紙の本
国というものが実感できた
2020/12/12 07:33
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:うさぎさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
一般的に国というものを語るに、極端に中立を貫くと、イメージがなりたたない。一方嫌韓・嫌中ものでは、偏っているように思われる。ざっくりと友達にイメージで教えてもらうような感覚で、されど、きっちりとした教科書用語も覚えられる本だと思うのです。
肌感覚で国の種類がわかってこそ、わが国日本の保守がわかるのではと思うのです。
投稿元:
レビューを見る
私自身、『大衆への反逆』を読んだ学生時代以来、『ソシオ・エコノミクス』など西部邁さんの著作に親しんできた。 テレビによく登場するようになってからは少し遠ざかったが、明晰で力強い語り口ははっきりと印象に残っている。
社会科学、なかでも経済学を通して社会を見つめてきたわけだが、なんとでも立論できる社会科学の怪しげで「チャチな」モデル設計には一貫して否定的な態度をとってきた。 また、テクノロジーの進展がそもそも人間に何をもたらすのか、それはロボット化でありサイボーグ化であることへの警鐘も鳴らし続けてきた。 つまりは怪しげな言説がまかり通り、そして人間が衰退していく現代大衆社会の行きつく先を悲観をもってとらえていた。世間にさまざまな「神話」が流布される中、西部さんの言葉を振り返り、現実を見て、神話を疑ってみることが大切ではないか。
また、自身は去る1月21日に多摩川で入水自殺され、この著作が最後の語りとなった。 今般の自裁死に関しては何も言うことがないが、体調なども思わしくないなかで「自分で決める」という態度を貫いた結果かと思う。
投稿元:
レビューを見る
時代を象徴する長文の遺書。
読み始めて思いました・・・
「これは絶筆宣言だよね。それを新書で出すとは・・・」
否、多くの読み手を考えて(私のような貧乏人も居る)
敢えて新書版として出されておるのだ・・・等と。
気合の入り方が違うがな・・・当初より自死を予定していらっしゃいますがな・・・
手書きがもう出来ない、西部先生の選んだ必然なのやも等と
市井の末席を汚す阿呆は思うわけです。
同時に己の阿呆さ加減にも嘆く始末ですよ。
もうちっと考えが及ばんのかいなと。
投稿元:
レビューを見る
読了。
2018年1月21日、多摩川で自裁死を遂げた西部邁氏最後の著作。氏が討論などで喋っている様子は何度も目にしてきたのだが、その著書を手にするのは今回が初めて。
言葉というか単語(特に外来語)に関して、恐らく氏は独特の拘りがあり、都度その語源まで掘り下げる事による異様なまでの注釈の多さは、読者にかなりの忍耐を強いる。
其処には明治維新以降の外来語に対する意図的若しくは意図せざる誤訳と、その背景にある外来の文化/思想/制度に盲従する日本の姿勢に対する批判が少なからず含まれているように感じた。
”バランス(平衡)とは、矛盾せる両方向への姿勢をそれぞれ最高度に保ちつつ、その間に生じる緊張を巧みに乗り越えていくということにほかならない。
ここで「巧み」というのは両者を総合する言葉と行為を新たに作り出していくという意味で、過去への想像力と未来への創造力とを結びつけようとする努力のことを指す。
もちろんのことだが過去と未来とは同じではないのだから、伝統の英知なるものが今現在において具体的に確定されるわけではない。
今というシチュエーション(状況)のなかで、時と所と場合に応じてその英知を具体的に判断し、決断し、実行していくのが保守思想の立場である。"
つまり、「平衡の知恵」を「伝統」をもとに生み出すのが保守思想の神髄であり、アメリカに追随することをもって保守とみなすなど、噴飯物というしかない、と。
一冊読んで氏の思想を云々する事など到底出来ないのだが、初めて手にしたのが思想的遺言と言うべきものだったことは何とも悔やまれる。
投稿元:
レビューを見る
日本保守思想界の重鎮。最期の著作となった。Tokyo MX系列の言論番組は大学時代に観ていた唯一少ない番組だ。
「バランスとは、矛盾せる両方向への姿勢をそれぞれ最高度に保ちつつ、その間に生じる緊張を巧みに乗り越えていくということにほかならない。ここで「巧み」というのは両者を総合する言葉と行為を新たに作り出していくという意味で、過去への創造力と未来への創造力とを結びつけようとする努力のことを指す。」
世の中白か黒かではなく、常に柔軟に判断して、グレーを作り出す或いは認める姿勢が非常に大事であるというのは非常に共感できる考えだ。
先日自殺したという話を聞き、本書にて彼の「自裁死」への思想を知った。何を思って自殺に至ったのかがはっきり分かる文章で、感心すると同時に「ここまでブレないというのはある意味危険な人だな。」という思いを持たずにはいられなかった。
投稿元:
レビューを見る
保守とはそもそも何を守るのか?といった本源的な事がなおざりにされて言葉だけが先行し、いわば都合よく使われている現状を明確に指摘しながら我国に通低している軽薄さがどうした変遷を遂げて今に至っているかを示してくれている。著者が示す言葉には元来有している意味があり、それを元来に意味で使うべく主張する側としての著者が疎んじられつつあった事が何に起因しているかが終始語られており、著者はそれを改める事への期待を放棄すると共に自死を選択した経緯が詳細に語られており、胸が詰まる思いがした。
投稿元:
レビューを見る
