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タイトルは「てんぴょうのいらか」と読む。
天平《てんぴょう》とは奈良時代の聖武天皇在位期の元号で、甍《いらか》とは、かわらぶきの屋根のてっぺんの尖ったところ。名古屋城のシャチホコがいる部分。
平城京遷都(710)から二十三年後の天平四年(732)、仏教界は混乱していた。
課役《かえき》(労働税)を逃れる目的で百姓の勝手な出家が増えたのが原因だった。当時の日本には出家する弟子にきちんと戒を授けることができる僧がいなかったので、税の免除という極めて俗な理由から僧門に入った者たちのなかには僧とは呼べないような人物もまじっていた。
この事態に政府は、
宗教問題には宗教で対抗しようと計画する。
次の遣唐使で伝戒の師になれる高僧を唐土より招き、この国にきちんとした戒律を行き渡らせるのだ。
この「伝戒の師を招く」という任務を受けるのが、留学僧で第九次遣唐使船に乗る主人公・普照《ふしょう》と栄叡《ようえい》である。
本書は遣唐使と留学僧たちの命がけの渡海と、唐土で伝戒の師、鑑真《がんじん》との出会い、そしてまた命がけの帰国、という二十年にも及ぶ物語である。
http://loplos.mo-blog.jp/kaburaki/2010/04/post_1499.html
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全1巻。
鑑真。
というか鑑真を連れてこようとした
日本人留学僧たちの話。
なんか。
久しぶりに読んだ。
この感じ。
文体。
セリフは少なくて神の視点で進む。
ヘミングウェイとか思い出した。
なぜか。
入り込めなかったけど、
史実大切に書いてる感じは好感。
つくづく、
戦国以前は日本てグローバル。
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我が国から初めて遣唐使が遣わされたのは630年のこと。最終は894年に第20次の使節が遣わされている。第20次と書いたが遣唐使の数え方には12回説、14回説、15回説、16回説、18回説、20回説と諸説がある。これは中止となった遣唐使や、送唐客使(唐からの使いを送り返すための遣唐使)などを回数に数えるかどうかで変わってくるかららしい。20回説は一番広範に回数を捉えた数え方ということになる。そして本書『天平の甍』に描かれた遣唐使は733年(天平5年)の多治比広成を大使・中臣名代を副使とする第10次遣唐使である。本書ではこの船で唐に渡った4人の留学僧、普照、栄叡、戒融、玄朗を主要な登場人物として、そのうちの普照が唯一人20年近く後に高僧鑒真を伴って帰国するまでを描いている。この4人の留学僧は後世にさほどの名を残すことの無かった謂わば無名の僧ではあるが、それぞれの考え方によってその後どのような生き方をたどったかがずいぶん違う。ひたすら勉学にいそしむ者、還俗して唐の女と結婚し子をもうける者、出奔して托鉢僧となり各地をさまよう者、それぞれの人生模様がある。またその他に以前の遣唐使として入唐し科挙に合格し唐朝の官吏となった阿倍仲麻呂や入唐後30年あまりをひたすら写経に費やした業行の生き方も描かれている。生き方はそれぞれ興味深く深く考えさせられるところもあるので小説としてもっと劇的に描くことも可能だったはずだが、井上氏はあえて恬淡とした筆致で描いている。そこに井上氏のどのような意図があるのかは計り知れないが、そのような描き方をすることでそれぞれの留学僧の生き方について読者自身が自らの視点で思いを馳せることが出来るのではないかと思う。
遣唐使船は1隻に120人~150人ほど乗船したそうである。多いときは600人ほどで編成されたようだ。当時の航海技術からして無事に唐へ着ける保証など何もなく、ましてふたたび日本の地を踏めるかどうかを考えたとき極めて危ういと言わざるを得ない。しかしそれでも20回にわたり遣唐使は編成されたのであり、遣唐使船に乗船し唐を目指したそれぞれの人について数奇な運命の巡り合わせがあったはずである。阿倍仲麻呂のように帰国を願いながらもかなわず唐で生涯を終えた者もいれば、入唐すら果たせず海の藻屑と消えた者もいる。そのような中で運にも才能にも恵まれ後世に名を残した山上憶良、吉備真備、最澄、空海などもいる。歴史とは「才能の屍の積み重ね」なのだと改めて想う。
