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遊女と歌舞伎との関わりも深い。歌舞伎は「かぶき踊り」という踊りの名前に由来する。かぶき踊りとは、かぶき者= 傾き者と言われる一種のやくざ者のふるまいを真似た踊りであった。傾き者は派手な格好に長いもみあげを生やし、長大な脇差を腰にさして長大な 煙管 のまわし飲みをする連中である。茶屋に出入りし、肩で風を切って歩く。極めて男性的なふるまいをする者たちだが、それを 阿国 と呼ばれる女性芸人(遊行芸能民)が自分なりに編集しなおして作り上げたのが、男装のかぶき踊りだった。それを受け継いだ遊女たちは腰に脇差を差し、長い髪を結い上げてはちまきを締めて舞台に立った。さらに和尚(卓越した女性芸人)は、 琵琶 から三味線に移行したばかりの男性の眼の不自由な音楽家たちに、三味線の技能を伝授してもらった。こうして「かぶき踊り」の中に三味線が導入されたのである。
女歌舞伎は女が男装し、男が女装する世界だった。そしてそれこそが、人心を狂わせる根本であった。少しだけ、この後の歴史を追ってみよう。 承応 元年(一六五二)、若衆歌舞伎が禁止され、翌年、野郎(大人の男)歌舞伎が成立する。これは若衆(美少年)が女性同様、男性たちにとって性の対象だったからであるが、たった一年で野郎歌舞伎になったということは、実質的には若衆の役者たちが髪型を変えて大人の男になったにすぎない。若衆という男でも女でもない中性的存在はその後も江戸時代の都市に生き続け、江戸のホモセクシュアルの中心を担うのである。さらに 明暦 三年(一六五七)、明暦の大火をきっかけにして吉原は浅草寺裏(当時としてはかなりの郊外)に移転し、新吉原が成立する。
吉原芸者と較べて、岡場所の芸者は、色を売るので芸者ではない、と極論する論者がいたりするが、それはおかしい。芸者の本質は、あくまでも売色を目的としたものではない。「あるいは売り、あるいは売らず」というのが本筋で、その目的は、芸にある。そこが、いかに華麗に装ったとて、売色を究極の目的としている吉原の花魁との違いである。
実際に、色を売らずに芸一筋に励むことも可能だったし、少数といえども、そのように生きた者もいた。選択の余地があるということは、それが全くないというのとは、本質的に違うだろう。たとえば、芸者屋の娘や養女が自前で芸者をやり、少なからず自由の身であった彼女たちが、自分の意志で客と寝ようが寝まいが、それは、本人の勝手、売色とは別のものだ。もちろん、そのすべてが本人の自由意志とばかりはいえないことはいうまでもない。けれども、制度として、自由意志の働く余地がある、ということは重大で、そこに娼妓と芸者との根本的な違いがある。