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ニューヨークの街を歩きながら、精神科医が徒然に思い考えたこと…
アフリカ出身であること、ドイツ人の母のこと、祖母のこと、差別、移民問題、それらすべてが現代だけでなく過去の歴史(アメリカ開拓時代のインディアンのことや奴隷制度のこと)と折り重なるように去来してくる。
見知らぬ街、見知らぬ不安。
私にはひどく読み辛い本だった。
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ニューヨークの徒然草もしくは枕草子。社会問題や文化的要素などニューヨークを散歩しながら、色々と言及。
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『二〇〇一年秋の、生存の望みが消えた殉職者たちの名があり、その数年後に亡くなった人たちの名もあった。さらにその下の艷やかな大理石に広い空白があった。今制服を着ていて死ぬ者たちとこれから生まれて警官として殉職する者たちを待っているのだ』
語られる言葉が意味するものと意図するものの乖離。字義通りに受け止めるべきなのか、そこに隠された意図を読み取るべきなのか。例えば、心の病を抱える人が訴える悲劇的な出来事は、実際に起きた物理的傷を負わせる事象だったのか、それとも心的障害が産み出す幻覚なのか。自分が告発される側に立たされる過去の罪は、本当に自分が犯したことなのか、それとも自称被害者の妄想なのか。そんな構図が幾重にも積み重ねられた小説であることが徐々に見えてくる。それがニューヨークに暮らすナイジェリア産まれのドイツ人の母を持つ主人公の抱える闇の深さと急に結び付き頭を殴られたような衝撃を静かに感じる。
例えばthreadという動詞が意味するように時間と空間を自由に繋ぎ合わせる文体は、翻訳者のあとがきにもある通りW.G.ゼーバルトやマイケル・オンダーチェを彷彿とさせる。とりわけゼーバルトの小説を彷彿とさせる既視感は執拗に投げ込まれる史実と虚構の混在から生じる。語られる記憶は、あたかも実際に起きたことのように(例え小説という枠組みの中であったとしても)語られるのだが、記憶というものは甚だしく曖昧で、辻褄の合わない部分は速やかに創造されてしまうもの。その境目を意識せずに受け止めれば内部から沸き起こる鈍い恐怖に蹂躙されることになる。一つの記憶は引き出される度に間違った棚に戻され、何時しかその棚の分類項目に溶け込み変容し、フォルダの文書たちと一つに混じり合う。詳細が積み重なる程に変容した記憶は事実と見分けがつかなくなり、その創作は静かに深く体内に侵入し、時を経て悪寒めいた感覚を生み出すのだ。
かつてエーコが言ったように、開かれている(オープン)ということは、そこに何を読み取っても良い、ということも意味してしまうだろう。それをテキストではなくシティの前に置くと、何も特別なことではなく、むしろありふれたことだと解る。例えば、見知らぬ街を訪れる時、見た目やそこに記された文字から、勝手に印象を作り上げることをしてはいないか。この小説は全般にその私的解釈の積み重ねを淡々と述べ続けているだけのようにも見える。多くの人々が見向きもしない史実がそこに、文字通り埋もれて地層を形成していると言わんばかりに。肌の色が人々に与える輻輳した印象と多重露出するように、あるいは重ね合わせることが無意味だと言うように。しかし歴史家のような視点で語る主人公の言葉もまた開かれる宿命にあり、作家は読者の主人公に寄せる信頼を大きく揺さぶり、またしてもゼーバルトを思い起こさせる既視感を生じさせるのだ。
appearance and meaning of reality、ふとそんなフレーズが頭の中で浮かび、念仏のように何度も木霊する。
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アフリカ系の若き精神科医が、ニューヨークの街を彷徨う。
自分の心身を落ち着かせようとするかのように、日々歩き進める。家族との確執、過去と現在、アメリカの歴史的背景などが交錯する。
アイデンティティや世界の多様性について考えてしまう。
面白かった。
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NY マンハッタンを主な舞台とした「遊歩者」の小説。ドイツ人の母、少年時代のナイジェリアが心の影にある。街を歩きながら思うこと、記憶、情景から歴史やについて考えること。
少々退屈で読むのを止めようと思いつつ結局読了。去来する想いが何処かへ静かに向かう。読了してもしかとどことは言えないのだけれども。
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表題はアメリカ合衆国のことだと思う。表紙に描かれている鳥のように様々な地域から人間がこの地にやってくる。主人公は夕暮れを好んで散策する。偶然に出会った、同じ肌の色のアフリカ系の他人に「今私がここにいる理由」を告白される。実にうまい構成だと思う。その国に産まれたというだけで、理由なく迫害されたり内戦で住む場所を失ったり。読んでいて結構しんどい内容だ。これを前面に押し出した書き方の場合、自分は手に取りたくないと思うが、そこはうまいことケンタッキーのチキンポットパイのように加工して作ってある。
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https://unleash.tokyo/2018/04/25/opencity/
ナイジェリア出身のアメリカ人精神科医が、街をそぞろ歩きながら博学的な事柄を述べ続ける。
話題は主に黒人に対する差別やアメリカの迫害の歴史などに及ぶ。
もっともなことを述べ続けるのでとても退屈である。(楽しいという人もいる)主人公はさぞかしまともな人物なのだろうなと思いながら読む。
しかし後半で非常に重大な事実が明かされる。主人公は知人のナイジェリア人女性を子供の頃に暴行したという。
主人公はまるでそのことがなかったかのようにまともなことを述べ続けていたわけである。
つまり読者はもっともで退屈な内容と見せかけて、主人公が自分の罪悪感などの感情を覆い隠す行為を読まされていたわけである。
読書体験としては斬新だが、騙されたという印象が強い。
こんな本ばかりになっては困る。
ちゃんと読めていない部分ではあるが、主人公が散歩を始めたタイミングが、友人にレイプを告発された後なのだろうか?
