紙の本
「無言の証人」を守るのは私たち
2021/09/28 16:05
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1945年8月6日、一発の原爆で焼き尽くされ、多くの人々の命が奪われた広島。その広島市内に今も残っている被爆建物や戦争遺構を舞台に、横浜の中学生(修学旅行生)たちが織りなす四つの物語で構成されている。
いくつか紹介すると。 「広島壊滅」の第一報を伝えた中国軍管区司令部跡(旧防空作戦室)とか、最近、全国ニュースでも取り上げられる、広島市最大級の被爆建物で、被爆直後には臨時の救護所にもなった旧陸軍被服支廠(ししょう)。
いまは当時のことを話せる被爆者はほとんど亡くなっていて、生徒たちは、もうこの世にいない「あなた」が「いたところ」から、ずーっと昔の出来事を想像するしかない。
それはとても難しいことだけど、生徒たちは「場の持つ力」をたよりに、五感でヒロシマを受けとめていく。
若いころに修学旅行生として、同じ場所を訪れた経験のある引率教員たちが登場するのがミソだ。
中学生の時と、それから10~20年後の今。
人として成長した教員たちは、受け止め方も変わる。そして歳月によって文字通りの「風化」も実感する。
昨年の「ワタシゴト」の続編という位置づけだそうだ。「ワタシゴト」は、原爆資料館の遺品が、被爆体験を若い世代が受け継ぐ「糸口」だった。今度は、被爆建物という「無言の証人」がそこに存在する意味を考えさせてくれる。それを残す意味も。
巻末には舞台となった建物の解説や地図も付いていて、若い人たちの平和学習にもお薦め。
14歳の話だけど、小学校高学年から大人まで、幅広い世代の人に読んでほしい。
紙の本
『あなたがいたところ ワタシゴト 14歳のヒロシマ・2』
2021/08/19 19:38
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投稿者:百書繚乱 - この投稿者のレビュー一覧を見る
修学旅行で広島の「被爆建物」を訪れる中学生と引率の教員たち
中2の秋から学校に行っていない修
「もと呉服店」を調べるうちに修学旅行に行く気になり、体験記を朗読する
──「もと呉服店」
心身が不安定な母と二人で暮らす朋
「もと陸軍被服支廠倉庫」を見学していると、建物の声が聞こえてくる
──「もと陸軍被服支廠倉庫」
など、広島在住の作家と広島を訪れる横浜の中学生との二十年以上にわたる交流を通じて生み出された四つの物語
《広島市の「被爆建物リスト」に登録された建物は、計八十六件。
(爆心地から半径五キロ以内。二〇二〇年現在)》
ささめやゆきによる素朴なタッチのイラストが印象的な『ワタシゴト 14歳のひろしま』(2020年)の続編、2021年6月刊
書名の「ワタシゴト」は「記憶を手渡すこと=渡し事」と「他人のことではない、私のこと=私事」の意味をあわせた著者の造語
中学生たちが過去から渡された記憶に出会い、未来の自分をつくっていく機会となる広島修学旅行の再開が待たれてならない
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児童文学から戦争を知るのもいいなあと思いました。私は、原爆ドームしか見たことがなく、この本を読んで、他にも被曝建物があることを知りました。
高校の修学旅行で、初めて原爆ドームを見た衝撃は今でも忘れることはありません。
筆者の後書きにもありますが、「場の持つ力」というのは本当にすごいです。
作者の造語「ワタシゴト」記憶を手渡すこと=渡し事他人ことではない、わたしのこと=私事が心に刻まれました。
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広島の原爆ドームに行ったことがないのですが、この本を通して行きたいと思いました。
児童書なだけあって、読みやすいし説明もあり分かりやすいです。
この本を読んで、広島にはまだ聞いたこともない戦争の跡があることを知りました。
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広島の平和記念公園を見学した生徒が自分と関わりの深い物と記念館にあった物とをオーバーラップさせ、当時を想う前著の次巻。この本では、生徒や先生がその場所に立つ事で想いを馳せている。
1章はあまり長くなく、読みやすいので両方読みたい。小学校中学年でもよめそうだが、歴史を知ってから読んだ方が良いかと思います。
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ヒロシマに修学旅行にいく中学2年生たち。
それぞれのヒロシマ。
引率する先生の胸に去来するもの。
当時、被爆した人にとってのヒロシマ。
〇とつとつとした語り口が、途切れたものを考えさせられる。
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『ワタシゴト』とは
渡し事=記憶を手渡すこと
私事=他人のことではない、私のこと
二つの意味を持つ、作者、中澤晶子さんの造語。
広島市の「被爆建物リスト」に登録された建物は、計86件(爆心地から半径五キロ以内。2020年現在)。
前回読んだ、「ワタシゴト」の続編で、今回は被爆建物をテーマにしておりますが、いずれも、私の知らなかったことばかりで、改めて、ワタシゴトにしたい気持ちがより高まりました。
《もと呉服店》
「修は読みながら、これを書いたひとが、おれを見ている、と感じていた。それは、不思議な感覚で、なぜかあたたかかった」
「長瀬先生も、丸山先生も、そしておれたちも、時間差でここに来た。でも、ここで起こったことは、永久に変わらない」
《もと防空作戦室》
「わたしは、長い間、言えなかった「ごめんなさい」を言うために、ここに来たのだ」
《もと陸軍被服支廠倉庫》
