投稿元:
レビューを見る
タイトルから想像する淡々とした歴史の記述ではなく、かなり主張に満ちた書物だった。
戦後日本の経済体制は戦時中に出発したものであるという視点に貫かれて、時系列に沿った解釈と展開がなされている。「戦時経済体制」が日本の驚異的な経済発展をもたらしたが、バブルとその崩壊をもたらしもした、と。そして、それでもなお、この体制が変わろうとしていない、とも。
門外漢ではあるが、とてもすんなりと受け止めることのできる内容だった。おそらく大胆な切り口だろうから、著者に反発する専門家や当事者も多いだろう。しかし、この本を読むと、さもありなん、とすぐに頷きたくなるほど、この国にはダイナミズムが欠けているようにふだんから感じている。「この国はどうしていつもこうなんだろう」と嘆きたくなる読者は多いと思う。
投稿元:
レビューを見る
戦後から,バブル崩壊までの日本経済の変遷を著者の視点から描いている.戦前と戦時経済は不連続であり,戦後経済は戦時経済の直線状にあるとし,高度経済成長,バブル崩壊といった日本経済の重要な局面の根底を解説している.日本経済を勉強するには主観的で決して良書とは言えないが,著者の解釈から再度,自分の考えをまとめるのに役に立つのでは.
投稿元:
レビューを見る
高度成長を成し遂げ、石油ショックにも対処できた日本が、バブル崩壊以降ジリ貧なのはなぜか?「戦後は戦時と断絶された時代」という常識を否定し、「日本の戦後は戦時体制の上に築かれた」との新しい歴史観を提示する。(TRC MARCより)
投稿元:
レビューを見る
いまにいたるまでの日本の経済システムは戦時期に築かれたもので、いまだ戦時体制から脱却できていないという。大転換が必要なときに今の日本の政治はいったい、どうなっていることやら。
投稿元:
レビューを見る
戦後の日本経済は戦期に確立された経済制度のうえに築かれたという論。最近戦期と戦後の連続性を主張する本とよく出合う。
間接金融方式、金融統制、直接税中心の税体系、公的年金制度。
資本と経営の分離、企業と経済団体、労働組合。
土地制度。
1940年体制が高度経済成長を牽引、バブルを引き起こした。
しかしこの次の新しい体制が見えてこない。IT分権化の時代に即した体制が必要との指摘も興味深い。歴史主義の話題も。
・戦後の改革期にインフレ→平等社会の実現
・アメリカ人な日本を無知であり、通産省、大蔵省が実権を掌握
・金融鎖国下の金融統制←政府のコントロールが可能
・高度成長←比較優位でない重化学工業への転換 大企業、通産省、金融機関の三位一体+労使一体
・国際的地位の上昇
・石油ショック→戦時体制の強化 日本経済体制の優位性の主張
・バブル←土地本位制←戦時体制の産物 →大蔵省の信頼失墜、企業不祥事
・金融危機←不良債権処理問題 →日本の銀行は変わらなかった←公的資金
・未来へ→技術が制度を決める→集中型から分散型へ、戦時経済体制は不利、「国が主導して新しい時代を切り開く」という発想自体がそぐわない
投稿元:
レビューを見る
戦後の日本経済は1940年代に作られた戦時統制体制のためだ。それがバブル崩壊後も変わらないため、日本の経済力は低下している。
これからあたらしい技術をどう生かしていくのかが、日本経済復活のための課題だ。
投稿元:
レビューを見る
「霞ヶ関において戦時と戦後は切れ目なくつながっている」
軍需省→商工省→通産省へ
戦勝国の占領軍に軍票を発行されることは、通貨発行券を握られることを意味し、日本軍による占領地での軍票発行による経済破壊を熟知する大蔵官僚は、連合軍による日本本土での軍票「B円」流通を小額にとどめ、戦後の大蔵省・日銀による金融・財政・通貨政策の掌握が成功する。B円は沖縄で1958年まで使用される。
ドイツにおいては、「モーゲンソー・プラン」を実施、中央政府の解体および戦時中の指導者層が一掃された。
戦後復興期の指導者
ドイツ:反ナチで投獄されたケルン市長
