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台湾で生まれたが3歳から日本に住み、日本語で話し読み書きする自分の「国語」「母国語」とは一体なんだろう、と考え続ける。
その台湾自体がこれまでに国としてのアイデンティティである「国語」を日本語・中国語を公用語として強いられてきた歴史がある。祖母の世代は日本語を話し、母親の世代は中国語を話す。そして、自分は祖母と同じ日本語を話すが、それは母にとってどういうことなのか。
また、日本統治時代に書かれた台湾人による日本語の小説について考えるとき、自分が日本語で書くことにどういう意味があるのか考える。
立ち止まって考えるのではなく、先へ進みながら考えているのが伝わってくる。
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近年台湾人と多く接する機会があるものの、台湾について実はよく理解しておらず。同じような人がいたら、おすすめの本です。語学的視点からも、いろいろ考えさせられます。これを読んでいる最中にこの度の台湾地震が起き。作者もきっと心配しているはずでしょう。一刻も早く救助と復興が進むことを願ってやみません。
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言語はアイデンティティーの重要な要素だが、著者は母国と言語との不一致に悩む。
母国である台湾は過去に正式な母国語が何度も強制的に変わって来た。
著者の祖母は強制的に習わされた日本語で孫である著者と話すことを純粋に楽しんでいるように見えた。
著者は最後には何とか気持ちの整理をつけたようだが、これからも気持ちは変遷していくのだろう。
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祖父母は日本語、父母は中国語を強要され、その子供である筆者は台湾生まれの日本育ち。母よりも祖母と日本語でコミュニケーションが取れる筆者が母国語とは何だろうと考えつつ自身のルーツを探ります。
台湾語も中国語も全く話せない私は、おじいさんとは日本語でコミュニケーションが取れるけれど、英語は公共機関でしか通じないのでかなり苦労しますが、台湾は大好きで毎年行きたくなります。
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面白かった。他の本の紹介もあったので読んでみようと思う。李良枝とか呂赫若とかノーマ・フィールド、オルガ・トカルチュクとか「大日本帝国のクレオール」とか。
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いままで知ろうとしなかった台湾がそこにあり
母語であろうと母国語であろうと言葉で表現することの難しさを感じ
複雑であるがゆえに磨かれた感性がうらやましくもあり
でももっと心を解き放してと応援したくなる。
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「来福の家」の前に読みましたので、小説のエッセンスを先取りしてしまった感がありましたが、小説の中にも登場する台湾語と中国語と日本語が交じったママ語の味わい方を予習できました。都立飛鳥高校の中国語クラスで中国語を学ぶ生徒たちが、「恋する惑星」などウォン・カーウァイ監督の香港映画を見て、トニー・レオンや金城武のファンになり中国語を勉強したいと話しており、クラブ活動のような雰囲気のだったと書いてありました。私が台湾に興味を持ったもの台湾に住んでいる金城武の活躍が発端だったように思います。
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三歳まで台湾で育ち、その後日本へ移住した著者。幼い頃に親しんだ台湾語と中国語。そして今使っている日本語。三つの言語の間で揺れ動く著者はやがて、国とは何か、母国語とは何かを考えるようになります。時代に翻弄された台湾という国の歴史が著者の根底を作り上げていました。自分の母国語とは何か、最後に出した著者の答に拍手を送りたくなりました。
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台湾で生まれ、3歳から日本で暮らした著者にとって、「あなたの母語は何ですか」という質問は難しいものです。自由に操れるのは日本だけれど、幼い頃覚えかけたのは両親が話す台湾語混じりの中国語。両親は家で台湾語交じりの中国語を話し、たまに混じる日本語はおかしい。学校では日本人の生徒と同じように振舞っていたけれど、街なかで中国語を耳にすると懐かしく感じる・・・。台湾人の著者が、台湾語・中国語・日本語の3つの言語のはざまで自身のルーツを探るエッセイです。
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台湾人の両親を持つ著者は、幼少期より日本で育ち、日本語を主に話してきた。
そんな著者が、言語(国語)から自身や家族、国家の歴史を紐解いていく。
戦後の植民地化により、それまで話していた言語(国語)が禁止され、宗主国の言葉を国語として話すことを強いられた歴史がある。
それは、台湾もそうである。
日本語を話すことを強いられたのである。
それ故に、同じ国に居ながら、世代間で言語格差が生じた。
著者の両親の世代は、台湾語。その両親(著者の祖父母)の世代は、日本語も話す。
日本で育った著者だからこそ、この現実を目の当たりにし、葛藤したのだろう。
言葉が歴史を表しているなどと考えたことがなかった。
言葉は意思疎通の大切なツールである。
戦争は、世代間の言語による分断をも生んでしまったのかもしれない。
言葉について、戦争について、新たな視点を持つことができた。
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国とは何か、言語とは何かを考えさせられる。彼女が使う言葉は日本語でもなければ、にほんごでもない。ニホンゴである。中国語、日本語、台湾語の間を揺れる(vacillate)ことで、自分自身のアイデンティを獲得し、自分自身の言葉を紡いでいく。その言葉は自分だけの言葉。異化された作家の言葉。外国語を話す時のアクセントの中にこそ、母国語が見え隠れする愛おしさに気付かされる。違和感があるからこそ、人は立ち止まって耳を傾けるのではないか。前回紹介したリービ英雄の教え子であり、新進気鋭の作家、温又柔。
「中華人民共和国に限りなく近い中華民国・馬祖で、わたしは、わたしのニホンゴを抱きしめている」