紙の本
なぜ、多くのエコノミスト達は、平気でウソを言う?
2012/01/13 04:46
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:良泉 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ナオミ・クライン著「ショック・ドクトリン」に示されるように、日本では、バブル崩壊という経済的ショックに乗じるかのように、新自由主義的政策が続けられた。その結果が、失われた10年に続く“さらにますます失われた10年”として現在現れている。
一部の、いや大多数の経済学者やその他エコノミストたちは、ここぞとばかりに一斉に大きな流れに迎合し、危機を煽りたて、本来決してすべきではない経済政策を持ち出してくる。
ショックを受けた国民は、それらを無抵抗に受け入れるしか無く、日本経済はますます疲弊する。
権力に迎合することのない、真のエコノミストの苦言が、むしろ、耳に優しく染み渡る。
『現在の日本における財政危機とは、もっぱら長期における財政の持続可能性の問題であって、年々の赤字の大きさの問題でもなければ、これまでに累積した債務の大きさの問題でもない。政府財政は本来、特定の期間内に均衡する必要性はまったくない・・・政府財政の問題とは、政府が持つ債務残高の大きさそれ自体というよりも、その債務残高の維持可能性のほうにあるということがわかる。債務残高の拡大は、確かに「財政破綻」に結び付く可能性がある。しかしそれは、必ずしも債務残高が大きいために生じるのではない。そうではなく、債務残高が維持不可能になったために生じるのである。』
国民一人当たりの借金額だとか、国の予算を家計に例えると、だとか、一流のジャーナリズムでも繰り返される“危機感の煽り”“問題のすり替え”。
危機に対しては、本当の問題がどこにあり、それに対していったい何ができるのか、歪みのない水晶玉を通して見つめる必要がある。
本書で著者は言う。
『本書の目的は、この「景気対策か構造改革か」という不毛な二律背反図式に決着をつけることである。・・景気対策としてのマクロ経済政策と、構造改革すなわち「供給側」の効率性改善政策とは、本来まったくその目的および手段を異にしており、お互いに対立しあうものでも矛盾するものでもないことを明らかにすることである。』
「本来まったくその目的および手段を異にして」いるものを、危機に乗じて“どさくさに”持ち込むことは、国民に対する詐欺である。
『デフレ脱却が確実に実現されたあかつきには、日銀はもちろん、量的緩和を解除し、さらにはゼロ金利を解除すべきである。しかしながら、日銀はその状況において、日本経済を再びデフレに舞い戻らせるような政策運営をしないということについて、明確なコミットメントを行う必要がある。』
構造改革は元より、量的緩和解除もゼロ金利解除も、タイミングが必要である。その議論ができないまま突っ走ってしまったというのが、この国の失敗過程だったのではないか。
『インフレ・ターゲティングを通じた「デフレ阻止」が実現されるか否かは、われわれの社会が、他人の痛みを自らの満足と感じ、他人の満足を自らの痛みと感じる人々が多数を占める社会ではなく、他人の痛みを自らの痛みとして、他人の満足を自らの満足として感じるような、アダム・スミスのいう「共感」に満ちた社会であるか否かにかかっている。』
人間の世界は、機会のようにプログラミングどおり動くわけではない。「共感」という大切な“人間らしさ”を無視した経済モデルがうまく動くわけが、もともとなかったのだ。
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どうしてエコノミストたちは経済を正確に予測できないか
2006/08/16 13:31
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:かつき - この投稿者のレビュー一覧を見る
金融政策を中心としたデフレ脱却論者である著者による、ここ4〜5年間の政府・日銀の経済政策分析とそれに伴うエコノミストたちの経済論の検証。
著者自身が
「さまざまな経済問題に関して、メディアなどに流布されることで世間一般に幅広く信じられているような考え方について、その「おかしさ」を意地悪くねちねちと指摘することをライフワーク(?)にしてきた。」
と書いているように、構造改革主義者、親デフレ論派、清算主義をバシバシと斬ります。
「失われた15年」を経て回復基調に乗った日本経済ですが、その真の立役者はだれだったのか? その理由は?