日本:エリート外務官僚である吉田茂
日本は、1940年前後に不連続的な変化を経験している。
官庁だけでなく、主要産業の企業や銀行、マスメディア、教育制度、土地制度なども戦時体制が戦後に引き継がれる。これらは、戦前期の日本のものではない。
「傾斜生産方式」:輸入重油→鉄鋼→炭鉱→鉄鋼
↑その手段として、
価格差補給金:石炭・鉄材を安く流通
復興金融金庫(復金):石炭・鉄鋼・電力・海運に重点的融資
傾斜生産方式によって、激烈なインフレーションが発生。
物価指数
40年: 1.6
45年: 3.5
↓
46年: 16.2
47年: 48.1
48年:127.9
49年:208.8
↓
55年:343.0
60年:352.1
つまり、終戦直後の4年間のみ、年2倍近く物価高騰。
傾斜生産方式は基幹産業だけでなく、国債価値を下げることで、国にも利益をもたらした。また、大企業の従業員も賃上げ、中小企業も、名目値で固定された借地料・負債の実質費は、インフレで減少。
他方で、資産保有階層は、47年に財産税を徴収され、インフレで追い討ち。華族・大地主・その他資産家の没落。戦後の日本を考える上で、重要なのは、「旧上流階層の政治的影響力がほぼ無視しうる社会となった」ことである。
現代の経済活動において重要な対立は、マルクス主義経済学者の囚われる「資本v.労働」ではなく、ケインズの言う「資産保有者v.事業者」である。戦後経済政策は、「資産家」を搾取したため、大部分の日本人は利益を享受する側であった。
傾斜生産方式は戦時体制を用いて行われた。価格差額補給金:41年に導入。復金:復金の元である日本興業銀行(興銀)は戦時中に政府より助成。
*復金→日本開発銀行→日本政策投資銀行へ
通貨発行券によって、インフレで資源を調達する傾斜生産方式が可能となった。
48年の昭和電工事件は、復金融資を得るための贈収賄事件。
農地改革は、占領軍が行ったのではなく、農林省が戦時期から準備していた結果。
42年「食糧管理法」:小作料が名目値で固定された金納制に転換→インフレで価値急減。→米価引き上げの具に。兼業農家の増加、米の過剰生産の一方、食料自給度の低下。
二重米価制:政府が、小作人からは高く、地主からは低く値段設定して米を買う。
GHQのお墨付き「第1次、第2次農地改革」45~50年:農地を地主→小作人へ(名目値で固定れた���収値はインフレによってタダ同然)
戦前の日本の都市住民は、借地・借家に住むのが普通。
41年「借地借家法」:借地権は実質的に所有権と同じに。
「貸せば安く売ったのと同じ」
いずれの土地改革も、零細土地保有者を増やしただけで、生産性向上を阻害する要因となった。
保守政治勢力の支持層は、戦前の地主階層から、戦後における零細宅地と零細農地の保有者へと、大転換を遂げた。
中途半端に終わった、占領軍の経済改革
財閥家族の保有する株式・財産は10年間譲渡禁止の国債に(インフレで無価値化)=財閥の同族支配排除
ただし、同族排除は、戦前から、財閥企業内ですでにあった。
集中排除法が適用されたのは10数社にとどまり、ほとんどの企業はその後合併、復活。財閥系企業も、企業グループという形で維持。
戦後の日本企業が、銀行を中心とした企業グループを形成できたのは、銀行が集中排除法の適用を免れたため。
つまり、戦後に維持された「銀行が産業資金供給の中心になる仕組み(間接金融)」は、戦時経済の産物。
戦前の日本では、「企業が株式や社債を発行して資本市場から直接資金を調達する仕組み(直接金融)」が中心。
高度経済成長の基盤
49年「ドッジ・ライン」:価格差補給金・復金融資の停止
家計の貯蓄→銀行預金→企業
資金配分は銀行が決定。
↑インフレは国債の実質価値を低下させるのに役立ったが、いつまでもインフレが続くと、今度は財政支出が膨らむ。国債の重荷から脱却できたら、インフレを鎮圧するのが望ましい。しかし、そのためには、相当の不況を覚悟しなければならない。そこで、占領軍の権威を使った?
