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ニーチェにとって、弱者とは二千年間生殖たちによってその弱さゆえにおだてられてきた者たち、いかなる地上の権力も富も知も美も持たないゆえに、最も天国に入る資格のあるものとして、崇められてきたキリスト信者である。
なぜ考えないのか? 絶えず鍛え上げようとする強者に対する嫉妬からである。
善人は安全という最高価値を守るためなら、他のあらゆる価値を踏みにじってもいいと思っている。彼らにとって安全が脅かされることが唯一の恐怖であり、自分と自分の身近な人が毎日安心して暮らせればそれでいいのだ。そういう人生を望むうちに、彼らはますます小さく、弱くなる。
善人はすぐに逃げる。
善人はうそを吐き散らすことに何の疑いも持たず、むしろ良いことだと全身で確認しているのだから、始末に負えない。
誠実性は勇気のない誠実性であり、思慮を欠いた誠実性。
強者は敵から逃げない。敵が強ければ強いほど、的をしっかりと見定める。敵との対決こそが人生の醍醐味だからだ。だが、弱者はあらゆる敵から逃げる。そして敵のいない世界を望む。
ヒトラーは本当にニーチェを理解していたのだろうか?
ユダヤーキリスト教による世界支配の動力となっているルサンチマンは二ーチェ自身の生きる動力でもある。
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途中、自分と照らせ合わせてどよ~んと落ち込む本。
終盤はニーチェについて。ニーチェはやっぱり可愛らしい人。
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例え私の生きる態度として悪しか成し得ないとしても,少なくともその「悪をしか成し得ない自分」に自覚的でありたいと思う.悪を成しつつ自分は善人だと頭から信じて疑わないのが「善人ほど悪い奴はいない」最大の理由とも言えるのだから.
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この頃、というか、ここ数年くらいニーチェブームらしい。よくわからないが、ニーチェの言葉みたいなのが売れているようで、百万部を超えたとかきくのだけれど、そのあたりにすごく疑問を抱いてもいた。ニーチェを大衆が理解できるのだろうか?百万部売れるということは即ち、大衆に読まれているということに他ならないのである。ニーチェは大衆を侮蔑した人間である。大衆がニーチェに漁りついてニーチェを「素晴らしい」と評しているというのは酷く逆説的であり、大衆が自らの大衆性を大まかに発揮しているといった感じだろうか?どうにも、中島風にかなり辛らつな言い回しをしてしまっているが、基本的に中島と自分との考え方は近しいと思う。好きな文学作品が似ていたり、本人に対して反発的な嫌悪感を抱いたりするのだから、恐らく似ているのだろう。中島があとがきでニーチェの言葉について触れていてくれたのは個人的にありがたかった。言いたかったことを代弁してくれた気がしたのである。なんて書けば中島に何を言われるか知らないが、中島は気もちがいいくらいにあれこれ代弁してくれるので助かる。とはいえ、中島もそれなりに年であるし、中島にばかり期待していてもいけないなとは思うのであるが、それはまあいい。
だが、ニーチェはそんな素晴らしい奴ではないというのは間違いない。ニーチェを無理やり素晴らしい奴にしようと言うほうがどうにもおかしくて、え?と違和を抱いてしまう。この気もちは、ある種のルイスキャロルみたいなものかもしれない。不思議の国のアリスや鏡の国のアリスで有名なルイスキャロルは実はロリコンであり、幼女に求婚していたくらいの筋金入りのロリコンであり、元々は不思議の国のアリスもその幼女のためにかかれたものなのであって、「ロリコン=諸悪の根源」みたいに考えている現代の母親たちが、その作品を素晴らしい名作だとして子どもたちに話しきかせているあたりがなんとも言えなくなるのである。俺はルイスキャロルがどんな奴だろうがいいし、変に教訓染みていない原作が好きなので、ルイスキャロルを評価したいが、上に上げた母親たちはその真実を知ると途端にルイスキャロルを憎みだしそうで怖ろしいのである。一般的に大衆と呼ばれる層は自分の無知を認められず、誰かにその責を転嫁する。あるいは表面上は認めても決して本心では認めようとしない。このあたりがニーチェの怨念みたいなものなのかもしれない。ニーチェを読めば自分も大衆への憎悪をかきたてられる。その憎悪はルサンチマンであり、自分もニーチェが侮蔑するところの弱者であり善人になってしまうというこの流れに取りこまれる。恐れ多く言わせてもらうならば、たぶん中島もそこにのみこまれてしまっているのかもしれないと感じる。だが、ということは自分にも巡ってくるということでこの流れは非情に危険でありこれこそが永劫回帰なんじゃないかとも思えてくるくらいだ。ちなみに中島は永劫回帰なる概念にはまるで興味が内容である。全く触れられていないし、触れる気さえなさそうだ。正直そんなものはどうでもよくて、中島が関心があるのはニーチェなる人間が持ちうるある種の負の歪なパワーみたいなものなのだろう。なんというか、一言で言うならばろくでもない一冊である。
