紙の本
......「法外」とも言えるほどの分量......
2021/02/08 19:26
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:遊糸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
謝辞で,著者自ら述べている。
「新書の一般的な基準からすれば
「法外」とも言えるほどの分量になってしまいました」
あとがきまで,463ページ
片手で保持して読み続けるのは至難である。
引用が多くなるのは致し方なしとすれども
自説の反復が多く冗漫さは否めない。
それから「ポンチ絵」という呼称がお気に入りのようで
「ポンチ絵」「ポンチ絵」と連採は,些か目障り。
著者自身も「大学人」であろう。
これでは
文科省のお役人たちにいいように振り回されてきたのも
宜なるかなと言わざるを得ない。
『大学改革の迷走』
タイトルに惹かれて手に取ったはいいが
なかなか進展しない内容と
手首にかかる荷重の負担とで
途中で嫌気がさしてきた。
本の価値が目方で決まるわけでなし。
しかしながら,図表により
多数のデータを示しているところは評価したい。
ただ「図表」という表示も気になるところだ。
「図」と「表」は区別した方がよいのでは?
投稿元:
レビューを見る
いやあおもしろかった。もう大学改革がどうとかこうとかより、いまの会社の状況がそのまま当てはまって、なんかモヤッと思っていたことを言語化していただいてスッキリした感じ。「事なかれ主義」、そしてどうせ言ってもムダだろうという「無力感」。どこにでもあるんだろうなあ。なんか反対意見でも言おうものなら「大人げない」「大人の事情だからしかたない」などなど。それでも立ち向かっていくのだあ、、、と思いつつ、「まあいいか」となってしまう日々。忙しさにかまけてしまううちに「おかしいな」と思ったことをつい忘れてしまう。その繰り返し。それから、もう一つ。とにかくカタカナ言葉やアルファベットの頭文字による略語が多い。PDCA、KPI、エビデンス、コンピテンシーほかにもいっぱいあるけど、本書に何度も登場するこういう言葉、我が社でもたびたび耳にする。「開化先生」的というのか。しかしだ、本書も説明にたくさん登場して、もうEBPMだかPBEMだか何が何だか。シラバスについてもいろいろ思いはあるが、アメリカ式が良いと決めてかかるのも「開化先生」的ではないのか。アメリカの大学がいいとか、フィンランドがいいとか、みんないいとこだけ見て、ちょっとした自分の経験からものを言ってるのではないのか。エビデンス、エビデンスってうるさい!それほんまにそうなん。一部だけちゃうん。などなど、ちょっと興奮して迷走してしまった。でも、ほんと「よくぞここまで言ってくれました」と著者に感謝です。でも、多くの人に読んでもらわないと意味がない。どんどん宣伝したいけど、私のTwitterの能力では、無理やなあ・・・
投稿元:
レビューを見る
<目次>
序章 大学解体から大学改革の解体へ
第1章 Syllabusとシラバスの間~和風シラバスの呪縛
第2章 PDCAとPdCaのあいだ~和風マネジメント・サイクルの幻想
第3章 学校は会社じゃないのだよ!~残念な破滅的誤解から創造的誤解へ
第4章 面従腹背と過剰胴長の大学現場~実質化と形骸化のミスマネジメント・サイクル
第5章 失敗と失政からなにを学ぶべきか?~大学院拡充政策の破綻と「無責任の体系」)
第6章 英雄・悪漢・馬鹿~改革劇のドラマツルギー(作劇術)を越えて
第7章 エピデンス・エピデンス。エピデンス…~「大人の事情」を越えて
<内容>
6年越しの本だそうで、本文476㌻、注が7㌻、出展が8㌻の膨大な新書!文科省や〇✕審議会ヘは、かなりのお怒り。そのモチベーションが400㌻越えの本をまとめる原動力か?
