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投稿者:かい - この投稿者のレビュー一覧を見る
岡倉天心が考える「茶の心(茶道についての心)」がよく分かった。また、茶道だけでなく、今の生活に活かせる事もあった。「茶の心」を毎日意識していくことで、ささいな日常に楽しみを見つけたり、何気ない日々が有意義に感じた。茶道について興味を持って良かったと思う。
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こんなに芸術を愛し、日本を愛する国際人がいたとは…!
戦後において西洋追随ではなく東洋の素晴らしさを忘れず、
時代に流されなかった天心は立派!
ただし他文明を差別化した表現が少々気になった。
芸術の在り方が、あまり納得いかない。
「芸術とは自分の内から湧き出るものを表現すること」
って私は思うけど、 彼に言わせると私は
「近代西洋の自己中心的な考えに染まりきっている」 らしい。
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先日伊勢神宮に行ってから、日本的な美意識に興味が沸々と。岡倉天心の茶の本が新訳で出ていて、なかなか評判がよろしいらしい。
茶道の本質は不完全ということの崇拝ーー物事には完全などということはないということを畏敬の念を持って受け入れ、処することにある。不可能を宿命とする人生のただ中にあって、それでも何かしら可能なものを成し遂げようとするこころ優しい試みが茶道なのである。
この一文に、西洋と東洋の美意識の違いがエッセンスとして凝縮されている。これは美意識のみならず、一神教を軸とする西洋の精神文化の持つ論理、構造性、に対応する東洋からの回答ともいえる。不完全性を受け入れた諦めの先にこそ、軽やかで自由なこころの境地があるということだ。
またこういうのもあった。チャールズ・ラムの言葉として本文中に引用されている。
「善きことをなすにあたってはひそかにこれをおこない、たまたま表にあらわれるにまかせることをこそ無情の喜びとする。」茶道とは美を見出してもそれを包み隠しておくたしなみであり、あからさまな表現を避けて暗示するにとどめておく術だからである。それは自分というものを、つつましやかに、しかし徹底的に笑いのめす気高い奥義であり、その結果として、ユーモアそのものであり、悟りの微笑なのである。
またそこに岡倉天心は汎神論的な神秘の輝きを見いだす。茶とは神の飲み物、天の甘露であると。そして中国で勃興した茶の文化がモンゴルの襲来に酔って中国では衰退してしまったものが、日本という国で生き残り継承発展されて行ったと。
私たち日本人にとって茶道は単に茶の飲み方の極意というだけのものではない。それは、生きる術を授ける宗教なのである。茶という飲み物が昇華されて、純粋と洗練に対する崇拝の念を具体化する、目に見える形式となったものであり、その機会の応じて主人と客が集い、この世の究極の至福を共に作り出すという神聖な役割を果たすことになる。(中略)茶の湯は、茶、花、絵などをモチーフとして織りなされる即興劇である。部屋の色調を乱すような色、動作のリズムを損なうような音、調和を乱すような仕草、あたりの統一を破る酔うな言葉と行ったものは一切泣く、全ての動きは単純かつ自然になされる。茶の湯が目指したのはこのようなものである。そして、この企ては不思議にも成就されたのである。その全ての背景には微妙に哲学が働いている。茶道は姿を変えた道教なのである。
引用が多くなって申し訳ないが、この新訳での現代的な言葉遣いの効果も相まって、岡倉天心の言葉が現代の西洋と東洋という大きなパラダイムを橋渡しするための高度に現代的な批評となり得ているところに驚きを禁じ得ない。そしてその本質、茶道とは霊的な儀式、儀礼であり、さまざまな象徴言語を用いて神人一如な世界への参入と捉えている所など、西洋・東洋が最も深い歴史的レベルで繋がる、霊的な源流へと茶道が通じていることを物語っているのだ。
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お茶の歴史や、当時の西洋と東洋の微妙な関係を読みました。
勉強になることが多くて、特にこの本に対して意見とか感想がうかばない。東洋にはすばらしい哲学と茶の精神があることを学びました。
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この新訳はかなり読みやすいからおすすめ!
