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■この本を知ったきっかけ
某SNSで紹介されてて。
■読もうと思ったわけ
「認められたい」という願望がどこからきているのか興味があって。
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代表的な心理学の事例を、承認という切り口で捉え直しているところは新しい視点として興味深かった。
マズローの欲求段階で、ダイエットをして認められたいという欲求が、下位欲求である食欲に優るとあるが、それは違うと感じた。例えば地震で食べ物が確保困難な時にダイエット何か考える?基本的な安全が確保されてるから、ダイエットしたいと思うんでしょ。
結論は酷かった。後半は読む価値ないかな。全体的に内容も冗長で同じこと言ってるだけだし。
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あなたは独りでいることに不安を感じますか?今の時代、リアルなつながりが弱くなった反面、ソーシャルにおける薄いつながりが広がっている。ケータイやスマートフォンを使えば瞬時に相手とつながり交流することも容易になった。一方で、そのつながりからも除外され、リアルな場でのつながりさえもなくなった人たちは、いったいどのようにして自分というものの身の置き所を作ればいいのだろうか。孤独を受け入れ、楽しめる人にはなんてことはないが、それができないからこそ、何万人という人がこの日本でも命を絶っている。親和的承認、集団的承認、一般的承認など数あれど、やはり、人はこの世界において決して一人では生きられないのだと思う。
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現代は承認の不安に満ちた時代である。自分の考えに自信がなく、絶えず誰かに認められていなければ不安で仕方がない。ほんの少し批判されただけでも、自分の全存在が否定された絶望してしまう。そんな人間があふれている(P8)。仲間の承認を得るために自分の本音を抑え、仲間の言動に同調した態度をとり続ける若者は少なくない(P10)。
他の考え方を持った人々の意見にも耳を傾け、書籍やテレビ、インターネットを介してさまざまな価値観を理解し、なぜそのような考え方をするのか、その理由を考えるようにすること。そして、そこに共通了解を見出そうとすること。その繰り返しが、「一般他者の視点」による判断力を培ってくれるだろう(P213、P214)。「見知らぬ他者」の承認を確信することで、また自分の意思で行為を選択することで、自由と承認、両方の可能性を切り開くことができる(P216)。
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大学の授業の参考書に指定されていたため、とりあえず読んだもの。題名を見る限りでは非常におもしろそうである。
他者の目を気にしすぎて窮屈な思いを感じる、あるいはその度が超えたために精神の不調を訴える。そのような症状が増加しつつある(先進諸国における)「現代」の診断を「認められたい」という承認欲求を主眼にして行い、そこからの脱却方法を提起する。伝統的価値観が崩壊したとき、その窮屈さから自由になった反面、各人は評価されるための行動指針・規範を見失ってしまった。その結果、「世間・社会から評価されるはず」という信念がぐらつき、そのような「一般的他者」を信じず、承認される対象として身近な他者を求める。すると、自由になったはずであるのにも関わらず、かえって身の回りの所属コミュニティ内の規範に縛られてしまうという逆説的な結果に陥ってしまう。その結果が、過度に場の空気、他社の視線を気にして、「自由」を感じ取れず、場合によっては鬱になってしまうという現状だ。このような現代の診断は非常にまっとうなものであり、しっかりと言い切ったところには好感を覚える。
しかし、そこからの脱却を語る第5章は正直説得力に欠ける。以上のことに自覚的になるだけで、はたして各人は「自由」の復権をできるのだろうか。自己了解と当為の分析が必要であるのは当たり前であるが、診断された現状を見る限り、それだけで各人が自由に選択できる「強さ」を取り戻すとは到底考えられない。結局、分析はしたものの依然として場の価値観に従わざるを得なくなってしまい、窮屈さとそのことによる不全感は依然生き残り続けるだろう。そういった意味で、この解決法は希望的観測に過ぎない。
また、「一般的他者の視点」というものも気に入らない。概念としては理解できるが、そのようなものが存在する実感を持てないことがそもそもの問題点ではないのだろうか。規範崩壊の現代にあたって、「客観的に正しい価値観」が導き出せないのは当然であるが、「各人が了解できる価値観」というのも非常に狭いものになっているだろう。つまり、それを共通了解していくことに期待するのもやはり希望的観測の段階を超えない。