繰り出される外来語、専門語の数々に戸惑うばかりである。そして、そこから読み取ったのは述者のこの国の現状に対する憂いであった。
それにしても、この書がすべて口述筆記であるということにただただ頭が下がる。
それにしてもニシベさん。われわれはこの先、一体どうすれば良いのでしょうか…。
投稿元:
レビューを見る
2018年1月にみずから死をえらんだ保守思想家が、最後の思索を語っている本です。
本書の最後には著者の死生観が述べられており、どのような考えにもとづいて自裁という道をえらんだのかということをうかがうことができます。
『人間論』(PHP文庫)や『知性の構造』(ハルキ文庫)といった著作でも語られているように、著者の保守思想は日本の特殊性に依拠するものではなく、むしろ人間の普遍的な知性についての理解にもとづくものだといえるでしょう。本書でも、「TEAMの構造」と呼ばれる知性の「言語論的な構図」が普遍的なものとして示されたうえで、現代日本に特有の偏差を明らかにし、そのことがヨーロッパにおいては存在している「近代」に対する健全な懐疑をうしなわせているという指摘がなされています。著者の「解釈学的転回」についての理解は問題を含んでいるといわざるをえないように思いますが、その思想の核心は本書において明快に示されているといってよいと思います。
ところで、本書のサブタイトルは「老酔狂で語る文明の紊乱」となっていますが、著者は本書のような議論が現代の日本において受け入れられないことを知りつつ、言っておくべきことは言っておかなければならないという決意で、その最後の思索を語っているように思われます。著者は、かつて硬直化した旧来の左翼の言説を舌鋒鋭く批判していましたが、東側世界の崩壊とともに左翼が衰退し、アメリカ由来のグローバリズムがこの国を席捲し、みずからの信じる保守思想を押し流していくこと深い絶望をいだいていたのかもしれません。
投稿元:
レビューを見る
2018年1月に自死した著者の最後の書籍。
もう全部読む気になれず。
後半の死生観と
後書きは悲しかったな。
享年78
弟子に自死を手伝わせて、その2人は自殺幇助で逮捕されてしまう。
どうやって人生の幕を閉じれば良いのかねえ。
投稿元:
レビューを見る
BSフジのプライムニュースに出演していたことから著者を知る。圧倒的な知識量と思考に感銘。自死を選択した方だがもっとテレビで直接話を聞きたかった。
投稿元:
レビューを見る
西部氏の最後の本である。まるで遺書のようでもある。筆者ではなく述者と自らをよんでいる口述による本である。とは言え、かつては『朝まで生テレビ』や佐高信氏との番組(番組名は忘れた)など、話すことが達者な方で、昔見たテレビでの語り口を思い出す。
言葉の豊富な方なのだが、やたらカタカナが多い方で、テレビでもテロップが出ていた記憶がある。本書も()だらけで、文章としては最悪。
安倍晋三氏を評して「陋習とそうでないものを峻別しながら伝統を守るのが保守。故に保守ではない」といったそうだが、カタカナで話す西部氏に陋習な知識人を感じる。でも、米国大好きの安倍晋三氏が日本国憲法をGHQ憲法だというのは、岸・鳩山の陋習であると思うので、西部氏の指摘もあながち間違えではない。
〇〇イムズで語ることが好きな人だったのだな。と思うのが読後感である。だけど何が言いたいのかさっぱりわからない。要はエドマンド・バークのように悪し平等は嫌いだといいたいのか。現代人が馬鹿だとののしりたいのか。知識の豊富さには頭が下がるが、西部氏の言う「矛盾に切り込む文学のセンス」も「矛盾に振り回されない歴史のコモセンス」もまるで感じませんでした。
今、西部氏を偲ぶのは、むかしテレビで見た一瞬のひらめきのような言葉と、ふてぶてしいお顔です。
ご冥福をお祈りいたします。
投稿元:
レビューを見る
モダンの訳語は近代的ではなく、「模流」である。明治維新後、日本は西欧を模倣し、社会を築いてきた。それが特に戦後さらに社会に表面化し、ここ30年に至ってはマスメンたちが流されるままに社会を変革してきた。理想を求めれば格差や軋轢が生じ、現実主義ばかりでは自由や権理が埋没する。その間には平衡が必要であり、活力、公正、節度、良識の観念をその国家の伝統から導き、その具体化について状況の中で試行錯誤しながら吟味することが要求される。
私はここ30年程度の状況しか見ていない世代であり、戦後の時代の流れを一部しか実感できてはいない。しかし、リーマンショック後、日本以外では行き過ぎたグローバリズムを抑制する動きがある中で、この国ではその中でも構造改革を推進し、国民が結果的にそれを支持している。少数の意見は排除され、無関心が慣習となり、多数者の専制が行われている。オルテガが言うように「絶望するものの数が増えることだけが希望である」のかもしれないが、国家や政治について議論をするのがタブー化している状況では先は明るくない。
さて、相変わらず著者の記述にはカタカナ語も多く読むのに苦労するが、著者が生きていれば、このコロナ禍やウクライナの状況をどう評論していただろうか。世の中の状況を的確に厳しく評論する人が少なくなっている中で惜しい人を亡くしたものである。
本書の中で、著者と私の意見が異なるものの1つで、核武装論を著者は唱えているが、勿論その議論はあって然るべきだが、核保有が周辺国への抑止力に果たして繋がるのだろうか。核があろうがなかろうが、国家として侵略や武器の使用は起こりえるし、核を含めて国家の防衛、安全保障全体、そして現憲法を議論し、考える。その環境をまずを整えなければならないと感じる。