「わたしのなかにある、100年以上の町の音やひとの声、それをここに来て、みんなできいてほしいと思います」
《似島》
「目の前に見える風景と、むかし、ここで起こったことの、落差。茜は、きらきら光る水面を見つめる。まぶしい。涙が出そうに、まぶしかった」
「いつか、わたしだって、いろいろなことを整理できるときが、きっと来る。茜はそう信じようと思っていた。だから、忘れない。なかったことにしない」
それぞれの場所で、それぞれが感じた様々な思いを読んでいく内に、私自身、認識を誤っていたと感じ、それは、どれだけの方が亡くなったというよりは、そこにいた、一人一人の人生に思いを馳せて、ひとつひとつ感じ取ることが、大切なのだということを実感いたしました。
戦争という過ちを繰り返さない、それは勿論だけれど、その中でも、懸命に生きていた人たちの、聞こえざる声や、見えざる姿もあったこと、そして人生があったこと、これは、決して忘れてはいけないと思いました。
それから、本書で最も印象的だったのが、前回も書かれていた、元中学校教員、「赤田圭亮」さんの「ひろしまを語り継ぐこと」の中で、詳しく取り上げられていた、被爆者「岡ヨシエ」さんです。
岡さんについては、上記の《もと防空作戦室》の話で、当時修学旅行に来ていた、村木先生のエピソードが胸に染み・・その後、先生は、岡さんの体験記を読み直し、自分は最低だと思い、夜ベッドの中で生まれて初めての、真剣な後悔の涙を流されたそうです。
このように本書では、中学生だけでなく、先生方にとっての、ひろしまに対するワタシゴトも窺えることで、子供だけでなく、大人も、より感情移入できると思いましたし、親子揃って考えるのにも、いい作品だと思いました。
そして、私自身のワタシゴトの一つとして、どうしても、岡さんのエピソードを掲載したく思い、長文になりますが、これを読まれた方が、何か、ひろしまについて、少しでも考えるきっかけになってくれたら、と思います。
《赤田圭亮さん「ひろし��を語り継ぐこと」より》
1945年、岡さんは比治山高等女学校三年生、14歳でした。八月六日の朝を防空作戦室の隣の指揮連絡室で迎えます。ラジオの放送局など各方面に電話で情報を伝えるのが岡さんの任務でした。五日の深夜は幾度もB29爆撃機が襲来、岡さんは一睡もできませんでした。
八時九分過ぎ、防空作戦室に「B29三機、広島県東方向に向かって侵入」という情報が入ります。このうちの一機が原子爆弾を積んだエノラ・ゲイ号でした。岡さんが「八時十三分、広島、山口に警戒警報発令・・・」のハまで言いかけたとき、近くの小さな窓がピカーッと光り、オレンジ、白などの強烈な明るい光が飛び込んできたそうです。そこは爆心地から790メートル。直後にはすさまじい爆風が襲います。岡さんは三メートル吹き飛ばされ、気がついたときには大きな電話交換機の下敷きになっていました。
岡さんはけがをした友だちと作戦室の階段をのぼり外に出ます。すると目の前にあるはずの大きな軍の建物がみなぺしゃんこにつぶれていました。岡さんは一人、壕の土手に上がり、市内を見渡します。街はどこまでも一面赤茶色、遠くに見えるはずのない瀬戸内海が見え、似島がポコッと浮かんでいるように見えたそうです。
部屋に戻ると、けがをした友だちがかかってきた電話にこたえています。岡さんも立て続けに電話をかけます。五つ目の電話機が福山の部隊につながり「広島が全滅しました」と伝えます。「なに、全滅? そんなことあるか!」とおどろく相手に岡さんはとっさに「新型爆弾にやられました」とこたえます。「新型爆弾」という言葉は近くに倒れていた兵士がつぶやいた言葉でした。
市内が地獄絵図さながらだったことは、岡さんの証言が克明に伝えています。ふたりは夜が更けるまで、仮説の救護所で級友を含むおびただしい数の瀕死のひとたちを懸命に看病し、看取ったのでした。
岡さんにとってこの日がどんなものだったのか。十四歳の中学生の前に突然出現したこの世のものとは思えない光景、そのときの岡さんの身をよじるような思いを、私は十分に想像することができません。
岡さんが被爆体験を語りはじめるのはそれから四十八年後のこと。私たちは、被爆者はみな体験を証言していると思いがちです。しかし実際には証言者の数はとても少ないのです。被爆者に対するいわれのない差別もありました。何よりあの日のことを思い出すだけで心が不安定になってしまう、それほどに被爆体験は壮絶なものです。大多数の被爆者は、当時の記憶を心の奥底にしまい込んだまま生涯を終えていくのです。
脳裏から消えない凄惨な記憶、無念の思いを抱えて亡くなっていったたくさんの級友たち、戦地や原爆で亡くなった二人の兄弟たち、三十代半ばで亡くなった息子さん、岡さんが被爆体験を語ると決意するまでには、長い長い自問自答があったのではないでしょうか。岡さんの背中を押したのは「あなたの証言を多くの友だちがききに来て、ありがとうと言っている」というお友だちの言葉だったそうです。
お話をやめて帰っていった岡さんの気持ちが、私は少しだけわかるような気がします。そこは、たくさんの友だちが亡くなった場所、痛恨と祈りの場所。亡くなったひとたちの声に耳を傾けようとしないひとたちには話したくない・・・
これを読み、私は被爆体験を語る人への認識を、改めることができました。どれだけ大変でしたねなんて思っていても、その思いは本当に、岡さんのような、壮絶な体験を理解出来た上での思いだったのかというと、けっしてそうではありませんでした。
ただ、それに対して、情けないとか思う暇があれば、少しでもできることをしようと思い、幸いにも、今の私の趣味がブクログということもあり、このような書き方をさせていただきました。
ここまで、読んで下さった方、ありがとうございます。きっと村木先生も、当時、岡さんに対し、心からの申し訳ない気持ちが芽生えたことで、初めてひろしまを、ワタシゴトにすることができて、後に教師となり、生徒たちそれぞれに、ワタシゴトを繋ぐ役割をされているのだと、思います。