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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
重信房子がどんな綺麗ごとをを語ろうと空しい、腹立たしい、人命を軽んじて誘拐やハイジャック、そしてフランス大使館占拠事件、なのに自分はベッドの上で死にたいと帰国、勝手なものだ
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「魔女」さんの最新刊。アラブ赤軍から日本赤軍への過程を活写。私見ではあるが、1972年が「はじまりのおわり、おわりのはじまり」であれば、2001年9.11までが、「一つの時代」であって、その期間の類稀な体験を背負って来た活動家(革命家)の真実の記録である。リッダ闘争の必然性が淡々と書かれているが、国際根拠地論の実践として最も良質な部分の物語であろうか。
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立場が変われば見方も変わる。パレスチナの気持ち、連合赤軍の顛末などが、また別の角度で見えてくる。それにしても自分のことだけで精一杯の人々の中で、日本人でもない人々のために闘った人達がいるというのはすごいことだ。
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赤軍派は一つが連合赤軍となり浅間山荘事件を起こしもう一つはパレスチナゲリラに合流してテルアビブ空港乱射事件をおこした.今までの僕の知識はそれだけだったが当事者の手記によりいろいろな疑問が解けた.驚いたのは重信房子は全く悪いことをしたとは思っていない.もう一つ驚いたのは表紙の彼女の美貌.
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うーん、何か読み辛かった。。ただ、パレスチナ問題については勉強になった。次は娘さんの著書を読んでみたい。
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木の股から生まれてくるわけじゃないんっだぜ。
親は選べないものだ。生き方の否定は意味ないだろう。所詮時代の流れに
翻弄される木っ端みたいなものでしょうし。
何故に思想のために「たかが思想」のために大勢の被害者がでるのだろうか。
悪いけどその時点で俺ちゃんは却下です。
革命したいだあ?一人でやれよ。俺は仲間にすら入れてもらえないんだぞ
なんせシーラカンスじゃけん。
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重信房子は日本で逮捕され、判決をうけた。
支援者は中核派か?
国土は不定でも、PLO(パレスチナ解放機構)は、たしかに国家であると言わざるを得ない、国家とは“見ず知らずの同胞”を守るためには死をも厭わぬ擬制。さて日本人でそれに関わる《大義名分》は?『国連否定』?
’72年2月日本中を震撼させた「あさま山荘事件」、そこにいたる山中行での「粛正=同志虐殺」が暴露され報道された時には、彼女は同志奥平と偽装結婚してベイルートに居た(前々年から)。PFLPで軍事訓練を受けていた同志奥平はかつての仲間のリンチ死に悲憤し「何故なんだ」と悩み、自分の死に方で「本当の革命家の死に様を見せよう」と決意した、らしい(p144)。
1972年5月30日イスラエル側が無差別乱射のテロ行為と発表した「テルアビブ空港乱射事件」を、著者=房子は「管制塔制圧を目指し一時目的を果たしたが、うろたえたイスラエル警備兵の無差別応射で一般人に多くの犠牲者が出た」とする(竹中労『世界赤軍』も、犯人遺体の弾痕から一方的射撃ではなく「銃撃戦があった」とし、それを裏付けている)。5月1日のハイジャックに要求を呑むと騙して赤十字車から出た特殊部隊が制圧したこと(ハイジャッカーが文句を言えた義理か)と’48年の集団虐殺への報復、が《大義》とされた。