「茶の本」全編はもちろんのこと、「東洋の理想」の序章&終章及び岡倉天心の生涯が収録されているので、岡倉天心入門書としては最適です。
お茶ってすごい美しいんだなぁ、もはや哲学。いや宇宙。ってことが感じられる本です。
まさに暮らしの哲学。
そう思うのは、「暮らしの手帖」編集長の松浦弥太郎氏が某雑誌で「暮らし」の本の頂点のキーブックとして、本書を選んでいたかもしれない。
日々の暮らしの中に、芸術がある。ライフ即アート。
毎日を美しく過ごそうと思う、襟を正される本です。
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偶然につけたNHKのEテレで梅原猛さんのインタビュー放送をやっていた。震災にまつわる話が中心だったが、話の中で度々出ていた言葉が「草木国土悉皆成仏」(涅槃経の言葉から最澄が云い始めた言葉と伝えられるが、真偽のほどは不明)。草木や国土のように心をもたないものでもことごとく仏性があり、仏となりうるのだという意味。この言葉は仏教からの言葉ではあるものの、梅原さん曰く、要するに草木や風物も命があり、自然のなかで生きることにおいて人間と等しく、人間は自然の上に立つものではなく、人間は自然と共生すべきことに帰結するのだと。そこには仏教の思想を越えた自然観、宇宙観があるのだとも。
このような話を聞いていると、先般読んだ岡倉天心の「茶の本」(大久保喬樹訳)もまさに同じ論旨であることに思いが至る。この本の主題は、茶道に限らず日本人の美意識はどこにあるのかという日本文化論の基本。西欧文化は人間中心であり、自然よりも人間が上に立つという思想。対して日本では人間と自然との共生が基本にあるというのだ。西欧文化がいかに誤っているかを指摘しながら、未来の自然破壊への懸念にまで及んでいるところなどは実に先見性があると云っていいだろう。岡倉天心が明治維新前に生まれた人物であり、この本は日本における文明の黎明期に書かれたものだから凄い。
後になって原子力のような自然を超越するエネルギーが開発されるとは岡倉天心とて夢にも想像しなかったろうが、もし生きていたらさぞかし驚愕したに違いない。自然は人間が征服すべきものとするのか、自然との共存の中で人間は生きるとするのか、今この時代はまさにそれが問われているわけで、原発に対する賛否の問題もまさにその点にあるのだと思える。
最初にヨーロッパ・アメリカが、そして日本が続いた西欧文化の波。今またBrics諸国、とりわけ第二位の経済大国になった中国、さらには続く国々が人間の我欲に従って自然に立ち向かおうとしている。せめて日本は日本人が培ってきた精神文化の基本に立ち返るべきだと思うのだが、地球規模から見るとこれも焼け石に水ということなるのかも知れない。後々の世代のことを思うと恐ろしいことなのだが・・・。
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お茶をする人であれば必読。入門的な書き方だが簡潔な分だけ分かりやすい。
禅よりは老荘寄りの思想が表れている。
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古都 金沢の、旅の道中で読み進めた事もあり、
とても味わい深く受け止められた。
日本を追われながらも、誰よりも強く、
日本文化の素晴らしさとイデオロギーを
欧米諸国に対して突きつける天心の
短くも含蓄ある言葉の数々。
“謙譲の心で芸術を鑑賞する。”
鑑賞者の心得を説いた、「芸術鑑賞」の章が印象深い。
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この本では、茶道を通して日本人の持つ価値観が説明されています。
茶道では自然との融和や現在の瞬間をとらえる感性を大切にする。それは姿を変えた道教であり禅である。日本ではそれが芸術や宗教だけでなく、身近な暮らしの要素にもなっていることが面白い。
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「茶の本」というタイトルですが、それだけでなく日本文化のこれまでとこれからに対する著者の思想を伝える本でした。
(当時の時代背景を考えると仕方ない部分もあるのかもしれませんが)東洋文化を賞賛するあまり西洋文化に対して過剰に批判的になっている印象を受けました。
また、著者の歴史認識についてですが、それが正しいのかどうか知識不足から判断できません。ひとつの見方として受け取っておきたいと思います。
日常の些細な美を見逃さない態度はぜひ身につけたいと思いました。
が、全体としては一読では理解が追いつかなかったので、また時間が経ったら読み返してみたいと思います。
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日本がインド、中国の文化を昇華し、そのようなことができたのはそもそも東洋の理念ということが共通だからであるという天心の信念には唸らざるを得なかった。そして、陶器や書画など様々な芸術に茶人の息吹が潜んでいるということから、文化の形成にいかに茶人の業が影響を及ぼしたのか、ということに気づかされた。
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・茶を飲むという日常の行為を、芸術の域にまで高めた茶道。