直接税中心の近代的体系にしたのは、シャウプ改革ではなく、それより9年前の40年度税制改革「馬場税制改革」だった。法人税の新設、給与所得への源泉徴収(ドイツのパクリ)導入。これによって、製造業などの近代的産業に対する課税が可能に。日本の税制は、89年の消費税導入以外、変化なし。シャウプ勧告が修正したのは、青色申告を導入し、小規模事業者を懐柔したことくらい。
給与所得税は源泉徴収だけで決まってしまうため、サラリーマンは税制に関心を持たず、政治にも無関心になる。
日銀の権力増大。その背景は、企業に対し銀行が貸付けを行うために、預金だけでは需要を満たせず、日銀に借入れを仰いだ。そこから間接的に、銀行の貸出しを「統制的割り当て方式」によって統制。(=窓口規制)現在は、「価格調整」によって財の分配は決められる。
この「窓口規制」は、企業が海外で資金調達したり、資産保有者が海外で資金を運用したりすれば、金融統制は成り立たない。したがって、戦後の日本では、32年「資本逃避防止法」を引き継いだ49年「外国為替及び外国貿易管理法」によって、金融鎖国が行われた。
54 年「造船疑獄」:造船会社の贈収賄となるリベートを創出としたのは、開銀融資が、郵貯などを原資とする資金運用部からの借入れで成り立っていた「財政投融資計画」。この体制下では、最も弱い金融機関が存続できるように、貸付利率その他の条件が決められている「護送船団方式」ため、体力のある銀行には超過利潤が発生。この点、資金運用部は利潤を得る必要がなく、市中金利より低利の融資が可能。
政治の「55年体制」は、経済における戦時体制の一部。戦後の二大疑獄である「昭和電工事件」、「造船疑獄」は政府系金融機関の融資をめぐるもの。
「比較優位原則」に加えドッジの制約から導かれる当時の主流は、軽工業維持であり、現状維持。「伝統的な均衡財政主義」(大蔵省)、「豊富な労働力を活用する繊維・雑貨などの軽工業で外貨を稼ぐ」(一萬田日銀総裁)
これに対し、異端としての池田内閣の「所得倍増」は、長期発展を目指す重工業化であった。
重工業化の財源は、税ではなく、「財政投融資」(郵貯→資金運用部→輸銀・開銀→企業へ)。
利点
①一般会計の負担がないために、均衡財政が維持できる。
②国会の議決対象ではなく、政治家を排除できる。
③天下り先が確保でき、官僚集団の若さを維持できる。
「商工省人脈」・「統制派」・「岸・椎名ライン」は産業の国家統制を志向した。「企業は利益を目指してはならない。私企業は公共化する。不労所得で生活する特権階級を許してはならない。」
このときに作られた「統制会」が戦後の業界団体となり、統制会の上部機構である「重要産業協議会」が「経済団体連合会」となる。
高度経済成長
53 年「電化元年」以降、耐久消費財が先導する経済成長過程が始動。電気機器の生産増→電力の消費増→鉄鋼生産増となる。こうして日本経済は特需依存経済から脱却し、高度成長の軌道に乗った。民間設備投資の年増加率は25~35%。したがって、「日本の高度成長は外需依存で実現した」のではなく、基本は国内市場の拡大。
90年代以降の中国の、外資企業が輸出中心で生産を拡大させた成長パターンとは異なる。
国際収支の制約があったので、国内景気が過熱すると外貨準備が減少する。そのため、金融引締めで景気を調整する必要があった。すると輸出ドライブがかかり、再び景気が回復する。
「1000億円減税」に支えられる耐久消費財への需要は、所得を超える伸びで増加する。つまり、「所得弾力性」が高い。→この後、マイカーブーム。
55~70年「GDPの年平均成長率」:15.6%
「純粋に戦後生まれの企業は、ソニーとホンダだけ」
「役所より役所的」体質とされる戦後の9電力体制は、戦時期に作られた。
戦前は「自動車=ビッグ3」だったのが、36年の「自動車製造事業法」によりトヨタ、日産が成長。
軍事経済を背景に東芝、日立、松下電器が成長。
官営の八幡製鉄所→日本製鉄株式会社→新日本製鉄
これらの大企業は、通産省や金融機関幹部が多数就任=一体。
「労使協調路線」の始まり
①戦時期の大株主排除により、社長=内部昇進者
②企業別労組=会社と運命共同体
「企業一家」を支えたもの
①正社員増=法人税減
②社宅建設・維持費=損金
65年の証券危機をもたらした日本の証券市場
この時期の日本の増資は、株主に額面で割当てる方式中心→not「利益」but「成長」を志向(支配力の増大=天下り先の確保)
「成長」が企業���唯一の目的に。
「額面増資=資本調達×」であるため、銀行依存。むしろ、インフレ状態では、企業側が借入れを望んでいた。