パレスチナ人が入れ無いイスラエルの(半ば軍事用の)空港襲撃を奥平ら日本人コマンドが実行し、二人が応射で死亡、ひとり逮捕された岡本公三は「自白すれば自決用のピストルを与えるとの甘言に経緯を語ったが、引き金を引いたピストルに弾は入ってなかった」ということで服役し「捕虜交換で」生還し、今はレバノンに居るらしい(テロではなく「軍事作戦」とみなすにしても多数の民間人死者を出しており、事件から40年しか経っていない彼を「一事不再審」で国際手配を解いてほしいとは甘過ぎないか)(ライラというハイジャック犯=テロリストが日本の法廷で好き勝手なことを証言したというのにも驚いた)。
さて彼女の報告するところでは(竹中労など多少裏付けはある)全アラブはテルアヴィブ事件=戦果に歓喜し(アラブはそれぞれに利害対立してるが「反イスラエル」ではまとまっている)、米国の植民地のように見られていた日本への認識は様変わりに良くなったという。そういえば’73年「石油ショック」のときに、日本だけは「特別枠」を貰ったのだった(「石油に目がくらんで」米追従を一歩脱した二階堂官房長官発言のせいもある)
外交で米国に追従する日本政府は、100万ドルの見舞金と謝罪特使を送り、’77年「ダッカ空港事件」という、あらたな報復行動を呼んだ。(’72年ミュンヘン五輪イスラエル選手団人質事件=襲撃時2人、人質7人全員死亡は別組織とされている。その事件の犯人のうち5人は制圧で死亡、逮捕された3人を西ドイツは同年10月「ルフトハンザ機ハイジャック事件」で人質と交換に釈放。同情はイスラエルに集まり、イスラエルは激しく報復した)
当時、ラジオパーソナリティー浜村淳が「出来る筈も無い革命理論を振りかざして」と言ったのを思いだす。「出���そうにないのが出来るのが革命」「少数が体制変革を多数におしつけるのが革命」ではあり「なにかの見通しはあったかも知れない、たとえ革命勢力の存在を知らしめるだけでも」と思ったものだった(坂本龍馬もレーニンも孫文もゲバラも成功するまではただの「浪人」にすぎない)(逆に言えば「浪人」を生み出す社会環境がなければ革命は起こらないだろう)。それにしても「一縷の望み」もなければ単なるテロ行為にすぎない(さもなければ自殺願望か、統合失調症か、愉快犯か)。無謀といわれる太平洋戦争も「日本が太平洋を制圧しドイツがヨーロッパを制覇すれば、両大洋の交戦を避けたい米国は妥協してくれるかも知れない」という見込みがあった。テルアビブの管制塔をかりに占拠出来たとしても、そのあとイスラエルが妥協するとは思えないが?佐藤優は「そのあと社会体制をどうするかを考えないのが真正のテロリスト」「テロはされた方に同情が集まるから不利」と言っている。確かにその後、報復(他国の根拠地爆撃はやり過ぎだと思うが9.11がアフガニスタン、イラク侵攻を招いたのと同じく相手に激怒させ報復させるのが狙いであったのだろう)を国際社会は容認したし、空港の荷物検査など厳重になっても文句を言うことは出来なくなったのはイスラエルに有利であろう。
「父祖の地を奪われた」人々が、抗議するのに死を賭すのは理解出来る。しかし日本人がパレスチナ人に同情するあまり死をも辞せざるという心境はどうか。彼女等が不当占拠とするイスラエルも自国を守るためには一歩も引かないと決意している。
いずれも愛国心からの行為だが、重信房子の愛国心は何処に向けられているのだろうか。「真の民主主義」とか言っているが、彼女の憎むアメリカ合衆国が民主主義の国でないとすればどこに民主主義の手本はある?愛児の父の国か。PFLPがイスラム原理主義と一線を画しているのは知っているが、イスラムは民主主義と相容れるだろうか(とはいえ「再生可能」なエネルギーで維持できるか自信を喪失している資本主義にかわる一つの希望ではある)(からこそ、国際的にニューレフトなどの人材を蝟集したPFLPにかわり宗教原理のハマスがPLOの主導権を持つようになったのだろう)。
