的に表している。実は「雪男」的なものは世の中には結構あって、いつ自分がそれに絡め取られていくかは分からない。
それ故に、高学歴のエリートと評していいような人でもオウムにはまったりしてしまう。そこまでいかなくても、ちょっとしたオタク的な趣味にハマるのもそれに近い事なのかもしれない。
作者は一貫して冷静であろうと努めるが、それでも時折、それに絡め取られそうになる。それがまたなんとも人間的でいい。題名に込められた思いを考えると深いものを感じる。
投稿元:
レビューを見る
雪男とタイトルに書かれているので、色物もしくは眉唾を期待して読み始めたが、その期待は裏切られます。
雪男をテーマにしていますが、その存在確認よりも、もっと深いところにこの本の書きたいものがあるのです。
投稿元:
レビューを見る
ちょっと時間も出来たし気楽にUMAモノでも…とか思いつつ「ムー」読むような気分で手に取ったが、いる、いないをジャーナリスト的目線で公平に判断してて、眉唾感が無く面白かった。個人的には毛でも採取してDNA解析したら良いのにと思ったけど。
投稿元:
レビューを見る
著者は早大探検部出身で元新聞記者だ。さすがにジャーナリストだけあってか荒唐無稽なものに対して少し醒めた思いで向き合っているところがとてもよいと思った。
新田次郎文学賞を受賞しているが、文章が非常にうまく、また、単なる冒険記ではなく、入念な取材がなされていて作品としての深みを感じた。有名な登山家を目撃していたという話にはとても興味を覚えた。
投稿元:
レビューを見る
雪男は本当にいるのか、いないのか、ということよりも雪男に魅せられた人たちの話が面白かったり悲しかったり。
投稿元:
レビューを見る
早稲田探検部出身でUMA探しで思い浮かぶのは高野秀行氏ですが、本著はヤルツァンポ峡谷の空白の5マイルを踏破した角幡唯介氏。
フィリピン・ルバング島で旧日本兵小野田少尉を発見して、一躍時の人となり、その後ヒマラヤ・ダウラギリ山域で6回の雪男捜索を行い、雪崩で亡くなった鈴木紀夫氏や、日本有数の登山家で、雪男を目撃した芳野満彦氏など、雪男という存在はそれを目撃した人を引き付けてやまないらしい。著者自身イエティー・プロジェクトに半信半疑ながら参加し、だんだんと雪男捜索の魅力に引き付けられていっていますが、これは雪男に限らず、UMA全般や伝説的なもの一般に当てはまる事かも。
いかにもキワモノ的になりそうなテーマですが、そうではなく、むしろそれに惹かれる人々に焦点を当てた、非常に出色のルポルタージュ。比較的最近読んだ中では一番よいかも。お薦めの一冊。
投稿元:
レビューを見る
初・角幡唯介。「冒険」という行動と、対照的に妙に冷めた視点が面白い。そういう感想のまま読み進めていたら、鈴木紀夫のところで急に『最後の冒険家』を思い出してしまって、凹んだ。何なんでしょうねあの人種…奥さんどう思ってるんだろう…
日本の雪男伝説はどうなってるのか気になったりする、面白い本でした。
投稿元:
レビューを見る
空白の5マイルに続き2作目。個人的にUMAには大変興味があるが、雪男はいないと思う。
雪男は実在する を前提にしていないため、説得力はある。
投稿元:
レビューを見る
雪男を探しに行ってどうなった!?
