紙の本
「没後100年」ということで岩波・中公で5月に揃って刊行
2020/07/02 16:54
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ぴんさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
中公新書の『マックス・ウェーバー』と岩波新書の『マックス・ヴェーバー』。いずれも政治学者による、評伝スタイルを取るウ(ヴ)ェーバー本が同じ月に出たのが面白い。それにしても名前の表記に始まり、書き振りも全然違う。現地でみずから発見した文書も含め、多くの資料を引用しながら、ウェーバーと周辺人物との関係を綿密に描きあげる。頑強なドイツ・ナショナリストとしてのヴェーバー、第一次世界大戦にさいしての態度について、ドイツ人の運命を担おうとするウェーバーの真剣さを読みとる。様々な分野に偉大な足跡を残した知性へのアクセスの鍵となる本書。ネットが解放したグローバル化がウイルスによって壊されていく世界でもう一度、未来を読み解き思考するためのヒントがある。
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Weber没後100年岩波新書版
2021/12/28 14:11
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投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
没後100年に合わせて岩波新書と中公からほぼ同時にMax Weber本が刊行されたが、オーソドックスな入門書を期待するならまずは中公の『マックス・ウェーバー』(野口雅弘著)から入ったほうがいいだろう。表記が異なるように性格を異にする両書なので、そのうえで本書を合わせて読むとさらに奥行きが深くなる。
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2020/09/22 09:47
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投稿者:怪人 - この投稿者のレビュー一覧を見る
伝記論的展開だと著者は言う。一般論として人間は生まれ育った地域、時代、階層、歴史や文化等の環境に大きく影響を受けて成長する。ヴェーバーといえど例外ではなさそうだ。彼の学問的業績についてはよくは理解できていないが、彼の人生はよく理解できた。
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副題に「主体的人間の悲喜劇」とある本書は、著者が提唱するヴェーバーの「伝記的論的転回」によって、新たなヴェーバー像を描き、「人間の「主体性」(ドイツ語ではSouveräntiät)の追求こそ、ヴェーバーの人生を貫くテーマだった」(p.230)ことを示している。もともとこの「主体性」なる用語・概念は戦前期日本の西欧からの自立、戦後は国家や集団からの自立という意味で安藤英治(1921-88)が使用した用語であり、その意味で本書もヴェーバーの伝記的研究の先駆者としての安藤へのオマージュであると述べられている。
では、主体性を追求していったヴェーバーは、立派な人間であったのか。答えは否であろう。良く言えば、「独立自尊」悪く言えば「傍若無人」なナマの人間、ヴェーバーは近くにいたら敬遠したくなる人物であったに違いない。しかし、その一方でヴェーバー・クライスと呼ばれる自宅のサロンでの個人的接触等を通して、広範な感銘と畏敬の念を多くの人々に呼び起こしたこともまた事実である。
最終章のアドルフ・ヒトラーとの対比ではヴェーバーとヒトラーとの共通点と相違点を考える上での主要論点が8つ列挙されており、素直に読めば、どうもかなりの共通基盤をもつと言わざるを得ないようだ。つまり、当時のドイツ国民がなぜヴェーバーやヒトラーに惹かれたのか。そこに重要な問題が存在しているように思われる。
本書はヴェーバーの「伝記論的転回」を、読者にわかりやすく示そうとしており、今までの漠然としたヴェーバーのイメージをかなり変えたという意味で魅力的である。一方、多分これからそうした伝記的な基礎を前提として、ヴェーバーのテクストに今一度立ち戻っていく必要があるのだろう。
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著者が云うところの、ヴェーバー研究の"伝記論的転回"を踏まえて著された評伝である。評伝、特に思想家や学者についてのそれは、代表作を中心に、その内容や受容のされ方、後代への影響を論じるというものが多いが、本書は、ドイツ「マックス・ヴェーバー全集」に依拠して書簡や講義その他の資料を駆使し、ヴェーバーの人物像を浮き彫りにしている。
