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僕たちの終章はピンボールで始まった
雨の匂い、古いスタン・ゲッツ、そしてピンボール……。青春の彷徨は、いま、終わりの時を迎える
さようなら、3(スリー)フリッパーのスペースシップ。さようなら、ジェイズ・バー。双子の姉妹との<僕>の日々。女の温もりに沈む<鼠>の渇き。やがて来る1つの季節の終り
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「羊をめぐる冒険」→「風の歌を聴け」→「1973年のピンボール」と読んだんだけど(本来の順番は、風→1973→羊、らしい)、…3つの中ではイマイチかも。
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いつも雨が降ってるイメージ
村上春樹の長編第2作目かな。
静かで削ぎ落とされた感じの小説です。
双子と配電盤とピンボール
何が何を象徴していて、、、なんて考えるのは止めて
その小説世界にどっぷり浸って欲しい作品ですね。
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この人の本を読んでいると,都会でビール飲んだりパスタを作って食べることが一番カッコいいことなんだと思わされてしまうが,実際どうなんだろう.
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私の読解力不足もあるけれど「僕」と「鼠」の話が交錯していて文章がなかなか頭に入ってこなかった。結局、何が言いたかったんだろう?というような感じ。まぁ、そもそも起承転結はハッキリしていないけれど。『風の歌を聴け』は面白おかしく読めたのに、本作は私にはちょっと不向きだったようだ。ただ、ときどき出てくる文章にユーモアがあって楽しめた。
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前作同様洒脱で独特の味のある価値観の提示になっている。物語の展開は遅く、その間は双子と“僕”の同居生活が描かれ、そこにおける在り方や会話の心地よさを中心に描く。そして、次作への前振りとして“鼠(ねずみ)”という友人の視点で章が割かれている。彼はだんだんと人とのつながりに疑問を持ち始め、自問自答らしきものを始める。前に進み続けている主人公と違い、主人公の地元に残っている鼠は同じ環境で同じ言動を続けることに疲れ始める。ルーティンワークだと感じ始めた鼠は少しずつペシミスティックになっていく。しかしこの作品では結論まで提示されず、その結果次作へ続くというニュアンスが強くなってしまっている
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ものすごくピンボールとか、ここではあまり関係ないけれど僕にとってはレコードのように時代に取り残されていく物の静かな感じが、ひんやりと伝わってくるし、だから温かいような気がする。
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いやー、reportをこれについて書いたせいか妙におもいれのある作品。読めば読むほど深く読める。決してこれは失敗作なんかじゃないと思う。
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「青春三部作」の二部。「風の歌」〜「羊を巡る」のミッシングリンク的位置付け。他の部と比べて、これは詩的な中編だと思います。個人的には名言多し。
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社会から隔絶された人間はしばしば,無意味な行為に没頭することで自分を守ることがあると,経験からそう思うのですがどうでしょう。
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3部作の間であるっていうのがまたいいんだろうなぁ。「風の歌〜」同様、雰囲気を味わう感じで読んでます。
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すごく寂しい感じがした作品です。ダンス×3よりも全然寂しい感じがして、ボクは2回しかよんでいないのです。ピンボールに引寄せられて、高得点を得ることだけに執着する姿は自分は73年の社会的なものを映しているのかとも思いました。
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超がつくほど村上春樹初心者の私。やってしまった。これがいわゆる鼠三部作だとは知らずに読んだ。ノルウェーの森の無駄な性描写にドン引きだったけど、これは大丈夫だった。ストーリーより語り口と雰囲気とものの表現の仕方が好き。
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文章に肩の力が入っているなぁ、と感じたのはあたしだけだろうか。あーこうゆう時期もあったんだなぁって思いつつ読んでいた。何かを匂わしておいて、何もない。ではなく、何もないのに、何か匂ってくる。そんな感じ。(05/12/28)
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村上春樹の作品で最初に読んだのが「1973年のピンボール」だった。
タイトルのピンボールという言葉に引かれて手にした一冊であった。
当時の感想というか、読後の印象は不思議な空気を感じた気がしたぐらいであった。
基本的には決別がテーマの話である。
最初に読んだときの俺の年齢は18歳か19歳だったはずである。
年齢的な問題もあったし、自分自身の性格もあったのだろうが熟読はしておらず、表面をなぞっただけである。
だから漠然とした印象が残っただけであった。
数年前に一度読み返したが、この時もそれほど熟読せずに1973年頃の時代の匂いを微かに思い出した程度である。
というのも1973年という年代は僕はまだ11歳の時の時代であり、若干リアリティに欠けていたのだと思う。
しかし、今になると時代の空気とのギャップは埋まりきらないものの、その他の事に関してはリアリティがマッチする部分も多い。
その辺のことは後に記するとして、今回読み直してみて感じた事はまず時代背景である。
実にアナログな印象を受けたのである。
70年代の後半から世の中はデジタルな文化に突入するのである。
この小説の中で、アナログな印象を与えるものは多々有る。
タイプライター、配電盤、レコード、灯台、フォルクスワーゲン、鉛筆といったものを筆頭に、極めつけがピンボールマシーンなのである。
タイプライター、配電盤、レコード、灯台はまさしくデジタルな機器にその座を奪われ過去の遺物である。
フォルクスワーゲン、鉛筆は丸い印象があり、デジタルの角張った感じとは対照的である。
そして、ピンボールマシーンは実にアナログなゲーム機である。
もちろん80年代にもピンボールマシーンはあったが、その機械が醸し出すものが違った。
そのような古き良きアナログ時代の印象が強い。
次に時間の流れ方が今とは違うゆっくりとしたものである。
東京という比較的に時間の流れが速く感じる街が舞台の大半を占めるにも関わらずに時間に余裕を感じる。
この二点を楽しむだけでも充分に読み応えがある小説である。
さて、この小説のテーマは決別ではなかろうか。
死んでしまった彼女である直子への思いがどこかに引っかかっていて、それを断ち切れずにいた僕の思い。
それが、倉庫で再会したピンボールとの会話を通じて自己完結する。
「ハイスコアという美しい思い出を汚したくない」と言ってゲームをせずに立ち去る僕。
立ち去るときはまったく振り返ることもない。
正に踏ん切りがついたのであろう。
この小説はどこか非現実的ではあるが、妙なリアリティもあり引き込まれてしまうのである。
たとえ熟読しなくても、懐かしくほろ苦いアナログな時代に連れていてくれる魅力があるのだ。