以上のことから、筆者は承認不安に陥っている多くの人々の「強さ」を信じていることが読み取られたのだが、その「強さ」を各人が持っていないことが問題の本質であるように感じられてならない。そして、「一般的他者の視点」といった曖昧模糊なものにすがるのではなく、各人が自分なりの価値観をしっかりと育てたうえで、出会う人々との争いに使うのではなく、「語り」によってさらに育んでいくことが取るべき指針であろう。そのためにまず必要なのは、他者との率直な語りを実現するための「強さ」の養成であり、それを各人がどう身に付けるかなくして承認不安の解決はないだろう。
至極まっとうなことを言っている本であり、一読の価値はあるだろうが、上で述べたような不満が残る。また、述べられている実際の内容自体は少ないのに、その引き伸ばしと繰り返しが非常に目立っているのは密度を薄くして残念である。
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自由だからこそ、逆に足かせ(今回の場合、承認がそれである)を求めてしまうというアンビバレントな状況について触れることで、自由論への考察の導きともなっている本。その切っても切れない絡まりあいに思索を向ける導入としてはいいかもしれない。現代思想のキモとなる思想家にも、一通り目配せしている。
ただし、3つある承認の形態がそれぞれ衝突を起こす可能性について全く触れられていなかったのには不満がある。身近な他者と、抽象の存在である一般的他者の要求(=承認を得られる契機)は、異なることが往々にしてありうる。そうした衝突状況にあっても、「自分が納得した判断」というものを最終的な拠り所とすることで承認の問題が解決に向かうのだと、そうした希望を持ってよいのだろうか。結局は承認の問題を自己の責任に帰結させはしないだろうか。
後半部分は正直なところ同じ内容の繰り返しが多かった点も、気になるところであった。
しかし研究書ではないことも考えれば、これ以上の要求も酷か。
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言われてみれば、だが、人生が自由と承認の葛藤であるという考えは、自分を振り返ってみて非常に当を得ていると思う。
自由が人間の求めるべき最高善、という時代は終わり、もはや人間は承認の虜である。
しかし、承認といっても、家族・恋人の承認(全人格的承認)、職場での承認(集団にとって価値あるメンバーとしての承認)、世間での承認(世の中の常識に外れていない人としての承認)と色々ある。
そして一番大切なのは自己承認(自尊心)。
自分のやりたいことを見つける、というのは自己承認を得るための手段で、それが一番の保険かなと思う。
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「ありのままの自分」「自分という存在価値」を確かめるしっかりしたものさし(社会共通の価値観)がない時代であるため、身近にいる周囲の人々からの承認を必死に求めている。これは「ありのままの自分」「自分という存在」を他者という鏡でしか映すことができないのである。この状況から抜けることで、承認不安を解消することができる。
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タイトルにはすこし齟齬があるようにおもう。
本書は、ひとの根源的な欲求を「認められたい」であると定義する。そこに時代という環境データと、哲学的な視点を入力して、その欲求にたいする解を導きだしている。
以下、感想であって、本書のレビューではない。
この本をよんでいて、しんでしまった猫のことをおもいだした。
すでに高齢だった猫は、どうやら胃腸をわずらったらしい。たべたものをもどす日がじょじょにふえ、ついには食欲までうしなってしまった。そうなってしまえばとうぜん日に日にやせ衰え、どうみても体力はなく、臨終もよぎらないわけにはいかなかった。
しかし、である。
それでも毎日毎日猫は階段をのぼり、二階のぼくの部屋でごろごろする日課をやめようとはしなかった。トイレは一階なので、おしっこがしたくなれば一階へおりていき、用を足してまたもどる。よたよたと、またもどるのだ。そして、ぼくの傍でごろんとする。おそらく、しんでしまう、そのまぎわまでそうだった。おそらくというのは、猫がしんだときぼくは家にはいなかったので、たしかめようがなかったから。
その日、部屋へもどると猫のおしっこのにおいがした。下へおりる体力すらうしなってしまったのだろう。だが、息をひきとったのはべつの部屋のドアのまえだった。猫にはなんだかそういうカッコつけたがるところがあって、吐くときも、催すとぼくの部屋ではなくほかの部屋にわざわざ移動して吐くことが多かった。だから、きっとそういうことなんだろうな。と、そうおもった。
猫は、いまわのきわまでぼくに寄りそい、さいごまでカッコつけてしんだ。