(話はさかのぼるが)’69年「佐藤栄作訪米阻止闘争」で「軍事訓練」していた同志が11月5日、公安警察のスパイの内通により、一網打尽に捕らえられた「大菩薩峠事件」から首脳部に猜疑心が強くなり追い込まれていたらしい。「あさま山荘・立てこもり」に至るまでの凄惨な「軍事訓練」と自称した迷走を(オウム真理教が「修行」と称して殺人をしたのと酷似している、としか思えない)、彼女はそれまでリーダーだった「Cさん」が突然引退を表明し、悪名高い森恒夫がトップになったことも悲劇の一因と考察している。’69年12月には「革命左派・京浜安保共闘」が「銃奪取闘争で板橋の交番を襲って銃撃され、仲間が一人殺されていた」(P35)とも言う。(殺人の道具を奪おうというのは殺人に準ずる行為だから撃退されたのを「殺されていた」と被害者意識があるのが可笑しい、銃社会でない日本で「銃を持とう」という権力奪取願望、あるいはテロリズム志向はどうか。世間の共感は呼ぶまい)
“国家主義”と���つうには訳す“nationalism”は、民族主義でもある。俺の理解では、右翼とは国家が民族としての伝統の上に成立する擬制と捉え、家族制度、共同体の規律、などそれを維持する下部機関を維持するためにルール、モラルと違反した場合のペナルティ=暴力装置の存在を肯定する。韓非子に代表される、簡明に言えば性悪説である。「武とは、矛を止める、正義の抑止力を意味する」というのも宜なるかな。たとえば国旗に敬礼すれば、内心は問わない社会である。あらゆる国家で儀式が重要視されるのは宗教に起源しているからばかりではない。
革命以前にはフランスでは「叛徒出現」を赤い旗で警報した。「革命」はそれを逆手にとり自らの旗章としたのが、赤旗の所以である。すなわち左翼とは、アメリカ独立宣言にもあるように「一定の条件の元では、自らの政府をあらゆる手段で=暴力的にさえも、覆すことが容認される」という思想である。著者等は入国できないこともあって米国を強く嫌っているが、アメリカ合衆国は世界最初の左翼政権といってよい(フランス、ジャコバン政権もほとんど同時だが)。いずれの国でもそうだが、民主主義の根幹は国民教育である。「歴史教育は歴史研究とは違う」。だから他国の教科書に注文を付けるなど非常に失礼なことである(とはいえ英国の教科書からEUの抗議により「1588年スペイン無敵艦隊の壊滅」は削除されたらしい)。(俺の理解では)左翼とは性善説で「環境によって人は悪に染まり、悪をなすから、教育=ことに集団主義教育と宣伝、説得で改造できる」としペナルティーとしての刑罰よりも教育刑を行い、内心の規範を形成することで社会秩序を保とうとする(俺の理解では秘密警察と密告奨励につながった)。朝鮮民主主義人民共和国で「自由投票」すれば、開票するまでもなく現指導者が100%の支持を得るだろう。日本において左翼政権民主党の3年は「私の方がもっとうまくできる」と、走っている自動車のハンドルを横取りして暴走した感がある(と思うがどうか)。まったく素人の著者はどのように政治をしたいか。ポルポト政権や現・北朝鮮のようにしない具体的目処はあるか。
20世紀は「戦争と革命の世紀」と言われるが、ことに三分したラストの1/3は理想の社会の実現を目指す革命勢力に、混迷・迷走の感が深い。左翼の目標である「共産党政府中国の国連加盟」が果たされたのち、文化大革命(正確には「プロレタリアート文化大革命」)の惨状が漏れ伝わってきたからであろうか。(毛沢東の大量殺人について本書に言及が無い、口絵のPFLP幹部との2ショットの背後に尊敬する遺影としてゲバラとともに掲げられているのは不審)
第二次大戦の惨禍(ことにその結末に用いられた原子爆弾は《人類の終り》さえ危惧させた)を繰り返さぬための国際連合(United Nations)は、国際連盟とちがって「必要なら国連軍を組織し積極的に紛争を集結させる組織」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/121212/chn12121207530002-n2.htm
