紙の本
良い社会思想史の教科書・導入書
2005/12/17 22:00
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:まさぴゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
とても良い社会思想史の教科書・導入書だ。「私たちの生きる基盤である資本制を軸とした文明社会の仕組みを明らかにしよう」という欧州古典社会思想家たちの野望を、わかりやすくとても上手く整理しているとおもう。稲葉振一郎さんは、『ナウシカ読解』とワイアードでのコラム『地図と磁石』などで、超難解な世界で『わかりやすく全体を俯瞰』できており注目していた。僕の好きな「世界の終末を描く物語」の謎解きを読んでいるような、スリリングな展開であった。なぜならば欧州社会思想は、『この世界がどうなっているのか?、どのように作られたか?の謎を解く』物語だからだ。そして、こういうふうに物語のように読みやすいのは、筆者が、抽象概念を噛み砕き血となり肉として、「自分の言葉で」表現できているからなんだと思う。「いま僕たちが住む『この世界』とはどんな世界なのか?」や「この世界はどのような仕組みとルールでできているのか?」というとても大きな枠での問いかけは、とても興味深い。ちなみに、この問題意識から派生した疑問が、17世紀から誕生するホッブス、ジョン・ロック、ルソーら「社会契約論」の論者たちです。またそれに続いて登場したスミス、リカードウ、フィジオクラットそして、マルクス、エンゲルスたちの「資本制の社会仕組みを明らかにする」という問題意識です。社会は、資本主義という仕組みで覆われてしまい、このシステムの『外』に行くことはもうできない時代になっています。だから、この資本制の近代文明社会が、どのように組みあがっているか?という「謎」を解き明かせば、僕たちがどういう世界にいるのかががわかるはずなのです。
ちなみに、最終的な結論・本書の目的は、経済学の新古典派の「人的資本」の理論の正当性の再主張だと思う。それが成功しているかどうかは不明だが、「そこ」に至るまでのアプローチを、欧州古典の社会思想や自然状態の概念から丁寧に再構築・見直しをする姿勢には、敬服した。むしろ結論よりも、その論の過程にこそ価値があると思わせた。
投稿元:
レビューを見る
過去の著名な経済学者の論拠の説明とそれに対する著者なりの意見が述べられています。少々難解で私には難しい内容でした・・・
投稿元:
レビューを見る
安価で入手しやすくコンパクトである、ということについては言うことは無い。内容は社会契約論からマルクスまでの道を噛みくだいで説明していく、というものだが、重箱の隅をつつくようなところもあり、その都度他の入門書なども参照しなければならないので、難易度は思ったよりも高い。各章ごとに論点がまとまっているので便利ではある。
投稿元:
レビューを見る
「資本」論というタイトルに偽りあり。正しくは「資本論」論。マルクスの「資本論」とそれ以前のホッブスやルソーらの概念を比較していく。「資本論」研究としては薄いが、入門書としてはややとっつきにくい
投稿元:
レビューを見る
経済学と社会哲学の一般教養の授業が延々と続いて(しかも一時間のうちに並行!)猛烈に怠い〜。「です・ます」調の文体で、一見、読み易そうなムードだが、懇切丁寧な説明は有り難いよーで、そもそもの知識がないと判らない仕組み。?章の「所有」論は「自然状態」からの「社会契約論」(ホッブズやらロックやら、ルソーやら…ヒュームはよく知りません)なので、素直に「社会契約」論にした方がいいような気もする。いっそ、本書のタイトルを『「所有」と「資本」論』にでもした方が似つかわしいと思うんだけど…。とにかく全編、基礎の基礎論。A・スミスあり、マルクスあり、で、アレントも登場(^^;)でも、基礎論は前提となる基礎(元ネタ)を読まなきゃ判らないから、余計に難しいんじゃなかろうか??個人的には、マルクスの「原始的本源的蓄積」論なんて、むちゃくちゃ懐かしかった(←いや、きっと今でも十分に重要性があるんだろうが…)。面倒な人は、エピローグだけ読めばいいような気もしたりして(笑)。
投稿元:
レビューを見る
資本主義は不平等や疎外を生み出すシステムだけど、それに代わるものとしてマルクス主義のように新しいシステムを構想するのではなく、持たざるものは「労働力=人的資本」を所有する者として、このシステムに留まるべきだ――ということを、ホッブズやロックの社会契約論を参照しながら、所有、市場、資本など資本主義を構成する概念を検証しながら主張する。なんて分かったように書いているけど、社会学にも経済学にも不案内な僕には難解で理解できないところも多かった。たぶん誠実に書くからこうなっちゃうんだろうけど、新書なんだし、不誠実でも分かりやすく書いてもらえるとありがたいなと。
