投稿元:
レビューを見る
文楽、人形浄瑠璃、操浄瑠璃、漠然と「知ってはいる」その世界。
そういえば確か金沢かどこかに旅行に行ったときに、一人で演じる人形浄瑠璃を見た覚えが…
歌舞伎より歴史が古く世界文化遺産にもなっている、日本古来の演芸。それくらいの乏しい知識で読み始めたこの物語。
いやぁ、もうどっぷりと浸ってしまいました、なんとも深く魅力的なこの世界に。
浄瑠璃に魅せられた一人の男の、人生の物語であると同時に、これは「おんなを小さな世界に閉じ込め縛り付ける世間」や「おとこの身勝手さと生きざま」や「芸に魅せられる恐ろしさとその奥深さ」も描いている。そういう部分がこの物語に奥行きとなっている。
ここだけど取り上げるともっと暗く重くじっとりとした物語になりそうなのに、なのに、なのに、どうだろう、この軽やかさは。
会話や物語の展開のテンポの良さ、人間関係の深さとその強さは、もうなんというか、大島節とでも言おうか。
大島さん自身が、楽しんで書いているのがよーくわかる。だから読んでいる方も、ものすごく楽しい。わくわくするのだ。
道頓堀の浄瑠璃作者、近松半二が歌舞伎よりも上をいく物語を、今よりもっと素晴らしい物語を、と苦悩する姿も、なんというか、悲壮感がなくて楽しそうにみえる。いや、みんな命を削って物語をつむいでいるのだろうけど、それでもなんだろう、自分も同じようにその仲間に入りたくなってしまう。貧乏長屋に暮らしながら、あーだこーだと頭突き合わせて練りに練りたいね。
いや、でも絶対に無理だ無理だ。物語ってそんなに簡単に生まれるものじゃない。
物語を紡ぎ出すのは誰にでもできることじゃない。なんだろう、どうやってどこから物語は生まれてくるのだろう。
近松半二が浄瑠璃の傑作「妹背山婦女庭訓結び」を紡ぎ出す途中で現れた「お三輪」の存在って、もしかすると大島さん自身にもあるものなんじゃないか、って気がする。
自分の中にある「誰か」が自分とは別の視線でもって物語を紡ぎ出す。そんな経験が大島さんにもあるんじゃないんだろうか。
なんて思いながら読むとわくわく感も一層増してくる。
はぁ、しかしなんだろう、この読後感の良さは。
とってもいい物語を体験した、そんな気になる。満足感に浸れる一冊でした。
投稿元:
レビューを見る
+++
筆の先から墨がしたたる。やがて、わしが文字になって溶けていく──
虚実の渦を作り出した、もう一人の近松がいた。
江戸時代、芝居小屋が立ち並ぶ大坂・道頓堀。
大阪の儒学者・穂積以貫の次男として生まれた成章。
末楽しみな賢い子供だったが、浄瑠璃好きの父に手をひかれて、芝居小屋に通い出してから、浄瑠璃の魅力に取り付かれる。
近松門左衛門の硯を父からもらって、物書きの道へ進むことに。
弟弟子に先を越され、人形遣いからは何度も書き直しをさせられ、それでも書かずにはおられなかった半二。
著者の長年のテーマ「物語はどこから生まれてくるのか」が、義太夫の如き「語り」にのって、見事に結晶した長編小説。
「妹背山婦女庭訓」や「本朝廿四孝」などを生んだ
人形浄瑠璃作者、近松半二の生涯を描いた比類なき名作!