国際的地位の向上
企業は株主の影響外にあり、利益を追求せずひたすら規模の拡大を求める。大地主や大資産家は存在しない。土地は膨大な数の零細地主が保有する。そして、国家財政が農業や中小零細企業などの低生産性部門に補助を与える。こう整理してみれば、戦後の日本経済は、社会主義経済に他ならない。
なぜ、地価が上昇したのか。それは、土地が資産になってしまったから。「利用するために保有するのではなく、保有それ自体が目的で保有する」ようになったから。資産として保有するならば、売りやすいように低度利用にとどめる。つまり、土地は有効活用されない。さらに、
①税負担の軽減
②供給が極少
③実質資産が土地のみ
年金制度は、「あとの世代が先の世代の年金を支える」制度、つまりねずみ講。社会保障制度も戦時経済の産物。国民年金は、61年。
そして、所得税の大減税(最低115→170万円に)が73年に。
この二つ「社会保障制度」・「給与所得控除」が財政問題の基本。
石油ショック(73年~)
「物価も上がるし失業も増える」=「スタグフレーション」
イタリア・イギリスでは、「為替レートの減価→輸入物価引上げ→国内インフレ→賃金押し上げ」
そして、76年にはリラ危機・ポンド危機に。為替レート減価の好影響の遅さを「Jカーブ効果」という。
一方、日本では、「賃金上昇圧力が低い→輸出増大→経常収支黒字→為替レート増価→インフレ抑制→不況克服」
しかも、日本の小型車が、ガソリン節約によいとして、アメリカ進出が進む。
欧米諸国では、物価スライド条項を含む賃金協定が普及していたので、インフレが亢進すると、賃金が上昇する。したがって、不況であるにもかかわらず賃金が上がる。これがスタグフレーション。
石油ショックへの対応において、日本は世界でもっとも優れた成果をあげた。これは企業別労働組合と企業一家主義という、戦時体制的企業構造がもたらしたものだ。石油ショックはある意味での戦争なのだから、戦時システムがうまく機能したのは、当然。石油ショックは、戦時体制を温存させたばかりでなく、強化する結果となった。
石油ショックがなければバブルはなかった。
バブル(「利用するため」ではなく「持つため」)~球根、株式、土地~
部外者が見れば、あるいは後になってから省みれば、馬鹿馬鹿しい限りの投機騒ぎなのだが、渦中にいる人には、それが分からない。
人々は、バブルの渦中にいるとき、それがバブルであると認識することはできない。バブルが崩壊して初めて、バブルであったことを知るのである。
国を挙げて人々が投機に狂奔するという事態が、歴史上いくつも起こった。その共通点は「当時の経済的新興国に生じたこと」だ。オランダのチューリップ、イギリスの株式、アメリカのフロリダの保有地。他国を追い越して経済的な地位が高まると、それが際限もなく続くという期待が膨らむ。
83年頃に、東京都心で土地の買占めが始まっ���。
88年に政府が「国土利用白書」で「東京圏を中心とする地価上昇は実需による」とした。
バブルの背後には、未曾有の金融緩和
①アメリカとの経済摩擦(対日赤字による)
②85年「プラザ合意」:ドル安と円高・マルク高を容認し、アメリカの赤字解消を目指す国際協調の為替コントロール
③輸出産業の保護のための金融緩和、公定歩合が戦後最低値に
実質的に、86年には景気は底打ちしていたが、87年「ブラックマンデー」により日銀は利上げが不可能に。
「カネを右から左に動かすだけで儲かるなんて、そんな馬鹿なことが起こるはずがない。もし起こったら、どこかが狂っている。」
企業の「財テク」:転換社債・ワラント債・株式からの資金調達で金融収益を上げる。
バブルは、実は戦時経済システムの最後のあがきだった。
間接金融から直接金融へのソフトランディングが必要とされていた。つまり、「銀行が要らなくなった」が、生き延びようとした。これがあらゆる矛盾の原点だ。
住友銀行は首都圏に殴りこみ。長期信用銀行(日本興業銀行・日本長期信用銀行・日本債券信用銀行)は、本来の役割を離れて、中小企業や不動産向けの融資にのめりこんだ。
大蔵省は同じ失敗「条件が不適切に設定されれば、市場は暴走する」を繰り返している。
71年「ニクソン・ショック」:外国為替市場を開いたままにして、巨額の投機に見舞われた
85年「プラザ合意」:為替介入により、市場をコントロールできなくなった
バブル期:財テクの放置
都市的用途に使われている土地面積は、日米で大差がない。日本にも土地はあるのだが、資産として使われているために、本来の目的に使用できる土地が不足する。実際、日本の都市における土地利用密度は、著しく低い。