というより雪男という存在に魅せられた人々のはなし。
著者の雪男に対しての一歩引いた視点がまたいい。
投稿元:
レビューを見る
雪男を追っている本かと思いきや、雪男を追っている男たちを追っている本であった。
中学生や高校生のころであれば、「結局、雪男はいるのか、いないのか、はっきり」と思っただろうが、今は全くそうは思わない。むしろこういった雪男を見た人物たちに興味がある。それは自分自身が登山をかじったりして、登場人物の幾人かを本・雑誌で読み知っているというのもかんけいしているかな。
投稿元:
レビューを見る
UMAのなかでも実在する可能性の高いもののひとつが雪男らしい。とはいっても、体長3メートルもあるような巨大な生物で、牛や鹿を襲って食うような怪物ではなく、人間の成人より身長は低い150センチくらいの猿(猿人?)の一種。なんらかの理由で高地の雪山で生活するようになったんじゃなかろうか、と専門家?は見ている。
はじめにお答えしましょう。雪男はやってきません。
しかしながら、なんだ、つまんねえ、やっぱりいないんじゃねえか、期待させやがって、けっ! とはなりません。
雪男に魅了された人々の体験記として読むと、それはそれは面白い。
著者は半信半疑のまま雪男捜索隊に参加する。しかし雪男をみたという証言が多いことに加え、著名な登山家の中にも雪男を見たという人が多いことで、次第に雪男の存在を信じ始める。
鹿や熊の見間違いじゃないのか。白銀の世界で目がやられ、岩が動いて見えただけじゃないか。
ヒマラヤに足を踏み入れてことのない素人は様々な要因を挙げては雪男の存在を否定する。
確かにそのようなこともある。そして初期の探検家が雪男の足跡などを偽造したりもしたので、どうせまた嘘だろうと思われるのは無理もない。
例えば、類人猿の専門家に雪山でチンパンジーのような猿が二足歩行するように進化したとは考えられないですか?と著者は質問する。
専門家は一刀両断。最初の人類が二足歩行するようになったのは平地であったためで、雪山のような斜面での生活で四足歩行を放棄するとは到底あり得ない。
ふむふむ。常識的にはそうなんだろう。
しかし、いるとしか言えない(徳川埋蔵金かっ!)
面白かったのは、現地の人々は雪男を探しに来たというと、金づるがきたとした思っていなくて、明らかにそんなものはいるわけない、と考えていること。金にならないとわかると、鼻で笑って否定する。
著者はこの状況を日本人にもわかりやすいようにこう説明する。
フランスの探検家が霞ヶ浦に河童を探しにきたら、地元の人はどう思うだろう。
一笑に付すのは簡単だが、なぜそう思うのか、それを想起させる何かがあったのか、よくよく聞いてみるのは面白いし、新事実に突き当たるかもしれない。
そんな感じで読むといい。
投稿元:
レビューを見る
雪男、と聴くと、オカルトな分野のUMA(未確認生物)を思い起こすひとは多と思います。巨漢で白い毛で黒い顔で牙が生えて、ウワーっと両手を振り上げてこっちに襲いかからんとするイメージはないですか。ヒマラヤなど多くの山を制覇したなだたる登山家たちが、実は雪男を見ていたり遭遇したり、足跡を発見していたりしていたことが、本書で明らかになります。体験談が、その登山家の格を落としたり、登山話を聞く者、読む者を興ざめに追いこんだりしないためのように、ほんのちょっとだけだとか、そっとだとか語られたことがあるような雪男話が、彼ら登山家の、知る人ぞ知るサイドストーリーとしてありました。著者は青天の霹靂といった体で、雪男捜索隊の隊員になるよう頼まれ、雪男に魅入られた、個性豊かな山男たちに随行して、ヒマラヤのコーナボン谷を訪れる。はたして、雪男の痕跡、そして雪男そのものは見つかるのか。解説の三浦しをんさんが述べられているように、なにかに人生を賭けるようになることは、それが雪男だったにせよ、幸せなことかもしれないです。著者自身は、なにかに夢中になることと雪男に夢中になることをいっしょくたにせずに、「雪男に捉われてしまうなんて……」という反応でもって本書を書いていたりする。しかし、ぼくも三浦しをんさんといっしょで、それでいいんだ、と思うほうです。価値観や考え方、もっといえば正義だっていろいろあって、そのどれが真理かなんて、なかなか言えないと思うのです。
投稿元:
レビューを見る
早大探検部の先輩である高野秀行とは違い、未確認生物に懐疑的だった著者。ツアンポー峡谷を探検する前に、新聞記者の職を投げ打った不安定な立場で偶然にであった雪男捜索隊への誘いという切っ掛け。それが適当に距離を置いてリポートでする視座を得たのかもしれない。しかし、それによって雪男を目撃する幸運に恵まれなかった……それが本書のタイトルとなった深い意味に繋がる。映像に収めようと意図しても、露出オーバーだったり、濃霧に阻まれたり。さて、雪男は実在するのか? 21世紀の現代でも謎なのだ!
投稿元:
レビューを見る
結局のところ、信じるか信じないかによって、物事の見え方というのは大きく左右されて、時にはその人の人生すらも変えてしまうのだなと。
自分も同じ境遇にいたら信じてしまうのだろうか?いや、信じられる側の人でありたい。
投稿元:
レビューを見る
読んで何となく違和感があったのは、タイトルから想像するに、雪男捜索の探検記だと思い込んで読み始めたせいだったみたい。作者のあとがきを読んで納得がいった。