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投稿者:甘栗 - この投稿者のレビュー一覧を見る
4人きょうだいが不思議な衣装だんすを通じて、異世界「ナルニア国」に迷い込みます。
素敵な物語に前巻同様、とてもワクワクさせられました!
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4人の子供たちの冒険。白い魔女ことジェイディスが再びナルニアに入り込み、いつまでも続く冬の世界として支配しようとしている。サンタクロースの来ない、永遠の冬!
そのイメージのあとではなおさら、アスランが来ていて春の兆しが感じられる描写が、美しく見える。そんな兆しの第一が、サンタクロースってのが愉快。
魔女と歩くエドマンドが、次々に起こる春の目覚めのさなかにいるところ・・・エドマンドの気持ちは何も書かれていないけど、彼が光景に目を奪われ、自分の境遇を省み、きっといま心のウロコのようなものがぼろぼろと剥がれ落ちているんじゃないだろうか・・・と自然と考えていた。春の力、描写の力だ。
解説が懇切丁寧でなるほどうんうんと頷けるものだったんだけど、キリスト教的な要素があるというのはキリスト教にふだん親しみのない私でも感じ取れた。まずアダムの息子、イヴの娘という呼び方。そして、いけにえとして死んだアスランの復活。作者のルイスはキリスト教弁証家としても有名なんだそうだ。
教義、教訓を含んだものが物語として純粋に面白いかどうかは、日本の物語でも同じであるように意見の分かれるところだろう。寓話的なパターンにはまりつつも、子供たちのみずみずしい心の動きや石からもどった動物たちの鮮やかな命の輝きなどに、物語としての色があるかなぁと思う。
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・新訳のナルニア国物語、既刊分3冊読了、やはりおもしろい。私のナルニアはタムナスさんに始まる。最初に読んだ時、隠れんぼよりもこちらが強く印象に残つた。雪の森の中の街灯とフォーンのタムナスさん、その後、様々な事件の起きるナルニア国であるが、私はここから離れられない。試みに岩波少年文庫版「ライオンと魔女」を見る。「それはルーシィよりすこし背が高いひとで、雪のつもったまっ白な傘をさしていました。腰から上のほうは人間のようですが云々」 (17頁)となつてゐた。C・S・ルイス「ライオンと魔女と衣装だんす」(光文社古典新訳文庫)で は「その人はルーシーよりほんの少しだけ背が高く、傘をさしていて、傘には白く雪が積もっていた。腰から上は人間の姿だが云々」(土屋京子訳、18頁)と ある。文末が変はり、漢字表記が増えてゐる。「それは」と「その人は」といふ認識の違ひもあらうか。その程度の違ひである。読んだ感じでは新訳のほうが良いと思ふ。訳者はこれについて、「児童文学であるけれども大人でも楽しめるように、従来の日本語訳よりは少し大人っぽい文章で訳した。」(土屋訳「魔術師 のおい」322頁)と書いてゐる。児童文学は児童文学風に訳す、これがあるべき姿かもしれない。ですます体で丁寧にしておけば優しくて子供にふさはしいといふことであると思ふが、本当にさうなのかどうか。小さな子のための読み聞かせならばそれでも良ささうである。しかしナルニアとなるとどうなのであらう。 薦められたにせよ、自ら読まうとする子供達であらう。そんな子には「少し大人っぽい文章で」も良いのではないか。この、新訳では第2巻となる「ライオンと」は子供4人が主人公であつても、物語のイメージは決してそのやうなものではない。4人がナルニアに入つた時点で既に事態は切迫してゐる。そんな雰囲気は、ですますよりもだやであるの方が生きるのではないか。岩波の瀬田貞二訳は、新訳を読んだ後で見ると、児童文学を意識しすぎた訳に思へる。そこは物語全体の雰囲気を考慮して文末を選ぶべきではなかつたか。その点、土屋訳は良い。「その人物は、フォーンだった。」(18頁)と端的である。ところが瀬田訳は 「この人は、フォーンでした。ヤギとひととのいりまじった、野山の小さな神です。」(18頁)となつて、訳註が本文に取り込まれてゐる。巻末等の訳註なしだとかう処理するしかないのかもしれない。しかし、いくら児童向けとはいへ、これでは説明が不十分ではないか。つまり、かういふのは訳註で処理すべきものなのである。訳註を取り込むことも多いやうだが、端的を旨として、訳註が必要ならば訳註として処理すべきである。この流れでついでに書けば、今風に言ふと物語の重要なアイテムたるターキッシュ・ディライト、これを瀬田はなじみ易さからプリンに置き換へた(岩波少年文庫版264頁)が、土屋はそれを元に戻し た(294頁)。時代の差である。今ならば、トルコの菓子でも食することは易しい。当時、異国の食物への瀬田の配慮は必要であつたが、現状では不要になつたのである。これなどはいたしかたのないことで、いかに岩波といへども、瀬田訳のこの部分だけを勝手に元に戻してし���ふことはできまい。そんなわけで、やつと原作のお菓子が登場できたのだと思ふ。