ほとんど何も置かれていないままの茶室。室町時代末期~安土桃山時代、千利休によって完成されました。
明治の思想家、岡倉天心は、茶室と人との関わり、宗教、そして茶室の一輪の花にも注目しています。
「花を摘むのも手当たり次第ではなくて、心に思い描く芸術的造形にしたがって、注意深く一枝一茎(いっしいっけい)を選ぶものであり、
もし、必要以上に切ってしまうようなことがあれば、恥じ入るほかはない。
西洋では、花の展示が、富の見せびらかしの一部であり、つかの間の遊びであるように思われる。
これら多くの花は、騒ぎが終わった後、どこにいく運命なのか
色あせた花が、ごみの山の上に、無情にも散り出されている眺めほど、痛ましいものはない……」
「茶人は、花を選びさえすれば、責任は果たしたとして、あとは花が、花自身の物語を語るのにまかせる。
暑い、夏の日。
昼の茶会に呼ばれていってみると、ほの暗く、涼しげにととのえられた床の間に、一輪の百合の花が、釣り花瓶に生けられているのに、出会うかもしれない。
露に濡れたその花の様子に、人生のおろかしさに微笑んでいるかのようだ」
(岡倉天心)
茶や、花に通じる人々は、無闇に花を摘み取ることはありません。 花を人と同等に扱い、花に対する尊敬の念をもって、接しています。 しかし、西洋などからくる近代化の波によって、花の扱いが大きく異なっていると、天心は述べています。
自然をできるだけそのままに、『やはり野に置け』というのが、花に対するもっとも叡智な人の態度なのだと述べているわけです。
これまでの近代の西洋の建築は、かちっとしていて、人間の作った直線的で、シンメトリーな構図を最優先させてきました。しかし、当時の数奇屋(茶室)などは、わざと柱の角に皮を残したり、曲げたりして、周囲の自然との調和を目指しています。
自然災害の多い日本では、感覚的に、自然には勝てないということを、分かっていて、逆にそれをうまく、取り込んで先取りしなければ生きていけませんでした。そして、そういったことが、日本の文化を作っていったのだと思いました。
現代では、エコロジーの考え方によって、より自然に寄り添っていくようなあり方が、見直されつつあります。
明治維新の直前に生まれた天心は、近代化が始まる中に生きてきた人なのですが、いずれこの近代化の動きは、行き詰まりに達することを見通していました。
そしてその時にこそ、東洋の伝統文明、また日本の伝統文化の考え方というのが、再び意味を持つことになるのだと予見しています。
天心が伝えようとしていたのは、茶道の芸術性と、茶人の自然と共に生きていく、という源流そのものにもあるのだと思いました。
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訳者の解説が加わり、本書の半分くらいが岡倉天心の言葉でしょうか。
芸術鑑賞の章は新鮮な見解で目からウロコ。
「琴馴らし」の話も印象的。
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和訳文が現代的な日本語で読みやすく、また本文と同じくらいのページ数を割いて詳細な解説がなされている。訳・解説の大久保喬樹さんは同じ角川ソフィア文庫の「武士道」の和訳もされており、そちらが分かりやすかったので、数ある茶の本の中から本書を買うに至った。茶の本の訳は青空文庫でも読むことが出来る。それでも、680円を払って本書を買う意味は十分にあった。
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茶道の本ではありません。
茶道にほとんど触れずに茶道の考えを解説しています。
そのことで日本の文化を浮きだたせています。
1.この本を一言で表すと?
・「茶」を通した日本文化の精神の解説
2.よかった点を3〜5つ
・茶の哲学は・・・倫理や宗教と結びついている(p17)
→茶は単純に語れるものではなく、様々な背景が結びついたもの。
・生きる術を授ける宗教(p50)
→過程が重要ということ。茶を飲むことよりそこに至る過程が重要。人生も死という結果よりそこに至る過程が重要ということ。
・美しく自然らしい清潔さ(p85)
→常にまわりの環境を見て自然らしさを考えなければいけないということ。
・完全そのものより完全を追及する過程を重視(p92)
→結果そのものより過程が重視。普段の自分自身の生活でも取り入れたい考え。
2.参考にならなかった所(つっこみ所)
・「道教」が頻繁にでてくるが、それほど「道教」は普及していたのか?
・儒教を批判的にとらえているが、なぜ?
・煎茶が一般的になり、抹茶が特別なものになった現代は「茶道」の精神がかけ離れたものになった?
・天心の恋愛遍歴は茶の精神に反しないのか?
3.実践してみようとおもうこと
・花を愛でる
・美しく自然らしい清潔さ
・質素でありながら洗練された部屋
4.みんなで議論したいこと
・現代の日本に「茶道」の精神はのこっているのか
5.全体の感想
・これまであまり理解していなかった「茶道」の精神を理解するのに役に立ちました。
・「エピソードと証言でたどる天心の生涯」は天心がどんな人だったのかよくわかりました。自由奔放な恋愛をしているのが意外でした。