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年を取ってみる、わけにはいかないけれど。米寿のおじいちゃんの気持ちをちょっとだけ今の女の私がのぞいてみる。違うことだけは、わかる。読めてるものが、きっと違うだろうことも、わかる。
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谷川俊太郎の詩は谷川俊太郎という感じがする。詩にも文体がある。とくにひらがな詩に顕著だが、言葉とのあたたかなかつゼロにならない距離感(あるいは自分や他人との)がそう思わせるのかも知れない。その辺は『色即是空のスペクトラム』や『何も』などによくあらわれている。
『にわに木が』この詩の核心は中段にある「ことばはいまうまれたみたい」だと感じるが、そう言って見せるのが凄い。『夜のバッハ』「ウェブは無数の言葉を流産している」ここをもっと掘り下げた詩を読んでみたい。
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『ベージュ』読了。
初めて谷川俊太郎の詩を読んだ。米寿ならぬベージュ。なんて素敵な言葉に色。お米の色。
米寿まで生きた方の詩がどんな意味を持つか感じ取ろうにも分からず。けど空気感はなんとなく分かったような気がする。
自分の祖母も今年で米寿。祖母もこんな感じ生きてんのかなと思った。
2021.4.13(1回目)
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谷川俊太郎さんの、88歳の詩集。エッセイのようでもあった。
装丁は淡いベージュと水色。好きな組み合わせです。
(もちろん米寿とかけてるのだろうけれど)
詩は難解そうだな、と読んでいくと、次第に頭の中に情景が浮かんできた。
身の回りのことだけでなく、詩人には世界のどこかで起きている悲劇も詩にした。
ある詩人の最後を知った詩は、その不滅を明言した。
どこか異世界に入り込むような気持ちにさせる詩もあった。メロディがあったら、もっと自分に染み込んできそうに思える詩もあった。
子供が小さい時に読み聞かせた、「めのまどあけろ」のように、声を出して読んでみると、耳に心地いい詩もあった。
耳で聞くと、また違った印象になる。
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タイトルはベージュと米寿がかかっている。谷川さんが米寿を迎えられたそうだ。
詩のことは本当に分からない。これ好きだな、とかも特にない。だから、全部音読してみた。ますます意味が入ってこない。でも、少し楽しくなってきた。ちょっと、続けてみよう。
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2020年刊の谷川俊太郎さんの最新詩集。
『ベージュ』というタイトルは88歳になられたので米寿と、薄茶色のベージュをかけ合わせたものらしいです。
この詩集は、私には難解なものも多かったです。
今までに読んできた、選詩集のような、読んですぐに意味がわかる愛読したくなるような親しみを覚える詩は少ないように思いました。
ちょっと考えるような詩が多かったです。
あとがきで谷川さんは、年齢に無関係に書けている詩と年齢相応の詩があるということをおっしゃられ、ひらがな回帰という現象についても触れられています。
「あさ」
めがさめる
どこもいたくない
かゆいところもない
からだはしずかだ
だがこころは
うごく
めがみる
ゆきがふっている
みみはきく
かすかなおと
ひとじちが
いきをしている
どこかで
いま
だれでも
しっている
いきものはいつか
しぬ
いのちは
いつもあやういのに
きもちはまぎれる
そらのくもに
そよぐさきに
うたに
よろこびに
そんな
じぶん
そんな
いきもの
しぬまでの
とき…
しんだあとの
ときへと
うごく
からだに
しばられながら
からだを
よろこんで
どこも
いたくない
あさ
からだは
ここにいて
こころは
うごく
どこまでも
いつまでも
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この人の作品に限らず、“詩”という文学形式は苦手だ。絵画で言えば“抽象画”に相当するのだろうか? いや、少なくとも日本語で書かれたものは表面的な意味は追えるから、なにが描かれているかすらわからない抽象画とは違うか。本書も単語レベルでわからないものはないが、段落単位や全体として見ると「なにこれ?」となってしまう。言葉の響きの美しさはどうにか感じられた。
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たまに谷川俊太郎さんの詩集を
読みたくなるような夜もある
ベージュ(米寿)を迎えると世界はこのように見えるのだろうか…
若さとさよならした事を忘れ 見慣れたものに安堵したり
今日は誰と会うんだっけ?と忘れてしまう事に快感を覚え
“ただここにいる”という事を喜ぶようになり
遠くから聴こえてくる音楽に耳を傾け
美しい言葉に触れ その意味を辿る旅に出かけたり…
どうやら 素晴らしいベージュの世界が待っているようだ
歳を重ねていくことも悪くないかもしれない…
そんな風に感じさせてもらった秋の夜のひととき♡
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米寿、姿、表現方法は違っても、この年齢を重ねたかたはこういう心持ちで過ごしておられるのかな…。過去現在そして、老いについて、枯れてゆくことも生き様だという限りのないなにかを感じました。
特に「にわに木が」という詩、心掴まれ何度も読んでしまいます。
「わたしは
うん
どこか
とおくへいきたいのだ
ここから
とおい
しらなのに
なつかしいどこか
そこには
はやしがある
ちいさなかわがながれている
そこへ」
(にわに木が)の一連より
瑞々しい言葉に目の前に情景が浮かびます
自分がもっと歳を重ねたら、体の変化と共に思考はどうなるのだろうって思いました
「にわに木がたっていて そのうえに そらは ある ありつづける わたしが うまれるまえから わたしが
しんだあとまで たぶん
わたしが そういうと あなたは うなずいた
だまってうなずいた あなたが すきだ」
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自分が米寿になった時、こんなに繊細な詩を生み出せるような歳月を過ごせているのだろうか…。
「寂しさは入口です、そこからしか入れない世界があるんですよ」 (『顔は蓋』より )
寂しさへの捉え方1つでも全く違う。センスの溢れる米寿になりたい。
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『イル』
今日
私がイル
のである
昨日も私はイタ
姿かたちは違っていたが
八十七年前もイタらしい
のである
犬でも
猫でもない
私が
…
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思ったよりも読むのに時間がかかった。個々の作品が急いで読むことをとどめるのだと思う。「にわに木が」がみずみずしい。
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感受したことを言葉にできることって、難しい。
言葉と別れて より
広々とした青空のどこかから
白い雲のひと刷毛が現れて
風に流れるいとまもなく
すぐ消え失せるのを赤ん坊が見ている
老人の私もそれを見ているが
赤ん坊と違って私はそれを言葉で見る
その情景は私の内部から外部へ跳ぶ
私の中ですでに時は止まっている
書かれた情景は一枚の水彩画のように
意識の額縁に収まっている
赤ん坊を抱いて私は散歩から帰る
日常が当然のように戻ってきて
やがて西陽が家並みの向こうに沈む
詩が言葉と別れて闇に消える