・本当に久しぶりに出た新訳を読んだので、長々とその印象を書いてしまつた。要するに、ナルニア国は面目を一新したのである。もしかしたら、これで児童文学のくびきから逃れることができるのかもしれない。さうして、普通のファンタジーとして楽しまれる物語となつてほしいと思ふばかりである。
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4兄妹たちの意地悪エドマンドが女王に餌付けされてしまう菓子『ターキッシュデライト』。ふむふむ、激甘のゆべし・ボンタンアメ・スアマみたいな食感なのかぁ。岩波の旧訳ではプリンだそうだが、やはりここは原文のが様になると思う。野外移動しながらのこの状況でパクパク摘まむにはプリンじゃないでしょ。余計な気遣いだと感じるのは、現在ではすぐにターキッシュデライトなるものを検索できるからだろうか。
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今読み返すと「復活」の瞬間があまりにも近い気がする。それゆえ「喪失」の後の深い哀しみが薄れてしまう気もする。しかも「喪失」の瞬間に立ち会ったのがスーザンとルーシーのみなのもどうしてだろう。作者は敢えてその瞬間を少年達に見せないようにしたのか?謎は深まる。
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フランク王の裔は絶えたらしく英国から新たな人材を求めて…展開が早い。が、ビーバー家の昼食は細かく描写。他にも食事はわりとていねいに描写。人間以外の夫婦の描写も全篇でここだけではないか?(リアルでは家族を作るのは人間だけ)性欲のマイナス評価以外の描写は少ない。/「ファンタジー」というのはかっちりと世界を造形してなくてはならないが、子供にこびてサンタクロース出したりしては破綻していないか??タムナスさんの蔵書のタイトルを見てトールキンは「こりゃダメだ」と見放した。もちろん英語だったんだろう(サンタは英米文化)
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『ナルニア国物語』の第2巻の物語の構成は、ある意味とても素朴かも知れません。
解説でも触れられていますが、物語の基本型である日常から非日常への「行って、帰ってくる物語」であり、悪を乗り越えて、魔女に支配された世界の秩序を取り戻し、子どもたちは人間的に成長する。
おそらくこれ以上無いくらい、物語らしい物語だと思うのです。
そんな素朴な物語に味をつけるのが、登場するキャラクターたちと、作者であるC・S・ルイスの語り口であったりする気がします。
ナルニアの国に最初に迷い込んでしまうルーシーの素直な感じであったり、長男のピーターが勇気を示したりと、子どもたちの活躍もさることながら、ナルニア国ならではのファンタジーの世界の住人たちが、個人的になおのこと好きです。
最初にルーシーと出会い、彼女を助けるフォーンのタムナス。魔女に見つからないよう、子どもたちにしゃべらないように促しつつも、自分の作ったダムが褒められるとうれしがるビーバーの夫。
美味しそうな食事を振る舞うビーバーの夫人は、魔女の追っ手が迫ってきてもマイペースで、魔女に囚われた巨人やライオンは、どこかとぼけている。そして、神秘的であり神々しくもある世界の創造主であるアスラン。
物語は基本的に作者(神)の視点で語られるのですが、その文体が時折、物語を語るのではなく、読者に語りかけてくるようになるのも面白い。
衣装だんすに閉じ込められることを、異様に注意したり、またビーバーが子どもたちにダムを褒められたときの表情については『自分の丹精した庭を案内するときや、自分が書いた物語を読み聞かせるときに人がよく顔にうかべる、あの表情だ』と語りかけ、
子どもたちが哀しみにくれる場面があれば、『この本を読んでくれている諸君がこの夜のスーザンやルーシーほどみじめな気もちを味わった経験がないことを祈っているが――』と語りだし、
『一晩じゅう涙がかれるまで泣きあかした経験があるとしたら――最後にはある種の静謐な時間が訪れることを知っているだろうと思う』と語りかける。
この語りは物語の流れを阻害するものではなく、一種のアクセントになっているように感じます。
後、この『ライオンと魔女と衣装だんす』で驚いたのがサンタクロースが、実際に登場人物として現われ、子どもたちに魔女との戦いのためのプレゼントを渡すところもなかなかのインパクト。