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クライマックスに近づくと、もう離せなくなる。震える。そして感動もあり、むなしさも感じる。普照がみた幻のシーンが美しく、そして悲しくて、読み終わった後しばらくは、現実に戻ることができなかった。
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井上靖の歴史小説は実はこれが初体験。
面白かった。なんともいえない淡々とした感じがとっても好ましい。
井上靖はやはりすばらしい小説家だ。
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難しい言葉や漢字でいっぱいだが、サッと読めてしまった
昔の僧達はまさにこんな感じだったんだろうな
こういう人達がいたからこそ、今の僕達がいるんだな
では、今の自分に何ができるだろう
生きることに前向きになれる本でした
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天平の昔、荒れ狂う大海を越えて唐に留学した若い僧たちがあった。故国の便りもなく、無事な生還も期しがたい彼ら――在唐二十年、放浪の果て、高僧鑒真を伴って普照はただひとり故国の土を踏んだ……。鑒真来朝という日本古代史上の大きな事実をもとに、極限に挑み、木の葉のように翻弄される僧たちの運命を、永遠の相の下に鮮明なイメージとして定着させた画期的な歴史小説。
第8回芸術選奨受賞作
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5度の失敗にも挫けず、盲目となってなお初志貫徹し日本にやってきた鑒真。渡航を促した普照はじめ留学僧の話。唐招提寺を建立するのも人生、数十年を写経に費やしながら、帰国叶わず、写した経文とともに海に消えるのも人生。人間の歴史は、人間行為の無数の捨石の上に成り立っている。11.2.27
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数多の難関を冒し多数の殉死者を出して決行された遣唐使。
当時との比較として、
現代で同様の国家的一大プロジェクトを挙げるなら
月探査を目的としたアポロ計画が当たるかな。
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遣唐使の若い留学僧たちのお話。難しいのを覚悟して読んだけどそんなことなかった。感動しました。登場人物がそれぞれいいです。
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平城遷都1300年の機に乗じて、初・井上靖。僕の国語便覧的な文学史観では,井上靖は中間小説というキーワードど深く結びついているわけで,こういうのが中間小説なのかなと思ったり。まあ、歴史小説ですよね。大河ドラマになりそうな。こんな人まで出てくるのかってくらい色んな人が出てきて、やたら留学僧たちが現代的な考え方。鑑真が来朝した後の部分を読んで「奈良時代アツイ」と思って今春のスペシャルドラマ『大仏開眼』を見逃したことを後悔したりして。さてさてこの本の内容を知ったのは浪人時代のセンター試験の直後の授業でした。と、本との馴れ初めや思い出を語ることで本について語った気になってる相変わらずの僕です。もう少し続きます。確か1回生のとき、1度この本には挑戦した。こんな薄い本だけど、そのときはすぐに投げ出した。2年を経て再び手にとってみたら、めちゃくちゃ面白い。改めて自分が中国とくに西安が大好きなことを実感したのだがそういうことではなく、それぞれの留学僧が、唐に行って何をするかとか。