紙の本
飢饉の一番の対策は他の地に逃げること
2023/05/14 15:26
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投稿者:つばめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は大手生命保険会社を経て、生命保険会社を創業、現職は立命館アジア太平洋大学学長である。著者はこれまで多くの世界史に関する著作がある。この経験を活かして、世界の歴史の大きな枠組みの中で、日本の歴史を捉えるというのが著者の意図である。本書は『週刊文春』連載記事を加筆修正したものである。室町幕府の終焉から江戸時代末期までを対象に、中国大陸や欧米の動向と対比させながら、日本の歴史を解説している。同シリーズの古代篇、中世扁のように巻末の系図を参照しないと理解しづらい記述がない。歴史の流れの大枠や各時代の特徴を知りたい読者向けの一冊であると思う。著者の歴史解釈の一部を紹介する。◆宗教改革の意味するところは、ローマ教会は失った領土を取り戻すか、その代わりの土地を探さない限り、お布施が入らず組織が維持できなくなるということ。◆「武士道」は明治時代の造語であり、江戸時代、「武士は武士道に殉じていた」というのは幻想。◆江戸時代の紛争解決は書類で争う(裁判)が主であり、幕末の世直し一揆を除き暴力的な一揆は例外。◆江戸時代の高識字率は幻想である。江戸時代初期には、村や町では庄屋や町役人などが、読み書きできた程度であり、明治維新の三、四十年前の江戸時代後期になって、寺子屋が急増。◆ペリー来航時、クリミア戦争で列強の目がアジアから逸れているさなか、大局観に優れた阿部正弘が老中首座に就いていたのは、日本にとって幸運であった。阿部は安政の改革で、身分を問わずに有能な人間を抜擢、陸軍、海軍、東大の礎となる組織を整備した。◆江戸時代は、飢饉が頻発、庶民は戦国時代以上に死亡。飢饉になったときに一番簡単な対策は、他の地に逃げることであるが、江戸時代には移動が禁止されたこともあり、被害を増大させた。
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【江戸時代に生まれたくなかった】飢饉で餓死者続出、身分の固定化、移動禁止…。江戸時代は史上最低の時代だった? 教養の達人が語る驚きの「日本史」講義、第三弾!
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歴史をわかりやすく解説してくれる出口さんの本はこれで12冊目となります、手軽に持ち歩ける文庫シリーズが出たので読んでみることにしました。戦国時代の有名な武将といえば、やはり、信長・秀吉・家康となりますね。
日本は彼らがこの順番で天下を制覇してくれたおかげで、西欧などに遅れずに発展する事ができたのだと思いました。彼らの下で働かされた戦国武将は大変だったと思いますが(勿論、天下をとった三人の苦労も含めて)そのお陰で今の日本があると思うと感謝の気持ちで一杯です。
それと比較して現代はどうなっているのか、どうならなければいけないのかを少し考えさせられた本でもありました。
以下は気になったポイントです、
・日本史で古代と中世の分水嶺は、摂関政治が終わった1068年、170年ぶりに藤原氏を母としない後三条天皇が即位した年である、そして中世と近世の分水嶺は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した1568年である、この間の500年間がいわゆる中世にあたり、近世は1868年の明治維新で終わる、両方とも「68」が照合している(p11)
・日本にも大きな影響を与えた中世と近世を画する大きな世界的イベントは、1)欧州における印刷術の普及と宗教改革、2)コロンブスによる新大陸への到来とインド洋における海洋権力の空白、3)石見・ポトシ銀山の開発、である(p16)
