紙の本
自己の投影としての親鸞像。
2011/01/14 19:24
6人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者が反権力、反天皇制としての親鸞聖人像を描きたいが為に、親鸞聖人が聖徳太子信仰を持っていたり、太子称賛の和讃を書いていた事に対して「違和感を覚える」にしても、そこから聖徳太子架空説が出て来るのは正直言って「違和感を覚える」。著者が言及されているように「法然には聖徳太子礼賛がない(113頁)」し、他の法然門下には太子信仰を持っていないから、それこそ親鸞聖人独特の信仰だ。
当時の朝廷が「天皇を神とする世俗の疑似宗教(116頁)」というのは明治以降の国家神道時代を当時に当てはめたようで「違和感を覚える」。
聖徳太子架空説が出てくるのならば「末法灯明記」は「教行信証」で引用されているからか、普通、伝教大師最澄の名をかたった偽書というのが定説なのに、真筆説を採っている。
反権力としての親鸞聖人像を描く為には「口伝鈔」や「佛光寺版御伝抄」で書かれている聖人が鎌倉幕府の要人に招かれて行ったとされる一切経校合は無視してしまうのだろう。
220頁に「教行信証」を出版した人物として紹介されている平頼綱は日蓮聖人の御遺文に平左衛門尉として登場する人物だ。
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人間とは、限界状況に近づくほど意味を求める存在であり、だからこそ人々にはひとつの主観的事実としての宗教が求められると著書に述べられています。日本では無宗教の方がむしろ普通であることのように思われますが、大切な人を亡くし、死後の世界を考えるにつけ、今をどう生きるべきかを深く考えさせられます。それを宗教と呼ぶのか分かりませんが、ひとつの物語=宗教としての親鸞の教えに興味を持ち、本書を手にとってみました。
人の心にある我執や我欲は人間の性であり、煩悩に支配されているもの。親鸞は、そんな自分のダメなところを素直に認めながら、法然との出会いによって念仏の教えに遭い、「信心(まことのこころ)」を説いたそうです。
とはいうものの、親鸞は自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、不明確な事柄が多いなかで、阿満先生(実は自分の大学の学部の教授でした・・)の描いた親鸞像は非常に見事で、特に「信心」についての洞察は、悔いのないように生きていくうえでの原点を気付かせてくれます。
2011年は法然800回忌、親鸞750回忌に合わせての発行なのでしょうか、宗教については詳しくなくても、非常に分かりやすく書かれている点少しでも興味を持たれたら一読に値する良書だと思います。
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(2011/1/25読了)私の今の疑問。凡夫が救われるには阿弥陀の他力によるしかないという。そうだけど、そもそも何で「救われる」必要があるのか。救われたいと思ってない自分がいる。そこはスルーされて、『暮らしの基準を阿弥陀仏の慈悲に求めるという生き方』(P209)とまとめられてしまう・・・救われたいと思っていることが暗黙の前提になっていて、スッキリしない。「道徳」も「神仏による救い」もどっちも信じてない現代人はどうしたらいいのか。
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南無阿弥陀仏と称えることにより、人は、浄土に迎えてもらえるというシンプルな教義の浄土教。
親鸞が善き人として教えを請うた法然との出会い、その後の宗教生活を綴った作品である。
作者があとがきに書いているように、親鸞に関する伝記ではない。
親鸞が手にした「信心」(まことのこころ)の世界を、作者も追体験したいと書かれた作品である。
浄土宗、浄土真宗という既成概念にとらわれることなく読める内容と生っている。
「南無阿弥陀仏」に秘められた重みを知らされた作品でありました。
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「信心」(まことのこころ)を中心に、親鸞の生涯と思想をわかりやすく解説している本です。
本書では、親鸞の「信心」を唯識思想によって解釈した曾我量深の考えにしたがって解説がおこなわれています。唯識思想では、「迷い」の原因である「識」(心)について精緻な理論が展開されています。そこでは、法界から流れ出る教えを聞くことで「識」が「智慧」に転じる「聞薫習」が説かれます。そして著者は、阿弥陀仏の本願を「聞く」ことがまさに凡夫にとって「信心」を開発することにほかならないというのが、親鸞の教えだったと解しています。
さらに、「信心」を獲得することで、自分の心のなかに生じてくる善悪を引き受けながら阿弥陀仏の事業に参加することが念仏者の生きがいになると述べられ、二種廻向論へのつながりが示されます。そして、必ずしも教団の形をとることのない、「信心」の「ともがら」の間に生まれる「宗教的倫理」の可能性にまで、説きおよんでいます。
そのほか、84歳になって親鸞が直面しなければならなかった善鸞蘭義絶事件や末法観についても、比較的ていねいに解説がされています。