敢えて自分の状況に射影してみれば、大学に入って何をするかみたいなもんだけど、やはりそれじゃ小さいかな、要するに人生において何を為すか、そして成すか。いろいろ考えてみた。これも座右の書にしたいけど、とりあえずは父に返そうか。思いついたついでに書いてしまうけど、鑑真を日本に連れて行くというのは、最前線の研究を分かり易く一般書にまとめることに対応しそう。仏典を写経することは、言うなれば海外の本を翻訳するようなもんだ。やはり自分の道を進んでいきたいなあとか思って、成績はひどいけど才能がないと分かるまで研究者を目指して頑張ろうとか、この本に思わされたというかむしろそんなことをこじつけながら考えてみた感じです。これを書いている今,尖閣諸島の問題をめぐって中国の調子乗りっぷりが半端ないですが,さっき書いたようにこの本で中国が好きだと再認識したのでした。西安と北京に行ったことがあるけど、やっぱり西安ですよ。北京は都になったのはフビライの時代だし紫禁城は永楽帝だから歴史がないじゃない、ということではなくて、西安はやっぱり雰囲気が好きなのです。街を囲む城壁と、ごちゃごちゃした市場と、街に同化してるような鐘楼とかそういうのや、夕日に映える大雁塔・・・そんなものを読みながら思い出してました。行ったのはもう8年前だから、もう色々と変わってるかも知れないけど。(大雁塔は今調べたら64mしかないのか。目の前にしたときはひたすらにでかかった気がする。)というわけで中国行きたいけど、とりあえずもうちょっと井上靖読もう。あと好きな作家に入れてるのに実はあんまり読んでない中島敦! そして積読してる中国語の教科書も読んでみる。
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鑑真の渡日に関わる渡来僧を通じた人生の目的や
何が大事で価値があるかは問う作品です。
この時代の人ほどに自分は死に直面したり
苦行を味わっていない。。
絶対にこの時代の人たちの方が人として
レベルが高かったはず。。と思いました。
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修学旅行で関西へ行くことに伴い、普段は読まない小説を購入。鑑真を日本に招くプロセスで起こる幾多の困難を淡々と描いた井上靖氏の小説。留学僧として唐に派遣された日本の「普照」という人物を中心として多くの人物が登場するが、心情描写というより行動や事実を静かなタッチで書き連ねている。しかしその立ち居振る舞いからその人の気持ちがにじみ出てくる感があり、どんどん読み進めてしまった。どんな立派な僧でも、人生の仕事もみつからず多くの出会いを重ねて自分の生き様を定めていく様子と、何度も漂流と座礁を繰り返し6回目にして日本に上陸をする鑑真和上の邂逅にも多くのことを考えさせられる。修学旅行で訪れた東大寺では鑑真和上が始め広めた授戒会の知らせがあったが、和上の上陸なくして仏教文化の開花が日本にもたらされなかったことを考えると、人の志や、人と人との出会いがどれだけの力をもたらすものか、人生の不思議を思わざるを得なかった。敦煌・楼蘭など中学時代によく読んだ井上靖氏の著作にまた触れることができ、心の洗濯ができた良書であった。
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20120115(改定1版)
『若い留学僧によってもたらされた日中交流の原点』
書名『天平の蔓』著者・井上錆(新潮社)
尖閣諸島を巡る最近の問題は、日中関係を再考する一つのきっかけとなった。国土、人口、歴史、どれをとっても日本に比べ、中国はいつの時代でも大国であり、先進国でもあった。その中国と日本が対等に渡り合えるようになったのは、日中交流の長い歴史から見れば、ごく最近のことである。
尖閣諸島が浮ぶ同じ海では、今から約1300年前、若い留学生(僧)を乗せた木造船が木の葉のように揉まれていた。彼らは命をかけて東シナ海を渡り、先進国唐から近代国家を確立するために必要な知識を学ぼうと、もがいていたのである。
「天平の蔓」は、遣唐使の一員として派遣された留学僧が、生涯をかけて鑑真を日本に招聘するまでの塗炭の苦しみを描いた、史実に基づく小説である。