・1555年のカール5世の信仰自由宣言によりドイツ諸侯は多くがプロテスタントになっており、ローマ教会はドイツ以北を失っていた、イングランドでも国王至上法(1543)の成立で、英国国教会が独立した、宗教改革の意味するものは、ローマ教会は失った領土を取り戻すか、その代わりの土地を探さない限り、お布施が入らず組織が維持できなくなることを意味した。1534年にスペイン騎士出身者が中心となって設立されたイエズス会はローマ教会の布教の尖兵となって新大陸・アジア・中国に布教を始めた(p18)
・鄭和艦隊が万里の長城に化けたので、中国の勢力がインド洋から姿を消した、そこにポルトガルのバスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってやってくる(1498)、1509年にインド西海岸ディーウ沖で海戦が行われ、ポルトガルがインド・エジプト朝の連合艦隊と戦い勝利を収めた、これによりポルトガルのインド洋における覇権が成立した(p20)
・銀という世界商品があったから、世界中から日本に人がやってくるようになった、ポルトガル人やスペイン人が戦国時代の日本にきてキリスト教を広めたのも、日本に銀があったから(p21)
・石見銀山で繁栄した大内氏の天下は、1551年に陶に背かれて大内氏が自害するまでであった、陶も55年に厳島戦いで毛利元就に敗れ、山口の街は火に包まれた。56年には大分の府内(大分市)にザビエルとコスメ・デ・ドルレスは大友氏に庇護を求めた。そして日本の交易の中心は、山口から府内(大分市)に移った(p28)
・三好長慶は足利義輝を京都から追放した後に、新たな将軍を立てることなく自ら京都支配に乗り出す、これは画期的なことであった。細川政権の時代には傀儡とはいえ、足利氏の将軍が据えられていた、細川氏も足利氏の一門なので足利本家を立てていた、三好氏は国人で足利一門ではなく、足利氏の権威に頼らないまま政治を行い、足利幕府開府以来、初めてのことであった(p29)
・59年には義輝に謁見を求めて織田信長が上洛、この時、越後の長尾景虎(上杉謙信)美濃の斎藤高政(斎藤道三の息子、後の一色義龍)も上洛している、斎藤高政は、一色という伝統ある足利一門の名字をもらった(p30)
・三好長慶が、堺・尼崎・兵庫津(神戸市)・から阿波、さらに琉球までつながる流通路を押さえる寺社や豪商を保護したように、信長も、熱田・津島・安濃津(三重県津市)そして堺などの港町を支配した(p33)
・秀吉は86年に天皇に強要して「豊臣」という姓をもらい、この姓で太政大臣になった、源氏しか将軍になれない、藤原氏でなければ摂政・関白になれないと思っていたところに新たな「豊臣氏」が誕生した。ここで武家関白制という、それまでになかったものを始めた。全公卿(50名ほど)の約4分の1を武家が占めた(p57)
・室町時代の有力守護は将軍のいる京都に詰めていた、ところが今川氏は京都勤務を免除されていた、関東公方の警備役としていたから。国境警備の役として大内氏も免除されていて、いずれも大大名へ成長した(p61)
・全国の土地が、王家のもの、藤原家のもの、武士のもの、お寺のものなどに別れていた中世の権門体制は、実質的には戦国大名の領国支配によって終わっていた、各領主単位ごと分国化した日本に、太閤検地によって全国的に統一された新たな土地台帳が誕生した、これほど大きな土地政策の変更は、1)明治の地租改正、2)戦後の農地改革ぐらいである(p76)
・信長は、金1両=銀7.5両=銭1.5貫文と定めた、信長は献上された金銀を使って京都で茶道具を買い漁ることで、市場にマネーサプライを供給した、日銀がマーケットから国債を買って、円を供給するのと同じことをやった、米を通貨の代わりの交換手段として利用することを禁止した(p80)しかしビタ銭が流通し始めると銭の価値がバラバラになり統一した基準としてお金を使いづらくなってしまった、こうして貫高制から石高制へ立ち返ることになった、江戸時代になって銭の心配がなくなっても、金貨が使われる東日本と銀貨が使われる西日本、それと銅銭の値打ちが変動する仕組みは残り、そのためお米が基準となり続け、江戸時代はお米と三貨が共存していた(p82)