シラバスの形骸化、ビジネスモデル(としても成功は一部)のPDCAモデルを教育に持ち込んで、無理をしている文科省(でも自画自賛しているらしい…)。ちょっと考えてみたって、単年度予算で回っているお役所が、ちゃんとCHECKをやれば、単年度では事業なんて終わらないでしょ?!。大学院拡充は完全な失敗だが、責任の所在を曖昧にし(これは、A内閣にとって大変好都合)、その上大学3年生に来年根拠のあいまいなアンケートを取るらしい…。「失政」の責任を取って、文科省の役人は全員解雇!だよね…。
投稿元:
レビューを見る
大学職員として『大学改革の迷走』という新刊タイトルはcheckせざるを得ない。しかも新書で1200円もする。巻末の「参考・引用文献」を確認し読み始めた。
おもしろい!
業務上、20年近く政府・文科省の大学改革関係会議・答申等をwatchしてきたが、「過去30年あまりに及ぶ改革政策は明らかな失敗ないし「失政」だった(p269)」は痛快だ。PDCAやKPIなど胡散臭いカタカナ用語やアルファベットに惑わされず、地に足つけて現場から変えていこう。
多くの大学関係者に読んでいただきたい本。
投稿元:
レビューを見る
ここまではっきりと文字化されるとなぜか悔しい思いが生じるが、この本に書かれていることはほぼ全て実務担当者が感じていることだと思う。文科省、大学、高等教育に関わっている全ての人に読んで欲しい本。面従腹背も無責任な態度だと感じたので違う行動を選択しないといけないなあ。
投稿元:
レビューを見る
教育界は現在、手を上げなければ予算が回ってこない。
一般的な助成金であれば「金は出すが口は出さない」というのが、基本スタンス。
しかし、教育に関してはお金を出す側と受ける側に暗黙の力関係が生じていて、お金を出す側の意図や意思を読み取らなければならない現状がある。
著者は長く大学教育に関わってきた経験から、文部科学省が打ち出す策の矛盾を書き示している。
広く利用されているPDCAサイクルやシラバス、KPIの有効性も疑わしいようである。
これは高校教員も参考になると思う。
投稿元:
レビューを見る
同志社大学で教鞭を取る著者が、迷走する大学改革の実態と、文科省を主体とした行政の迷走に伴走し続けた大学自身も含めて批判的にその実態を取りまとめた一冊。
本書の趣旨は、「PDCA、大学院拡充、EBPMといった言葉だけが一人踊りし、大学改革は実態なき運動になったどころか、かえってムダな”改革ごっこ”に大学関係者のリソースを費やさせたという点でむしろ害悪になっている」という大学行政に関する批判である。これを読むと、なんとなく改革ごっこに過ぎない運動なのだろうと思っていたことが、ここまで酷い実態になっているということが明らかになり、改めて驚かされる。
若干、著者個人の”私怨”が見え隠れするため、その主観性は差っ引いてみる必要があるものの、大学当局の側から見た大学改革の実態を知るには良い一冊。
投稿元:
レビューを見る
2020年1月で大学入試センター試験の幕引きとなった。2021年からは大学入試「改革」として、センター試験に替わり「大学共通テスト」が新たに導入されることになっている。
大学はこれまで、監督官庁である(現)文部科学省の旗振りの下に「改革」を求められ続けてきた。しかし、その「改革」がうまくいっているという話はあまり聴かない。若手研究者への支援が不十分だから今後の日本人ノーベル賞受賞者は減っていくだろう、世界大学ランキングで中国の大学が躍進する中、東大をはじめとした日本の大学の存在感が低下している、企業のニーズにあった学生教育がなされていない等々。
松岡亮二「教育格差」でも指摘されていたが、教育研究の分野ではとにかく「改革」は繰り返し行われるが、その効果検証が行われていない。いや、そもそも効果検証するためのデータ自体が残されていないことが多いのだ。初めから「改革」の効果検証をする考えがなかったのか、あるいは効果検証を含めた「改革」を設計することができていない、ということになる。情報の軽視は戸部良一他「失敗の本質」でも明らかにされているように、悲しいけれど、日本の官僚組織の昔からの伝統のように残り続けている。その伝統自体を改革しないといけないのだろうけれど、伝統は強い。