完全なる空想の世界の物語と思いきや、急に子どもの頃から身近だった空想が、突然現われるその意外性が、なんとも印象的です。
物語の型や子どもたちのそれぞれの雰囲気は、児童文学らしく素朴でごまかしがありません。一方で突然作者が語りの中から現われたり、あるいはサンタクロースのような子どもの大好きな空想が、物語の中に現われたりと、どこかごった煮のように感じられるところがあります。それななぜなのか。
自分は、作者のC・S・ルイスが読者として想定していた子どもへ、どうやったら物語と物語の声を届けられるか、考えた結果がこの素朴で、一方でごった煮のような物語と語り口だったのでは無いかと思いました。
物語のところどころでキリスト教を思わせるところがあります。解説によると『ナルニア国物語』は、キリスト教弁証家のルイスが、聖書を子ども向けに書き直したにすぎない、という批判もあるらしいです。そうみると物語がところどころ寓話的なのもうなずけます。
でも、その枠を越えて「固い寓話よりも、サンタも魔女もライオンも巨人も、喋るビーバーも出した方が、おもろいやん」というサービス精神のようなものが、物語に根づき、そして時折顔を出しているように思えてきます。
児童文学らしく真っ直ぐな物語ですが、その分小手先の技術では誤魔化しきれない、作者のC・S・ルイスの読者への思いが確かに乗っかってこその、世界的な名作なのだと思います。
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ナルニア国物語の2巻目。光文社文庫版では、より原著に忠実に、「衣裳だんす」がタイトルに加えられている。
前作のディゴリーとポリーの冒険から数十年後。ディゴリーは著名な教授になっており、片田舎の広大な屋敷に住んでいた。そこに戦火から疎開して、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーという4人のきょうだいがやってくる。4人で屋敷を探検しているとき、末っ子のルーシーが衣裳だんすを潜り抜けると、その先には冬に閉ざされたナルニアの森が広がっていた…。
ファンタジーには異世界に通じる抜け穴のバリエーションがあるが、衣裳だんすが異世界へつながっていたというアイデアは本当に秀逸。ドラえもんの宇宙開拓史なんかも延長線上にありそうな気がする。私も子どもの頃に、かくれんぼで何度も衣裳だんすに潜り込んだ。子どもは狭いところに潜り込みたいものなのだ。
解説でもキリスト教の影響の色濃さを指摘しているが、それは確かに強く感じる。アスランの復活とキリストの復活の類似性にはなるほどと思う。しかし、それは大人になった今だからの感想なのかもしれない。サンタクロースが登場し、ギリシア神話やケルト神話的なものまで登場するから節操がないともいえる。
以下余談ながら、衣裳だんすのくだりを読むうちに、はるか昔の特撮ヒーローものである「兄弟拳バイクロッサー」を思い出してしまった。小学生の頃の記憶なので曖昧ながら、ナルニアよろしく、衣裳だんすが異世界につながっていて、弟が乗ったバイクを兄が担ぐという斜め上な必殺技を繰り出すヒーローだったような…。図らずも、読書が回想法になってしまった。年だなあ。
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その国は衣装だんすの奥にある。
4人きょうだいの末っ子ルーシーは、ある日衣装だんすの奥から不思議な国に迷い込む。そこは危機に瀕したナルニア国。女王を名乗る魔女は自分の支配を絶対とするために人間の子どもを殺そうと探していた。ナルニア国に入ったきょうだいは、ビーバー夫妻とともにナルニアを救うため、アスランに会いに行こうとするが、下の兄のエドマンドは女王に惑わされて1人裏切って魔女の元へ——。
これがあのナルニアか。衣装だんす、街灯、そしてターキッシュ・デライト。ずっと前から知っていて憧れていた国に初めて降り立ったような感覚。
アスランの死と復活がキリストを表しているという話もわかる。誘惑に負けて一度はきょうだいを裏切るエドマンドが決戦では自分の身を危険にさらして魔女と戦うのにもキリスト教的な意味を読み取ることができそうだ。しかし散りばめられた神話的な登場人物たちやいにしえの魔法などわくわくする要素もふんだんにある。けして説教くさいだけのお話ではないから、読み継がれてきたのである。
エドマンドの性格が歪んでいたのはひどい学校のせいらしいが、著者のネガティブな学校の思い出が反映されているのかと年表を見ながら思った。
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最も有名なライオンと魔女と四人の兄弟姉妹のお話。
映画もよかったけど、やっぱり原作の世界観と情景はすばらしい。
エド奪還やアスラン復活の展開は魅せられるし、何度目を閉じ回想することか。