この本で「承認」ということばをくり返しきくうちに、ハッと気づいて、そして底知れずうれしく、またかなしくなった。猫は、あのツンとしたかおでぼくなんかを無条件にふかくふかく承認してくれていたんだ、とようやく直観したから。そしてそれにたいしてなにを返せただろうと後悔し、なにも返せていないぼくですら、猫はきっと承認してくれるだろうとおもいおよぶとことさらうれしく、必然そのぶんだけかなしくなった。
本にたいする感想はさまざまである。
この本について、どこで見かけたのかなど買ったときにはすでにわすれていて、ただAmazonのほしいものリストにあったのでポチっただけであった。しかし、きっかけはどこにひそんでいるかわからない。
そして、この本はわすれられない一冊となった。
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目の前に広がっている世界は幻想かもしれない。
不安という概念について考えるとき、不安を感じた経験があり、その経験を不安という言葉で誰かと語り合っている以上、すでに不安の意味を自分なりに受け取っている。
人は常に生きる意味を探し求めている。生きる意味か。
人間は承認だけでなく自由を求める存在であり、自由なくして幸福な人生を歩むこと、生きている喜びを感じることは難しい。
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http://yasuyukima.typepad.jp/blog/2011/06/i_want_you_to_love_me.html
ここから
と、おもったらこの紹介読む前にこの本チェックしてた。
どこでだろう…。
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診察の待ち時間に一気に読む。
承認には親和的承認・他者的承認・社会的承認がある説明。
ソラニンがでてきて分かりやすかった。
そして解決法も、たしかに、とおもった。
人と話しながら自己了解を、と言ってもなかなか難しい場合もあるだろうけど、自己了解をする場合でも他者の視点を忘れないように、という意見はとても納得できた。
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本書の内容に関しては、アマゾン等の書評に譲る。ここでは、本書を離れて、私の承認願望に対する見解を述べてみたい。
男性は家族や恋人などの親和的他者から承認願望を得ようとする際、集団的他者からの承認、つまり仕事における(経済的)成功が伴ってはじめて成立し得ると考えている人が圧倒的に多いかと思われる。確かにそういう側面はあると思うが、女性(あるいは私は)は必ずしもそれが全てではない。
私が親和的他者として、相手の存在を認めている時というのは、相手が情熱を注いで真摯に取り組んでいる姿に共感できる時である。大好きなことに夢中になっている姿に人は惹かれるものだと思う。これは男女関係がない。立派な肩書きや地位よりも、そっちの方がよっぽど大事だったりする。
稼ぎがあればそれにこしたことはないが、それよりも、その仕事に惚れ込んでいる姿、ありのままの素の姿を受け入れたいと思っている。
私が男女問わず相手を認める(好意を寄せる)状態というのは、なんだかんだで、短所を含めた自分を受け入れてくれることなのかな。そして、何でもいいから、少しでも相手の為になりたいと思えるかどうか。私も相手の短所を含めて受容できるかどうか。そして、それらを支える共通基盤となる感性のチューンが一致するかどうか。。。
あまり上手く言葉で表現できない。
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2章まではかなり面白かった。
3章以降はくどかったり,ロジックが強引だったりして,ちょっとすっきり飲み込めない箇所が散見されるけれど,全体としては「現代の青少年層の承認不安」についてわかりやすくまとまっていると思う。
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「大きな物語」の凋落、ポストモダン
↓
絶対的な価値観の消滅
↓
承認不安
大枠はこんなかんじ
二章くらいまでは面白かった。
後半解決策を示すなら、もっと具体例に踏み込んでくれたほうが読み手としては面白かったかも。
新書との付き合い方がいまいちわからん。
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他者に対しての驚くほどの無関心が、無差別殺傷事件を引き起こす起因になっているという。
他者との関わりを絶った孤独な人間は、他者の内面を想像したり、共感を抱くことが難しくなっているようだ。
極端に言えば、この世にいなくても構わない存在といったとこなのだろう。
共感や憐憫も、怨恨さえも生じない存在とは、なんと虚しいのだろうか。
自己への承認を渇望する人々が増えているのは、現代社会が、コミュニケーション重視になっていることが関係しているようだ。