を持つことによって平和を担保した。それに異をとなえる者は、いかなる秩序を目指すのか提示しなければ“平和の敵”とされてやむを得ない。父祖の地を奪われた人々があらゆる手段をとって抵抗するのはまだ同情されるだろうが、直接見聞も、当時の報道も体���していない日本人が間接証拠だけで「イスラエルは悪」と確信しそれに基づいて行動するのは、どうだったか。
反省しているような言葉もあるが、「死に場所」を得た恍惚が語られる分量が遥かに多い。
革命家は命を危地に晒すことで実感する、しかし若いものは命を軽んじる。俺のように残り少なくなると命より記憶=経験を捨てるのが惜しいが、失望感、ニヒリズムも心中に育ち、それだけの価値のあることがあれば捨てても良いかなとも思う。2002年3月30日焼身自殺した檜森孝雄の遺書には「イスラエルの解体、すべての侵略国家の解体を」とあった。国家の庇護を断った彼を非難はしないが、(『フランシーヌの場合』の1969年3月30日フランシーヌ・ルコント30歳の焼身自殺はベトナム戦争、ナイジェリア内戦に抗議してのものだったとされる)
「侵略」とは「唸り語」であり、それなしで成立した国家は無い(呉智英のいうようにネアンデルタール人の国家でもあれば別だが)。国という子宮に守られて無辜の民は一生を過ごし平和なときには意識することもないだろうが。侵略国家・中国が国連の拒否権を持っていることが今日では国連の機能不全の主因となっている。
「長い目で見れば、敵意の海の中のイスラエルは存続できない」という人がいる(佐藤優によるとアメリカ人のみならずイスラエル人にも)。イスラエルの起源は20世紀初頭のシオニズム運動で、その民族意識のたかまりがナチスによるジェノサイドを招いたとも言える。ユダヤ人がふたたび流浪の民となり民族性を無くすときを「パレスチナの平和」と呼ぶのであろうか。「ユダヤ人は祖国を持たないから愛国心が無く資本の原理だけで動く」と今日のグローバリズムのようなことで嫌われていたのであるが(いや、そう書いてあるのを読んだだけだが)(日本人にとってパレスチナ人の迫害は目前にあり、ユダヤ人にたいするそれは目にしなかったから前者に同情したのか)。
偶然にも俺の祖父の名は『重信』という。人心のつながりを信じることを重ねて組織は重層化し、やがて赤の他人も包括する《国家》=あるいは民族となると言えよう。「国家など、命に換えるほどのものではない」というのもよかろう。しかしこの本に報告される’70年代のレバノンが、あるいは21世紀のアフリカ諸国が、国家としてあまりに統治の弱い悲劇を見よ。あるいは極端な場合チェルノブイリ原発事故のようなときに『命を捨てても炉心熔解を止めてくれ、あとに残る家族のことは心配するな、英雄の形見として面倒見る』と言えるのは、『国家』いがいに何があり得る?(おそらく消防士たちは放射能の怖さを知らなかったろうが)
批判を述べる以上、彼女の他の本には書いてあっただろう「世界同時革命」理論を良いオトナがどう納得していたのか、それと娘・メイの著作も読むべきであったが残念だが手が回らなかった。メイ氏は中東問題に新たな視点を提供してくれたと新聞書評にはある。俺は意見を判断するのに、語る人物の容姿によって左右されたくはないと思うが、重信房子氏には、まるで表紙の写真そのままの少女のような純真さを感じるが、何より分からないのは「支援グループ」がいまだにあること、あれだけのことをした彼女の刑��終了まで「あと8年」が不当だとか長過ぎるとか言えることだ。リーダーシップを執るほどの迫力は文章から感じられないように思うが、そこが人を惹き付けるのだろうか。
散見される彼女の理念を支援する人々を言う「ボランティア」との語にも、懸念を覚える。「ボランティア」とは日本人のふつうの理解では「震災ボランティア」のように、誰からも文句つけようの無い純粋にプラスの活動を無償で行う「志願者、有志者」だろうが、volunteerとは「志願兵」でなかったか?ひょっとして一部のものに「歓呼の声」を挙げさせ、影響を受けたものに報復を誓わせるような行動を言っているのではないか?