著者である佐藤郁哉氏は、「改革」を続けている大学で、教員として教育・研究の他に大学行政にたずさわり、様々理不尽な「改革」をさせられてきた。本書はそのタイトルの通り、いかに大学が迷走してきているか(現在進行形)を新書としては厚めの400ページ以上を割き、たっぷりと皮肉を込めて、その迷走ぶりが紹介されている。笑うに笑えないというか、それでも面白いのだが。
例えば、今や日本の大学でも当たり前になっている「シラバス」。「米国の大学ではシラバスが教育と学習の質を維持・向上させる上で重要な役割を果たしてきた」ので、日本の大学もシラバスを導入しようということになった。米国では、シラバスは各授業を担当する教員が履修する学生のためだけに授業計画を配布するというもので、担当教員の裁量の範囲内で運用されているものだった。しかし、日本の大学に導入されてみると、シラバスは「和風シラバス」となり、画一化されたフォーマットに教員が必須で作成することとなり、大学全体でデータベース化され、授業履修者以外にもあまねく公開される管理ツールとなり、当初の導入目的だった「教育と学習の質を維持・向上させる」ツールとしての機能は失われてしまった、という。
海外(主に米)の事例を参考に、「改革」案が検討されるも、往往にしていつの間にか換骨奪胎、過剰忖度により、別物となり「手段」と「目的」が入れ替わるということが起きているのだ。時間と労力をさいて「改革」を実行した結果、誰のためにもならないのでは、報われない。
各章の見出しを眺めるだけでも、迷走ぶりが伝わってくる。
第一章 Syllabusとシラバスのあいだー和風シラバスの呪縛
第二章 PDCAとPdCaのあいだー和製マネジメントサイクルの幻想、
第三章 学校は会社じゃないんだよ!―残念な破滅的誤解から想像的誤解へ
第四章 面従��背と過剰同調の大学現場―実質化と形骸化のミスマネジメント・サイクル
第五章 失敗と失策から何を学ぶべきか?―大学院拡充政策の破綻と「無責任の体系」
第六章 英雄・悪漢・馬鹿―改革劇のドラマツルギー(作劇術)を超えて
第七章 エビデンス、エビデンス、エビデンス、・・・―「大人の事情」を超えて
大学の現場は上から下りてきた「改革」の対応をするために膨大な資料作成が求められ、時間と労力を奪われている。現場は「改革」疲れをしていて、現場発の改革案を打ち出して行くことは難しいとう。目的と手段を取り違えた「改革」が繰り返される様は滑稽で、もはや喜劇そのもの。当事者、特に学生にとっては悪夢以外の何ものでもない。
とはいえ、嘆いてばかりいても始まらない。著者が真に伝えたいことは、大学「改革」迷走の犯人探しは責任の押し付け合いになり、無責任体制と無謬主義につながり改善には至らないから、犯人探しの構図を相対化して、失敗に至った経緯のデータを客観的に分析して教訓を学び、今後に生かす必要があると提案している。
投稿元:
レビューを見る
PDCAサイクルのどうしようもなさを、常々感じているだけに、その章が一番心に響く。
見事な和製英語のまやかしだったのか。
投稿元:
レビューを見る
文科省が実施する「教育内容等の改革状況について」調査結果に見るように、大半の大学が数字の上では改革を進めている実態が覗える。しかし一方、大学がよくなったという話は寡聞にして聞かない。高等教育界は教育の本質や現場を知らない経済界(様々な利害団体の代表)に踊らされ、日本の景気減速の責任までも押しつけられる。批判は年々厳しさを増す。許認可権や各補助金対象事業の決定権を握る政府・行政に対し、表立って異議を唱えることもできず、昨今の「言っても無駄」風潮も手伝う。「異を唱えさせない」ガバナンス構造を、大学教職員の隅々まで徹底させたのが「学校教育法」の改正(2014年)であった。