投稿元:
レビューを見る
本書は,「資本」について議論すると称しながら,資本制経済における一般的な意味での資本について考察するというより,むしろある主張に傾いています:労働者が持っている労働力という商品を一種の資本と見なすべきである,と。ここでマルクス経済学の用語を使ったのは,著者の議論に拠っています。
この問題設定が,わたしには理解できませんでした。古典的な経済学ではすでに,労働力は商品と見なされています。それを,なぜ資本(capital)と言いかえなければならないのか。本書の第1章では,ジョン・ロックの社会契約論が,暗黙のうちに,生産用の土地の所有者だけを国家のフル・メンバーと見なしていることが指摘されています。ですから,労働者は労働力という「資本」を持っていると擬制することによって,労働者を国家のフル・メンバーとする論拠を著者は与えようとしている,とわたしは推測して本書を読んでいました。しかし,本書の最終部のp.263で,「国家以外には,財産のない庶民を守ってくれる者はない」という論理に抵抗するために「労働力=人的資本は財産である」とあえて言い募ることを推奨している,と著者は記しています。ですから,どうやらその主張は国家を対手にしているものではないらしい。では,だれを対手にしているのでしょう。資本家を? 経営者を?? 社会を???
もうひとつ,かりに著者の主張をみなさんが承認したとすると,どのような問題が解決されるのかが,わたしには分かりません。どんな主張もなんらかの問題解決を目指さなければならない,とわたしが考えているわけではありません。しかし,本書の議論は,労働者という存在を新たに定義しようとしているのであり,さらにその定義が「擬制」(fiction)であることは著者もすすんで認めているわけですから(たとえばp.251),なぜ新しい擬制が必要であるのかを説得してくれないと,著者の議論は空疎な存在論に堕してしまいます。弱者を切りすてるな,という社会的な主張があるのならそう書けばいいし,おれのようなマルクス主義者出身のオタクをもっといい目にあわせてくれ,というパーソナルな主張があるのであればそう書けばいい。隔靴掻痒の感がありました。
以下,脇道にそれますが,本書の第1章で「所有」が論じられているくだりを読みながら,わたしが思ったことを記しておきます。
産業の中心が農業であるような社会において,あるひとが農地を所有しているかしていないか,という違いは大きな意味を持ちます。しかし,稲葉氏のように,土地という具体的な生産要素について形而上学的な考察を行っても,あまり有益であるとは思えません。むしろ問題にすべき点は,所有権という抽象的な概念の内容であり,人々にそれを強いる力であろうと,わたしは思います。
私的所有とは,たんに物を持っているというだけでなく,それが産出する果実にたいしても所有権を持っている,ということを意味しています。たとえば,Aさんが自分の土地に栗の木を持っているとします。そうすると,その木の栗の実はAさんのものである,というように。栗は育てるのに手間がかからない木ですが,これが手間のかかるコーヒーの木だったらど��いうことになりましょうか。Aさんは,自分の土地にコーヒーの木を持っています。ひとりでは育てられないので,AさんはBさんにコーヒーの栽培を手伝ってもらいました。では,この木のコーヒーの実はだれのものか。それは100%Aさんのものである,というのが私的所有の考えかたです。もうちょっと話をふくらませて,Aさんは自分の土地に1,000本のコーヒーの木を持っていますが,Aさんはコーヒーの木が育つような辺鄙な場所が嫌いなので,生まれてこのかたその土地を訪れたことがありません。現地では,Bさん,Cさん,……,Zさんがコーヒーを栽培しています。では,この木のコーヒーの実はだれのものか。やっぱりそれは100%Aさんのものである,というのが私的所有の考えかたです。こういった考えかたが,だれにとっても論証不要な明白なものだとは,わたしには思えません。実際,私的所有は,説得力だけでみんなを従わせることができないので,ほとんどの場合,それを強いる力に裏付けられて社会で機能しています。生産手段の私的所有者は労働者の労働によって生じた価値を搾取しているのであり,所有者が搾取する権利はなんらかの暴力装置によって保護されている,というわけです。Bさん,Cさん,……,Zさんが,Aさんから「働かないと殺すぞ」と言われて働いているのであれば,その制度は奴隷制です。また,彼らが賃金を貰っている場合,その制度は資本制です。