読む人を選ぶ本である(他の方の感想を読むのは脱稿後とする)。『革命の季節』とは、よくも名付けた、地球上に革命の幻想は20世紀後半を節として季節のように過ぎ去ったように思われる。のこるのは過ぎ去る季節を惜しむような、情熱の追憶だけか。幻冬社社長・見城透氏の序文は5.30の衝撃を「その日を境に」と語っておられる。革命の「大後方」とされた中国にもはや紅衛兵も人民=プロレタリアートさえも“グローバリズム”で姿を消し上昇志向の拝金主義者ばかりになったことを知らない重信房子が小児とすれば(ポルポトの大虐殺にも少年兵が使われたように行動力あり洗脳しやすい若年ほど怖いものは無い、まさに『新しき時代を作るのは、青年の熱と力である』)、俺は胎外に出ていない胎児に過ぎない、しかし。「テルアビブ空港乱射事件」が無差別大量殺人でなはなく軍事作戦であったことを俺は納得するが、世間の通念は、たとえば藤原弘達『独断の戦後史』「日本でうっ積した変革エネルギーがあたりかまわずバラまかれた感じがなきにしもあらずであった。アラブ・ナショナリズムの大義のためには、彼らは何をやってもいいという発想があったのではないか」というように冷たい。(いま調べたがそう言えば藤原の本には人心が決定的に左翼過激派から離れた’74年8月「三菱重工爆破事件」が載っていない、愚劣の極みで論じるに値しないか)。彼女の名は永田洋子、松本知子(麻原彰晃の妻)、木嶋香苗、角田美代子らとともに後世に「鬼女」とされる運命にある。
とはいえ結局は彼女等が正しいのかも知れない。社会主義経済の失敗であらためて示された「市場原理より良い再分配システムは無い」という認識により世界を覆うグローバリズムは貧富の差を広げ、富者に集中する富は資源の浪費、環境破壊のみならず、政治の空白、軍事衝突のエスカレートを招きかねない。佐藤優は「国連も機能不全で、世界は新・ジャングルの時代に突入した」と言う。憎み合いつつも(政治家は隣国に嫌われるほど自国民に人気が出る)貿易を止めないのが金融資本の論理で、まさに「我が亡き後に洪水起これ」であるのは大国を自負する中国が地球温暖化防止などに協力しないことにも顕著である。「原発容認」は若い世代に多いという、政治として「豊かさ」を自ら捨てるような宗教的とさえいえる選択は戦時以外おそらく例がない。けれども「原子力利用派生物」は「人類の死」につながりうる。死を受容することは人生の最後の知恵だが、まだ若い、あきらめない彼女には人類を救う知恵があるかも知れない。自分の「死」をもてあまして「死刑になりたい」という犯罪さえ起きる近代社会(死刑制度がある以上必然ではあるが)に生き、文明の破滅、種族の死滅も個人の死と本質的には変わりないとする無神論者にとっても、『渚にて』のような《人類の死》はいかに悲しいことであろうか。彼女には革命戦士として死を受け入れた同志に替わり、人類愛に目覚めた一人一人の人間が生を選択する知恵を授けてほしいと願って、長大になったがこの稿を終わる。読む機会を与えてくれた幻冬舎に感謝したい。
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学生運動、日本赤軍、パレスチナ、ハイジャック、テロ、あさま山荘事件、、、
なんとなく、繋がって、裏側がわかったような気がする。
政治犯は、体制派、反体制派が紙一重で、どちらが正しいかなんてわからない。。
リッダ(イスラエルのテルアビブ空港)闘争も、現地の軍隊による乱射が犠牲者を増やしたのかもしれないし、、、