それらを読むと、著者の唱えていた経済論が正しかったかのようですが、著者自身があらかじめ予測していたことも当たっていない。それも公平に取り上げ、「いい意味で裏切られ」、今の経済回復がある、とするのもすっきりしています。
過去の経済論、あるいは経済政策が検証されるのは、かなり時間がたってからのことが多いですが、このタイミングで本書が書かれていることにも意味があります。
ただ日銀の量的緩和、ゼロ金利政策解除は著者の唱える快復シナリオよりもずいぶん早い。「日銀の拙速性が日本経済を左右する」としているだけに、さらに本書で唱えた経済論もまたどこかで検証されるのでしょう。
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インフレ・ターゲッティングを通じた「デフレ阻止」が受け入れられるのはアダムスミスのいう「共感」に満ちた社会であるか否かにかかっている。小泉内閣の「痛みに耐える構造改革」に対する熱狂は、その痛みを味わうことになるのは「自分とは別の誰か」と考えたからかもしれない。残念ながら、我々の社会とは他人の「いい思い」には厳しく、他人の不幸には寛容な社会のようである。
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「アンチ・リフレ派によるリフレ派批判その2
筆者が注目したもう一つのリフレ批判は、松原隆一郎氏(東京大学教授)のウエブサイト「思考の格闘技」に掲載されている、二〇〇四年七月六日付けのコラム的論考「バカさえ…」である。木村剛氏の場合とは異なり、この松原件の批判は、その対象はリフレ派であり、とりわけ『エコノミスト・ミシュラン』の三人の編者でえることを明示した上でなされている。それは形式的にも、それ以前に展開された一連の応酬、すなわち松原氏の同「思考の格闘技」における『エコノミスト・ミシエラン』批判「『バカの壁』について」(二〇〇四年二月一七日付)、それへの『エコノミスト・ミシュラン』の三人の編者による。ジョインダー「デフレ放置の無責任性」 (太田出版Webに掲載。)、
それへの松原氏の再反論「『バカ (略)』 につけるクスリ」、さらにそれへの飯田泰之氏によるリジョインダー「松原氏の反論に対する若干のコメント」 (同じく太田出版Webに掲載)を受けた再々反論という体裁をとっている。
インフレとインフレ期待の区別は重要
ここでの松原氏の議論の問題点については、やはり上記「バカさゆえ・・・」 で揶揄の対象とされている山形浩生氏による的確かつ詳細な指摘「松原隆一郎へのお返事‥ケインズが本当に言ったこと」 (二〇〇四年七月一七〜一八日、七月二一日・一一月三〇日加筆、がすでに存在しているので、筆者がここで改めて逐一指摘するつもりはない。ここではもっぱら、山形氏が指摘しておらず、かつリフレ派にとって看過できない問題点だけに絞って指摘しておこう。それは、松原氏が、「実物投資が増えないのも、消費が回復しないのも、ともにデフレが原因だと彼らはいっていたのだが、景気が回復しているここ数カ月、消費者物価指数はさらに下落している」とし、そのことをもって「リフレ派の理屈が総崩れになってしまった」と決めつけている点である。
結論的にいえば、松原氏がここで批判したつもりになつている「リフレ派」とは、本来のリフレ派ではなく、松原氏が勝手に作り上げたそれにすぎない。というのは、リフレ派の論理からいえば、投資や消費が回復しない原因は、デフレそのものというよりも、「デフレ期待」だからである。そして、景気回復に必要なのは、インフレそのものというよりも、「インフレ期待」である。というのは、人々の貯蓄・支出行動にとって重要なのは、過去のではなく将来のインフレあるいはデフレであり、それから導き出される将来の実質金利だからである。
つまり、松原氏のように、単に現状がいまだインフレではないことを指摘しても、それはリフレ派の論理への反証にはまったくならない。そのような反証のためには、現状の景気回復がデフレ期待のさらなる高まりととも生じていることを示す必要がある。ところが、いくつかの指標から判断する限り、現状においてデフレ期待は明らかに後退しっつある。松原氏は「消費者物価指数はさらに下落している」としているが、二〇〇一年から〇二年にかけてはほぼJ%弱のデフレが常態化していた消費者物価上昇率(前年同月比、生鮮食品を除く全国総合指数)は、二〇〇三年に入ってからはそのマイナス幅が徐々に縮小し、二〇〇四年にはほぼゼロに近い水準を前後している。さらに、二〇〇三年五月には〇・五%前後にまで低下した」○年物国債利回りも、その後はかなり急速に上昇している。この長期金利の反転には、デフレ期待の反転が織り込まれている可能性が強い。
要するに、現状は、インフレ期待の望ましい水準にはまだ程遠いとはいえ、少なくともデフレ期待は低下しっつあると想定することができる。そして、後述の理由から、こうした期待の望ましい変化が現実の望ましいマイルド・インフレとなって現れるまでには、まだ相当な時間が必要になると予測されるのである。
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日本経済はなぜ回復したのか? 逆から言えば、なぜ15年もの長きにわたって低迷したのか?
経済停滞は何よりもデフレのせいであり、歪んだ政策思想に基づく阿呆な経済政策でデフレを放置しつづけた結果であるというのが本書。この本はいわば、リフレ派による「戦後総括」であり、デフレが猖獗を極めた2002年頃からの経済論争を振り返って、なにが正しくて、なにが間違っていたのかということを浮き彫りにしている。
じゃあ、2002~2003年以降、日本経済が回復基調に乗った原因はどこにあるのか?
「まず、その最大の牽引車は、外需の拡大であり、それをもたらした世界的な景気拡大であった。しかしながら、国内のマクロ経済政策がリフレ的な方向へなし崩しに転換されていたということも、同様に重要な意味を持った。それが具体的には、2003年秋から04年初頭まで行われた、財務省の巨額為替介入と日銀の金融緩和の同時遂行という形でのマクロ的政策協調である。つまり、今回の日本の景気回復は、世界的景気回復と国内マクロ経済政策の両方に支えられて、かろうじて定着したのである」
と著者は述べている。
景気の回復について「構造改革が成功したからだ」なんて考えてるバカは自民党の議員くらいしかいないとして、「銀行の不良債権が解決したからだ」とか「企業がリストラに耐えたからだ」とかいう議論はまだ見られる。それどころか「デフレにはよい側面もあった」とか、「中国がモノを安くつくり過ぎるから世界的にデフレになっている」とかいう論さえ、死滅したとは言えないと思う(本書には「いつの間にか消え去った」と書いてあるが)。
そういった「間違った経済政策」についてズバズバと批判してあるので、小気味よい。まぁ「バブルつぶし」のときはイイコトだと思ったし(若いしカネなかったしひがみ根性だけはあったし)、「財政再建」と言われると立派じゃんやるじゃんと思ったこともあるので、自分自身への批判としてもアイタタなのだが。
はやくも好景気はおわったとか、いやまだデフレを脱出さえしてないとか、まだまだこの本の賞味期限はおわってないと思う。「あの構造改革ってなんだったんだろう?」とか「デフレにはよい面もあると言ってた人がいたような」とか、そーいうことをいまさらのように振り返るのも、興味深いんじゃないでしょうか。
(2006年ごろの初読時のレビューです)