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「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の理解を深めるためにニーチェ関連の著書を読もうと手にとった一冊。本文でも倫理に触れられていて、読んで損はなかった。
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ニーチェの思想を人間学を通して理解でき、有意な読書行為であった。
「弱者」となり、被害者を装い怠惰な生活を送るよりは、他者の批判を恐れず戦いの人生を過ごしたい。
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2012年の一冊目。昨年のダメージを引きずったまま、ツァラトゥウトゥラ→中島義道のコースの終着点。
義道くんに言わせると、ニーチェは「ださく、かっこ悪い」そうだが、本書を読むとまぁその感覚がよく伝わってくる。徹底的に善人を叩きのめし、超人への愛を説くニーチェその人は超人などには到底至れず、まさしく弱さを抱えんでんでいたであろうからだ。ご指摘のとおり、弱者の醜悪さを叩きのめすには、その弱さを自分の中に見つけていることが出発点になる。そういう意味で読み直すと、ニーチェの主張は強がりの空元気に思えてくる。しかも、その繊細でない大雑把な感覚が、義道くんをして上のように感じさしめるのであろう。その批判は甘んじて受け入れた上でやはり、僕はニーチェが好きである。どうしようもないまでの強がりがとてつもなく人間くさいから。
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善人…努力も規則を破ることもしない普通の人
悪人…村八分にされようとも犯罪をする勇気のある人
エリート…努力し結果をだした人
善人は耳障りのいい言葉(平等、環境保護など)を掲げ数によって主張をする。
善人は一人では良い人だが数が集まると厚かましくなる。
善人がいじめを見て見ぬ振りをするのは善人の善は道徳から来ているものではなく自己保身のためのものだから。
自己の安全が保障されている所では善人はとても親切である。
怠惰は重罪であると知れて良かった。
将来、貧困になった際に社会を恨むのではなく貧困から抜け出す努力をしたいです。
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中島義道流ニーチェの読み方。特に「善人=弱者」に対する考察。
「弱者」は「仰向けになるイヌ」であり「加害者」であり「権力と権威を愛す」のであり「安全」を求め「善意の嘘」をつき「群れ」「(弱者にとっての)公正・平等」を求め「エゴイズム」を嫌い、そして「同情して傲る」のである。ニーチェは「超人」ではなく、そう生きられなかった柔和で、品行方正で、臆病で、弱気で、善良で、卑劣で、素直である「反対物」。
「2ちゃんねる云々」のくだりは、そういった「叫び」を「自分の都合の良い解釈」として畜群を罵る状況をかぶせた説明。
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弱さを誇る部分、たしかに世に散見される。
自分はどうか、と教訓的読みもあり。
騒音の話は必ず出てくるな、氏の著書には。
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ニーチェのアンチクリスト論に感銘を受けたため、とりあえず手に取った1冊。
一般人の普通感覚における見せかけ上の道徳に秘められたラク・トクを求めているだけの卑劣な本性を暴き出しているため、読後は世の中が曲がって見える。
以下要約
・善人とは自分が弱いことを認めているが、そのことに対して責任も取らず、努力もせず、更には弱いから害を与えていない、弱いから悪くない、弱いからこそ思いやられるべきだと弱者の権利を主張し、ラク・トクを自分以外の強者(才能のある人間、お金のある人間、社会的に立場が上の人間)から与えられることを望み、それが叶えられずに自分のラク・トクが侵害されるど目の色を変えて自分と違う立場の人間(強者、犯罪者、マイノリティなど)を処刑しようとする善良にして醜悪なる小市民のこと
・善人の求めることは(自分と自分の身の回りの人々の)安全であり、それが謙虚で慎ましやかで道徳的なことと洗脳されている。そしてそれが(国家、社会、政治家などの強者によって)守られている(ラクでトクな)範疇であれば善良な振る舞いを演じるが、それが脅かされた途端自分のことは完全に棚上げして国家、社会、政治家などの強者、または安全を脅かす他人(犯罪者)を「嘲笑し、足蹴にし、罵倒し、追放する」
