紙の本
「道の道とすべきは、常の道にあらず」 彼は「道」に謀反し、「道」に誅せられ、「道」に回帰していく。この犯罪の核心を気ままに推測すれば………。
2009/08/31 20:24
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
エピローグにあるこの事件の裁判に関する記述はいろいろと興味深いのだが、最も注目されるべきはラスコーリニコフの供述、この強盗殺人事件の動機についてである。彼は1極貧と孤立の境遇、2強奪した金を出世の糸口にしたかった、3軽薄で臆病で苛立ちがつのっていたことからの決意、4心から後悔しての自首と「きわめてはっきりと乱暴といえるくらい正確に答えた。」「そうした受け答えはすべて、ほとんどふてぶてしいとも思えるほどだった………。」
この供述は「正確」であったが、ただし「正直」ではなかったようだ。表面の事実を本人が追認したようなもので、心の闇に隠れた動機の核心部分が欠落しているのだ。本物の核心は裁かれることがなかった。
「どうだ。既成の法秩序ではオレを裁けなかったろう」。傲然としてうそぶいているラスコーリニコフの姿が目に見えるようだ。
この物語に登場するすべての人物はそれぞれが存在感のある自己主張をしている。中で常軌を逸した特異な男が二人いる。マルメラードフとスヴィドリガイロフである。
ラスコーリニコフはこの二人の背徳の行為そのものを自己の存在理由としている生き方に自分と同質のものを感じたに違いない。
麻雀の好きな私には阿佐田哲也『麻雀放浪記』の登場人物がとてもリアルに感じられるところがある。女房と家財を担保にしてまで勝負して敗れゆく男たちの群像。似たところがあるな、この二人の生きかた。ドストエフスキーも破産するまでにルーレットにのめりこんだそうだが、ラスコーリニコフだって乾坤一擲の勝負に運命をかけたところがあったのではないか。
ラスコーリニコフはこの世界を成り立たせている秩序(神の摂理、法の正義)を認めていない。拒絶している。
仮にこの世で最大の罪にあたる殺人をやってみる。法は自分に重罪の判決を下すだろう。仮に露見しない場合でも神が存在するなら何らかのおそろしい罰を与えるであろう。殺されたものに縁者がいれば俺を憎悪するだろう。周囲のものたちは俺を弾劾するだろう。俺に期待していた母や妹は絶望するだろう。まだまだ予想し得ない強烈なしっぺ返しがあるはずだ。しかしそんなことがなんだ!………
彼はあえてこの状況をつくり、この負荷に耐えられるかどうか、そこに自らを投じてみる賭けを決意した。そして殺人を実行した。
この賭けに勝ったか、負けたかは、だれでもない彼の内心が見るものである。事後に新たに生ずる負荷は俺があえて作った負荷である。それは俺が拒否している世界が与える罰に過ぎない。俺はそんなもの到底認めない。だから恐怖におびえることも、苦悩にもだえることもないのだ。そして俺は事前にあった閉塞感からは解放され、新たな負荷には傲然として向きあうのだ。この超然と屹立できる自分こそ真に確立された自分であり、そうして生きていく自分を確信した時に、この勝負は俺の勝利となるのだ。
ラスコーリニコフは究極のマゾヒストになろうとしたのだろう。あえて自分を追い込んだ究極の奈落で、そこでしか生きることを実感しない存在になろうとしたのだから。殺すのはだれでもよかったのだ。
わがままで横着で臆病、重度な鬱病の彼だ。事前には大いなる迷いのなかで呻吟していた彼だ。かならずそうなると先行きを確信していたのではない。そんな彼だからこそこれは運否天賦の大博打だったのだ。
しかし、犯行の瞬間から彼は露見する恐怖におびえ狂乱状態におちいる。そして襲い来る悪夢と孤独に震えおののく。時に粗暴になり傲慢をもって立ち向かうのだが、なにものかが与えるその罰には抗しがたく、たちまちその苦痛に身もだえすることになる。刑に服している獄中でも彼の混乱、懊悩、世界からの断絶感はますます深く、絶望しか見出すことはできなくなる。彼は獄中でこれまでの経緯と現状を深く思索する。なぜこんな状況を招き寄せたか。だが解くことのできない闇しかない。未だ彼は傲慢である。俺は、良心に従い良心にその許可を与えた俺は、だから罪を犯してはいないのだ、超然として心の平穏があるはずなのだ。と自己の内心に言い聞かせる自分がいるからこそ、むしろ救いがたい本物の罰を受けているのである。