+++
読み始めは、関西言葉や時代背景に馴染めず、なかなか物語に入り込めなかったが、次第に興が乗ってきて、次の展開が待ちきれないようになった。ランナーにはランナーズハイがあるというが、ライターにもライターズハイのようなものがあるのだろう。自分が書いているのではなく、なにかが降りてきて、あるいは、なにかに憑かれるように、書かされた、という感じなのだろうか。傑作とは往々にしてそんな風にして生み出されるものなのかもしれない。自らが創り出したものに違いはないのに、いつの間にか主人公がそこにいて、彼(彼女)が勝手に物語を紡ぎだしていく感覚のようである。その境地に行きつくまでが凄まじい。後半、半二が生み出したキャラクタ・三輪の語りが混じるが、それが時空を超えて現代にまで及んでおり、わかりやすい。半二が生きた時代と道頓堀という場所の熱気が伝わってくるような一冊だった。
投稿元:
レビューを見る
江戸中期、人形浄瑠璃と歌舞伎か巷の人気を奪いあってた道頓堀。
主人公は、父親に連れられて竹本座に出入りするうちに近松門左衛門に可愛がられた穂積半二。地味な主人公だけに、前半は多少かったるい感もあったが、「妹背山婦女庭訓」メイキング辺りは圧巻。モノ作りの冥利だわー。
「伊賀越道中双六」「奥州安達原」「新版歌祭文」、丸本物だった。いずれも歌舞伎バージョンしか知らない。半蔵門の読書会に通ってた時代に国立劇場へ観に行けば良かったな。
投稿元:
レビューを見る
素材として文楽が使われているが、描かれていることは、「何かを産みだす、創り出すとは何か」「苦しみつつも新しい物、自分だけのものを作りたいとの想いから離れることのできない創作者」についてが描かれているように思う。
加えて文楽を舞台として描いてくれているおかげで、私が知りたいと思っていたこと、「なぜ人形なのか、人が実際に演じている歌舞伎との違いは何か」についてのヒントが書かれており、初めて文楽を観に行く参考になった。
投稿元:
レビューを見る
人形浄瑠璃、今でいう文楽の話。
馴染みの道頓堀が舞台で語り口が大阪弁なのでとても読みやすく、親しみを感じました。
浄瑠璃作家「近松半二」の生涯を書いたもの。
とにかく熱気がすごい。
大切にしたい日本の文化ですね。
久しぶりに生で観たくなりました。
投稿元:
レビューを見る
江戸時代の道頓堀で、人形浄瑠璃の虜になった男、近松半二。
P27
〈幟がはためき、人々がさんざめき、うまそうな匂いが漂い、木戸番が声をかける〉
その道頓堀の賑わいが半二の体には染み込んでいる。
親友の並木正三は歌舞伎の作者へ。
一方、太夫、三味線、人形遣いの魅力から離れることができなかった半二は浄瑠璃の作者を目指す。
半二の優しい思いから『妹背山婦女庭訓』という名作が生まれる。
お三輪が導く浄瑠璃。
半二たちと一緒に渦に巻き込まれ、人形に魂が注がれていく様を見ることができた。
投稿元:
レビューを見る
大阪の町民文化華やかなりし頃に、近松門左衛門という天才を得て全盛を極めた人形浄瑠璃が、歌舞伎の勃興とともに凋落していくのを、戯作者・近松半二の苦闘を通じて描いた小説。
近松半二を主人公に置いた小説としては、岡本綺堂の「近松半二の死」という短編があり、これは青空文庫に収録されているので簡単に読むことができる。しかし、人形浄瑠璃(文楽)好きとしては、かなり物足りないものが残る作品である。
今回の「渦」は、ある程度長い間人形浄瑠璃に親しんだ者からしてもかなり面白く、最後まで楽しむことができる小説に仕上がっている。一言でいえば、現にある人形浄瑠璃の演目を素材としながら、よくもまあ、ここまで「妄想」を膨らませたものと感心してしまうのである。
道頓堀にあった文楽座(朝日座)近くで生まれ育った者からすると、中座、角座といった栄華を極めた頃の芝居小屋の名前、昔の町名が登場するだけで涙が出るほど嬉しい。それに、いまは吉本芸人のガラの悪い大阪弁とはまるで異なる大阪風言葉が跋扈している中で、子供の頃から聞き慣れた大阪言葉が浮かび上がる文章が全編覆い尽くされているのも、この小説の興趣をいや増している。(ところどころ京言葉を含め「ん?」と思うところはありましたが)
これを書くにあたって、相当床本を読み込み、太夫、三味線、人形遣いの三業にも取材を重ねたであろうことは容易に想像がつき、その中から言葉遣いを学んだのであろう。
せっかくここまでたどり着いたのであれば、有吉佐和子以来の、現代作家による新作浄瑠璃を大島真寿美さんが勢いに乗って書かれることを期待してしまう。
それにしても、自らの土地に生まれた貴重な文化財産である人形浄瑠璃を平気で潰しにかかる大阪の地方政治家の知的レベルの低さと、それを熱烈に支援する住民が多いことには暗澹たるものを感じる。
投稿元:
レビューを見る
浄瑠璃が盛んな時期があったんだろうなぁ。それの作家で成功するとなると、なかなかのものだったに違いない。
どこで自分の一生をかける仕事に出会うのかわからんもんや。何事も経験しておくことかもね〜。
投稿元:
レビューを見る
近松半二の一代記.全体の調子が芝居がかっていて独特のリズムがある,また子供の頃から魅せられた操浄瑠璃の世界にどっぷり浸かっているところ,ひょうひょうとあるいはもがき苦しみながら作品を創っていく様子,創作の真髄がちょっとはすかいから眺めるような感じで語られていて,淡々とした名調子にグッと引き込まれる.道頓堀のにぎわいも目に見えるようで,とにかく滅法面白い.