人口増加率が長期的に見て低下してゆくことは、この当時から分かっていた。だから、土地に対する需要は長期的には減少するはずであり、地価が上昇し続けること自体が、本当はおかしい。もし固定資産税や相続税の負担が適切なレベルに設定されていれば、保有コストが上昇し、資産としての土地の有利性は減殺されたはず。
歴史上何度かバブルが発生したが、その対象は、株、チューリップ、リゾート地などであった。これらは、買いたくなければ買わなければよい。つまりバブルが発生しても、その局外に身を置くことは可能だった。
しかし、土地バブルではそうはゆかない。住むために、あるいは事業をするために、どうしても土地が必要だからである。日本のバブルは、金儲けに興味がない人も含めて、あらゆる人々をいや応なしに巻き込んだという意味で、歴史上もっとも悪質なバブルであった。
およそ何が不道徳といって、勤勉に働くことが正当に報われず、虚業と浮利と悪徳商法が際限ない富がもたらすことほど不道徳的な事態はない。これは人間の尊厳を傷つけるものだ。
バブル崩壊
株価暴落は戦後の日本でも何回かあった。(スターリン暴落、昭和40年証券不況、ニクソン・ショック、ブラックマンデーなど)
しかし、地価下落は、石油ショック直後の異常時に1回あっただけ。
株と違って、土地は簡単に��ったり買ったりはできない。だから反応が遅れただけ。
硬直化した組織は、突撃はできるが、撤退はできない。
長銀は92年においても、初島リゾート施設の融資を急拡大している。
日本の戦後経済は、表向きの成功の裏に、部外者には殆ど分からない歴史がある。造船疑獄で垣間見たそれは、指揮権発動で真相が覆い隠されてしまった。バブルで企業の生体解剖が行われ、銀行本来の目的から大幅に逸脱した利益追求行為、ルール違反、不正取引、裏の世界への莫大な利益供与、などなどが明らかになった。損失が生じても子会社などに付け替えたため、外からは実態が分からなかった。
企業は、犯罪に手を染めていただけではなく、闇の世界と密接に結びついていた。
バブルとは、銀行と証券会社が主導して引き起こし、それらが深刻な損害を蒙る過程だった。
終身雇用の閉鎖的組織では、メンバーが自らの判断で行動しうる余地は、驚くほど少ない。終身雇用は、会社が発展するときは、全員がその利益にあずかれる仕組みだ。しかし、組織が逆回転を始めると、そこから抜け出せなくなるという恐怖の仕組みでもある。
日本の一人当たり国内総生産はヨーロッパの中位くらいのところまで落ちた。
「イトマン事件」をきっかけとするかのように、富士銀行赤坂支店の「巨額不正融資事件」、日本興業銀行もかかわった「尾上縫事件」などの金融不祥事が立て続けに発覚。
他の企業や金融機関でも、類似の問題が進行していた。
担当者はなぜ進んで罪をかぶろうとするのか。トップを守り通せば、会社が最後まで面倒を見てくれるから。
逮捕された企業側の関係者の大半は、関連会社などに雇用されている。これが多くの日本企業の本質。
金融危機
当時自己資本4000億円の山一證券は、2600億円の簿外損失を抱えていた。
最後の社長、野澤正平の選考条件は「簿外損失を知らない」こと。
「営業特金」(山一以外も行っていた)
全ての元凶。法人の資金を一任勘定で預かり、運用するもの。自由に売買できるので、手数料は稼ぎ放題。証券会社はこれを相場操縦にも使った。法人側は一任勘定で預けるので、利回り保証を求めた(正式な契約ではない:「ニギリ」)。
「飛ばし」
含み損を抱える株式を、他者に一時的に引き取ってもらうこと。
「宇宙遊泳」
どこが振り出しかが分からなくなってしまうこと。
損失隠しの本質は実に簡単。損失を子会社に移すだけ。米エンロンもこの手法を用いたし、2006年末に発覚した日興コーディアルの手口も同じ。
特金の解消
①顧客先企業が引き取る(野村)
②顧客先企業が引き取るが、損失は証券会社が補填(大和・日興)
③証券会社が引き取る
④証券会社が引き取り、簿外で処理(山一)
日本長期信用銀行
「金融債」が発行できた。戦後の日本では、債券形態で資金を調達できる企業は、日本電信電話公社と長期信用銀行など、ごく少数しかなかった。こうした独占的地位を利用して集めた資金を、設備資金不足に苦しんでいた基幹産業の企業に融資した。だから天下りができた。
長銀は80年��の「銀行離れ」の中、一度は投資銀行路線を目指したが、融資重視の伝統的銀行業務路線に復帰する。その後、EIEをはじめとする中小企業・不動産融資の拡大とバブルの崩壊により、グループ全体の不良債権額が、2兆4000億円を超す。にも関わらず、不良債権の担保不動産に新たな資金をつぎ込んで生かし続ける「ゴーイングコンサーン(事業継続)」や、受け皿会社を用いた不良債権隠しなど、山一に同じく隠蔽を画策する。
