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百済観音の正体
著者 著者:関 裕二
正史『日本書紀』は、蘇我氏が物部氏を「だまし、滅ぼし、財を奪った」と記す。それならばなぜ、権力を掴んだ蘇我氏は、敗者である物部系の王を擁立したのか。来歴も作者も不明な、たぐいまれな造形美で知られる仏像「百済観音」に導かれるようにして辿り着いた意外な真実とは――。人気の歴史作家が、百済観音と法隆寺との関係、7世紀の日本外交史を紐解きつつ、大豪族・物部氏と美貌の仏像をめぐるミステリーを解き明かす。『百済観音と物部氏の秘密』を改題。
百済観音の正体
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紙の本百済観音の正体
2019/01/31 08:57
いつになったら「百済観音の正体」に迫るのでしょうか・・・そしてその答えは?
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:多摩のおじさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
著書との出会いは、先日亡くなられた梅原 猛氏の「隠された十字架 法隆寺論」で今までとは異なった古代史論に出会って
以来、今から20年以上も前から同じように想像力溢れる自由闊達な著者の持論に魅了され、デビュー作である「聖徳太子は
蘇我入鹿である」という衝撃的題名との出会い以来、著者の様々な作品を読み充分に楽しませて貰いました。
これまでのいくつかの書評でも記載したような盛り沢山の情報を伝えたい熱意の余りか、章名に対し構成する小見出しが関連
するものに絞られず多岐に亙り、また小見出しに対する内容や結論の不一致、結論の先送り、また既に述べたとあるが何処で
述べたのかの明示がないこと等も以前ほどは目立たないものの、他の著作で示されている日本書記や古事記、また蘇我氏、
藤原氏等に関する第二章、三章は古代史を語るには、どうしても避けては通れない重大事としても、本題である「百済観音の
正体」の言及に中々及ばず、少し退屈感は否めませんでした。
最終章の「いま明かされる百済観音の正体」では、その前置きとして、6世紀から7世紀半ばは「物部氏と蘇我氏の主導権争い」
⇒「蘇我氏の専横」」⇒蘇我氏内部の蘇我系の「堅塩姫」が生んだ用明天皇、推古天皇系と、物部系の「小姉君」が生んだ穴
穂部皇子と崇峻天皇系との争いで、最終的には蘇我馬子に物部系の2人は滅ぼされ推古天皇の世となるも、その崩御後は蘇
我蝦夷が百済と繋がる舒明天皇を支持する実に複雑な時代で、特に、舒明天皇による百済大寺建立が、物部氏と蘇我氏の
手打ちのシンボル(p.210)とこれも他の著作で示されている内容の繰り返しで、著者自身も「ずいぶんと遠回りをしてしまった」とあ
るように肝心の「百済観音の正体」は、p.223以降の実に4頁にも満たない内容で、「日本書記」敏達14年(585年)の敏達天皇
崩御の際の守屋の馬子に対する「まるで矢で射られた雀のようだ」との言葉から馬子が背が低く、守屋の方が背が高いからと半ば
強引に百済観音の誇張された背の高さへの飛躍には・・・
辛うじてp.224の「物部氏は身を削って蘇我氏の改革事業を後押しすると決めたのであって、両者は和解したあと、闘争の悲劇の
象徴として、藤ノ木古墳に眠る被葬者に思いを馳せ、法隆寺を建立したのでは」が救われるでしょうか・・・
ただ、第四章「百済とつながっていた物部氏」では、物部神社やの「七支刀」、百済の「任那四県割譲」の際の物部麁鹿火等の
物部氏と百済とのつながり、「日本書記」や「四天王寺御朱印縁起」による蘇我入鹿や聖徳太子が勝利した物部守屋滅亡
(587年)後の蘇我氏による法隆寺の土地を含む物部氏所有の土地や富の収奪や物部守屋の財と民が四天王寺に収められた
仏教公伝で争った物部氏と蘇我氏との更なる事実や物部氏も渋川廃寺跡が示す寺院建立、また物部守屋滅亡以前の550年
~575年頃に造られ法隆寺に隣接の藤ノ木古墳も物部氏と関係の可能性、さらに高田良心氏(法隆寺128世管主)の金堂釈
迦三尊像の台座の墨書から導いた法隆寺若草伽藍の条里制が隣接する藤ノ木古墳を起点としていた等は目から鱗でしたが・・・