彼は賭けに完敗し、敗北を自覚しないことにより、破滅したのだ。
ラスコーリニコフの誤算はどこにあったのか。それを考察することで、ラストの復活が見えてくると思われる。
「犯罪論」に戻ると「心の中で良心に従って、流血を踏み越える許可を自分に与える」と彼は言っている。彼はその良心に従って犯行を行ったと思い込んでいる。金貸しの老女(アリョーナ)を殺すのが良心で、予定外の殺人・その妹(リザヴェーダ)殺しは良心に背く行為だったのだろうか。良心とは個人の主観が決めることのできるものなのだろうか。そうではないはずだ。良心を良心と呼ぶには、なにものかが示す絶対的尺度がある。彼の誤算の根源はここへの無関心であった。
ラスコーリニコフはあまりにも軽率に「良心」をもてあそんでいる。「良心」とはなにか。
亀山郁夫の『「罪と罰」ノート』の巻末のあとがきでラスコーリニコフの傲慢さについて次のように述べている。
「(犯行の動機となった彼の純粋意志こそは)大地の深みに入り込もうとする人間の素朴な心をどこまでも疎外する傲慢さそのものだった。」
ドストエフスキーの作品を理解するうえで「大地」「母なる大地」「ロシア的なるもの」は大事なキイワードのようだ。
私にはロシアがわかっていないから借り物の言葉になってしまうのだが、良心とは「母なるロシアの大地へ溶け込もうとする人間の姿勢」のような気がする。
この世の秩序とは神と為政者に加えて「母なるロシアの大地」が作り上げた秩序がある………と私はとらえたい。
ラスコーリニコフはこの第三の秩序に気がつかなかったのだ。彼の内心にとって神の摂理と法の正義から下される罰は罰ではない。しかし第三の秩序形成者に対しあまりにも傲慢でありすぎることによって天罰を受けているのである。
そして彼が人間としての復活する糸口がここにあることを暗示する感動のラストシーンが用意されている。
ところで「母なるロシアの大地」という概念はあまりにもロシア的でそのままでは受け入れがたい。
もっと普遍性を持たせれば老子が語った「道」ではないかと思われる。そのほうがまだしっくりする。
「一切のものがそこから生じてき、そこにまた帰ってゆくこの世界の根源の根源にある究極の実在」(『老子』福永光司)。人間の「作為」が道の渾沌に崩れ落ちるところから「無為」に生きよとする原理。
ラスコーリニコフはこの運動法則から離反して苦しみ、やがて生きとし生けるものとしてそこへ回帰していこうとしている………と解釈したい。
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私たち人類は「豊かになれば幸せになれる」と考え、多くの努力をして現在の文明社会を築いてきたわけだけど、そしてその結果として確かに「豊かに」はなったはず(と言うよりは「少なくとも日本人は極貧からは脱却できた」はず)なのに、相変わらずラスコーリニコフと同じような「追い詰められた心理」から犯罪に走る人間が後を絶たないのは何故なんでしょうか??
ラスコーリニコフを追い詰めた予審判事ポルフィーリーが
「あのばあさんを殺しただけですんでよかった。 べつの理屈でも考えついていたら、一億倍も醜悪なことをやらかしていたかもしれないんです!」
と語っているけれど、この「一億倍も醜悪なこと」というのはいったい何でしょうか?? 私たち一般人(普通の人)にしてみれば「あのばあさんを殺した(≒ 殺人)」というだけでも十二分に醜悪なことだと思えるけれど、その一億倍も醜悪なことって・・・・。 そしてその「一億倍も醜悪なこと」を今の私たちが犯していないかどうかは「どうやって」、「誰が」判断できるのでしょうか??? 例えばそれが「文化的な生活を営むためのやむを得ない自然改良(破壊?)行為」のことではない、「原子力には手を出さない」ということではない、「遺伝子操作には手を出さない」ということではないという保証はどこにあるのでしょうか??