天平4年(732年)、第9次遣唐使発遣の詔が発せられ、総勢580名に及ぶ人員が決定された。その中には、普照(ふしよう)、栄叡(ょうえい) 戒融(かいゅう)、玄朗(げんろう)の4人の留学僧が選のばれていた。
遣唐使船は唐を目指して東シナ海へ漕ぎだしたが、外海の波浪に弄ばれ、いつ奈落の底に突き落とされるとも知れなかった。若き留学僧たちは、食物も喉を通らず、死んだように横たわりながら小さな哨き声を上げ、憔悴しきっていた。彼らは、死の恐怖と船酔いの中で、思考力さえ失っていた。
船が蘇州へ漂着したのは、筑紫を出てから3ヶ月後の8月であった。遣唐使一行は洛陽にはいり、留学僧たちには宿坊が与えられた。
戒融を除く3人は、都の名所や仏跡を見て歩き、眼に触れる全てのものが驚愕と賛嘆の対象となった。彼らには奈良の都も小さく貧しく思われた。一方、戒融は一人で行動し、他の3人と違って、都の負の部分、飢えた難民を見つめていたのだった。
同じ志をもって入唐したにもかかわらず、唐での見聞を広げるにつれ、それぞれ考え方に変化が起った。栄叡は「伝戒の師を招く」という派遣の目的に情熱を持ち続けるが、勉強家タイプの普照は、この地でより多くの経典を学ぶことにしか興味がわかなかった。戒融は、大らかな唐の社会を見て、細かな教義を詮索する日本仏教に見切りをつけ、机上の勉強を離れ、広い唐土を見聞して歩こうと決心するのだった。玄朗は、唐で勉強する意義を見出せないまま、早く帰国したいと思うようになる。こうして4人の留学僧は、それぞれ別の生き方をするのであった。
やがて、戒融はいずこともなく広い唐土に消え、玄朗は勉学を捨てて唐の女と結婚し子供まで持つことになる。
普照は、「伝戒の師を招く」という情熱を燃やし続ける栄叡に引き連られるように彼と行動を共にし、鑑真和上と出逢うことになる。
鑑真の不屈の精神は、度重なる渡日計画の挫折にもかかわらず、視力を失つでもなお高齢の身を起こし、仏のために渡日するという信念を貫いた。鑑真渡日工作の最中、伝戒師招聘に最も情熱を傾けていた栄叡が志半ばで斃れてしまう。運命は、普照にその仕事を引き継がせることになった。
唐での活動の中で普照は、業行(ぎょうこう)という先に来ていた留学僧と出逢う。彼は唐士での生活をすべて写経に費やし、その万巻の書を日本に持ち帰ることを自分の使命としていた。
数度の失敗の後、鑑真一行を乗せた船団が唐の湊を離れた。しかし、不運にも業行が乗った船は日本には到着しなかった。彼が生涯をかけて唐で写した万巻の経典は、業行とともに海の藻屑となった。
それでも、鑑真一行は何とか日本に漂着し、普照とともに奈良の都へはいった。東大寺には戒壇院が作られ、多くの仏徒が鑑真から戒を受けた。鑑真や普照らは、律令国家としてよちよち歩きの日本を近代化するために多くの足跡を残した。
現代の日本に脈々と受け継がれている仏教の教えや社会システムの多くは、遣唐使として留学した若き学問僧や、鑑真に代表される唐の名僧、そして、彼らと共に来日した専門家によってわが国に移入されたものである。学問僧が唐士での長い滞在中に写本した仏典やその他の文献は、命がけで輸送されてた。その中には、荒波に揉まれ、海の藻屑と消えたものもあった。志を遂げて帰国途中に遭難し、命を落とした者も多くいた。鑑真や普照は、まったく幸運だった。
今日の日本の状況を考えるとき、1300年以上前に、当時の先進国唐から持ち込まれた仏教文明や国の制度が、若い学問僧によって命がけでもたらされたこと、そして、彼ら若者が新しい日本を作るのだという情熱に促されて行動していったという事実を、現代の我々は、決して忘れてはならないのである。(2012/01/15)
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知っている名前や行ったことのある寺院が沢山出てきて、
興味深く読んだ。
遣唐使派遣の苦労は想像以上!
様々なドラマがあったんだなー、と思う。
当時の人が今の日本を見たらどう感じるかな。
1300年前の人が様々なことを深く考えて行動している様子が
伝わってきた。
また近いうちに再読したい。