(2ちゃんねるで政治家や有名人を叩いている人々が例にあげられている。「匿名のまま、自分は安全なところにいて、ありとあらゆる有名人を、犯罪被疑者を、定式通り裁くことは、最も頭の悪い人間にもたやすくできることである」「匿名で他人を貶めることに夢中になっている行為を誇っているわけがない。いや、恥じているに違いない。そういう精神の未発達を丸出しにする”きわめて劣悪な中学生”並みの行為をあえてするものは、身体の芯まで恥じて当然なのだ」「彼らは、もっと大らかな仕方で他人を攻撃すればいいのに、「嫉妬と憎悪」の塊であることがすぐにわかる形でしか書き込みができず、それだけの知能と判断力しか持ち合わせていない」各個家庭板で泥ママにDQN返しして我こそは正義と快哉をあげている既婚女性たちもこの部類であろう…)
・善人は自分のラク・トクが確保される範疇において老人にも身体障害者にも優しいが、犯罪者やいじめられっこ、企業や政治家には優しくしない。善人の優しさは時と場合によって使い分けられる嘘でしかない。自分の安全を確保するために人から反感を買うことはいっさい口にしないよう気を配っている。
・善人は弱く、人に立ち向かう勇気も思想もないため群をなし(畜群)、善良な弱者が守られる思いやりのある社会を作るべきだという道徳観で社会を支配しようとする。そしてその群からはみ出たものを「嘲笑し、足蹴にし、罵倒し、追放する」ことで自分たちのラク・トクを守ろうとし、その卑劣な態度からいっさい目を逸らし、自分は善良であると思いこんでいる。
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「弱いゆえに正しい」という傾向は、20世紀後半から人種差別、女性差別、ゲイ差別反対運動などに伴いますます加速されている。「弱さを正当化する」最も悪質な思想。
ラクとトクを至上価値にする善人
自分で自分を騙し続ける自己欺まん
こうして善良な市民の体内には、長年かけて不透明な沈殿物が堆積していく。それは、強固な塊りとして当人の思考を麻痺させ、問題を問題として感じさせなくなる。
自分のラクとトクに直接関しない限り、高見の見物という態度をとる
新型の弱者
人間関係が破たんするゆえどんな仕事も続けられない人
世間が無性に怖い人
むやにみに傷つきやすい人
他人を絶対に信じられない人
こんな弱い自分は生きている価値がないと思い込んでいる人
彼らは恐るべき自己肯定的であり、同時に恐るべき自己否定的である
バカ管理放送漬け
人間を家畜の群れにする。自ら危険な状況を察知して回避するという野生動物に当然備わっているはずの能力を摩滅させる
腹黒いジャーナリストたちは、真っ赤な嘘と知りながら、「善良以外とりえのない弱者のみ正しい」という嘘ゲームを回転させ続け「ほんとうのこと」がばれないように、たえず強烈な麻薬を大衆の身体に注入する。
善人とは自分が犯した悪行に対してさえ責任を負いたくない卑怯者(畜群道徳)、最強者(超人)はたとえ自分が意図的に悪行を犯さないとしても責任を負おうとする(貴族道徳)
同情する者が同情するという愚行をせざるをえないことに対して羞恥を覚えていれば、その場合のみ同情は悪臭を発することはない。
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ニーチェの思想と照らし合わせながら、自分の弱さを認識しながらも、その弱さを正当化する欺瞞、偽善を武器にして、頑張って戦う強者批判する現代の「善人」を、「弱者」として批判する。
中島さんの本はクセが強すぎてどちらかというと苦手だったのですが、本書にはかなり共感できました。
本書のキモは、そんな「善人」を批判する人(読者)も実は欺瞞に満ちている「善人」だという指摘です。世の中どこでも偽善者だらけ、といわれると切なくはなりますが、まあそういう見方はあるんだろうな、と。
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「弱者とは、自分が弱いことを骨の髄まで自覚しているが、それに自責の念を覚えるのでもなく、むしろ自分が弱いことを全身で正当化する人のことである。」
ニーチェ
鳥山敏子
表面的には「俺バカだから」と政策的に言うが、実はその無知・無教養を全く恥じていない。
「無難に生きる」と言う大原則
p73
「公平、平等、正義」
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ニーチェの批判した「蓄群」を、著者が批判し続ける鈍感な「善人」に重ねあわせるとともに、「蓄群」批判をくり返すニーチェその人の心性を、自尊心を肥大させた現代の若者たちのそれと二重写しにしています。
いわばニーチェの人と思想を、現代の状況に引き寄せているわけで、そうした解釈がどの程度妥当なのか、わたくし自身には判断がつきませんが、ニーチェの批判する「善人」について具体的なイメージをもつことができるようになったのは収穫でした。
また、執拗なまでに「蓄群」批判をつづけるニーチェそのひとの「弱さ」を言い当てているところには、著者特有の鋭さが発揮されています。いつものことながら、著者が自分自身と読者の双方に刃を突き立てるようにして考察を展開していくのに、不愉快さを覚えつつも引きつけられてしまいます。