これに公的資金1766億円の投入を経て、破綻する。
そして、国有化の後、米リップルウッド・ホールディングスに譲渡、「新生銀行」として営業再開となる。
18ヶ月間の特別公的管理期間中に投入された公的資金は約6兆9500億円。あおぞら銀行(旧日本債券信用銀行)とあわせると、11兆円超の公的資金が投入され、約7兆7622億円の国民負担が確定した。2行を含め、破綻金融機関の処理で確定した国民負担総額は、03年までで10兆4326億円。国民一人当たり8万円。
加えて、公的資金は預金保険機構からの支出で行われ、投入時にはどれだけが国民負担になるかが分からない。
生き延びた銀行は、合併を繰り返して巨大化し、潰れにくくなった。しかし、それによって日本の金融システムが本当に生まれ変わったわけではない。極端に言えば、銀行の名前が変わっただけのことだ。
バブルの効果とは、「誰かが損をして誰かが得をした」というだけのもの。
バブル崩壊前の日本の税制では、貸出先が破綻せずに存続している限りは、損金扱いを認めなかった。損金とせずに償却することを「有税償却」という。
しかし、不良債権の処理を本格化させるために、一定の条件の下で、「貸出先が破綻していなくとも損金扱いを認める」ことに。これを「無税償却」という。
90年代以降、法人税収は激減したのだが、その大きな原因の一つは、ここにあった。
公的資金とあわせ、国民全体で約49兆円、一人当たり約38.5万円がバブルのつけ。
日本の金融機関の基本的な体質は変わっていない。
経済条件が整えば、バブルは必ず再発する。
未来に向けて
現在でも、資本面から見ると、日本は鎖国しているとしか言いようのない状態だ。海外からの直接投資残高のGDPに対する比率は、わずか2.2%に過ぎない。イギリスが33%であるのと比較すると、あまりの違いに言葉を失う。
政府と金融機関が弱体化したにかかわらず戦時経済型企業が強くなった理由は、90年代以降の経済政策の基本が、低金利・円安政策だったことだ。輸出志向の重厚長大産業が生き延びた。
戦後日本社会には、「上流階級」が存在しなかった。
~略~
一般にインフレは、中流階級に深刻な打撃を与えるものだ。上流階級がインフレで一掃されたのは、世界の歴史で珍しい事態である。そして、暴力革命によらず上流階級を排除できたのは、世界史上に例のない刮目すべき事件である。
冷戦が終結したいま、日本はキューバと並んで、世界最後の社会主義国になっている。
市場原理に対する批判は、通常では(生産面ではなく)分配面に対してなされる。市場原理では生産における寄与に応じて分配がなされるのだが、それが「不公平」だと��「卑怯」だとして非難されるのである。戦後の日本社会では、財政を通じる再分配が働いたために、こうした批判が最小限に抑えられた。
この体制はあまりに長く続いたので、多くの日本人は、それがいつまでも継続しうる安定的な大勢であるかのような錯覚に陥り、むしろ市場経済に違和感を抱くようになっている。
戦時体制は維持できない。
①バブルの存在
②安価な工業品を提供する中国の存在
技術が経済制度を決める。戦時体制が確立されたときの日本では、大量生産の製造業がようやく確立されつつあった。このような経済活動で重要なのは、創意ではなく、規律である。全員が共通目的の達成を目指して同じことをやるのが望ましい。そのために「戦時経済体制」である。
90年代以降の情報技術の変化は、このパラダイムを根本から変化しようとしている。分散型情報システムが進歩すると、分権型経済システムの優位性が高まる。したがって、計画経済に対して市場経済の有利性が増し、大組織に対して小組織の優位性が高まる。
~略~
全体主義的・集権主義的政治システムは、新しい技術環境では、効率が下がるだけでなく、生き延びることすらできない。
~略~
社会主義国家の崩壊は、情報技術の転換とほぼ同時期に起こっているのだが、これは偶然ではなく、必然だった。
日本が新しい技術パラダイムで発展できない理由
①サービス業(言葉の壁)⇔製造業(言語無関係)
②「お上」意識
ちなみに、分権的社会においては、宇宙開発のような大規模プロジェクトに資源を集中するのは困難だ。宇宙開発がいまにいたるまで停滞しているのは、当然である。
自由と必然
「もし万人の意思が自由だとするなら、つまり、人はだれでも欲するままに行動できるものとするならば、およそ歴史などというものは、なんらの関連もない偶然の連続にしか過ぎない。」