オープンシティとは無防備都市のこと。
ベルギーのブリュッセルがそうであり、感情を放棄した主人公自身がそうであるということか。
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人がある街を住処とするとはどういうことだろうか。
特に当てがあるでもなく街をそぞろ歩くにつれ、徐々にわいてくる愛着というものがある。
同じ道を歩いていても、どこかに発見があるものだ。なめるように歩くうち、馴染んだはずの街角に、ふと新しい顔が覗く。昨日は咲いていなかった花の香りがするかもしれない。新しく引っ越してきた人の気配がするかもしれない。
旅先で歩くのも物珍しくて楽しいけれど、住み慣れた街の散歩には、独特の魅力がある。
日常としての散歩のリズムは、思考を遊ばせるのにも最適だ。集中して、論理立てて考えるのではなく、ふと思い浮かぶ、忘れかけていた事柄に再会するのもまた、散歩の楽しみともいえるだろう。
主人公はニューヨークに住む精神科医である。
ふとしたきっかけで、彼は黄昏時の散歩を日課とするようになる。
逍遥しながらあれやこれやと思いを馳せる。
故郷のこと、家族のこと、友人のこと、過去の恋人のこと。
それらがニューヨークの景色と混ざり合い、心象風景を描き出す。
ここに描かれる詳細なニューヨークは、街をよく知る人にはおそらくその通りの姿なのだろう。一方で、どこの街であってもよいような無国籍な雰囲気も漂う。
それは主人公、ひいては著者自身がナイジェリア出身であることにもよるのかもしれない。
彼がもしも東京を選び、東京に住んでいたならば、やはり同じようにそぞろ歩き、あれこれと想起していたのではないだろうか。
表題の「オープン・シティ」には2つの意味があるという。
1つは、「開かれている」「オープン・マインド」といった意味合い。
もう1つは、「無防備都市」「非武装都市」といった意味合い。非武装宣言することで侵略軍に降伏して破壊を免れた都市を指す。
舞台となっているニューヨークは9.11を経験した後である。その街に対して「無防備都市」というのはいささか皮肉なようにも思うのだが、このタイトルが読者に思い浮かべさせることも含めて、著者の思惑なのかもしれない。
主な舞台はニューヨークではあるが、そこにはとどまらない。ブリュッセルやナイジェリアもまた描かれる。
主人公はただ歩いているばかりではなく、さまざまな人々とも出会い、交流する。
国をまたいで移動する彼の姿はコスモポリタン的でもある。彼が交わる人の中には、人種差別的な経験をした人もある。
人々は移動し、世界は揺れ動く。多民族都市に住む、多くの孤独な人々。伝統もしがらみも彼らを縛らない。けれども彼らが得る自由は、彼らが夢見た自由とはどこか異なる、ざらつきを伴うものであるようだ。
読み進めながら、主人公がニューヨークに住むナイジェリア人ということで、彼が「虐げられる側」の人であると知らず知らずのうちに思い込んでいた。
けれどもことはそう単純ではない。
もちろん、彼は医師でありエリートであるのだが、それだけではない。終盤で、彼は昔の悪事について糾弾される。そして物語は不穏な幕切れを迎える。
ラストの解釈はなかなか難しいが、彼が過去に犯した悪事は、MeToo運動を思い起こさせる���のであり、現代社会の歪みを映しているようでもある。
巻末の解説によれば、著者は写真家でもあるそうで、そういわれると全体に映像的な印象も受ける。ニューヨークの街角の風景もそのまま映画になりそうである。
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この本を読んで思うのは、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』にも共通する、2001年の同時多発テロの余波についてだ。正直言うと、時代の影響や空気を強く受けすぎているためか、評判は良いようだが、私個人としては面白い話ではない。むしろこうした小説は日本の私小説に近いような気がする。文学的な価値よりも史籍的な価値の方が高い印象が強く、その時代の空気を知りたい人向けの書籍ではある。もちろん、技法に拘泥せずストイックに体験を書き連ねることはとても良いのだが。ゼーバルトに近いのは非常によくわかる。
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勾留施設にいた若者のアメリカに来た経緯の話が壮絶だった。自分にとって現実的ではないけれど、彼にとっては現実だ。世界は広い。
出てくる人物の思慮深さに自分はあまりに幼稚だと思った。
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ニューヨークで暮らすナイジェリア系ドイツ人移民で精神科医のジュリアスの目を通して、風景と移民の記憶が重なり合い、都市に生きる人々の営みが立体的に描かれる。そこには隠しきれない支配や暴力の歴史、見解の相違も見え隠れする。
内省的で静謐な眼差しは「知的」なようで、私には傲慢に感じられ、鼻につくような不愉快さがあった。過去に関わった少女たちへの眼差しは特に。
人間の内面は複雑だ。なにかに出会い、別れ、常に揺れ動く。
複雑なものを複雑なままに受け入れる。