大学改革を迷走させている「小道具」には、次のようなものがあると著者はいう。
〇シラバスは、「偽 Syllabus」:記載のフォーム・細目に至るまで、実質的に文科省の意向に従い、「文科省向け」に発行しているのがシラバスの現状である。一方本場の Syllabus は、担当教員が学生の学習を深めるために、「学生向け」に自律的に作成しているもので双方の約束事のようなものである。
確かに著者の主張は分かる。しかしシラバスは、数ある教育改革の「小道具」のひとつにすぎず、それら「小道具」間の密接な連携があってこそ、教育改革の「実質化」に繋がるものである。つまり問題は、シラバスフォームの画一化よりも、教育の質を高めるための様々な取り組み(週2~3回の授業回数の確保による教育効果の向上、制度破綻している日本のCAP制、単位制に必要な予習・復習時間の確保など)との連携が図られておらず、そのために十分な教育効果が得られていないがないことにある。この点に触れていないのは残念。
〇企業の経営手法の導入:大学経営において、企業の経営方法を援用する(本来の意味を正しく理解せず、問題点の洗い出しもせずに、言葉だけ取り入れる)ケースが増えており、これが幼稚な「経営ごっこ」と化し、混乱を助長している。例えば次のような用語である。
(1) PDCA:本来、工場現場での品質管理・改善の手法として提案された日本発の発想。大学教育という、様々な目標を同時に追求し、さらに非定型的な側面が多い業務とはあまり相性がよくない(p.89, 131)。にもかかわらず、PDCAが2000年頃から、教育行政文書に頻繁に登場するようになった。次の理由から成果は期待できない。
(a) 公開すること、審査に通ることが目的なので、PとCだけ(大言壮語を美しい図表で飾られ)立派になり、DとAは実質的にこれまでどおり。形式的になりがち。
(b) Checkに関して、成功か失敗か明確な判断ができない(意見が分かれる)ケースが少なくない。
(c) 日本の企業(組織)の体質として、次のいずれかに陥る可能性が高い(これが現に高等教育行政と大学の間で生じている)。
・投げ式PDCAに陥る可能性(p.133)。
・マイクロマネジメントサイクルに陥る可能性(p.136)。
(2) KPI(Key Performance Indicator):最終的な組織目標を達成するうえで重要な意味を持つ個々の業務の進捗状況を示す「指標」であるにもかかわらず、政策文書では「目標」値となしている誤用が見られる(p.175)。しかし、例えばグローバルという(多くの教育目標と同様)「抽���的」な目標の場合、それを様々な「指標」として数値が示し目標値とすることは、問題ではないと思う。要は、様々なKPIを指標としつつ、大局的な目標を大学関係者が意識しているかどうかの問題なのではないだろうか。
(3) 選択と集中:人を育てる教育機関の場合、選択と集中の大義名分のもとで、特定の大学のみに、財政補助を限定するのは得策でないし、仮に進めるとしても、人(学生・教員)の流動化の下で進めるべきではないのか。すべての大学が、ミニ東大を目指すことは現実的でないので、各大学内の取り組みの中で、何を切り捨て何を強化するかの判断は必要。その意味では、PDCAと同様、「選択と集中」は万能ではない。何に対して適用するかの判断は、極めて重要である。
全体を読み終えて抱いた疑問と感想。「文科相自身は実質的なPDCAサイクルを守っているのですか?」「補助金を餌に、KPIの数値だけを無理に釣り上げて、改革が成功したように見せかけていませんか?」「文科省は哲学をもって行政に当たっていますか?」。
それから感じたことは、「あの頃」から変わらない日本という国の体質ーー「敵(世界の現実)を知らず、己(日本の現実)を知らず」「客観的に情報を集め分析しようとしない姿勢と精神論で(経済的未熟を)カバーできると信じる傲慢さ」「現場の状況・声の軽視(無視)」「勝算(言語、公財政支出の問題)なき戦線拡大(グローバル化・大学院拡大)」「失敗を失敗と認めない上層部(官僚の無謬性)」。。。思わず嘆息。
