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催眠といふうさんくささがどうしても拔けない一方で、マインドフルエスといふ横文字はしつかり流行るといふ現象は実に不思議である。
催眠のもたらすもの、それはひとへに忘れられた身体感覚と呼ばれるものを取り戻すことではないか。ことばで言ふよりも、理解するよりも先に、身体は理解してゐるのではないか。あたかもそれは眠つてゐるかのやう。「意識」の働かない眠りの状態と同じといふことか。
認知・解釈・理解。ことに心理療法といふのはことばによるところが大きい。ことばでもつてなんとかしやうとする。頭で考へてゐる。
しかし、人間は頭だけでできてゐるわけではない。身体を使はずにわかつたことにはならない。頭のやうな理路整然として不滅、キレイなことだけではない。理不尽で汚れ、やがて滅びゆくそれが肉体だ。たとへば、本当なら嫌で逃げ出すやうなことでも、頭はその衝動をなんとか抑へつけ、「我慢」といふことをする。漠とどこかことばにならない不安があつても、それに耳を塞ぎ、気づかないフリをしたり、自分や他人をひたすら責めたりすることで不安を押しのける。
さうした意識の働きが間違ひだとは思はない。集団として人間関係の網目の中で生きていく以上、さうした意識、頭の働きは非常に大切なことだ。
しかし、意識の働きだけで人間が生きてゐるわけではない。培養液の中の脳みそではなく、限りある肉体をもつてゐる。身体は頭の説得に従ふこともあるだらうが、ただ黙つて従ふだけではない。あの手この手で意識に反逆してくる。それこそことばにならない生の感覚でもつて。催眠といふ行為は、この意識の強い時代の中にあつて、肉体感覚を思ひ出させるやうなものだ。意識の強いガードを外して身体感覚へと立ち帰らせる。
だから、催眠はまずは自分できちんと体験しないことには始まらない。肉体とはまずこの自分から始まる。自分の肉体、身体感覚を知ること。それがなければ自分以上に異なる他人の身体感覚へのペーシングなどできやうはずもない。ただ、訓練の必要性を説くとするなら、引用文献だけでなく、その訓練先をもつと示すべきであらう。
催眠の優れた点でもあり、弱い点でもあるのは、自身の身体感覚である以上、最低自分ひとりで治療できるといふところだらう。時間と資源の乏しい災害時や単身者、ライフステージを選ばず実施できるといふのはセルフケアといふ点ではかなり優れてゐる。しかし、身体感覚を取り戻したとしても迫る人間関係の網目から逃れられるわけではない。