紙の本
須賀敦子の再来
2021/03/09 15:07
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:H2A - この投稿者のレビュー一覧を見る
漢詩に寄せた珠玉のエッセイ集。著者はフランス在住の女性詩人とのことだが、某読書界隈で話題になっていて、そういうことは珍しいが読んでみた。扱う漢詩は盛唐の大詩人の杜甫からはじまって王国維などの中国清朝の近代、さらに日本の平安時代の菅原道実から夏目漱石、幸徳秋水まで。詩そのものの詩風も多彩で食を題材にした杜甫の詩から思弁的だったり虚無的な内容まで漢詩の多彩さを教えてくれる。さらには漢詩以外の本も多数取り上げて古今東西縦横無尽にさらりと博識に語る。それでいて生活感あふれた内容も多いのでとっつきやすく読んで楽しい。かと思うとまた考えさせられる警句をいきなり出して驚かされる。手管を見せない天性の書き手。書店でそう見かけないためそう有名にはなりづらいだろうが、内容は素晴らしい。
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漢詩の世界、とか完全に意表を突かれた、と思った。
なんだか足りないピースを埋めてくれたような、満足感がある。ひとつひとつの漢詩が、この著者の日常のなかにきれいに溶け込んでいて、それがとても自然で、すっと漢詩の世界に連れて行ってくれる。英語の雑誌を感覚的に読み流すように、漢詩をなんとなく読み流してみるのも楽しいかもしれない。
新しいようで昔からある、おいしいものを教えてくれた気持ちになった。
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作者は「李白は遊戯性に優れ、杜甫は批評性が強みだよ」「李白は雰囲気と音色が素晴らしい反面、題材の幅がせまくて、どの詩も同じ曲を聴いているような退屈さがあるの。杜甫は発想が自由で、語彙が多く表現に厚みがあるけど、テーマ主義の面がとっつきにくいかな。ともあれ、どちらも読んでみれば、すごく個性的な人たちだってわかるよ」といった感じで説明しているそうである。
漢詩は漢字ばかり。日本語の詩や、英語がわかる人には英字の詩に親しむ人は多いだろうが、漢詩?というので敬遠されがちかと思われる。読めないし。
僕も敬遠していた。関係ない世界だと思っていた。
ここには31篇のエッセイがある。まず、作者の自然のことやら南フランスの話とかのエッセイがあって、それで連想した漢詩が紹介される。ページの上に読みやすくわかりやすい日本語の漢詩の訳文があり、その下に漢詩が並ぶ。その後、漢詩のそれぞれの語彙や内容についての解説があり、最後の締めの文章が載る。素晴らしい構成で、漢詩がこの本によって初めて僕の近くにわざわざ来てくれて、その素晴らしさを教えてくれたのだ。感謝しかない、この素晴らしい漢詩の入り口に来ることができて。
「虹をたずねる舟」
作者が高校生の時、北方領土からきた英語の教育実習生ユーリ先生と外でお弁当食べて話す。その後、一度も彼と会うことはない、当然のようだが、「生きていれば別れがあるし、もっとありのままにいえば、この世界ではうしなわれるものだけが目のまえにあらわれる」漢詩の紹介、解説、漢詩の作者の人生、そして感動。
一編一編がこの調子の短い10ページほどの長さのものが、輝くように散りばめられている。
この本を手にしたあなたは宝物を得ることになるだろう。かえすがえすも素晴らしい。
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この本の文章を読むにつけ、著者はどんな経歴の人だろうと思う。なんだかハイソに浮世離れしている。言葉の達人らしく、勉強になるフレーズがいくつもあった。
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エッセイに、漢詩が挿入されています。そのエッセイの部分から、声に出してよみたい気分になります。
素敵な本です。何回も声に出してよんでみたいです。
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漢詩なんて何にも知らないのに、エッセイから広がる漢詩世界の美しさにうっとり。
「ないものをあると語り出すことによって はじめてこの世界はひとつの像として立ち上がる言葉の力の凄さ」とあったけれど、まさにこの本を通じて南フランスの情景が目前に。
しゅわしゅわとした炭酸水の向こうに広がる空
バオバブの実とクラブアップル
「花生眼」の意味に納得し、ぼんやりとした視界に花を見つけた。
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漢詩ってとっつきにくいなぁ…と今まで思っていたけど、そのイメージががらっと変わった。雄大な景色を美しく綴ったものはもちろん、もっと細やかなものや身近なものをのびやかに歌ったものも多いんだなぁ…。特に食に関する詩の素朴さが好きだった。心がほかほかするようなエッセイの中にするっと漢詩が溶け込んでくるのが良い。
筆者の書き下し文が素敵。いろんな人の声で朗読を聴いてみたい。
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漢詩についての素養などまったくないけれど、だいじにしたいと思える本。
p.136の入院時のスープのエビソードは、最近読んだ『食べることと出すこと』でのプレーンヨーグルトによる味の爆発を思い出したりした。
そのほかこんなところがとても印象に残っている。
p.182
歴史上、日本人が漢詩というとき、いつでもそれは読み下し文を意味してきた。つまり漢詩は、視覚的・観念的には定型でも、聴覚的・実際的には音の数に縛られないフリースタイルの表現として人々に受け入れられ、愛されてきたのである。この認識はものすごく大切で、たとえば日本人が脈々と漢詩に求めてきたものとは、実は自由詩の感性だったのではないかとか、江戸後期から明治にかけて起こった監視ブームも、近代の夜明けを呼吸する人々が、より自在な言葉のテンポに自分の感情を乗せたかったからなのではないかとか、さまざまな想像が広がるし、またそこから見える世界も、とうぜんこれまでとは違ってくる。
pp.212-213
俳句は十七音のフレームに世界をおさめつつ、そのフレームの奥へ向かってイメージとか、マテリアルとか、テクニックとかいったレイヤーを重ねてゆくあそびだ。で、ここで誤解を生むのがフレームの存在で、これを一部の批評は鋳型にはめることだとみなして反動的だというのだけれど、いったいなんでそう思うのかが謎である。定型の使い手たちはそのつど新たに型と出会う、つまり世界を生き直しているのであって、カップケーキの型みたいなものを使用しているのではないのだ。ちょうど武術の型がそうであるように。
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図書館本から購入本。漢詩のイメージが一変!著者が南仏滞在のせいか、とてもお洒落な印象に変わりました。また緻密に計算され尽くした言葉と、初めて経験するような表現で織りなされるエッセイが極上で、すごく刺激を受けました。出会えてよかった一冊。