・秀吉は家康に加増(150→250)したのは、事実上の関東公方にしようとした、鎌倉幕府は鎌倉と京都の六波羅探題の二極体制、室町幕府も京都幕府と関東公方、家康が居城に選んだ江戸は、東北へ向かう交通の要衝であった(p112)
・当時(戦国時代)の宗教は神仏一体(神仏習合)となっていた、天海が修行した比叡山には日吉神社があり、山王権現を祀る山王神道が行われていた、権現とは、仏様が日本の神様に姿を変えて現れたことを示す神号である、お寺や神社の統制は寺社奉行、外交は老中や長崎奉行、学問・文化行政については、儒学者の林羅山の一族が大学頭となって受け持つことになった(p127)
・明暦の大火(1657)により武家屋敷、寺社、町民の町家、橋がことどこく焼��て、死者は3-10万人といわれる、当時の江戸の人口(30万人)なので、3割近くが亡くなったことになる。関東大震災の頃の東京市の人口は250万人、死者行方不明者が10万人である(p161)
・吉宗将軍就任から20年後、1763年に至り、純度を下げた元文金銀を作った、流通量は正徳金銀の2倍となり、ようやくマネーサプライが回復して物価の収縮が止まった、これがに日本で最初に行われた組織だったデフレ対策であった(p188)
・この御三家の制度は、足利幕府の「御一家」からきている、足利義教は将軍家の血筋が絶えたときのリスク管理として、将軍職を継ぐ血統として、三代当主「義氏」の子孫を「御一家」としてスペアを定めた、吉良氏・渋川氏・石橋氏である(p199)
・吉宗は江戸の東西南北に市民公園をつくった功績がある、東:隅田川堤、西:中野村、南:品川御殿山、北:王子飛鳥山(王子神社)(p204)
・武家が消費者の主役であった時代には、武家が変えなければ需要がないということで商品価格は下がったが、需要面で町民のウエイトが大きくなっても町民が買う商品が増えてくる(p213)
・江戸幕府は拝借金を出さないことにした、これは幕府として公の立場の放棄と言える、田沼時代から各地の藩政改革が本格的に始まる(p220)
・水野忠成(ただあきら)は老中になって8度にわたって貨幣を改鋳し、500万両の差益を得たといわれている、その理由は、1)日本近海に現れるようになった異国船対策として、蝦夷地を直轄地にしたので人件費が必要、2)家斉将軍の子女の婚姻にお金がかかった、子供が55人いた(p235)増税ではなく、インフレとなったが貨幣改鋳で乗り切った(p236)
・イギリスでコークス製鉄法が生まれると木の代わりに石炭の需要が急増する、鉱山は湿地帯にあったので排水が問題となり、1712年にニューコメンが蒸気機関を実用化した排水ポンプを発明する。それと並行して、綿織物業界で33年にジョン・ケイが飛び杼(ひ)を発明する、これにより織物の織り上げ速度が倍増、ハーグリーブズの紡績機が発明、ワットがピストン運動を回転運動に転換できるように蒸気機関を改良して鉱山業以外にも広げた(p244)
・国民国家と産業革命が結びつくと、非常に強い近代国家が出来上がった、この人類の歴史上最も影響力の大きかった二大革命に鎖国の日本はリアルタイムでキャチアップできなかったことが、大きなツケとなった(p247)
・幕府による寛政の改革や天保の改革は失敗に終わったが、同時期に行われた諸藩の改革は成功している、両者の命運を分けたのは農業か商業科の選択、朱子学か実学かと言っても良い(p266)共通する成功のポイントは、まず負債をリセットして商工業に重視してお金を稼ぐことに積極的であった、幕府の改革のように農業振興だけではうまくいかない(p271)
・私たちが想像する、武器を持って蜂起する一揆は1600年台の10件を最多として1630年代に3件(島原・天草一揆も含む)を最後に途絶える、18世紀になると、同じ領内にある村々が協力したって示唆行動をする「強訴」が増えた(p286)江戸時代の紛争解決は、書類で争うシステムであっ���(p285)