学生時代に「プロ倫」や「支配の社会学」、「職業としての政治」などは必読書とされていたので読んだが、どちらかと言うと、近代主義的評価からヴェーバーのイメージを持っていたし、書斎で沈思黙考する学者という印象を持っていた。本書では論争、論難、決闘をも厭わない姿や、ドイツナショナリストの立場から、ポーランド、ロシア、ユダヤ人に対して、どのような見解を持っていたかなどが取り上げられており、今まで、本当に一面的な印象やイメージしか持っていなかったか、思いを新たにしたところである。
日本ではヴェーバー研究、ヴェーバー受容には相当の厚みがあり、そうした中で、本書のスタイルには好き嫌いが分かれそうだが、貫かれた問題意識の下に書かれた本書は、一般読者として大変興味深く読めた。
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2冊続けて読んでみたけれど、正直言って、ヴェーバーの思想は全く分からなかった。私の読解力不足と、通勤電車の中で半分寝ながら読んでいるということはあったとしても、結局何だったのか。姜尚中さんあたりが漱石とヴェーバーと言っているし、いつかちゃんと読まないとなあと思っていて、いい機会だと思ったのだけれど。本書でわかったのは、ヴェーバーが嫌な奴だということだけ。「おわりに」にある。「ヴェーバーの主体性を語るならば・・・辛辣な他者攻撃、自分および自分側中心の状況認識・・・」この悪い方にしか目がいかなかった。「プロ倫」は確かに家にある。読んだ覚えはない。大学の一般教養で購入したのか、はたまたつれあいがもっていたのか。いずれにしても、いつか読みたいと思っていたおもいは消えてしまった。本書の役割はいったい何だったのだろう。まあ、はっきりとした(それが間違っているとしても)人物像ができあがってしまったことだけは確かなようだ。
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副題の「主体的人間」には、確立された自己というだけではなく、自分勝手という意味も含まれる。ヴェーバーにおける2つの側面をともに把握しよう、という意図から著された評伝。社会ダーウィニズムへの関心や、周囲とのイザコザ、自己矛盾など、これまで十分には目を向けられてはこなかった側面に光を当てている。
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ヒットラーとの類似が秀逸。ポーランド人入植への反対だけでなく、6項目に渡り記載あり。日本第三世代のウェーバーと記載している。
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本書は、「知的巨人」マックス・ヴェーバーの「人格形成物語」を描く試みであり、ヴェーバーの個別作品の解説ではなく、「伝記論的転回」として、それらの作品が生み出された人格的・歴史的文脈を描いている。
本書により、主体性を追求しつつ、攻撃的で、熱心なドイツナショナリストであり、自分及び自分側中心(プロテスタンティズム・ドイツ・西洋など)の状況認識をしがちであったといったヴェーバーの様々な側面が理解できた。
正直、これまでウェーバーは「学問の価値中立」を提唱した知的に謙抑的な人物だと思い込んでいたが、ヴェーバーは決して「世事を超越して知的に精進した求道者」ではなく、ポーランドへの蔑視をはじめ、バイアスにまみれた存在であったということがよくわかった。しかし、だからといってヴェーバーの業績が無価値ということになるわけではなく、そういう背景があるということを押さえた上でヴェーバーの著作を読み、その限界も含めて理解する必要があるのだと感じた。
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ウェーバーの全集を丁寧に読み解いたうえで彼の生涯をたどっている。これまでのウェーバー像は読み解く立場によって大いに左右されてきたことがよくわかる。
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ヴェーバーの思想よりも生き方に重きを置いた詳細な記述。
愛国者だったんだ、従軍経験もあるんだ、多くの愛も求めたんだ、言ってることとやってることが違う場面もあったんだ、など英雄としてではなく、人間としてのヴェーバーが描かれている。
勝手に想像していた理想的なイメージは崩れたが、後書きで著者が書いているように、白か黒かの人間観は浅薄であることを改めて認識した。
時代と対峙する中で、彼が提示した社会学的概念は背景を加味すれば、今も色あせない。
最終章のヒトラーとヴェーバーの共通する点と異なる点は興味深い。
最近読了した『危機の政治学』『社会学史』と響き合いながら、重層的な政治と国家に関する思索を巡らせた。