投稿元:
レビューを見る
江戸時代、大阪道頓堀で人形浄瑠璃作者として活躍した近松半二の生涯を描いた作品。
主人公の代表作である妹背山も本朝廿四孝も歌舞伎では観たことがあるが、元が文楽であることも作者が誰かということも、恥ずかしながら今回初めて知った。
何度も窮地に陥りながらもどこか飄々としている半二の、作者としての産みの苦しみが淡々と描かれ、知らず知らずのうちに道頓堀の芝居小屋の熱気に包み込まれていくような気持ちになる。
読み終えたことろで、本作品が直木賞候補になったことを知る。同候補作の『トリニティ』(窪美澄)も読み応えがあった。さて、今回は誰が受賞するのか楽しみだ。
投稿元:
レビューを見る
傑作。
当時の人形浄瑠璃と歌舞伎の関係とか、芸事に関わる人々の人間模様とか、見てきたかのようにもっともらしく、生き生きと描かれていて、読んでいても目の前で人物たちの動きがありありとわかる。
長たらしい関西弁の独白には独特のリズムがあって、作品の世界観を作るのに一役買っている。
投稿元:
レビューを見る
勢いのある文章が読み手をどんどん物語の渦の中へと巻き込んでいき、息つく暇もなく人形浄瑠璃の世界へ誘われる。
江戸時代中期の大坂・道頓堀で、浄瑠璃作者の近松半二はめくるめく不可思議な世界を夢中で書き連ねる。
夢か現か、表か裏か。
渾然となった渦の中、必死で人形に命を吹き込む。
そして半二の創り上げた舞台を観る客もまた、虚実の渦へと呑み込まれていく。
あの時代に一世を風靡した人形浄瑠璃は、200年以上経った現代でもなお変わらず受け継がれていて、観る者を魅了し続けている。
あの頃の半二の夢はこの先もずっと消え去ることはないだろう。
それはとても凄いことだ、と改めて浄瑠璃の奥深さを思い知る。
半二もあの世で喜んでいるといいけれど、あの半二のこと、いちいち悪態をついているに違いない。
内心はとても嬉しいくせに、ね。
投稿元:
レビューを見る
左右に床を据えるのが斬新で視覚的にも目を見張るのが「妹背山婦女庭訓」です。この繰浄瑠璃作者 近松半二を主人公にするのも珍しい。人気は歌舞伎にシフトするなか、遅咲きの半二がこの傑作を書き上げる「妹背山」と「婦女庭訓」の章は盛り上がりました。当時の演劇事情や共作の実態、類似本の多い理由などの謎も解けました。お佐久は肝の座ったいい女房ですねぇ。ラストはどうでしょう。爽快に終わらせることもできたでしょうに。
投稿元:
レビューを見る
人形浄瑠璃作家、近松半二の生涯が描かれています。浄瑠璃は見たことがないのですが、浄瑠璃でなくても自分が好きなものがあれば、半二のように浸かりきりになるときの気持ちはわかります。半二が魅せられ、なくては生きていけないほどのものとはどんなものなのか、見てみたくなりました。人形だからこそ、“見ようによっては生身の人間よりも人間らしい(p13)”ということも、あるんだろうなあと思います。
『妹背山婦人庭訓』を半二が生み出していくところは、情熱を感じて、私まで熱い気持ちになりました。当時客席にいた若い女性たちの性根と繋がっているお三輪は、今でも素敵な女性なのでしょう。
投稿元:
レビューを見る
人形浄瑠璃作者、近松半二の生涯。
テンポの良い語り口調で、それこそ物語の渦の中にぐいぐい引き込まれるように読みました。
「妹背山婦女庭訓」という演目に登場する“お三輪”の語りも何とも愛敬があって良かったです。
今日の道頓堀の喧噪とはまた違った、当時の芝居エリアだった頃の独特のカオスの中に身を置いたような気持になりました。
文楽、見に行ってみようかな。と思わせる一冊です。