・1864年3月には、京都守護職の松平(会津)京都所司代の松平(桑名)および一橋慶喜の「一会桑政権」ができた、朝廷が征夷大将軍を任命するのと同じく、禁裏守衛総督を任命したので、京都にもう一人の将軍ができたようなもの、幕府は天皇の下でその意を汲む京都の政権(一会桑)と、これまで通り江戸の老中たちによって運営される政権の二重政権となった(p333)
・長州は、財政再建を果たし、新田開発を盛んに行っていただけでなく、下関港をもち関門海峡を押さえていた、公認石高は37万石だが、実質は100万石といわれていた(p337)
・幕末三大新宗教は、黒住教(1814)天理教(1837)金光教(1859)はどれも、世直しを訴えて19世紀の初めから半ばに始まっている(p341)
・平清盛が1167年に太政大臣になってから81年に没するまで正味15年、源頼朝も1185年に壇ノ浦で平家を滅ぼして99年に没するまでが15年、会社経営にしても全力で取り組めるのは15年あたりが限界(p354)
2023年4月9日読了
2023年4月16日作成
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教養の達人、出口治明さんによる日本人解説。「江戸時代は日本史上てもっとも最低な時代だったのではない?」という問題提起を行いつつ、出口さんならではのロジックと大阪弁で説明をしてくれます。
たくさんの本を読んでいる出口さんだからこそ、書くことのできる一冊。
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江戸時代は日本史上最低の時代。理由は飢饉の度に人口の約3%が死んでる(太平洋戦争レベル)からとのこと。その他、鎖国のせいで全く経済成長してないとか、識字率も高いわけでもないとか、そういう視点もあるのかという点では参考になる。
とはいえ、本人は「歴史は科学」とし、実証主義に基づいて記述しているつもりのようではあるが、根拠のない感想文も多く、本人が否定する「出口史観」であることは否めない点には留意する必要がある。
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日本史講義第三弾
信長から 幕末までのお話し
私の知らなかった話しがいっぱい出てきました。
江戸時代の識字率
寺子屋がいっぱいあって 字が読める人がおおかったのかと思っていました。
寺子屋がふえたのは 江戸時代の終わりの話しだそうです。それまでは 字を読める人は少なかった。
江戸時代は平和な時代なのかと思っていたけど
飢饉が何回もあり 第二次世界大戦より多くの人が餓死している。
その前の時代なら 飢饉がきたら 他の地方に逃げられた。
老中 阿部正弘は有能な人だった。とか
へえー!と思いながら読みました。
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必ず一巻から読む主義、というわけではないので、今ハマりにハマっている大奥の舞台、江戸時代から読んでみた。
高校では世界史選択だったので、そんなに詳しいわけではない。
しかし一応社会科教員免許(更新済み)があるので、いつかのために勉強も兼ねて。
ライフネット生命の創業者(立命館アジア太平洋大学学長)はどんな書き方をするのかな、とおもっていたら、意外や意外?
教科書的だった。
つまり、信じたい世界を描くことなく、一定の距離感を持っている。
そのため、わかりやすく、納得できる通史になっていた。
信長の処刑数は秀吉と比べ実は少ない、とか、
田沼意次をマーケットの合理性をわかっていた、などはへえへえほうほう言いながら読み進めた。
松花堂弁当の松花堂とは石清水八幡宮の僧侶だそう。
書だけでなく絵も描き、絵の具を入れた箱を持ち歩いていたことから、松花堂弁当が作られたそうだ。
お弁当が寛永文化起源とは。
日本永代蔵に書かれた企業が三井グループ、というのもおどろき。
のちの越後屋が今の三越で…歴史は続いている。
歴史とは、日々の暮らしの積み重ね。
ますます勉強が楽しくなる。