上に挙げた例はどれもこれもその道を選ぶにあたっては「何等かの正論」があるわけで、その「何等かの正論」とラスコーリニコフの「極論」の間にある差は「1人勝手な理屈なのか」「それなりの議論を経ての結論なのか」ということになるわけで、「それなりの議論を経た」というところにせめてもの「保障」があるわけだけど、その議論がどのように選ばれたメンバーにより、どんな手続きで行われたのかは不明なことも多いわけで・・・・・・。
(全文はブログにて)
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この本を読んだら生まれ変わらなくてはいけない気持ちになる。以下引用。
ひとりの人間がすこしずつ構成していく物語、その人間がしだいに生まれかわら、ひとつの世界からほかの世界へ少しずつ移りかわり、これまでまったく知られることのなかった現実を知る物語である。
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主人公のラスコリーニコフが最後の決断に至るまでの、各人の苦悩が読んでて凄い。一言で単純に言ってしまえばみんなただの鬱。深く言えば複雑な心理変化の連続で筆舌じゃ尽くせない。
まだ僕の読書レベルが届いてないのか。なかなか理解が難しい。
ただ葛藤ぐあいの勢いはとても伝わってくる。この類の本を沢山読んでいけば、段々とその域に到達できるんですかね。。。
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この長い小説がたった2週間(14日間)の出来事であることに驚きつつ。
まぁ、こんだけ内面綴ればそうなるか、と納得もしつつ。
ここで語られる、人を殺すのが悪いことなのか?という問いかけには、ある意味賛同するものがあります。
私は、「権利がある」とラスコーリニコフが考えるような選民思想的な考え方は一切ないけれども、結局、殺人=罪というのも、今のこの瞬間の社会が決めたルールに過ぎないよな、とは、実際思います。
常にその思いは消えない。
このルールは誰がつくった?っていう話ですね。
大部分の人にとって気持ちが良いし、楽に生きるために必要だから維持されるルールだけど、それを納得できない人にとっては、別に殺人が「いい」とか「悪い」とかいう話ではないんですよね~。
単に、行為と社会的罰則が存在するのみ。
そうぃう意味では、一部、共有します。
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当たり前だけど小学生のときとは全然違う感想を抱いた。
自己嫌悪の物語ではない。葛藤は葛藤でも、社会や周りの人が許してくれるかとか、神に許されるかとか、そういう問題ではない。高い思考力をもったばっかりに苦しむラスコーリニコフ。自己の存在と意思と恐怖とのたたかい。
エピローグで、彼は突然変化する。なんともいきなりだなと思ってしまったけれど、最後の一瞬がそこで訪れただけで、本当はいろいろな影響を受けたり考えたりしながら少しずつ積み重ねていたのかな。
自分を変えられるのは自分だけ。現代にも、というか現代にこそ通じそうな話に思えてしまうのは人間性の普遍的な問題を描いたドストエフスキーの力なんだろうか。
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なるほど名作。エピローグがほんとうに感動的。涙が出そうであった…。涙を誘う場面がたくさんです。カテリーナさん、プリヘーリヤという二人の母たちの場面はどっちも涙目でした…。
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2015年27冊目。
「天才は自らの事業を成すために凡人を踏みにじる権利を持つ」というナポレオン主義から起こした殺人。
幾度も思いついては踏みとどまって来たラスコーリニコフは、ついに自首に至る。
彼が抱く罪の意識は、殺人に対してではなかった。
むしろ、運命が後悔をもたらしてくれればと、自分で自分を罰することができたらとさえ思っていた。
自首後に彼が抱いた罪の意識は、結局ナポレオン主義を徹底し切れなかったという点にしかなかった。
そんなラスコーリニコフに「観念としてではなく、生命として」訪れる最後の救いの瞬間が印象的。
『カラマーゾフの兄弟』もそうだが、ドストエフスキー作品の登場人物たちは、「自分を苦しめることで救いを求める」という一種のマゾヒズムのようなものを抱えていることが多い。
「少なくとも自分に誠実でありたい...」という点において、共感することが多い。
ロシアの宗教を始めとした文化事情をもっと理解しなければドストエフスキーの深すぎる仕掛けにはまだまだ気づけないが、
それでも十分に人に内在する共通項を感じ取ることができる。
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辛いときには幸せな物語を読むより、同じように辛い物語を読む方が救われたりするので一気に読んでみました
ラスコーリニコフの考えは完全に理解するのは難しいけど、似たように苦しんでる立場だったりするとポルフィーリーに追い詰められる辛さや、大切なのに疎ましく思ってしまう家族や友達への感情は痛いほど理解できた
それにしても彼はあれで救われるのでしょうか?