投稿元:
レビューを見る
殆どは大学の関係者ならおそらくは頷けるはずの大学改革政策のトホホな内情を紹介する内容。ただし最後の方で外側からあげつらうだけでない筆者としての改革の中身を充実させるための提案がなされており心意気は伝わってくる。
投稿元:
レビューを見る
シラバスの煩雑化、「PDCAサイクル」の乱立、「おつき合い」的に形式と体裁を整えるためだけの業務の激増、「エビデンス」という名のデータの恣意的なつまみ食い……。本書の話柄は、大学に籍を置き、日常の業務に従事している者なら誰もが体感的に熟知していることばかりである。
しかし、できれば目を背け続けたいそれらを逐一問題化し、検証していく記述から受ける、圧倒的な徒労感と「死屍累々」感は何なのか。旧日本軍の「失敗」どころではない。もはや喜劇にもならない壮大な人的・時間的な無駄遣いがくり返されてきたことが、改めて読者に突きつけられる。たぶん政界と財界は、大学と教員に「知」的組織としての本来業務をおこなわせないために、次から次へとろくに「エビデンス」もない「改革」を押しつけ続けているのかもしれない。
全体的には首肯できる記述だし、大学/学生に「主体的であれ」と求める側がまるで主体性を期待していない様子が、的確に剔抉された点も評価できる。そのような「改革」に「おつき合い」をくり返してきた大学(人)への批判も同様だ。しかし、「大学院重点化」にかかる記述だけはいただけない。まるで出身大学以外の大学院への進学を好ましくないかのように描くこと、本来進学すべきではない層まで大学院に進学したかのように述べることには違和感を禁じえない。あるいは著者は、自分の学生にもそのように接してきたのだろうか。表には出さなくとも、内心そのように感じていた、ということなのだろうか。
投稿元:
レビューを見る
ようやく読み終わった。何度も途中で読み返したり、また最初からに戻ったりしながら読んだので、妙な達成感がある。
しかし、著者もあとがきで書いているとおり、これはページ数も価格も反則だ(笑)
昨年の某学会での佐藤先生の基調講演が強烈だったと知人から聞いたのが、これを手にしたきっかけだが、非常に読み応えがあり、かつ同じ考えと納得できる点も多く、また新たに学んだことも多かった。
主張されていることは現実問題として荒唐無稽とかではなく、逆に真っ当なことなのだが、これが奇妙なことと扱われるのが現在の大学教育をとりまく行政、政策のもっとも大きな問題なのだろうということは実感する。とは言え、何ともならなそうな現実に絶望したりもする。
そもそも周囲の同僚(とは呼びたくないのが正直なところだが)の多くがここで指摘されている問題等に興味や考えを持っていない(ふりをしているだけかも知れないが)ことが更に絶望感を増す。
しかし、自分で何も出来ず誰かに何とかしてもらいたいなと思ってしまう他力本願な私自身も同罪なのだろうけれど。
投稿元:
レビューを見る
ボリューム抜群。
シラバスの形骸化、PDCAサイクルの濫用など、昨今の大学の問題点が書かれている。
投稿元:
レビューを見る
実に精緻なデータの分析によって、いかに日本の高度教育が「大人の事情(=無理が通れば道理がひっこむ)」によって、さらには大学側の面従腹背によって混迷を極めてきたのかが語られ、本書が正に行なっているEBPM(Evidence-Based Policy Making)、そして過去の失敗から学ぶことの重要性が指摘される。
過去の失敗から学ぶには公文書の丹念な精査も必要となるわけだが、それが改竄されてしまうのがこの国の力量なわけで、暗い気分となる。
後書きでは新島襄の言葉が紹介される。
一国を維持するは、決して二三英雄の力に非す、実に一国を組織する教育あり、智識あり、品行ある人民の力に依らざる可からず、是等の人民は一国の良心とも謂うべき人々なり
教育なき国に良心は育たないのだろう。