「もし人々の行動を支配する法則がたとえ一つでもあるとするならば、自由な意思というものはありえない。なぜなら、その時は人々の意思はこの法則に従わなければならないからである。」
歴史家の意図は、多分「なんらの関連もない偶然の連続」を作ることではなく、歴史を動かす運動法則を見出そうとしている。しかし、それは未来への希望を押しつぶす。なぜなら、未来の経路がすでに決まっているのだとすれば、「未来を主体的に選択する」などとは、愚かしいたわごとに過ぎないからである。
~略~
歴史が必然法則にしたがって動くのであれば、そこから「教訓を汲み取る」など、原理的に不可能なことだ。
投稿元:
レビューを見る
20110217読了
大学院の専攻で、元通産省の官僚が行う授業があった。そこで、日本は社会主義国家であることを、戦後のGDPの伸び率と平均給与の伸び率の差のグラフによって、教えられた。目から鱗が落ちた。しかし、そこでは"なぜ"を問わなかった。本書は、その"なぜ"、なぜ日本が社会主義国家になったのか、という問いにこたえてくれた。
1940年の戦時体制経済がバブル期まで続いてる、という新しい切り口に興奮した。戦後すぐに資本家と労働者の間で官僚主導の無血革命があったこと、日系企業が利益ではなく売り上げ至上主義である理由、日本では職域労組ではなく企業別労組である理由、この三点が鮮やかに説明されていて個人的に驚いた。特に一点目は、現在、団塊の世代以上とその下の代で相似な構図ができている気がするので、現状に落として考えてみたい。
驚きが多くて批判的に読めなかったので、また読み直す。
投稿元:
レビューを見る
現在の経済システムが戦時中構築されたものであるという考えのもと戦後日本経済を分析している良書。経済史の本としても優れているため、一読の価値はある。
投稿元:
レビューを見る
一般的な認識では、戦後の日本は、占領軍によって導入された経済民主化改革具体的には、農地改革・財閥解体・労働立法によって出発した。軍事国家から平和国家に転換した日本は、生産能力を軍備の増強ではなく経済成長に集中できた。さらに、追放によって戦時中の指導者が一掃されたため、若い世代の人々が指導的な立場についた。こうして、日本は世界でも稀にみる高度経済成長を実現した。
これに対して、本書はまったく異なる歴史観を提示している。それは「戦後の日本経済は、戦時中に確立されたスキームに従って運営されていた」というものである。
とくに重要なのは、戦時経済の要請から確立された間接金融体制(企業が資本市場からではなく、銀行からの借り入れによって投資資金を調達する仕組み)だ。これによって、企業は資本の影響や市場の圧力から開放された。内部昇進者が経営者になる慣行が確立され。企業は従業員の共同体となった。この体制は、高度成長を実現しただけでなく、石油ショックの克服にも本質的な役割を果たした。
しかし、この体制は技術の変化、時代の要請に対応できていない。これは原理的・構造的にそうなのである。いまだ、日本経済の中核をなすのは自動車産業、鋼鉄、電機など、戦時期に成長した産業ばかりである。こうした現状はいまのところ変わりそうにない。日本の内側から変革をという方法は極めて困難であるならば、若い私たちが海外に出て、外側から圧力をかけていくことが、結果的に日本のためになると考える。
投稿元:
レビューを見る
第二次世界大戦後、日本経済は歴史上かつてない高度成長を遂げた。筆者は、「戦後の日本経済は、戦時期に確立された経済制度のうえに築かれた」とする。それは、戦後の日本の経済の仕組みはGHQにより築かれた、とする従来の通説とは異なるものである。「戦時期に確立された経済制度」のうち、最も重要な役割を果たしたのは、企業へのファイナンスの仕組みである、と筆者は主張する。すなわち、これは検証可能なことなのでもあるが、日本企業は資金調達を、直接金融市場(株式市場)ではなく、間接金融(銀行からの借入)でまかなってきたところに大きな特徴がある。結果、企業は株主の影響力や市場の圧力を逃げることが出来、終身雇用や年功賃金や経営者の内部昇進制度などの日本企業独自の制度をつくりあげることが出来、それが高度成長を推進するひとつの原動力になった、という主張である。この仕組みは、重厚長大型製造業(自動車や鉄鋼や化学工業など)の発展には大きな威力を発揮した。しかしながら、産業構造が変化し、ITやバイオや金融といったソフト型産業(そこでは、チームワークとか会社一丸となった動きとかではなく、突出した個人やチームの業績が重要)が主流の、現代の経済にマッチした仕組みではなく、ゆえに、日本という国は現在、長期低落傾向にある、とする主張でもある。