でもどんな状況になっても少しは希望は見えるものなんだなぁと思った
最後の一行は私も気に入ってます
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岩波文庫版は2回読んでいるが、亀山訳の光文社古典新訳文庫で読み直した「罪と罰」。
読みだすと全3巻一気に読んでしまう、ドストエフスキーの面白さは何度読んでも格別。
若い頃に読んだ時には、「罪」を受け入れられないのは、頭でっかちになってしまったゆえの不幸なのかと感じていたけれど、今読むと誠実過ぎるゆえなのだなと感じたり。
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ラスコーリニコフがこの先どうなっていくんだろう?という
単純な疑問の連続と謎の多い登場人物がかかわり合う中で
繰り広げられる心理描写に最後までひっぱられた。
読みながらこんなに苦しかったのは久しぶりで読後に得た
開放感の大きかったことと言ったらもう。。。
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殺人を犯した者の詳細な運命がつづられる最終巻。ラスコーリニコフをはじめ、母、妹、友人、そして娼婦ソーニャなど、あらゆる「主人公たち」が渦巻きながら生き生きと歩き、涙し、愛を語る。ペテルブルグの暑い夏の狂気は、ここに終わりを告げる…。
2009年7月21日購入
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歩いて七百三十歩のアパートに住む金貸しの老女とその妹を、主人公ラスコーリニコフは殺してしまう。目の前にとつぜん現れた愛する母と妹。ラスコーリニコフは再会の喜びを味わう余裕もなく、奈落の底に突きおとされる。おりしも、敏腕の予審判事ポルフィーリーのもとに出向くことになったラスコーリニコフは、そこで自分の行いがすべて知られてしまうのではないかという背筋の凍るような恐怖を味わわされる。すでに戦いは始まっていた。 そして彼はソーニャのもとへ行き、全てを告白するのだったが・・・。
やっぱり文学って苦手だ・・・と思うものの頑張って三巻まで読破しました。それでも亀山氏の訳はとても読みやすかったです。結構さらっと読めた。最後の読書案内も丁寧に書かれていて、謎だった部分とかあっさり読み飛ばした部分が、ああそういうことなのかと思うところも多かったです。深いなと思うけど、自力では難しすぎた・・・。ラスコーリニコフが罪を犯した後のエピローグにはなんか素直に喜べないけど、でも一応、ハッピーエンドなんだよね、これ。ソーニャと出会えて良かったねえこの人。全体的に重い話だったけど結構ポルフィーリー好きだった。
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遂にラスコーリニコフは自首を決断する。だがそれは罪を悔い改めたわけではない。歪んだナポレオン主義は健在で、優れた人間が下等な人間を殺すことに対する罪の意識は認めない。ただそれを貫徹出来なかった自分の弱さを恥じ、罪とした。自ら進んで流刑の罰を受ける彼を信じて支え続ける友人のラズミーヒン、妹のドーニャ、そして恋人のソーニャ。母プリヘーリヤは息子を待ち続けながら病死。そして人間性の復活を匂わせながら物語は幕を閉じる。当時のロシア〜ヨーロッパを覆う時代背景やドストエフスキー自身の境遇や思想など、様々な要素がこの小説には表裏に反映されているらしい。その知識なしには理解し得ない部分も多い。未だこの小説のすごさ、全容が見えないでいるような気がする。
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最終巻。もう出だしからめちゃくちゃ面白い。ルージンがうまく立ち回ろうとして逆にやられちゃうという。レベジャートニコフグッジョブ!気持ち良かった!!
その後はカテリーナの場面でしんみりして、推しのスヴィドリガイロフの退場シーンでは息をのんだわ。やっぱりドゥーニャが忘れられなかったのか……。
もう、めちゃくちゃストーリーが面白いんですけど!! ドストエフスキー先生最高っす!!
ラストもいいよね。ラスコーリニコフにちゃんと未来がある感じがいい。この展開で読後感がいいのスゴイよな。
いやぁ、罪と罰、めちゃくちゃ楽しかったです。全3巻十日ぐらいかけて読んだんだけど、めちゃくちゃ濃い十日間だった。