マルクス主義のイロハにあたるこのような議論を稲葉氏が無視した理由はわたしには分かりませんが,中学生の7割が地動説を知らない昨今(独自調査),イロハの部分を繰りかえしておくことは大事だとわたしは思います。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
「私的所有」が制度化され、市場経済が発展し、資本主義の秩序が支配する世界は、それ以前の「自然」な状態よりも、おおむね有益である。
だがそうした世界は不平等や労働疎外をも生みだす。
それでもなお、私たちはこの世界に踏みとどまるべきであり、所有も市場も捨て去ってはならない。
本書はその根拠を示し、無産者であれ難民であれ「持たざる者=剥き出しの生」として扱われることがないよう、「労働力=人的資本」の所有者として見なすべきことを提唱する。
「所有」「市場」「資本」等の重要概念を根本から考察した末に示されるこうした論点は、これからの社会を考える上で示唆に富む。
[ 目次 ]
プロローグ 自然状態からの社会契約
1 「所有」論
2 「市場」論
3 「資本」論
4 「人的資本」論
エピローグ 法人、ロボット、サイボーグ―資本主義の未来
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
大澤真幸などこの世代の研究者に特徴的な叙述スタイル。というか、ナラティヴであろうとしてどこまでもモノローグがつづく。しかし、現実問題としてはニュース23や文字通り0のニュースZEROと内容は等しい。
投稿元:
レビューを見る
「自由な雇用労働が保証するのは、暴力や強制からの解放であって、健康で安全な生存ではない。」
はるか昔では社会ってのは資本(土地とか金とか)をベースに作られていて、そういった物を持つ人間のみが働き、そして生活する場だった。自給自足的な生活ではそれが一般的だった。そして、それ以外の持たざる者は蚊帳の外だと考えられていた。国家は「人」ではなく「資本」の集まりだと捉えられていた。
それから時が過ぎ、産業の発展によって資本を一切持たない労働者階級が台頭してきた。そして市場経済が不動だった資本までもを動かすようになり、「所有」に関する考え方も大きく変わってきた。僕たちの労働には何らかの価値なり効果があるはず。その労働を所有している僕たちはそれをどう考え、どう扱うのか。
何も持たない私たちは、私たちが唯一持ちうる「私」という資本から始めなければならないのかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
労働力以外に売るものを持たない人々を「剥き出しの生」として扱われることから守るためには、労働力という人的資本の所有者とみなす擬制に基づいて、社会のセーフティ・ネットを基礎づけようとする試みです。
本書の議論は、ホッブズやロック、ルソーによって論じられ、ヒュームによって批判された「自然状態」という概念や、アダム・スミスによって論じられた「市場」、さらに「資本」と「労働」の関係について論じたマルクスらの仕事を解説するという形で進められていきます。著者は、ホッブズとロックの「自然状態」の理解の相違を、エコロジカルな条件の相違によって一つの見取り図の中に位置づけようとします。さらに、ヒュームの「コンヴェンション」やスミスの市場といった概念をも、同じように生態学的な条件の遷移のうちに取り込んでいきます。
マルクスは『資本論』において、資本の生成と運動のメカニズムを解き明かそうとしました。史的唯物論は、こうしたマルクスの思想に基づいて、資本主義社会の歴史を弁証法的に捉えようとする発想です。これに対して著者は、生態学的条件の遷移の中で資本主義の成立を位置づけるという非弁証法的な方法論に基づいて、労働と資本についての考察を展開していきます。
そしてここから著者は、マルクスの疎外論に抗して、「労働力=人的資本」に対する所有権を認めるということは、けっして克服されるべきものではないと主張します。それは、資本主義の生態学的な遷移を経て現実に根付いているものであるのだから、ヴァルネラブルな労働者の身体を守るための擬制と捉え、そのような財産権の主体として労働者を位置づける福祉国家を構想する方向へ進むべきだと論じています。
ゲーム理論にまったく不案内な読者としては、本書のような議論の筋道を通って市場や資本主義を説明することができるということが、非情に興味深く感じました。