また、上記の銀行を通じての企業へのファイナンスは、具体的には長期信用銀行や日債銀などの、政府系銀行が主体的な役割を果たして行われた(特に戦後、日が浅いうちの大型投資は)。すなわち、これによって、政府は「育成すべき産業」とそうではない産業を決め、育成すべき産業に優先的に、低利の融資を行うことにより、日本という国の産業構造を間接的に、ある程度コントロールすることに成功したわけである。これは、ある意味、統制経済、もう少し大胆に言えば、社会主義経済に近い概念の経済の仕組みである。この仕組みは、バブル崩壊⇒政府系金融機関の崩壊により、維持できなくなり(金融機関が崩壊しなくても、仕組みとしてうまくいかなくなっていたであろうけれども)、制度自体の崩壊をもたらすことになった。以上が本書のおおよその主張だ。なるほど、面白い、というのが一読した感想。非常に説得力のある主張である、とも思う。問題は、ではどうするのか、ということである。結局のところ、資本(株主と言っても良い)や市場の圧力に企業がさらされ(製造業は既にインターナショナルに競争していて、自動車などは国際的な勝者でもある。ここで言いたいのは、銀行や小売など、従来、国内競争のみで済んでいた産業に属する企業のこと)、それを勝ち抜いていく工夫をすることでしか、達成されないのだろう。或いは、勝者が日本企業である必要は特になく、これら産業に競争力のある欧米系企業が日本で事業を展開し、産業としての競争力を上げていく、でも良い。いずれにせよ、そのためには、経済に対する政府の関与を出来るだけ少なくすることだ、と私は思う。日銀総裁の人事が政争の具になっている現状では、望むべくもないだろうけれども。
投稿元:
レビューを見る
本書は、戦後の日本経済は戦時期に確立された経済制度の上に築かれた、とする歴史観を提示されている。戦時経済の中で、資金を軍需産業に集中させるために間接金融体制がとられた。終戦後、既得権益者の策略とアメリカの日本への無理解と中途半端な経済改革が、このシステムを生き残らさせた。これによって企業は資本の影響や市場の圧力から開放され(ある意味社会主義経済)、高度経済成長を担った。また、この統制力のあるシステムは石油ショックへの対応において優れたパフォーマンスを示し、このシステムの継続が助長された。一方で、1990年代以降の技術体系に本質的な変化(量から質)が生じ、このシステムは機能不全に陥った。依然、日本企業は閉鎖的であり、市場の要請が経営に影響を与えにくい状態が続いている。以上の認識を読者に示し、事の深刻さについて理解を求めているのが本書の意図。安易な解答は書かれず、冒頭に記載した歴史観を軸に事実を連ねられた良書だと思います。歴史を振り返りかえることによって日本人の典型的な思考体系を理解でき、新しい技術体系への適応について考えさせられる興味深い1冊。
投稿元:
レビューを見る
そもそも戦後の官僚組織と考えられていたものは、実は戦中の官僚機構の延長だという考え。
なるほど。そう考えると規制を廻らせることばかり考えている役人の種がわかった気がする。
投稿元:
レビューを見る
戦後の日本経済(高度成長、石油ショックの乗り切り)は戦時期(1940年)に確立された経済制度の上に築かれたという立場から時系列にまとめられた一冊。財政金融制度(間接金融、金融統制、直接税中心、公的年金制度)、日本型企業((資本と経営の分離(内部昇進者)、起業と経済団体、労働組合(起業別の労使協調、産業報国会が母体、他国は産業別))を挙げていく。メモ。(1)軍需省→商工省→通産省の歴史的流れは発見。(2)池田勇人の所得倍増計画、1955~70年のGDPの年平均成長率15.6%の舞台裏(均衡財政論者から積極投資論者に。打ち出の小槌としての財政投融資の財源活用)。途上国の成長の流れの中で伝統的な重厚長大の強みを活かしつつ、分散型への時流(not集中型)も活かすのか、という二つの問いへの回答を考えさせられる一冊。
投稿元:
レビューを見る
本書は、「戦後の日本経済は、千時期に確立された経済制度の上に築かれた」という著者の歴史観(1940年体制論)に沿って描かれた戦後日本経済史である。本書を読んで、その歴史像は概ね妥当であると感じた。元大蔵官僚としての著者の実体験によるエピソードも盛り込まれていて興味深かった。
ただ、著者の私見が結構多く、なかでも、戦後日本の平等社会のコストとして、「戦後日本社会は、凡庸・低劣で俗悪極まりない大衆文化しか生み出せなかった」と主張しているが、これは完全に著者の偏見だと感じた。