紙の本
現実の教育との関係がとらえにくい
2012/03/18 14:39
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Kana - この投稿者のレビュー一覧を見る
現代の教育をたてなおす方向をリベラルな立場からさぐっている. 特定の科目や特定の題材にしぼった議論もふくまれているが,全体としては抽象的であり,教育現場をよくしらないものにとっては,この議論と現実の教育とを関係づけにくい. 現場にいる教師には有用な考察であるのかもしれない.
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どうして弁証法ってつまらない結論しか生まないのだろう、と深刻に考えさせられてしまう本。真剣なのは分かるし、手堅いアプローチで問題を解決しようとしている誠実さも伝わってくる。
でも、「良い子」すぎないか?話者は「良い子」がいかに現実社会で役に立たたないのか、という現状があまり理解できてないような気がする。
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教育の目的がぼやけている。目的を再構築しようとする本。リベラリズムに立脚しすぎていて、リベラリズムを受け入れない人には無意味な議論な気がする。
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教育の役割を社会の成員として生きていく基本能力を身につけさせることと定義づけ、読み書きソロバンや知識の類もそうだが、特に少人数でコミュニケートしていって考えを鍛え上げていくプロセス(たとえば、起業にもそれは必須なはず)を実践させる場としての重要性の指摘は、「話し合い」の形骸化があらゆる場で弊害を及ぼしている現状からして妥当なものと思える。
安直な「受験戦争」弊害論に否定的なのもうなづける。
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考え合う技術、根拠とは追体験のこと。レイブ、ウェンガー正統的周辺参加 状況に埋め込まれた学習 何かを学んでいくプロセスを個人による獲得とみなすのではなく、共同体への参加とみなす。集団との関係の変化 職業集団のように周辺から中心に行くにしたがって、他者からの承認によって生まれる学習
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[ 内容 ]
「ゆとり教育」は「学力低下」の事実によって追いやられ、「学びのすすめ」へと方針転換された。
さて、では「学び」と「教え」との間に生じる関係性、つまり教師と生徒の間の知識伝達の共有は、どのように起こるのだろうか。
本書では「わかる」の現象学的な試みを、教育社会学者と哲学者との間で徹底してつめていく。
「いま、なぜ勉学をするのか?」という問いかけから、「私」よりも「公」を重んじようという風潮に疑問を投げかけつつ、個人の自由と社会的平等の両方が成り立ちうる地点をめざして、「ともに考え、わかりあう」みちすじを模索・考察する。
[ 目次 ]
序章 教育と社会を哲学するために
第1章 今なぜ「学ぶことの意味」を問い直すのか(「学ぶことの意味」の変遷 個人のさまざまな自由と「学校へ行くこと」)
第2章 「自由な思考」と「知識の共有」は両立するだろうか(個人の自由と公共の利害について 知識とはどういうものか ほか)
第3章 考えあうこと、理解すること(「わかる」を掘りさげる 役割と責任)
第4章 「学ぶ意味」をどう再生するか
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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「勉学の意味」を再構築しようという対談。
教育とは「子どもを社会の成員(大人)としてふさわしい存在へと育て上げていくこと」と定義している。
つまり学校で「他者との関係能力」を身につけることが必要なのに、今の教育は個人を大事にしすぎていて、どう社会にかかわっていくかという視点が抜けている。
そこで、子どもたち自ら組織を立ち上げ、ルールを作り変えていく経験をしたり、
国語や社会では出来事を背景から理解して他者の行動を追体験させるなどの工夫ができるんじゃないか…という話。
対談形式なので、講演を聞いているような感じで読めた。
私が「なぜ学校に行かないとといけないの」と聞かれたらとりあえず「選択肢を増やすため」というような答えをすると思うけど、この回答も個人化教育の影響かなあと思ってしまった。
語られている教育のレベルが高過ぎて、どう実践すればいいのだろう…って気にはなりつつも、単なる現状批判ではなく、学校への期待が伝わってくる本でした。
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「なぜ学ぶのか」。
これを哲学者と教育社会学者が語りあった、対談とエッセーを収めた本。
「学び」は「自分のため」か。
他者との関わりの中での、他者のための学びの可能性を展開できないか。
そのような可能性を探る意味でも、非常に参考になる一冊。
教員志望者には特にオススメ!
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2005年刊。◆教育・学習、そして学習意欲を中核テーマとし、苅谷東京大学大学院教育学研究科教授、西京都精華大学人文学部社会メディア学科助教授が対談し、行間を苅谷氏の論考が埋める。◆自由の享受を所与とする現代社会から出発しつつも、社会的公正(フェアネス)の実現、共生の追求とルール作成の必要性の伝達とを真摯に検討(なお自由権追求・享受は他者の自由権の侵害までは許容しない憲法人権論の基本テーゼ有)。◇まぁ、パーソナリティからキャラクター尊重への軸足移動という観点は理解できるが、全般に抽象的議論に過ぎた感はある。
なお、本論とは余り関係ないかもしれないが、哲学学習の意味、あるいは哲学書読破の意義が、思考の「追体験」にある、というのは目から鱗。
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教育の哲学的な模索を対談形式でまとめたもの。非常に参考になった。ただ、現場の視点ではなくあくまで原理原則から論じたものである。お二人の述べる理想的な教育を実際にどれだけの学校が、何人の教師が実現できるのかと問えば、かなり厳しいのではないか。
本書はそういう現実を超えて語られるところに意味があるのだろう。著書の方々が例えば5年現場で勤務すればかような意見は言えなくなるかもしれない。教室での教育だけに集中できる教員など実際にはほとんどいない。
では、仕事の山で遭難しかかっている現場の教員こそが偉いのかといえばそんなことはまったくない。教育学の先生方には大いに理想を語っていただきたいし、現状に批判の声を投げ続けていただきたい。
そういうことを感じさせる内容であった。