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電子書籍
いまいちです・・・
2016/11/29 19:58
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:タンタン - この投稿者のレビュー一覧を見る
このシリーズ大好きだったのですが、最近は逆説というより、雑学みたいになっています。
最初のころの爽快な逆説を期待しています。
紙の本
通史として読んでみる
2016/05/02 08:31
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:わびすけ - この投稿者のレビュー一覧を見る
これまでに比べ、断定調の切れ味のいい独自の論が出てこない。あとがきで自身述べているが、前後の歴史を踏まえて解説しているからだろう。確かに幕末の歴史はいりくんでいて概説書が欲しいところ。みなもと太郎の「風雲児たち」がこの本の副読本だった。二つを読み比べて理解が深まるところもあるので、しばらくは逆説色の薄い通史として読んでいこうと思う。
紙の本
安政の大獄の真意
2021/04/20 21:45
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:だい - この投稿者のレビュー一覧を見る
○1958年 戊午の密勅と安政の大獄
井伊直弼の正義
徳川の祖法を守り、血は薄くても優秀な人物を将軍にする
天皇が反対しようと、開国する
島津斉彬は武装した三千の兵を率いて“朝廷・天皇”の後ろ楯となり政治を改革しようとしたが、病死(暗殺)した
直弼は開国を推進するも、幕府に固執し、自分に反対する勢力を徹底的に粛清した
孝明天皇は水戸藩に攘夷推進と水戸藩処分者の取り消しを指示した“戊午の密勅”という勅命を出した
この勅命は幕府と水戸藩に届けられ、直弼との対立が深まり、攘夷派は退けられる
直弼の“一橋派は徹底的に潰せ”との厳命に、老中間部は、弾圧を厳しくし“密勅”に関わったり“一橋派”と関係がある人物を片っぱしから検挙した
しかし、戊午の密勅は自分の息子を将軍にしようとした水戸斉昭の陰謀というデタラメであり、攘夷推進派が朝廷に工作して出したものであった
斉彬と天皇家の連絡役だった西郷隆盛は、公家用人を取りまとめていた清水寺住職月照を守るため薩摩へ逃げたが、久光に阻まれ、奄美に幽閉された
吉田松陰も攘夷推進のため、老中間部を討つべく挙兵を決意したが、野山獄に収監された
○1959年 開国vs攘夷
岩倉具視は幕末きっての策士であった
戊午の密勅には関わっていないとされるが、孝明天皇の軍師として背後にいたと推測される
松陰の“一君万民論”により倒幕が倫理的に正当化された
天皇の前では、すべて一臣下として平等であり、将軍や大老の天皇の意志に背く行為は討つべきである
戊午の密勅事件の最後の刑死者が吉田松陰であった
師の遺骸を前に桂小五郎は、倒幕の意志を固めた
幕府は、アメリカとの為替レート政策で失敗し、国の財政は苦しくなった
庶民は、この原因は開国したことにあり、ガイジンは日本から追い出せばよいという攘夷が正しいという発想になっていった
この時点で、水戸・薩摩・長州の三者に共通するものは“幕府は攘夷を実行すべき”であった
○1960年 桜田門外の変
井伊直弼の暗殺の原因
国論の不統一、国家の方向性が定まっていなかったこと
日本が西洋列強の植民地とされないためには、開国近代化の道しかなかった
開国推進派の直弼は、自分に逆らう人間は最大限排除することも正しいと考えていた
反対派の水戸・長州は基本的には攘夷推進派であり、安政の大獄、戊午の密勅の返納に対し、水戸過激派は天皇の御意志を踏みにじる悪に対し成敗することとなった
1860年(安政七年)3月3日
脱藩水戸浪士18人により江戸城桜田門外で直弼は暗殺された
公武合体
14代家茂の御台所に皇女を迎えるというもの
徳川家から天皇家に嫁を出すのは構わないが、逆の場合は“天皇が義父、将軍が婿”となり、天皇が上位になってしまう
朱子学の影響により朝廷の勅許を得ずに条約締結に踏み切ったことが直弼暗殺の原因の一つであった
直弼の後任老中安藤信正は、朝廷との連携強化のために公武合体を実行した
孝明天皇の妹“和宮親子内親王”が幕府の攘夷実行の確約を条件に降嫁した
公武合体を進めようとする幕府も、その幕府を倒し攘夷を実行する幕府に変えようとした水戸・長州も“幕府を残したまま日本を改革する”という基本構想は変わらない
その実現に向けての方法論が違うだけである
だが、この幕府を生かそうという考え方は、これからの数年間で急速に時代遅れとなり、倒幕路線に変わっていく
求められていたのは政治的には市民社会に、経済的には資本主義社会になることであった
幕藩体制ではそれが達成不可能ということに多くの志士達が気付いていくことになる
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